2026年10月13日火曜日

断想: 「声の記憶」について

先日他界した母方の叔父の満中陰が済んだ旨、叔母から電話があった。従妹とも久方ぶりで、というより10年以上の間をおいて、話すことが出来た。

前にも投稿で書いたことがあるが、人間の感覚の中で聴覚が最後まで残って働くそうである。従妹は叔父が臨終を迎えるその時、叔父が好きだと話していたチャイコフスキーの交響曲第5番を聴こえるように再生してあげたそうだ。するともう意識がないかのように見えた叔父の目から一筋の涙が流れ出たそうである。電話の向こうでそう話す従妹の声は、叔母の声と不思議なほどに似ていて、聞いている小生は何だか胸が熱くなった。

音というのは、いつまでも記憶に残るものである。叔父の顔や佇まいは勿論のこと視覚された映像として覚えているが、声音ほどに生々しいものではない気がする。

夢にみる父や母がいかにも夢であるようなのは、一つには声を出していない、少なくとも夢の中で声を出して小生と話をしてはいないからであろう。実際に声を出して話をしていれば、それは寝言になる理屈だ。目覚めてから夢の中で話していた母の声が耳の奥に残っていることは一度もない。

というより、不思議なのは母の声よりも父の声の方が今でもありありと思い出せることだ。母の声は、覚えてはいるが、父の声よりは遠い。男性は男性の声をそのままに記憶するのだろうか?


「古今和歌集」にあり、「源氏物語」の「桐壺」でも挿入されている和歌

むばたまの やみのうつつは さだかなる 

     夢にいくらも まさらざりけり

現代語訳: 真っ暗な闇の中での現実は、はっきりした夢に対していくらも勝らないものだ

URL:https://note.com/chinomiyuki/n/n4e9f13671874

古今集の歌に対して、紫式部は更衣と死別した桐壺帝の嘆きの深さを「決して歌の通りではない」と悟らせることで表現している。小生も源氏物語に同感だ。真っ暗闇で姿形は見えずとも「さだかなる」というのは、つまり声を出して話してくれるから、それも二人の間でのみ意味が通じる事を話してくれることで、その人がそこにいると知れるからである(と勝手に解釈している)。もしそうであれば、姿だけの夢よりは、やみのうつつの方こそずっとまさるものだ。

小生に電話があったのは、葬儀が過ぎた後だったので、般若心経の写経と伽羅の線香を送ってくやみとした。写経だけでは「温もり」がないので、竹の水墨画を一つ同封した。喜んでくれた様子であるのは大変うれしかった。が、水墨画はまだ新米なので、人に贈る代物ではない。恥ずかしくもあった。

油彩、水彩を趣味としてきたが、筆・硯・墨・紙のいわゆる《文房四宝》は、これらと併せて使う水と共に、日本人の文化的生活の古層を為すものだ。写経を新しい習慣とするのに伴って、日本的生活の古層を味わうことが出来ているのは、予定外の収穫である。


人間の記憶に古層があるのと同じ理屈で日本人の精神的生活にも古層があるのだろう。とすれば、日本社会に古層というものがあるということだ。

古層を自覚しない創造・発展はありえないと思う。バブルと同じである。

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