2026年10月3日土曜日

断想: 「理性」が「神」を認識しているのだとすれば・・・

異なった人は異なった意識をもつ。

宗教的信仰と言ってもそれは人の意識にあるものだ。信仰の対象を「神」と呼んでもいいし、「〇〇仏」と呼んでもイイが、たとえ唯一神を信仰する宗教であっても、異なった人が信仰する「神」が同一の神であることを、どうやって証明できるのか?

二人の人が唯一の神を信仰していると言っている場合でも、信仰される二つの神が実は同一であるためには、その神は別々の二人の心の中にのみ在るものではないという理屈になる。主観の外、つまり客観的世界の中に二人が共有できる唯一の神は存在しなければならない。

つまり、キリスト教やイスラム教など唯一の神を信仰する宗教における「神」は、一人一人の主観の中に在るのではなく、主観の外にあるものだ。

唯一の《創造主》を数学の公理のように最初に措定するのは自然な始め方である。

しかし、客観世界における「神」は人間の感覚器官によっては観察できない。


この疑問に答えを出すには、「理性」は異なった人の間で同一であると考えなければならない。数学の定理が万人共通の定理であるのと同じで、理性によって認識される唯一の神は、万人共通の唯一神という結論になる。


「理性」が認識する「神」は、確かに唯一神として認識するなら、同じ神でなければならない、がしかし、キリスト教の神とイスラム教の神は異なっている(ものと理解している)。二つの宗派が認識している神は、理性によって認識された神ではないという理屈になる。

理性によって認識されていない「神」が多くの人によって「同一の唯一の神」として共通に信仰されている理由は(小生には)分からぬ。少なくともロジックが通らない気がする。


10月に入って早々、変な屁理屈を書いた。

これまた暇ということでござんしょう。