2026年5月31日日曜日

断想: トランプ政権は「信念のトップ」に率いられているのか、「バカ」に率いられているのか?

そろそろ夏至、"Midsummer"だ。とはいえ、日本のMidsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)はシェークスピアの喜劇とは異なり、阿部慎之助・元巨人監督の家族にとってはロクな物語りではなかった。家族を不意に襲った出来事は

ある人は

これは家庭の悲劇である。

とTV画面で評していた。

ある人はネットで

これはいわゆる『善意のパラドックス』である。

と書いていた。

小生の見立ては

今回の顛末は「悲劇」というより、「喜劇」と呼ぶにふさわしいと思う。・・・

喜劇の本質は、全役者が一生懸命なのだが、どの人も目の前を見て機械的なルーティンに従い、考えることを一切しないので、ドミノ倒しのように意図せざる最悪の結果に向かって猛スピードで進む所にある。

と先日の投稿で書いたとおりだ。

ある人には、こう見える。別の人にはああ見える。人それぞれで受け取る感想はマチマチであるのが現実であるに違いない。


ただ、小生は「これは善意のパラドックス」という理解の仕方は不誠実であり、不作為の罪につながる見方である、と思う。

大体、児童相談所の職員は《善意》で対応していたのだろうか?

現場に臨場した警察官は《善意》で対応していたのだろうか?

おそらく上に引用した文の筆者であれば

「被害者」である上の娘に善意で対応したのは正しい

と言うのだろうが、当の娘ではない他の家族には善意で対応していたのだろうか?

そもそも「親子喧嘩」の通報があったとき、先ずは家族全体への善意を最初に持つべきではなかったか?他人同士が居酒屋で会食していたわけではないのだ。昨日までは仲のよい家族であったかもしれず、いや多分そうであると想像し、今日はなにかで大喧嘩をしているようだ⋯⋯もし通報者ありきでなく、家族全体に寄り添う「善意」を公務員が持っていれば、別のアプローチになったのではないか?ものごとの進展は違っていたのではないか?

なので、小生、極めて残念であります。結果論として、この度の事案処理は失敗である。この自覚だけは当該担当者には持ってほしいものだ。

一般論になるが

公務員という職業人は、善意ではなく、指示によって職務を遂行するのである。行動マニュアル、規則に沿って行動するのが公務員だ。

こう理解している  ―   この一点だけは小生が小役人であった時代と今とで変わりはないはずだ。つまり、所属する組織が指示する「行動方針」に沿って児相と警察は対応したはずなのである。

ここから、現代日本社会のもっとも嫌な所が生まれて来る。家族を解体して個人に戻し、それぞれ別々に善意を持ったり、容疑をいだきながら、職務にあたっている。

何度も書くが、国家や政府が家族内部に無遠慮に立ち入る権利などは、最初からないのである。


大体、みんな善意でやったんだよネと言うなら、

太平洋戦争、というか1930年代から1945年の大日本帝国。最後はとんでもない結末になったけど、みんな《愛国の情》から一生懸命にやったんだよね。いわば《愛国のパラドックス》。愛国は当然に善意だからサ。これも「善意のパラドックス」だったんだヨ。本当は誰も責められないンだよね・・・

こんな歴史観にもなるに違いない。極右の「日本会議」が聴けば、涙を流して喜ぶだろう。


結果が悲劇的であったのなら、どこかが間違っていた。歴史に対する誠意というのは、こういう事ではないだろうか?

あの時代、日本社会の主たるプレーヤーである陸海軍、政党、官僚、財閥、マスコミ、民間の活動家は全て「善意」ではなく「自己利益」を求めて行動していた。「自己利益」でなければ「保身」が動機であった。故に「愛国のパラドックス」と理解するのは間違いなのである。

現実に起きた不幸には主たる原因があった。この問題意識を「善意のパラドックス」などと美しく語って隠蔽してはならないと思うがいかに?

日本のMidsummer Night's Dreamは(見方によっては)悲しい事件であったが、アメリカのトランプ政権。ト大統領が繰り出すツイッターに振り回されるアメリカ人たち。いまどうなのだろう?

最近愛読しているsubstack.comのKrugman、DeLong博士の論調は以下のとおり:

まずDeLong博士から

What was the Trump Administration’s thinking and how did it plan for its war on Iran to end anyway? There was no thinking. There was no plan. There still is no plan. There MAY—repeat: MAY—now be thinking. But probably not. Trump careens among:

  • demanding Tehran’s “unconditional surrender”,
  • hinting that he might abruptly declare victory—having “mowed the grass” and leave,
  • expecting collapse of the Iranian regime,
  • expecting the emergence of new leaders who will do a deal on his terms,
  • expecting the emergence of new leaders who will concede to fundamental political and strategic demands,
  • expecting Iran to pretend it has conceded to Trump’s fundamental political and strategic demands.

Chaos-monkey foreign policy:

そもそも考えなどなかった。計画もなかった。今も計画はない。もしかしたら――繰り返すが、もしかしたら――今になって考えているかもしれない。だが、おそらくそうではないだろう。トランプは次のようなことを繰り返している。

  • テヘランの「無条件降伏」を要求し、
  • 彼は突然勝利宣言をするかもしれないと示唆し、「草を刈り終えた」ので、
  • イラン政権の崩壊を予想し、
  • 彼の条件で取引を行う新たな指導者の出現を期待して、
  • 根本的な政治的および戦略的要求に譲歩する新しい指導者の出現を期待して、
  • イランがトランプの根本的な政治的・戦略的要求に屈したふりをするだろうと予想している。

混乱した猿どもの外交政策・・・

URL:  https://braddelong.substack.com/p/crosspost-dan-drezner-the-trump-administrations

相変わらず、トランプ政権は《猿山の猿ども》と理解しているようだ。

次にKrugman博士。

Donald Trump’s chief economist said something interesting the other day. Yes, the remarks by Kevin Hassett, director of the National Economic Council, were stupid, but that goes without saying. The point is that they were stupid in an interesting way.

On Fox News, Hassett was, as usual, boasting about how great the economy is, when he was asked why Americans aren’t feeling it — why the long-running Michigan index of consumer sentiment has hit its lowest level ever. He responded by claiming that the index “is being driven by Democrats who have Trump derangement syndrome.”

Well, yes indeed … someone is deranged here.

ドナルド・トランプの首席経済顧問が先日、興味深い発言をした。確かに、国家経済会議議長のケビン・ハセットの発言は愚かだったが、それは言うまでもない。重要なのは、その愚かさが興味深い意味を持っていたということだ。

ハセット氏はフォックスニュースで、いつものように経済の好調ぶりを自慢していたところ、なぜアメリカ国民はそれを実感していないのか、なぜ長年続いているミシガン消費者信頼感指数が過去最低水準にまで落ち込んでいるのかと問われた。彼は、その指数は「トランプ錯乱症候群にかかった民主党員によって操作されている」と主張して答えた。

ええ、確かに…ここには正気を失った人がいるようですね。

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/whos-deranged-exactly 

こちらは「猿」でなく「正気を失った人(たち)」と見ている。

統計的仮設検定を思い出した。検定とはいまの「前提(=帰無仮説)」を棄却できるか、採択するかの判断を、データに基づいて行う手法である。

どう判断するかによらず、判断には必ず2種類の誤りが混じる可能性がある。それは

  • いまの前提が正しいにもかかわらず、間違いだと捨ててしまう誤り
  • いまの前提が間違っているにもかかわらず、間違いに気がつかないという誤り

上を「第1種の誤り」といい、下を「第2種の誤り」というのは、学部の統計学の授業で必ず採り上げるテーマだ。 そして、データが与えられたとすれば、第1種の誤りを犯す確率と第2種の誤りを犯す確率を同時に小さくすることは不可能であることも。

小生はこの2種の判断ミスを事件の容疑者を問い詰める捜査官の心理になぞらえて説明することが多かった。帰無仮説は当たり前だが《無罪の前提》だ。これを前提に、得られた物的証拠から容疑者を黒とするか、白とするかを判断しなければならない。

黒の物証を評価して黒だと判断すれば、本当は前提どおり白だったとき、冤罪となってしまう。

かといって、

証拠が不十分だとして白だと判断すれば、容疑者が本当は黒だったとき、犯人を見逃してしまう。

世間は『絶対に犯人を捕まえろ』とプレッシャをかける。それは同時に「冤罪のリスクをおそれるな」ということでもある。反対に『冤罪だけは犯すな』と圧力をかければ「真犯人逮捕にはこだわるな」という風にもなる。

とかくこの世は難しい

 トランプ政権は

政策は正しい。どんなデータが出ても、この信念は揺るがない。

こういう政策姿勢をとっているのである。確かに「頑迷」であるし、「バカ」にも「猿」にも見える。しかし、「信念」であると言えば、

信念をもつことは大事だよね

という人も出て来るだろう。

ト大統領の側から見れば、「substack.com全体が反トランプ陣営なのだ」と言えば、それで済む話である。Krugman、DeLong両氏に加えて何人の批判が登場しようと、『偶々出てきたデータなどによって自分の考えを変えたりはしない』と言えば、これも信念にはなるのである。

「あの時代」、チャーチル・元英首相が

ヒトラーのドイツには「絶対」に屈しない

という「信念」を持っていなければ、客観状況に応じて適切に対応するという哲学をもっていたならば、ヨーロッパは今日のヨーロッパとは違っていたはずだ。

「言葉」と言うのは、人間が誤りを犯す最も大きな原因になるのである。


今日のメインテーマはトランプ政権の人々が、「バカ」であるか「信念の人」であるのか。これをテーマに書きたかったのだが、「善意のパラドックス」なる言葉を見つけたので、ダブル・イシューになってちゃんこ鍋のような投稿になった。

桜は終わり、ライラックも盛りを過ぎた。これからはアカシア(北海道のアカシアはニセアカシアであるのだが)の白い花が咲く季節だ。それが終わると道路わきにハマナスの花が開く。しばらくは雪とは無縁の時間だ。



 

 





2026年5月28日木曜日

まとめ? 事件、正義、民主主義、司法の辺り

阿部慎之助・元監督と家族を襲った突然の不幸は多くの人の感情を刺激したのだろうか?その後も相当の論議が続いている。

とはいえ、綸言汗の如しというか、覆水盆に帰らずというか、監督復帰はもう無理な話だと思う。「あれは家庭内暴力であった」という価値判断か、事実判断か、いずれかは自明ではないとおもうが、どちらにせよ社会的判断がもう「確定」していると観られるからだ。


それにしても警察、というより公権力というのは、「民事不介入」と言っていたのだが、そんな時代はもう過ぎ去った過去なんだネエ、と。

家庭内の喧嘩が、そのまま「刑事事件」として扱われる時代であります・・・そういえば、以前は学校内に警察を入れるのはタブーであったが、今ではキャンパス内の喧嘩、教室内の喧嘩等々、すべて刑事事件であります。

日本人はもう喧嘩が出来る場がなくなりました・・・もう危なくて、危なくて、家の中で男の子(女の子も?)どうしがプロレスごっこや相撲ごっこをして興じるなど、させるわけにはまいりませぬ。小生の上の愚息は階下の息子と取っ組み合いをしている最中、転び方が悪くて、腕の骨を折ってしまったことがある。いまなら「暴行障害」だろう。その時、小生、

向こう傷は男の甲斐性だ。〇〇君を恨んだらダメだよ。

そう申し聞かせたものだ。愚息は淡々とうなづいていた。

そんな《腕白小僧》は、もう現代日本社会で生息は出来ませぬ。単なる《悪い子》になり果てた。小生、別に腕白ではなかったが、あの活発だった時代を思うと、今さらながら懐かしさの気持ちがこみあげて来る・・・日本も衰退するはずです。


ただ一方では、ウクライナ、中東では軍事行動が止まらず、犠牲者が続出している。怪我どころか、命がかかっているわけであります。日本と世界とで、暴力という点で、何というレベルの格差でしょう  ―   日本人は、この辺り無頓着だが。

日本人同士では家族を含め一切の暴力を禁ずる。一方、国家の意志であれば、外国の軍隊と戦い、そこで敵兵を殺してもよし。彼らは日本人ではないが故に。

まさかこんな風なロジックを採用することはないだろうネと期待するばかりだ。


前稿でも述べたように、小生はいくら有名人であっても、ある一人の家庭内で起きた一場の争いを公的機関(マスコミを含めてよいかもしれない)が一方的に刑事事件とするのは、公権力の暴力だと考える立場にいる。

家族と他人は質的に異なる人間関係だと感じる人は多い。これは事実認識の問題だ。であれば、家族と一般的他人を同一視して発生する事象を等しく扱う近年の潮流は道理に合わないと思っている。

かつてあった「尊属殺人」という概念の廃止以降、嫡出子と庶子の均等な処遇など、日本社会は家族と他人を分けず平等な個人からなる空間としてとらえる潮流が一層明瞭になってきている。しかし、日本社会は平等な個人からなる単純な集合ではない。家族、血縁、親類などで関係づけられた構造を持った集合だ。暴行や詐取など広く社会で適用される犯罪概念を何も考えず機械的に家族に当てはめるのは知的怠慢であるばかりでなく、粗暴かつ不適切だと考える立場に小生はいる。

「家族」と「ご近所」、「世間」を区別する生活感覚は日常生活のベースであって現に機能している感覚だ。法律と法に従う公務員がその基盤をことさらに否定するのは非条理でもある。

個人的には、怖かったオヤジより公権力の横暴の方がよほど怖い。法の暴力を警戒しない根拠なき政府への信頼が現代日本になぜありうるのか、ちょっと不思議である。


最近の投稿を振り返ると、ある日は非・民主主義的なことを書く、エリートの役割を強調する、そうかと思うと別の日には小さい政府を主張する、国民の常識を優先させることを書く、一体どちらが本音なんだいと、ここらで整理しておきたくなった。

箇条書きにしておこう。

  • 公共機関が担当するほとんどの問題は、学問的に解決可能だ。そんな問題に専門知識を持たない素人が納得するまで時間をかけると、こうした手続きを必要としない国に競争劣位するのは当然だ。故に、ほとんどの問題解決については民主的介入を最小限にする方式が好きである。・・・・若い頃は100%こう考えておりました。最近、益々思いを強くしつつあります。
  • 正義というか、善悪と言うか、いわゆる価値判断については、普通の国民の常識が政府や専門家の結論より優越するべきだ。
  • その意味でも、裁判に英米的な陪審員制度を採用するのは最低限の望みだ。検察の起訴、弁護人の論述の双方を聞いたうえで、そもそも刑を課するべきか否かを専門家抜きで庶民の感覚で判断する権限を、国民は手放すべきではない。陪審員で有罪の決定をなすには全員一致、もしくはそれに準ずる多数を必要とするべきだ。
  • 地裁による一審では、例えば都道府県の選挙で選ばれた法曹資格者が検事の職務を担当し、地検は検察事務だけを行うべきだ。そもそも捜査は道警(いわゆる自治体警察)が行う。刑罰を求めるのも「地方検事」が担当する方がバランスがよい。
  • というより、検察庁は法務省と共に事務官のみとし、検察官は法曹資格者から任期制の下で広く選出するべきだ。職業検察官が検察庁内部で昇進していくという制度は廃止する。判事も(法の統一性を担保するため)職業裁判官は地裁にのみ配置する。上級裁判官は法曹界全体から任期を付けて選出する。こうなると英国的な司法制度に近くなる。

行政は道理と専門的知見に基づいてロジカルかつスピーディに進め、価値や正義に関することは司法において、ということか?

であれば、余計のこと《司法の民主化》を小生は願望している、ということか?

まあ、こんな風にリストアップすると、自分がどんな事をポイントだと考えているか、どんな国、どんな社会に住みたいと思っているのか、我ながら自分でも分かるような気がしてくる。

2026年5月27日水曜日

ホンの一言: これは悲劇か喜劇か?・・・阿部監督の「暴力」?

いま暮らしている土地柄、小生はファイターズ一択である。とはいえ、父が熱烈な阪神ファンであったので、巨人阪神戦の中継放送の一コマ一コマでまだ目に焼き付いている所もある、視ていた父の表情や声音とともに。

そんな次第で、巨人が好きであったことはないのだが、阿部慎之助監督が家庭内で暴力をふるい警察に逮捕連行されたという報道には吃驚した。

時間がたって話を整理してみると、

娘二人が口喧嘩をしていたのを酒を飲んでいた父が「静かにしろ」と怒鳴った(?)ところ、上の娘が多分「△△!」と言い返したのであろう。父はそれを聞いて「何を~~!」(?)と激怒し娘の胸倉をつかんで突き倒した(と伝えられている)。頭に血が上った娘は部屋に駆け戻り(?)、ChatGPTに「父から〇〇なことをされたンだけど、どうしたらいい?」と相談した。するとChatGPTは児童相談所に通報しなさいと回答した。児相に電話をした娘は「〇〇なことをされました」と訴える。児相は直ちに警察に110番する。警察は阿部宅に急行して、その場で父を現行犯逮捕、警察署に連行した。父は逮捕されたことに最初は驚いたが、巨人軍監督の地位にとどまることはできないと思料し、辞意を伝えた・・・

概略そんなことらしい。事後になって娘は事の成り行きに驚いたが、正に

覆水盆に返らず

父は仕事と社会的地位を失うに至り、現時点で無収入(?)となってしまったのである。

マア、報道されている所によると、こんな顛末であったようだ。

今朝あたりのワイドショーではコメンテーターは、

これは関係者のそれぞれが善意で適切に対応しているにもかかわらず、結果として起きた家庭内悲劇だと思います。

こんな感想を述べていた。が、小生は少し違う。外国という立場から日本で起きた今回の「事件」を聞いたとすると、どんな風に思うだろうか?仮に、同じ「事件」が韓国のプロ野球球団の監督宅で起きたとき、日本人はどう感じるだろうか?

おそらく

こんなドタバタ喜劇、ホントに起きるんだネエ・・・

と呆れ果てるに違いない。もし往年の《ザ・ドリフターズ》が健在なら、必ずネタに使ったに違いない。

小生、今回の顛末は「悲劇」というより、「喜劇」と呼ぶにふさわしいと思う。

現代日本社会は《喜劇的》になりつつあることを先ず自覚するべきだと思う。日本社会は「喜劇」を意図なくして演じて世界に見せているのである。

喜劇の本質は、全役者が一生懸命なのだが、どの人も目の前を見て機械的なルーティンに従い、考えることを一切しないので、ドミノ倒しのように意図せざる最悪の結果に向かって猛スピードで進む所にある。

全体を見ているスーパーバイザーがいないのが唯一の原因だ。要するに、司令官なしで現場が突撃するようなものですね。必ず喜劇、いや悲劇になるわけであります。

スーパーバイザーとは「司令官」、「上役」というにとどまらず、当事者の理性や良心の声をも含めると言えば、極めてカント的な社会哲学に近づくだろう。

正に今回のケースが該当すると思う。

別のコメンテーターは

体罰はもう犯罪なンです!

と声を大にして言っていた。

その低レベルには絶句しました。そもそも今回の阿部監督の行為、「体罰」ではなく(軽度の?)「暴行」であろう。別の話しである。

娘は怪我はしなかったそうだが、もう成人である。「体罰」を課する局面でもあるまい。

願わくば

父: 静かにしろ!

娘: お父さんは黙ってて!

父: 何を!それが親に向かって言う言葉か!

娘: 何よ、お酒に酔っぱらって。家族に八つ当たりしないで!

父: いつからそんな偉そうな口を利くようになった!

娘: もう子供じゃないのよ!怒鳴って押さえつけないでよ!

・・・とまあ、先ずは言葉で言い争うべきでありました。そうすれば、雨降って地固まるであったろう。口より先に手が出てしまうのは、体育会系人物の悪癖であるかもしれないが、修羅場で力になるのは往々にしてこういう人物なのである。

残念であります。

小生は、ずっと前から投稿しているように、

体罰賛成、死刑反対

の立場に立っている。

以前の投稿でこんな事を書いている:

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

個人的な感覚だが、

どうせ処罰されるなら、国の刑罰をくらって前科者になるより、オヤジから叩かれる方が、よっぽどマシだなあ⋯⋯

そう感じますが、あくまで小生の主観である。

上にも書いたが、死刑とは国が国民に課する究極の体罰である。つまり

場合によっては、国は国民を殺しても可である。

これが今の現実である。現実の基礎にあるこの論理から、

場合によっては、国は国民を「杖刑」、「鞭打ち刑」に処しても可である。

こんな法改正が行われるとしても十分に論理的である(と理解している)。なるほど憲法は拷問や残虐刑を禁止しているが、「絞首刑」は残虐ではないが、杖で叩く「杖刑」は残虐だというロジックがあるのかどうか、定かではあるまい。

国民には一切の暴力を禁じておきながら、国には命を奪うという暴力までを認めている。

エッ、国の刑罰は暴力ではない、と?

暴力でしょう、明らかに。英語でいえば人を殺す以上"Brute Force"、「力づく」の行為であります。

エッ、それは"Justice"、正義だと?

逆に聞くが、正義は国には分かるが、一般国民には分からないのだ、と?国だけが、正義が何であるかが分かる。国民は正義については無知なのだと?だから死刑、懲役はイイが、一切の体罰はダメだと?


「それは逆でしょう」というのが小生の立場である。


そもそも国や政府に《正義》や"Justice"という倫理感覚は備わっていない。正義の感覚は(誰であれ)平凡な生きている人間の心に備わっているものだ。国家、政府は人工である。モノではなく、そう決めたのだ。ただ機能と権限があるだけなのである。つまりルーティンで動く。国がいう「正義」とは国のルーティンの別称に過ぎない。正義の実質ではない。中には国家とは崇高なる目的に沿って合理的に動作すると考える御仁もいる。であれば、財政危機など起きるはずがないではないか。立派な担当者がいるからと言って、彼らの倫理と組織・機構の働きとはつながってはいないのだ(と観ている)。

ずっと昔、豊臣秀吉は、「刀狩」を断行して庶民(=武士以外の町人・農民)から武器を没収した。次に、武装集団同士の一切の私闘を禁じた。確かに武器の所持、武器の使用は減って、世は太平になったが、庶民は自衛の手段を失い「弱者」になった。それでも人は基本的に自由であった。それぞれの家庭は家庭なりの習慣で暮らせた。お上が家庭内の紛争にズカズカと立ち入ることは忌避された。

いま忌避されたと書いたが、室町時代の足利将軍家は守護大名のお家騒動に次々に介入し、遂には徒党が相戦う応仁の乱となった。

夫婦喧嘩は犬も食わないというのは古人の智慧なのである。

昔、江戸の町では「火事と喧嘩は江戸の花」と言われていた。そもそも

人は喧嘩をする自由がある。但し喧嘩をするのも節度がある。

これが小生のイデオロギーの一端だ。現代日本では喧嘩をしたら「暴行傷害」で警察に連行される。これは公権力による拉致である。留置場に監禁される。公権力なら国民を拉致監禁することが容認される。

一体、今の《コンプライアンス社会》の行く果てにどんな社会が待っているのだろう?

日本人は「思考能力は邪魔だ」として自ら放棄し、「法」に従って予測可能な行動を繰り返し、社会は《喜劇化》するでありましょう。

法治主義が徹底されるノーマルな状態を続けたいなら、自由な発想を排し、人間の代わりにヒューマノイド・ロボットを設置すればよい。完全なコンプライアンスが実現されるはずだ。が、このとき社会は《人間不在》となる定めだ。喜劇は転じて悲劇となる。

そんな発展段階に至れば、「コンプライアンス」ではなく、「造反有理」という言葉が輝きをとり戻すであろう。テーゼに対するにアンチ・テーゼ。

正に、歴史の弁証法的発展、ヘーゲル的社会哲学そのものであります。

いや、いや、書きすぎてしまった。止めておこう。


もちろん「体罰」と「暴行」とは厳しく区別するべきである。この一点だけは強調する必要がある。

叱責された子供がなぜ叱責されたか理解できることが大前提である。

親は誰でも、マスコミのMCやコメンテーターのように言葉上手であるとは限らない。なぜそれが悪いのか、すべての親が言葉で上手に説明できるわけではない。

言葉を覚えつつある子供は、言葉なしの真理を直観できるものである。体罰による躾は、歴史の全過程を通して是とされてきた。

非暴力のイデオロギーは確かに立派だが、特定の価値観に執着して、経験知を否定すれば失うものも大きい(と勝手に思っている)  ―   その非暴力のイデオロギーもいま世界から音をたてて崩れつつあると観ているのだが。

2026年5月26日火曜日

断想: 富裕層、起業者、投資家の消費や投資は見るのが嫌ですか?

 こんな記事があった。

ニセコの活況を支えているのは世界的な「カネ余り」によって行われる富裕層の投資や消費だ。平日の東京都心を歩いていると、百貨店など商業施設や飲食店も含め、小奇麗でブランド物で着飾ったミドル・シニアだけでなくむしろ20代から40代の若い男女で溢れている。

(中略)

以前から一定数は存在しているものの、退職者や年金受給者のシニア層に加え、会社員然とした働き方ではない、起業や不動産収入、金融資産運用などで悠々自適に生活できる層が増えているのだ。

Source: PRESIDNT Online

Date: 2026-05-23

読んでいて自ずから伝わってきた現代社会観、というか勤労観、いやいや少し考えてから思い出したのは、ずっと前に愛読していたアイザック・アシモフの短編ミステリー集『黒後家蜘蛛の会』。レギュラー・メンバーである"The Black Widowers"がその月に招待したゲストに先ず発する質問を連想したのだ。

どんな台詞であったか忘れたので、ChatGPTに質問してみたが、回答はどうも違う感じがする。それでGoogleのGeminiに聞いてみると、「そうそう!確かそうだったヨ」という答えが返ってきた  ―   分からないことがあれば、複数の友人に聞いてみるとよい。それと同じだ。

How do you justify your existence?

あなたは何をもってご自身の存在を正当となさいますか?

要するに、「あなたがこの社会で生きている存在意義は何だと思うか?」という質問である。いや、実にアメリカ人的で率直な質問だ。この質問をされて、流石にアメリカ人の成功組の人たちも困惑していたものだ。


それにしても《存在意義》ですか・・・・

小生は、学生に統計学を教えることでメシを食ってきた。 授業を受けた学生たちが人生を歩んでいくのに何か役に立つことを話しただろうかと言えば、多分、ほとんど役には立たなかったに違いない。現在、統計データの探索もデータ解析もAI(人工知能)に質問すれば、ほぼ100%正確な解答が得られるはずである。してみると、苦手な数学を思い出しながら、文系の学生が統計的推測や統計的仮設検定を苦心して理解する必要があったのか、今ではその必須性には疑問を感じている。

今は、暮らしているマンションの役員をやっている。が、それはボランティアである。社会的には価値を生んでいないということだ。というより、市場価値を持っている労働は管理会社から派遣されている有給のライフ・サポーターが担っており、無償の居住者役員は働いているわけではなく、掃除、洗濯に類似した消費生活の一部とみる。こう言えば正確だ。

統計学を教える前は、当てにならない経済分析や経済予測をやっていたから、そこでも社会のお役に立てていたのかというと疑問である。

つまり、小生は現代日本社会の最前線で現場の仕事をした経験は一度もない。黒後家蜘蛛の会に招かれて

あなたは何を以て自己の正当性を証明しますか?

と聞かれれば、多分、

具体的には思い当たりませんが、現に結果として生きているのは何かの正当性があるのでしょう。

と。そう答えるだろう。


最初に引用したような《勤労観》をもっている御仁からみれば、小生のような人間は「働かずして食っている連中」の一人であるに違いない。社会は、実際に汗をかき、体を動かし、疲労をもって一日を終えるような現場の人たちによって支えられている。

それは分かっている。とはいえ、小生には小生なりの《現場観》というのもある。それはついこの間も投稿した。


毎日3時間程度をPC画面の前に座って、マネーを左から右に動かし、それで何千億円の資産を築けるような「天才的投資家」が日本に次々に現れれば、いま平均的日本人が負担している税率や社会保険料率を仮に引き下げるとしても、それでも日本の財政は改善されるであろう。

ずっと以前にも投稿で述べた事でもあるのだが、

いま解決困難だとされている問題の9割は、実は世界に通用する起業者、投資家を日本が輩出できないでいる点に原因がある。つまりは《お金の問題》である。お金を増やすには、短く働いて、多く稼ぐ。それが出来る事を創める。それが出来るだけの知識を勉強して身につける。得た知識を応用する。これが出来る人が社会をリードする、というか結果としてリードする。 

悠々自適できる日本人が増えれば増えるほど、日本は余裕ある国になっていく。小学生でも分かるロジックである。 

そんな社会は問題だと指摘する思考回路は小生は再現できない。

幕末から明治維新にかけて、日本は富国強兵を目指した。日本を守るには先ずは《富国》が必要であることを、みな知っていたわけだ。このロジックは今も同じである。


何が「働く」ということか?そんな《勤労観》うんぬんというテーマは、現代日本の本筋の問題ではない。

仮に「社会主義」を採用しても現代日本の問題は解決できない   ―   というか、社会主義は旧・ソ連が失敗し、中国の北京政府もとっくの昔に放棄したモデルだ。憲法改正を一度たりとも行えず、刑事訴訟法の一部改正にすら苦労するような日本国が社会主義経済を運営できる可能性はゼロである。

行政能力のない政府は出来るだけ縮小して、税と法律を簡素化し、善意の実践を広く自由化し、ごく少数の高等教育を除き教育はすべて地方・民間の自由に任せることが、余裕ある日本の再生には近道だろう。まずは人から、である  ―   「小さな政府」を嫌がる人が多いだろうが、何故それほど「東京政府」が好きなのか、よく分からない。

こんな社会観はいまも変わらない。

2026年5月23日土曜日

断想: 皇位継承は非・民主的に決定するべき?天皇と政治の独立性とは?

今や「女性天皇」、「女系天皇」に賛成するか、反対するかで、日本国民が分断されかかっているとすら感じる世相(?)である。

「女性天皇賛成」が世論調査では大勢を占めている、旧宮家養子は世論に反する等々、「愛子天皇推し」がネット界隈で盛り上がっている。TVではまだ話題になることは少ないが、新聞メディアなど、そろそろどちらの側につくか、思案していることだろう。

思うのだが、世論と皇室を関連づけて皇位継承を語るのは、結果として《天皇の政治利用》につながるのではないか、と。

天皇の政治利用は、戦後日本においては最も忌避してきた情況である(はずだ)。

戦前日本では、陸海軍が天皇を政治利用して我意をとおした。

戦後日本でも、民意が天皇に敬意を払う、その敬意を(特に自民党は)政治に利用した。

というか、ときの天皇を支える側と天皇に歯向かう側を《官軍 vs 賊軍》で対立させるフレームは、日本史全体を通して常に《内乱》の基本構造となってきた。天皇を手中にした勢力が常に勝者になってきた  ―   「壬申の乱」(672年)と「承久の乱(変?)」(1221年)は大きな例外だが。だから、天皇制は継続できたのだ(と勝手に理解している)。ここが日本と外国とを大きく分ける歴史的因子の違いである(とこれまた勝手に理解している)。


戦前日本では、天皇は内閣(=大臣)の輔弼によりこの国を統治するとされた。「輔弼」とは助言以上で強制未満である。つまり「天皇制」とは言うものの、大臣の《輔弼》がなければ統治できない。乱暴にいえば「お上はロボットたれ」という原則があったわけだ。これでは「君主制」とは言えないと小生は(勝手に)思っている。

戦後は、天皇に統治権はない。「ない」とは言っても、戦前も天皇が臣下の反対に抗って「君意」を押し通す権限は与えられていなかったのだから、達観して言えば、天皇の発言力は戦前も戦後も「五十歩百歩」というところだ。

日本の現実政治に、天皇の意志が反映されることはないし、昔もなかったと思っている。

特に戦後日本では、天皇の意志や希望と政治の意志や決定とは何の関係もない、互いに独立している。それが建前だ。

しかし、本当にそうだろうか?これからも、そうだろうか?

本当に、民主主義的な戦後日本で、天皇と政治は互いに独立していられるのか?

戦後日本では民意が政治を決める。政治は民意に左右される。その民意がいま皇位継承を論議している。政治が民意を尊重すれば、結果として、政治と天皇が独立性を保つのは無理である。

民意が媒介となって、政治と天皇が共振するなら、それもまた民主主義だと自惚れるのは、それだけ日本人が劣化している証拠だと思う。

(こんなことは下の下であるが)仮に民意を基盤とする天皇が出現するとして、そんな天皇の意志ほど、民主主義的な日本の総理大臣が怖れなければならないものはない。

そんな天皇を憲法が予定しているとは思えない。

故に、政治が民意によって左右されるなら、天皇は民意からは超然としているべきだ。それが《天皇制》の主旨である(と思う)。


右翼と左翼、保守とリベラル等々、様々な政治勢力が覇権を争う現実政治から独立するには、天皇はどの勢力からも独立していなければならない。結果として、天皇は民意からは無関係である必要がある。天皇制を維持しようとする意識は極めて非・民主主義的にならざるを得ない。

日本の天皇は、その時々の国内政情とは縁を持たない、文化と伝統の象徴としてのみ存在する。これが理想だと思っているので、皇位継承にも政治的要素が混在してはならない。民意や特定の政党による支持、宗教団体の支持等々、これらに左右されてはならない。

故に、皇位継承は、皇統の定義、歴史的妥当性を熟知した有識者のみに基づいて、非・民主的に決定するべきだ、というのが小生の皇室観である。

以上、覚え書きまで。

2026年5月21日木曜日

断想: 独り早朝に読経することに意味があるか?

計量経済学を仕事にしている間、まさか齢をとってから仏道を歩みたいと自分が思うだろうなどと、若い時分に予想したはずはなかった。

そもそも宗教や信仰と言われる人間の行為にはデータに基づく実証性や客観性がないからだ。

この世の一寸先は闇というが、自分の将来像は決まっていると思う人は、まず間違うものである。

"Planning"とか"Strategy"、"Game Theory"という言葉は、一定時点に立ったロジカルな構築物ではあるが、過去・現在・未来にわたる人生全体において結果として何か意義があるかと言えば、ほとんどは予想不可能な偶然的なファクターで人生行路は決まるものである。

感覚的な言い方だが

結果として歩む人生の6割は自らの希望や志向が反映される。残り4割は偶然的ファクターで具体的な暮らしや生業が決まる。

そんな風に達観している。

小生が毎朝読経をする習慣になって一年余りが経ったところだ。怠惰だから(基本的には)毎日せいぜいが五百遍か六百遍の称名念仏で時間的には15分程度に過ぎない。浄土系宗派の開祖である法然は在家の人は一万遍くらいから称名念仏を始めたらよいと書いているので概ね一念十念の範囲内にある。

カミさんには話しているが起きてくることはない。小生独りでやっている。

これがいわゆる《他力の念仏》になっているのか、《自力の念仏》になってしまっているのか、専門的な教理は分からない。

ただ岩波文庫『法然上人絵伝』上巻の第20巻から引用すると、

虚仮とてかざる心にて申念仏が往生はせぬなり。決定往生せんとおもはば、かざる心なくして、まことの心にて申べし。

(現代文訳:浄土宗出版『法然上人行状絵図』より)

虚仮と言うのですが、うわべをよく見せようという心で称える念仏では往生できません。必ず往生しようと思うなら、うわべを飾る心ではなく、真実の心で称えなければなりません。

念仏というのは「南無阿弥陀仏」であり、これはサンスクリット語の"Namo Amitābha"(ナモ・アミターバ)の音をそのまま漢字に置き換えたものである(とされている)。ナモというのは、同じサンスクリットのナーマスの類語で、現代ヒンディー語で「こんにちは」に相当する「ナマステ」の古語と推測される。従って

「南無阿弥陀仏」とは「今日は阿弥陀さま」とでも解釈できる敬礼言葉である。

 いわば「極楽浄土」を主宰する阿弥陀如来へのリスペクトであるとも言えるわけだ。

いずれにしても、観察される物質的宇宙空間ではなく、知的に理解される非物質的な知識世界での存在だ(と理解している)。知識世界における《ミーム》(=自己複製子)が物質的宇宙における物質循環と相応している議論は以前にもドイッチュ『無限の始まり』に関連して投稿しているところだ。

上に引用した文章の少しあとで

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

全体のポイントは《自分自身の心のあり方》であって、他人とは関係ない、他人の評価、思惑、世評とは関係ない、こういう事である。


心のあり方を問題にしているなどと言うと、現代文明を支える「内心の自由」に染まった向きは

何をどう思うか、どう考えるか、思想・表現はそもそも自由である

と。 こんなコメントが予想できる。

つまり宗教、信仰とは、内心を問うものであり、従って内心の自由の否定から話が始まるものである。何が善であるかは、個人個人が自由に考えてもよいという「相対主義」ではなく、あるべき善、あるべき真理等々、絶対普遍の心の状態があると考える。仏理の「菩提心」(=悟りの心境)も相対主義ではなく普遍主義による観念である。名々が自由勝手に悟ってもそれは「野狐禅」に過ぎない。

普遍主義の観点から要求する心のあり方を「マインド・コントロール」と呼ぶのは現代文明の明らかな(困った?)特徴である。


「自由」と「社会」という二つの観念は現代という時代で密接に結びついている。この二つの結合は現代文明の核心であろう。「交換」と「専門化」、「貨幣経済」はこの二つの結合の論理的な帰結である。自分の自由と自分が所属する社会とを表裏一体のものとして意識する、これが当たり前の生き方だと意識する正にその意識が現代文明を支えている。

しかし、「社会」にせよ、「自我」にせよ、そもそも実在はしない。空である。なぜ空なのかを考える。仏理はここから出発する。本来は実在しないものが実在するかのように思い込んで生きるのは「迷い」である。

自由な自分が他人の集団である市場でどのように評価されているかを行動原理として自分の人生を決めていく。そのような意識に支配されている間は、夜更けての読経には価値が認められず、故にそんなことはしないはずだ。

その意味では、早朝の読経はそれ自体としていま小生が追い求める目的に適っている。そんな風に考えている所だ。


何年か前に思想的転向をした。それについては何回か投稿をしてきたが、本日はその後の進展を「ログ(=航海日誌)」として記録しておくものである。





2026年5月18日月曜日

ホンの一言: 「ダメだダメだ」と批判する人が一番ダメかもしれない?

船橋にある両親の墓参りを兼ねて東京まで往復した。清澄白河に泊して(元祖?)深川飯を食べたが、カミさんは「もうイイかな」と。大盛りの白飯に驚くほどのアサリをトッピングして、ネギを一かけ、後は沢庵と味噌汁だけで腹を満たすというのは、確かに江戸の食文化であるに違いない。今回は上の愚息が夏場所を観たいというので同行した。小生は、今場所の大相撲には飛行機代を払ってまで行くほどの観戦価値はないと思ったので、愚息一人で国技館に往く。

北海道に戻ると疲れが出た。若い時分は午前に1件、午後は午後イチ、2時から4時まで大きな仕事を1件、夕方から退庁時間まで1件。夜になってからまた別件と仕事漬けになるのが能力の証くらいに思っていた。最近は、午前1件、午後1件どころか、一日一件。その日の予定をこなすと、ホテルのラウンジで詰碁でもして休憩するか、小さめの喫茶店に入って往来の人々を眺めながら時を過ごすか、とにかく無為に過ごすのを愛するようになってきた。

(海外メジャー紙に比べて割高なので今は有料購読を中止しているが)久しぶりに日経新聞にアクセスした。すると

「日本の恥」はレジより財政 米財務長官の長期金利への警鐘忘れるな

こんなヘッドラインが目に入る。何やら高市首相がまた言わなくともイイことを言ったのか、と。

本文の一部は「無料」で公開している。こんな風だ:

いくらなんでもレジシステムのメーカーに失礼ではないだろうか。11日の参院決算委員会での高市早苗首相による消費税減税に関する答弁のことである。

「システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね。例えば感染症が起こる。何か大きな災害が起きたときに税率すら柔軟に変えられないレジシステムだということは情けない」

日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

以下、続きあり・・・


どうも首相の 『システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね』にカチンときたのだろうかネエ・・・恥ずかしいという感覚は、小生はどちらかと言えば、首相の感覚に近いものがあるが。

税率は頻繁に上げ下げするものであるし、実際、ヨーロッパなどは社会状況を考えながら付加価値税率を結構頻繁に上げ下げしている。

食料品に対する軽減税率、イギリスのゼロ税率などは、(ドタバタ皆無とは言えないが)それほど大騒ぎすることもなく、淡々と、というか粛々と実行できているのが、ヨーロッパの財政である。日本のマスコミもそんなヨーロッパ諸国の財政政策を淡々と報じてきている(はずだ)。もちろんこんな財政政策には、官僚組織の行政技術があるわけであるし、欧州衰えたりといえども製造業の基礎技術があるわけで、だからこそ実施可能なのである。

日本は古来ヨーロッパを師匠としてきたが、師匠老いたりと見るや、もはや学ぶものなしと、態度を一変させる悪癖がある。この辺り、日本国民は実に機会主義的であると思うのだが、先進国・後進国を問わず、海外にはいつでも学ぶところがあるものだと思う。


マア、この辺はAIにでも聞けば、いつでも詳細に教えてくれる。

というか、上の引用文の中の

 日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

これには、思わず笑って、いやいや苦笑、というか失笑というか、ニンマリとしてしまいました。

確かに、日本国のIT技術水準、分かる人の少なさ、研究意欲の低迷は、以前から《わかっていたこと》であります。ダメダメな人に、いまさら「ダメだ」と言ったところで、

ダメなことは前から分かっていたでしょ?

と言われるだけである  ―   カエルの面に水、とはこういう情景を言うのであろう。

もちろん、これ自体が情けないあり様なのだが、もっと情けないのは、

余りにも長い期間、ダメだダメだと指摘されながら、今もなおやっぱりダメだ

と。つまり、改善へのアップターンが観察されない。これこそ最もダメな所である。


若い芽が育って来ないのか、若い芽を潰しているのか?

おそらくこの両方なのだろうが、日経新聞というメジャーな経済紙で、こんな文章が堂々と載るところに現代日本社会のダメな所が象徴的に表れているのだと小生は思う。

とはいえ、大谷選手、山本投手、村上選手などの野球界、八村選手などのバスケット界等々、スポーツ分野では世界で評価される人物を日本は続々と輩出できている。音楽界や美術界も評価は高い。文学界も多様な若手人材が生まれてきている(と感じている)。

一方、数学、物理学、化学などの自然科学、経済学、心理学、社会学など人文・社会科学分野で、グローバルに活動する日本人はどれほど生まれているのだろうか?小生の勉強不足もあるかもしれないが、学問分野で注目すべき若手(中堅も)人材が注目される例は、最近あまり目や耳に入らない。

学問上のレベルはプロ・スポーツ界とは異なり、言論や世論、生産技術の創出などに、そのまま直結するものだ。ここが実は停滞しているという感覚がある。

学術だけを立て直しても全てうまくいくわけではない、と。ま〜〜アレです、この種の反論に満ち満ちている。この点こそ平成・令和日本の問題の核心であります。

法学は明治以来の国内文系教育の柱である。いま改憲の声が高まる中で、日本国内の憲法学者はどんな見解を持っているのか?《改憲私案》なるものは持ち合わせていないのか?今こそ学問的知見を公表するべき絶好の機会ではないのか?個人的にはそう思いますが、あまり、というかほとんど《法学界》からの見解をきかない  ―   というより、報道されない。

(今は忘れられた?)歴史家・トインビーも語っているが、文明が直面する難題を突破できるかどうかは、少数の人物に宿る才能こそが鍵となる。その他の凡夫は天才的人物が拓いた道を歩く。この段階で平均的国民の勤勉さが主たるファクターになるのである。


以前にも懸念(?)を投稿したことがあるが、もはや学術分野でも五輪選手養成に邁進するスポーツ界と同じ様に《〇〇ナショナル・アカデミー》を開設して、いわゆる”Gifted”と呼ばれる天才少年少女を分野を問わずバックアップするべき時代ではないか?経済支援するべきではないか?特別待遇するべきではないか?

史上最高(?)の数学者・ガウスの例をみるまでもなく、天才的才能の出現は貧富や出自、身分、民族を問わない。貧しいレンガ職人の子であったガウスは領主の支援もあって大成した。

伸びる才能を社会として支援するのは富裕層の善意だけではなく、政治でも出来ることだ。

ダメだダメだと指摘しながら、今日もまたやっぱりダメだという 

こんな政治風景は実に奇妙だ。選手が駄目、駄目と毎日けなす監督やGMがいるなら、一番ダメなのは駄目だと言っている当人である。



2026年5月11日月曜日

断想: 「自我を愛せよ」とは言えないネエ・・・

 昨日のこと、ネットのどこで見かけたか分からなくなったのだが、

自我を大事にしよう

という一文があった。自我は鍵かっこの中に入っていたかもしれない。

何度も投稿してきているが、この考え方には反対の立場に(今は)いる。友人と雑談するときの話題になることもありうるから、要点をメモしておきたい。

例えば横山紘一『唯識の思想』で書かれているが、せんじ詰めれば人の心の中はマチマチ、バラバラであって『一人一宇宙』、同じことだが『人人唯識』が世の実相である。

こんな世界で一人一人が自我を大事にするとどうなるか?

何が正しいか?

何が美しいか?

何が善いことであるのか?

一人一人、自分の自我で判断するしかないという理屈になる。これは究極の《相対主義》である。アメリカはトランプ大統領の自我で為すべきことを決めればよい。その権限があるからだ。イスラエルのネタニヤフ首相も自分の自我で正しいと思うことを為せばよい。そんな理屈になる。世界がどうなるか誰でも分かるはずだ。多くの自我が衝突する結果は弱肉強食の原理以外にはない。


古代ギリシア世界の「世界大戦」でもあったペロポネソス戦争に敗北したアテネの民主主義社会は、敗戦後に大いなる混乱に陥った。知力、財力、体力に勝る強者の意志が善であるという思想が流行したのは、《敗戦の必然》でもあったわけだ。せめて論争や法廷の場の弁論だけは熟達しておこうと「ソフィスト」と称される専門家が「有識者」として尊敬されたのは世界史の教科書でも記述されているところだ。

人間は万物の尺度である

大事なことを決めるのは人間であり世論(?)である。こんな哲学(?)が当時のアテネで一世を風靡した。

ソクラテスの主張の核心は『それではダメだ』という一点にまとめられる。何が真であり、美であり、善であるかには、人を超越した絶対永遠の答えがある。唯一の真理を知ろうとする努力を人は放棄するべきではない。プラトンが師・ソクラテスを描くことで伝えたかった事は実に単純明快な一点であった(と勝手に理解している)。

ただ知るべき真理は「自我」によってはとらえられない。感覚はあてにはならない。感情も人それぞれである。まして世の評判や名誉などは無常そのものだ。自我の中の「理性」によってのみ真理はとらえられる。何故なら理性は、万人に共有される同一の心の働きであり、正しい答えがただ一つ存在するなら、真理を真理だと認識できるのは人間に与えられた理性の働きによるしかない。これがロジックであるからだ。社会的な意思決定においても同じこと・・・

理性は万人に共有されるが故に「自我」の中の「超自我」である。行動する時、理性に従うことは、カントなら実践理性の声を聞くと言うだろう。

西洋の哲学に沿って考えるとこんな議論になる  ―   哲学辞典的に言葉にこだわるなら、「理性」と「知性」は違うと言うところだが、いまはどちらでもよい。

戦争は自我によって起こり、平和は理性によって達成されると誰かが言うなら、かなり西洋の薫りがするものの、小生も大賛成である。


最近の小生は仏道に沿って考えることが増えてきた。少し昔とは正反対である。

仏道では《無我》を原理とするので、《自我》は実在しないと言うところから議論を始める。

というより、実在しない自我が実在するかのように誤認して、自我に執着する心を《我執》という。この根本的間違いは、真理を何一つ知らない《無明》が根本原因なのであるが、それ故に生じる自我意識からは《我癡》、《我見》、《我慢》、《我愛》という煩悩が生まれ、自らの心を汚すことになる。即ち

  • 我癡がち:自分とは何かを知らない
  • 我見がけん:自分がここにあると思う
  • 我慢がまん:「他人」と比較して「自分」は優れていると思う
  • 我愛があい:自分に愛着を感じ、(物質的身体として)もっと生きたいと願う
自我意識からこういう風に、自己利益を求める心理(煩悩)が生まれて、しかもそれは正しいと意識する。

達観してしまうと、現代資本主義社会は、人の心の中の「無明」とそれ故に生まれる自我を愛する「煩悩」を丸ごと肯定して構築された社会である、と。ずっと以前の非・近代の社会に生まれた知識人であれば、現代世界をこう理解するであろう。


確かにこの世間は煩悩の支配する濁世であるのが現実だった。いまもそうである。自己利益を追求するためには合理的戦略があるのも仕方がない。それはやむを得ないことだ。しかし、だからと言って
自我を愛せよ
開き直って、こんな風に自己肯定するのは、とてもじゃないが言う気にはなれない。『大事にしよう』とは『愛せよ』と言うのと同じであリンしょう?『俺の心は邪念だらけで汚れてるしサ、ずっと悪人だから、いまさら偉そうなことを言う資格はないがナ・・・』という位のデリカシーは持つべきだろうと思う。

2026年5月8日金曜日

断想: 理論家・ヒックスの経済史と歴史への関心の高まり?

小生は、経済学から勉強を始めて統計学を飯のタネに選んだ。だから、縦に生きるというより、横に生きている人の気持ちは、比較的分かるつもりでいる。

経済学の勉強を始めた当初、ヒックスとサムエルソンは(特に純粋理論畑の人にとっては?)正に「神様」のような存在で、アダム・スミスやデビッド・リカード、更にはケインズの『一般理論』を真面目に読まない人でもヒックスの『価値と資本』だけはきちんと理解しようと、一生懸命精読したはずである。小生は計量畑であったが『価値と資本』、特に巻末の数学付録は、大学院入試の前に丁寧に読んでおいた。

大学院に入る頃はヒックスの『資本と成長』が評判になっていた。しばらくしてから『資本と時間』が日本語訳で出た。理論系の大立者であったM.F.教授は

ヒックスも耄碌したのかネエ

と語っていたのが何だか面白かった。

神様も老いることがあるのか

まあ、そんな感懐であります。『資本と時間』に老いを感じたのであれば、ちょうどその頃に執筆していたはずの『経済史の理論』はどう評しただろう?

こんな(下らない?)本を出すなんて、やることがなくなったのかネエ・・・

理論系の経済学者ならこんな評価になったかもしれない。聞いてみたかったものだ。

小生の「ヒックス経験」はそんな風であったので、最近、substack.comでDeLong先生がヒックスの経済史をテーマとしているのには、少々驚いた。

読むとこんな下りがある。

From his stage theory Hicks drew a bottom-line conclusion: When we consider the process that has generated our economic growth and current prosperity, we should note first that we have been very lucky. This process has gotten farther than it had any right to. The market system spread, expanded the potential for the specialized division of labor, created the opportunity for high-scale investment and accumulation. But it was always a tendency. It was never an inevitability. It had a halting nature. It had a limited geographic spread. They needed necessary supports were only found in patches.

ヒックスは自身の段階理論から、次のような結論を導き出した。我々の経済成長と現在の繁栄を生み出した過程を考えるとき、まず我々は非常に幸運であったことを指摘すべきである。この過程は、本来あるべき範囲を超えて進展した。市場システムは拡大し、専門分業の可能性を広げ、大規模投資と蓄積の機会を生み出した。しかし、それは常に傾向に過ぎず、決して必然ではなかった。その性質は停滞しがちで、地理的な広がりも限られていた。必要な支援は、断片的にしか見つからなかったのである。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-05-01

URL: https://braddelong.substack.com/p/theories-of-economic-history-v-commerce 

経済成長には何も必然性はない。歴史的結果として(多少なりとも)持続的に観察された「傾向」というものだという認識は、「成長」に劣らず現代世界の人で信じる人が多い「民主主義」にも当てはまるというのが、昔からの個人的感想であったので、同じような事を言う人はどこかにいるのだネエ、と。そう思った次第。

続けよう。

Plus there were the occasional reversals. We know more than Hicks did now about the post year -1200 late Bronze Age collapse, during which the Greeks forget how to write. We know more about the post-Song retreat of China’s iron production. We know more of what caused the D—I understand we are not supposed to call it that: call it the post-200 Late-Antiquity Pause, the thing that led to a world in which, somehow, by the year 750, in both Europe and in China, people were looking around and marveling at the accomplishments of the earlier Hellenistic and Roman and Han civilizations at their height, and mourning their situation as unworthy descendants of mightier men.

さらに、時には逆転現象も起こりました。紀元前1200年以降の青銅器時代後期の崩壊、つまりギリシャ人が文字の書き方を忘れてしまった時期については、ヒックスが当時知っていたよりも多くのことが分かっています。宋代以降の中国の鉄生産の衰退についても、より多くのことが分かっています。D期(そう呼ぶべきではないことは承知していますが、紀元前200年以降の古代末期の停滞期と呼ぶべきでしょう)の原因についても、より多くのことが分かっています。この停滞期によって、どういうわけか、750年までにヨーロッパと中国の両方で、人々は周囲を見回して、最盛期のヘレニズム文明、ローマ文明、漢文明の業績に驚嘆し、より偉大な人々の後継者としてふさわしくない自分たちの境遇を嘆くようになったのです。 

過去を賛美する所が儒学にはある。これも、しかし、事実に基づいた学問的知見であるというわけだ。

現代では「科学主義」が浸透している。現代人は、前の時代に生きた人より「進んでいる」と確信している。しかし、その確信には(実は)根拠がないわけである。進んだ科学は、先人たちが達成した成果であり、現世代が進んでいることを意味しない。

いま進行しているのは、人の大脳内部で起きている「思考現象」を半導体でそのまま模倣しようとするAI(人工知能)の研究開発である。思考(のような動作)を再現できるとしても、AI(人工知能)が「自我を意識した精神」であると思う人は一人もいない。そもそもよく言えば「人工」、悪く言えば「もどき」なのであり、それを実現可能にした基礎理論は何十年も前からあったわけである。


古代社会で華やかな文明が栄えたにもかかわらず、次第に創造性を失い、「民族の大規模な移動」をきっかけにして自壊するかのように、文明社会としては瓦解し、百年単位の「暗黒時代」を送ったことは、最近になって小生が関心を集中させている領域である。トインビーは、西洋については375年から675年までの300年間を混沌の時代と評しているし、この事情は中国についても後漢の滅亡から三国時代、南北朝を経て隋唐時代までの長い期間に当てはまっている。

文明の歴史の長い時間においては、「進歩の時代」と「後退の時代」が交互に現れると考えておいてもよいかもしれない。

理論家・ヒックスがこの辺の問題に知的興味を抱いていたのは、単なる経済学者ではなく、もっと水準の高い文人であった証拠だろう。

Hicks also concluded that fixed-capital industrialization—the key source of prosperity—required both science coming in from left field, and also the development of unusual institutions of financial deepening to make people willing to invest in things that coud not be liquidated for cash whenever events went rapidly south and the panic spread. Hicks also concluded that the system was very unlikely to deliver general wage increases, at least not until it had spread enough to a large enough scale to get you exhaustion of the W. Arthur Lewis labor surplus in the countryside; or until you got unions strong enough to enforce rent-sharing for a labor aristocracy. Hicks also concluded that the beginning, the development, and the future of the future of this process always was and is a dicey political-sociological question.

ヒックスはまた、繁栄の源泉である固定資本工業化には、異分野からの科学の流入と、事態が急激に悪化しパニックが広がるたびに現金化できないものに人々が投資する意欲を持たせるための、金融深化のための異例の制度の発展の両方が必要だと結論付けた。ヒックスはまた、このシステムが一般賃金の上昇をもたらす可能性は非常に低いと結論付けた。少なくとも、農村部におけるW・アーサー・ルイスの労働余剰が枯渇するほど大規模に普及するか、労働貴族のために地代分配を強制できるほど強力な労働組合が形成されるまでは、そうだろうと結論付けた。ヒックスはまた、このプロセスの始まり、発展、そして未来の見通しは、常に厄介な政治社会学的問題であったし、今もそうであると結論付けた。

《科学と工業》との決して切り離せない密接な関係性は言うまでもない。この関係性に加えて《信用と金融》が寄り添うことで、産業革命が進行し、現代の資本主義文明の大輪の花が開いたわけである。その過程で実質賃金が着実に上昇し、生活水準も向上したのであったが、これはこれで余剰労働力とのバランスから起きた現象であったというのは、経済理論に忠実な理解だ。しかし、過去において起きたから今後も同じことが起きるだろうとは言えない。それは人口と生産性との関係が決めることで、未来を予測することは出来ないとも言っている。

やはりヒックスは『賃金の理論』から研究をスタートさせた経済学者である。

いま急速に発展しつつある《AI(人工知能)》と先進国に共通する《少子化》という変化を観察するとき、ヒックスならどう思考するだろうか?

人口と経済発展は、マルサスの『人口論』を待つまでもなく、最初に経済学者の注意を引いた最重要な研究テーマである。

人口は幾何級数的に増加する一方で食料は算術級数的にしか増えないので必ず過剰人口が発生し賃金は最低生存レベルにまで低下する。

マルクスが『資本論』を執筆していた頃、広く流布されていた「賃金鉄則」だが、その後の経済成長によって「予言」は見事に外れたというのは、少し前の経済成長論テキストでお得意のエピソードであった。

しかし、まさか、どの国も高度文明化するに伴って《少子化》が進むと誰が予測しただろう?

所得分配の不平等化については、日本の経済学界でもこの50年程で多くの経済学者の問題意識を刺激し、研究成果が蓄積されてきた。 

若いころはそれ程の差がつかなくとも、高齢になれば大きな差になるものだ

運動会の徒競走やマラソン競技をみずとも、この単純な理屈は誰でも理解できる。これに少子化が合わされば、

高齢化社会では資産分配の不平等度は上昇し、所得分配も不平等になる。

当然、こんな帰結が出て来るわけだ。 

しかし、分配に関連する要因は「年齢」だけではない。

他方、分配問題に投入されてきたほど少子化は研究されてきただろうか?

西洋の古代社会はローマ帝国が世界帝国となって完成形に至ったのだが、その衰退期に顕著であったのは来世志向(≒現世への絶望)の宗教、即ちキリスト教の浸透、非婚率の上昇、移民の増加とローマ社会の変質であった(と推測されているようだ)。

古代社会の瓦解を歴史的に更に詳細に研究する必要性は、今後にかけて一層高まるかもしれない。


2026年5月6日水曜日

ホンの一言: ト政権、一体何をやりたいのか分かりませんという状況

経済理論では文字通りのマイスターであるものの、政治的立場はかなり違うなアと感じてきたクルーグマン博士だが、最近は遠慮会釈のない自国の大統領批判に愉快さを感じるようになった。これも日本人ならではの気楽さか・・・アメリカ国民の苦衷を体感できないのが残念だ。

今回は、「再エネ」が大嫌いなトランプ大統領が、意図することなくしてグリーン・エネルギー重視の流れを決定づけてしまった状況を(面白おかしく?)紹介している。

The global energy transition — the shift from fossil fuels to electrotech, which uses solar, wind and batteries to power an electrified economy — is accelerating. It’s now clear that the closure of the Strait of Hormuz marks an inflection point: the global green energy curve, which was already on a rapidly rising trajectory, has suddenly become even steeper. “Investors,” reports the Financial Times, “are piling into clean energy funds.”

化石燃料から電気技術への移行、すなわち太陽光、風力、蓄電池を用いて電化経済を支える電気エネルギーへの移行は、世界的なエネルギー転換を加速させている。ホルムズ海峡の閉鎖は、まさに転換点となることは明らかだ。すでに急速に上昇していた世界のグリーンエネルギー曲線は、突如としてさらに急勾配になった。「投資家たちはクリーンエネルギーファンドに資金を集中させている」とフィナンシャル・タイムズは報じている。

This acceleration isn’t just a consequence of soaring fossil fuel prices. It is also the result of the worldwide realization that, with the end of Pax Americana, depending on imported hydrocarbons is a risk not worth taking. The United States cannot be relied on to keep sea lanes open when cheap drones can take out an oil tanker or a major pipeline. Even relying on oil and gas from America itself is dangerous, since one never knows when an erratic U.S. government – now under the control of a twice-elected malignant narcissist — will try to use energy as a tool of coercion.

この加速は、化石燃料価格の高騰だけがもたらしたものではない。それはまた、パックス・アメリカーナの終焉に伴って、「輸入炭化水素に依存するのは、敢えて取るほどの価値がないリスクだ」、そんな認識が世界中に広まってしまった結果でもある。安価なドローンが石油タンカーや主要パイプラインを破壊できる状況では、米国が海上航路の安全を確保してくれるとは期待できない。米国産の石油やガスに頼ることだって危ない。なぜなら、二度も選出された悪質な「自己肥大症患者(ナルシスト)」が君臨する不安定なアメリカ政府が、いつエネルギーを我意を押し付けるための強制(脅迫?)手段にするか分からないからだ。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: May 05, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/trump-is-losing-a-second-war

オバマ、バイデン両氏の民主党政権下で進められた《再エネ重視路線》、

坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い

ということか?『掘って、掘って、掘りまくれ』と石油業界に活を入れていたのがト大統領だ。

しかるに、自分自身が最も嫌っている再エネ・ビジネスに、意図することなくして、わざわざ絶好のチャンスをいま与えている。ク博士も

何をやりたいのか、サッパリ分かりません

と言いたい感覚が伝わってくる。


100年前のハーディング政権は「オハイオ・ギャング」と言われていたそうで、その後「史上最低の大統領・ワーストワン・ランキング」の常連  ―  いや「アメリカ史上最も腐敗した政権ランキング」であったか?  ―  であったが、今のトランプ政権、何と呼ばれるようになるのだろうか?

そういえばハーディング大統領も共和党選出の大統領であった。


2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。


2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】