2026年9月22日火曜日

前稿の補足: 「理屈」と「難信」について

前稿では『歎異抄』という古典を通して親鸞の思想に触れた。単なる読後感想を超えて、普段の読経や勤行を続ける心理とも関連性があると感じ始めているのだ。

岩波文庫の鈴木大拙『浄土系思想論』に収められている「他力の信心につきて ― 『教行信証』を読みて」は、読んでみると大拙流の『教行信証読後感』じゃないかと感じたりするのだが、その中にこんな下りがある。

自力では何故に他力が難信であるかと云うに、自力の本質は、分別であり、分析することであり、対象的に物を見て、いつも此から彼、彼から此へと動くことである。それで、まず弥陀を彼方において、自分に対立せしめる。而して彼の本願力なるものを考える、而して、或いは歴史的に、時間的に、存在論的に、知識論的に、或いはまた物理学的。唯物論的にさえこれを検討せんとする。それ故、他力の論理から益々遠ざかるので、弥陀も彼の浄土も否定せられ、したがって自分自身の立場さえ混乱に陥って収集不可能になる。

まさに小生自身がたどってきた道である。考えてきたことは、論理の整合性という点で間違ってはいないと今でも思っているが、やはりどこかで行き詰るのではないかという予感は否定できないのであった。空しくはないが、不安であったと言えばいいか。


あとにこう続いている:

他力不可思議の論理を獲得せんには、どうしても分別智の制約からのがれねばならぬ。自力のはたらきをその根底から覆さねばならぬ。これが中々できぬので、「難信」ということにならざるを得ぬ。

分別智(≒理屈)とは分析の論理を指す。分析とは、自分と自分以外の世界を対立させて考える枠組みのことである。

宇宙には生命のない無機物と生物に由来する有機物がある。「我」には命がある。我をとりまくのは無機物と有機物である。無機物も有機物も素粒子から構成される物理的存在である点は同じである。生物の機能も、ある化学物質が別の化学物質へ変化する化学反応プロセスとして理解できる。つまりは素粒子の運動であり物理現象でもある。この議論を徹底すれば、人間の精神も自由意志も物質の運動として理解する唯物論になる。唯物論には、神も弥陀も入り込む余地はなく、浄土も来世もただの空想になる。

しかし、こんな科学主義はいずれ行き詰る、というより

闇の中で落とし物をした。街灯の下は明るい。そこを探せ!

確かに探せるのは明るい所に限られるから、上の方針は合理的である。しかし、どうも楽観的で合理的な行き方でスッパリと割り切っても、落とし物が見つかる保証はない。

分からンものは、分からンままでよい。それは最初からないと思え。

という発想に通じるところがある。

唯物論が荒唐無稽であるのは、何度も投稿してきたことで、間違いとは思わない。かといって、浄土信仰の道は行き止まりなく、ずっと続いているのか、と。やはり悩ましいのだ、な。


『仏説阿弥陀経』が成立したのは紀元1世紀頃だろうと推定されている。約二千年も前に書かれた阿弥陀経の結句にも

釋迦牟尼佛 能爲甚難 希有之事 能於娑婆國土 五濁惡世 劫濁 見濁 煩惱濁 衆生濁 命濁中 得阿耨多羅三藐三菩提 爲諸衆生 說是一切世間 難信之法

釈迦族の聖者、仏陀は、たいそう困難な事業を実現しています。それは苦悩の世界のなかでも五濁悪世と よばれる、時代の濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、有情の濁り、寿命の濁りの濃い只中で、最高のさとりを完成し、さまざまな衆生のために、信じられることの 難しい法を説かれています。

URL:https://mjj.or.jp/amidakyou/amidakyou2

正に《信じてもらうのが難しい法(≒真理》、つまり「難信」のことが説明されている。 

親鸞の思想は、こんな「難信」を認めたうえで、それでも仏道信仰の成り立つ道筋は何かを追求している。

法然の専修念仏は、法然では完結しなかった。親鸞が必要であった。段々とそう思うようになっている。


以上、現時点の覚書きまで。


0 件のコメント: