2012年7月30日月曜日

無駄話し ー 正義とは理ではなく感情ではないか

夏休みシーズンがやってきた。先週末は、小生が暮らす街の夏祭りで、夜は打ち上げ花火がうるさい程だった。猛暑の土日は文字通りの祭日和だったろう。拙宅も子供が幼い頃には港近くまで出張っていって、縁日で遊んだものだが、年齢を重ねるとあの喧噪と人ごみ。いまは2時間ともちそうにはない。で、ずっとロンドン五輪をみては、時間を過ごす週末になった。

× × ×

みていると柔道などで納得しかねる判定もあるようだ。日本と韓国の選手の試合では、旗判定になったところ、最初の判定が取り消しになって、日本選手の勝ちとなった。韓国の中継アナは、この瞬間「こんなバカなことがあるか!」と絶叫し、「勝ったのです、確かに勝ったのです」と繰り返したよし。これまさに正義の観念がほとばしり出ているのであろう。 

またまた古代ギリシア人の人間理解の話しをするが、怒りは感情であって、理性の働きではない。愛も道理から出てくるものではない。中国を中心とした儒学では、根本に仁愛と道義を据えて、人間社会のありかたを理論的に定めるというが、その仁愛は感情から発する心の作用である。道義、つまりは正義の感覚も、詰まる所は怒りの感情に基づくのじゃないかと思う。であれば、よく正邪善悪というが、根底は感情論ではないのか。理智の働きで、道理によって、正邪善悪を証明する事など不可能じゃないか。だから必要な公理をどう置くかで人によって結論が違う、そこで学派が分かれ、派閥を形成したのじゃないか。小生には、そう思われるのだ、な。 

正しいとされる判断には神が貼った札でもついているのか?善い事とされる行動は、結果が善いだろうと予想されるから善いのか、それとも善かれと思ってしている事だから善いのか?こういう問題は、人類にとっては永遠の謎である。小生、謎は謎として、正邪善悪の問題には正解などはないと認識しておくのが科学的であると思う。この辺、やっぱり統計学の専門家ですから。

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 そんな風なので、何かの決定が間違っているとか、正しくないと怒りをあらわにして抗議をする人をみると、まずは順番に話しませんかと言いたくなる。正義よりも強いもの、愛すらも勝てないもの、それは<事実>と<論理>である。事実の確認から話し合いは始めなければならない。仕事は、事実と論理の積み重ねであって、正義や愛情の入り込む余地はない。農業のみが主たる産業で自然の意のままに凶作と豊作が繰り返された時代なら、この道理は周知のことだったろう。努力や丹精とは関係なく、自然は人智を超えた影響を人間に与えてきた。「自然ありき」で生きてきたのが人間だ。トーマス・マンの創造した人間トニオ・クレーゲルが、自己と世間との亀裂に悩むのと同じで、世間の仕事と高邁な理念は相容れない。世間の現実に美を求めても失望するだけである。正義の感覚をもちこむと、無用の混乱が生まれやすい。

「それを混乱というのか?」
「秩序を乱しておりますがゆえ」
「秩序が乱れるというが、正しい状態にすることは善い事ではないか」
「仕事をしている当人たちは、誰も自分たちが悪をなしているとは考えておりません。法をおかしてもおりません。無縁の人たちが、彼らを正しくないと糾弾しているのです。彼らの意に沿うように世を変えようとしているのです。これが秩序をこわし、混乱をもたらしているのでなく、なんでありましょう」 

こんな風なロジックのぶつかり合いを日本のドラマでも聴きたいものである。そうすれば、夏休みの楽しみになるのだがなあ、と。

2012年7月29日日曜日

日曜日の話し(7/29)

前の『日曜日の話し』はセザンヌの話しになった。やっぱり、どこまでもこの画家の作品が気に入っているのだと見える。

しかしセザンヌの人生は、半ば隠者のようであり、半ば敗者のようでもある。印象派第一世代でありながら、位置づけとしては後期印象派の一人として数えられている。実は、数えること自体が不適切であって、セザンヌは印象派ではないと小生は感じるがままに解釈している。セザンヌが美術史上において確定した位置を占めるようになったのは、彼の没後に開催された回顧展が契機である。その頃にはもう既にマティスやピカソといった若い世代から偉大な先達として尊敬を集め始めていた。セザンヌは、同世代と同じ感覚を共有して、仲間と一緒に大きな道を切り開いたというよりも、仲間が歩かない道を独りで歩き続け、自分が良しと思う美意識を貫いて行ったら、彼が到達した地点こそが20世紀美術を展望する三角点であった。そんな人生である。

人の行く 裏に道あり はなの山

そんな偉大な隠者には、小生、性格上とても魅かれるのだ、な。今日は、そのセザンヌの「アルルカン」と、ピカソの「腕を組んで座るサルタンバンク」をここに展示したかった。アルルカンはイタリア風仮面喜劇に登場する道化師をさし、サルタンバンクはスペインでよく見かける旅芸人、というよりサーカス一家のことである。ところがインターネットを探し回っても、自由に使える画像が公開されていない。実は、どちらも日本の美術館に収蔵されているのだ。まさに奇跡じゃな。アルルカンはポーラ美術館、サルタンバンクはブリジストン美術館にいけば観ることができる。その美術館の解説ページをコピーしてトリミングしてここに張り付けるのは、あからさまな著作権侵害であろう。なのでリンクボタンのみを上に入れておいた。

ところでブリジストン美術館にはピカソの風景画も常設展示されている。


Picasso, 生木と枯れ木のある風景(Landscape with Dead Tree), 1919

ピカソはその生涯を通じて、信じられぬほどの激しい振幅で画風を一新し、別人のような美意識から新しい創造を続けた怪物であるが、第一次大戦後に始まる所謂ピカソの<新古典主義時代>の作品は、「サルタンバンク」もそうだが、確固とした存在感と、造形、色彩が、それまで現れたことのない感覚で組み合わされている。ビジネスでいう<イノベーション>を絵画の世界でやってしまっている。

実際、上のような作品はかき上げてしまってからは、当たり前の描き方になるが、それ以前の誰の作品をも超えている。上の作品は素朴派のアンリ・ルソーを連想させるところもあるが、感覚は全く違う。率直に言って、ピカソの作る美は洗練されていて上品でありアクがない。文字通りの天才であるが、やはりセザンヌの筆法を見ることによって、それがヒントになったのだと言われれば、「そうなのだろうなあ」という繋がりを感じ取れる。

セザンヌの風景画はとても多く、かつまた以前の投稿でも書いたように十代の頃は全く理解できなかったが、今は透明感と寂寥感と満足感をミックスしたような小品「レスタックの海」を好んでいる。


セザンヌ、L'Estaque.、1885
出所: Olga's Gallery

近代合理主義哲学の創始者であるフランス人・デカルトは、道に迷い、方向が全く分からなくなったときは、ある方向に向かって真っ直ぐに歩き続ける、それしかないと言っている。田舎者セザンヌには、こういう生き方がむしろ自分の性格にもマッチしていたのかもしれない。いやいや、同郷のエミール・ゾラは世間慣れした、機を見るに敏な人柄であったようだから、やはり個性なのだろう。

分からないなら、真っ直ぐに歩き続ける。キャッチアップではなく、トップランナーになったのなら、この覚悟と決意は大変意味のある言葉ではないだろうか。日本経済のことですよ。小生の田舎でいう”キョロマ”では駄目、頭がいいと思っている”チエ誇り”は利口バカという所以じゃな。

2012年7月28日土曜日

原発比率 ― 決めても空手形になることは決めない方がよい

エネルギーに占める原発比率をゼロにするべきだというデモンストレーションが官邸を取り巻くようになった。「たかが電気」の発言で有名になったミュージシャンの坂本龍一も脱原発支持である。いま脱原発を唱えることは良識派のシンボルなのだろう。

再生エネルギーで全てのエネルギーを賄おうとすれば、大変な広さの土地面積がいる、と。そんな数字を紹介すると「原発比15%に誘導している気がする」とクレームがつく。全く、ヤレヤレである。だから需要供給のことは市場に委ねればよいのであって、その選択肢を削るべきではなかった。これでは道理に基づいた議論はできぬわ。担当者は職場に戻ってボヤイていることであろう。問答無用の勢いで「そうしてよ!なぜ駄目なの!!」、と言い募られているようでもあろう。

社会は、自分たちの声で変えられるという意識は、民主主義にとても大事である。しかし、自分の考えに沿って社会を変える事ができたという人がもしこの世にいたとすれば、時空を超えて小生の眼前に蘇ってほしいものである。事前に意図した通りに社会を変革することができた人間・人間集団は、歴史を通して、いない。自信をもって断言できる。変革が成功したかに見えるが故に、それが成功するが故に、当初の理念とは無縁の人たちが混入し、いつの間にか別の人間が別の意図をもって社会を動かすようになるのが常である。だから社会の運行は原理的に予測不可能である。

何か決めても、必ずその決定は空手形になる。社会のことは全てそうしたものではないか?そしてそうあるべきなのではないか?

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小生の祖父母はみんな長命した。明治の人である。仕事でもかなり成功した。父は大正15年の人であり、母は昭和4年だった。軍事教練や勤労奉仕を経験した戦中派である。父の職業生活は戦後に始まり、高度成長時代とオーバーラップしている。中年までは成長の果実を満喫したが、1970年代の世界的経済調整の荒波に揉まれた頃、ちょうど責任ある年齢にさしかかっていた。勤務先の新戦略に携わることになったが、時機が悪く失敗に終わり、病を得て、50代半ばで世を去った。戦争では死なずにすんだが、経済戦争で討ち死を遂げた。母も父の死後10年程して他界した。二人ともこの長寿社会の中では短命である。それでも小生が成人するまでは両親の暖かい庇護の下にあった。

小生は、最初の20年は苦労を知らずに成長し、次の20年では役人稼業に就くが父と母を失った。その次の20年は北海道で統計を教えてきた。大病もせず平和な暮らしを続けている、というより、こんな風にして20年を全うできるような気がする。小生は、平均寿命よりも長生きする意志は毛頭ない。とすれば、最後の20年をどうやって生きるか、今はそれを考えている。

自分の生を超えて何か永遠なるものと同一化して死にたい。これは普遍的な意識だろう。神の意識もこの辺の心情から発するのかもしれない。永遠なる存在・・・たとえば<父系の家>なるものはその一つだったろう。しかし、父系の家制度が形成されたのは、日本でもせいぜい平安時代以降だと言う。いま暮らしている北海道では<父系の家>なる実態はもはや微塵もなく、むしろ周囲の知人をみると<母系の繋がり>が生き生きと働いているようである。家だけではない。地域社会も会社も、すべて社会的な組織や制度は、永遠の実態ではありえないのだ、な。すべては風化して無くなるものである。真に永遠なる存在は<自然>の他に何かありうるだろうか。

昔の武芸者のようだが「天地と一つ」、その心境にたどりつきたいものだ。自然と社会というけれど、社会もまた<自然現象>の一部として観察しようと思い定めたい。そんな意識で終盤の20年を送りたいと考えているのだ。だからいま暮らしている町から、雪の少ない白老か伊達辺で、命を育てる活動にあたりたいと計画している。

市内廃線跡地

白老、ポロトコタン

天と地は、小生の父と母にとっては、甚だ過酷だったような気がする。反対に、小生には(今までは幸いにして)優しく接してくれたような気がする。気障ったらしいが、自然に感謝の気持ちを伝える何かをして、最後の20年間を送りたい。もらった分の一部だけでも、お返しをしたい。それが、しなければならない仕事であるような気がするのだな。

× × ×

人間社会の運行と変化を自然現象の一部ではなく、人間の意志で ー というより自分たちの意志で ー 決定していこうという脱原発グループの心意気と義務感には文句なく尊敬の気持ちを否定するものではないが、その努力がその通りの形で実を結ぶ事は小生は決してないと思うし、また自分のなすべきことを上のように考えているので支援しようと言う気持ちもない。

エネルギー産業のあり方は、技術進歩と生産システムのバランスの中で、誰がというより社会経済的なロジックによって選択され、半ば自動的に決まっていくものなのだ、な。人間の意図でどうこうできるものではない。どうこうしようとすれば、その途中で無用の対立や紛争が起こるだけである。

社会の進歩も自然現象の一部であると思う。その進歩を人為的に遅らせるものは、残念ながら人間の正義感や善意などヒューマンファクターなのではないかな。それは法律や慣習になって社会を<ギプス>のように束縛している。善意と良心は品格を保つためには不可欠だが、モノの生産と消費は品格のために為されるのではない。

だから、小生、すべて法律は25年の間、何も改正がなければ、自動失効するのが良いと思う。憲法は、何も改正がなければ、50年で自動失効するのが良いと思う。だってそうでしょう。その文章を起案した人間は、ほぼ全員が死に絶えているか、25年で区切っても社会構造は全く変化している。古い規則は邪魔なだけである。その時、生きている人間が、自らを律する権利を確保しておくべきである。江戸時代の武家社会を律する憲法であった武家諸法度ですら、徳川将軍の代替わりごとに、新将軍の理念に沿った新しい法度を公布していたのである。よほど合理的ではないか。無論、独裁者からトップダウンで下々に押し付けるのは<反民主主義的>ではありますけどね。






2012年7月25日水曜日

<格差是正>とは、感情論にすぎる言葉だ


小生が国から俸給をもらっているから、こんなことを書くと思われるなら大変癪な話である。どこに勤務していようと、小生の性格は直らないから、同じことを言ったり書いたりすることは、間違いない。


55歳以上の公務員は昇給を停止しようという人事院勧告がなされる方針である。これは良い。異論はない。小生自身、年齢の大台が迫るにつれて、「人間50歳がピークだな」、と。痛感している。50を越えてからは、まず目に来る。次に肩と背中に来る。最近は腰に疲労がたまるようになった。それと並行して根気がなくなる。休養を求めるようになる。更には、どんな重要懸案にせよ、自分が直接関係しないような、利害関係の薄い、長期的で基本的な課題については真面目に検討しなくなる。一口に言えば、自分と関係ないからだ。大体、人生の終盤に入った人間が、自分で責任もとれないくせに、基本的な事柄に首をつっこむべきではないというのが、小生の意見だ。したがって55歳以降は昇給停止。決めるのが遅すぎたくらいである。後続の世代の人からみれば<不公平>であり、たしかに気の毒には思うのだが。


しかしながら、昇給停止の理由が<格差是正>にあり、と。これは納得できない。そもそも格差はすべて是正するべきなのか?なくすべきなのか?あるべき格差もあるであろう。あるべき格差になっていない場合は、むしろ格差を拡大するべきだろう。

イチローの年棒は20億円だがこれは不平等の象徴なのか?小生はそうは思わない。プロ野球のレギュラー選手が、シーズンを通してゲームに出場すれば、みんな同じ時間だけチームに貢献する。どのレギュラーがかけても困るだろう。打つ人、守る人。トップバッター、4番打者、ラスト。それぞれ仕事を分担しているだけで、誰がかけても困る。みんな必要なのだ。だから等しく報酬を払うべきだ、と。そんな議論は誰もしない。そんな組織管理をすれば、モラルハザードが広がり、誰も本気でチームに貢献しようとしなくなる。努力のしがいがない。向上心も萎えるだろう。


格差は、貢献を正当に評価し、対価を与えるという観点から見るべきものだが、更に、努力を厭う人間の弱さを矯正するための管理ツールでもある。身も蓋もないが、士気を維持するための人参である。

55歳以上の年齢層において、公務員と民間勤労者との間の給与ギャップが拡大するので、その格差を是正するというが、55歳以上の公務員と55歳以上の民間勤労者が、同じ仕事に就いているわけではない。責務・職務・拘束時間など業務内容が異なるのに、実際の給与差を<是正するべき格差>と認めるロジックは何か。


いっそ政府に雇用される公務員については、法務、財務、経済、治安、軍事、司法、中央政府・地方政府などの組織ごとに、管理業務、事務業務、補助業務、研究業務、教育業務など職種に分けたクロスセクション表をつくり、各セルごとにOECD加盟国の公務員給与平均値を算出して、特定年を基準年として購買力平価で換算し、そこで日本円と水準合わせをして、それ以降は日本の毎年の一人当たり名目GDPの増減率だけ給与を調整する、そして5年ごとにOECD加盟国の実態調査をして基準改定をする。国民経済計算でも推計するようにして、機械的に決定していくのがよいのではないか。そうすれば官僚も自分の給与が減らないように一生懸命にデフレ解消に向けて努力するだろう。等級間の格差は最後に決めればよい。

<格差是正>という感情論の餌食になりやすく、客観的な中身にも乏しいシステムよりは、よほどマシであろう。

2012年7月24日火曜日

昨日投稿の補足 ‐ デフレ停止の一案

物価下落から賃金低下という因果関係ではなく、名目賃金の切り下げによる販売価格引き下げという因果関係に着目するのであれば、<逆・所得政策>が有効だろう。

所得政策は、1970年代に大きな経済問題となった「スタッグフレーション」(=インフレ+失業率上昇)をいかにして終息させるかというときに、一部の経済学者が提唱したものだ。米国ニクソン政権でも試行されたこの政策は、しかし、見事に失敗した。というのは、当時のインフレは世界的な過剰流動性によるもので、賃金上昇はその結果だったからだ。賃金を抑えても、インフレの主因を絶たなければ、インフレは終息しない。逆に、不適切な所得政策が生活不安を招き、企業のインフレ利益を拡大し、アンフェアな経済状況をもたらすだけとなる。

現在の日本で進行しているデフレが、賃金引き下げと企業の安値競争から引き起こされている面が大きいのであれば、所得政策が有効だと考えるのがロジックだ。安値で輸入される海外製品に国内シェアを奪われる懸念もある。しかし、安値に対して安値で対抗しないという日本側の意志が明らかになれば、海外企業も高値で販売する方が得に決まっている。

不当な安値で市場奪取を仕掛けてくれば、公正取引委員会が<ダンピング摘発>を強化すればよい。政府・日銀は、何かと言えば、デフレ解決の妙案はないというが、デフレを停める方法はある。

2012年7月23日月曜日

賃金は上げるべきだ ー これがロジックか?

夏である。というには涼しい。いま22度である。ロンドン五輪、夏の甲子園が近づいているが、ピンとこない。また猛暑がやってくるのだろうか。

今日はビジネススクールの授業がある。実質的には最終回だ。次回は筆記試験をやって、それで夏季休暇に入る。とはいえ、最近は恒例の自己評価が複数種類あって、文書作成作業がやってくる ー もう誰も読まないであろう紙の浪費には違いなく、本気で文章を考えたのは高々三年くらいのものであったが。いまは役所仕事と化してしまった。これまた「パーキンソンの法則」を地でいっているわけだ。

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賃金 ー ただし名目賃金であって実質賃金ではない ー は上げるべきなのか?下げるべきなのか?

上の質問に真面目につきあおうと考える人は、(その人がいい人か意地悪な人かは全然別問題だが)経済学を全く勉強した事のない人である。というのは、ロジックとしては正解がないからだ。もらう側から言えば賃金は上げるべきだ。しかし、雇う側から言えば、下げる方がいいに決まっている。まあ、この社会には人を雇う側よりも、雇われる側の人数が多くいる。だから世論というか、声の数から言えば上げてほしいという人の方が多い。マスメディアは多数の声を支持するのが経営上の最適戦略だから、新聞には「賃金は上げるべきだ」という記事が出る結果となる。正解のないはずの問題に、あたかも「そうするのが正しいのに、なぜそうしない?」という記事を載せるわけなので、新聞が書く事は常に正しいとは言えない。新聞社の経営にとって正しい事を書くというべきであろう。

しかし、現在の日本の状況をどう見るという観点に立って、名目賃金を上げる方がうまく行くのか、下げる方が上手く行くのか?問題解決にはどちらが効率的なのか?こんな問いかけであれば論理的な答えはある。

橘木俊詔氏は経済学界ではビッグネームである。同氏が下のような意見を表明していると報道されても、驚く人はいない。
橘木俊詔・同志社大教授(労働経済学)の話 今の最低賃金の水準は低すぎて、とても生活が成りたたない。賃金が生活保護を下回っていると、働く意欲が失われかねず、一刻も早く是正されるべきだ。ただし、重要なのは生活保護の引き下げではなく、最低賃金のアップだ。経営側は、引き上げが企業を潰すと主張してきたが、従業員を養えない企業に存在意義があるのだろうか。また、被災地の企業には、別の枠組みでの支援が必要だろう。(出所:毎日新聞、7月22日)
そもそも労働市場で名目賃金が下がれば、
製品価格×限界生産力=名目賃金
という関係が経営最適化の条件になっていることを思い出せば、右辺が下がれば、左辺が下がる。だから雇用を増やして限界生産力を下げる余地が出てくる。生産性に固執しない余裕というべきか。もし雇用増加の動機が弱い場合は、販売価格を下げる誘因が働く。もしもリストラが進んでいて、限界生産力が上がっていれば、なおのこと激しく製品価格を下げて、売り上げ数量確保を狙う動機が強まる。こちらの方が近年の日本経済には関係が深いはずだ。もしもマネーサプライが過小でデフレ的政策が展開されているのであれば、価格低下→賃金低下という因果関係が作用するかもしれないが、現在の日本でそのような因果関係は絶たれている。とすれば、現状は賃金引き下げ→価格低下という因果関係に注意することが大事だ。

だから仕事の量はそのままにして、仕事の内容もそのままにして、支払い賃金だけは下げるという経営を容認するべきではない ー 従業員の雇用を守りたいという善なる動機があるにせよ、優越的な地位を濫用して賃下げを強要しているのかいずれであっても、である。つまり、考えている方向としては、小生は橘木氏の見方に賛成だ。

ただ橘木氏が述べている「従業員を養えない企業に存在意義はあるのだろうか」という箇所は多少の異論がないわけでもない。解雇をして利益が出るのであれば解雇をするべきである。生産縮小の必要性を市場が伝えているときに、仲間内の賃金を引き下げる事で生産数量だけを維持しても、それは価格引き下げ競争を激化させるだけの愚策であり、日本の長期的デフレは企業の日本的雇用死守政策から引き起こされている面が大きいからだ。下げるのではなく解雇をして、政府は新産業の拡大で失業者を吸収する。それが国内市場で困難なら、海外との連携、移民の促進、そのための語学研修・技術研修の強化を通じて国境を越えた就業の道を開いていく。それが本筋の労働政策であるはずだ。

× × ×

一口にいえば、<日本的雇用死守>を暗黙のうちにバックアップしてきたのは、日本政府である。政府は、<ワークシェアリング>と言えばいかにも理念の裏打ちがあるように聞こえるが、所得保障政策の民間委託と同じことを行ってきた。それによって、離職者の増加を抑え、財政負担の拡大を避ける誘惑に身をまかせてきた。構造変化をとめることで公的規制下にある規制産業の現状を守っている。非正規労働市場の拡大と待遇格差の拡大に目をつぶらざるをえなかったのは、そのしわ寄せである。海外投資の増加は、国内の利益機会が抑制されていることの結果である・・・まだまだ書けそうだ。


ジャパンマネーは、多くのジャパニーズの利益につながるように使うべきだろう。そのための方策を練るのがジャパニーズ・ガバンメントのはずだと、小生は思うが、必ずしもそうなってはいない。不思議だ。普通選挙と政党政治ではカネではなく、人数の多いほうの言い分が通るはずだ。にもかかわらず、より多数の日本人の利益に沿うはずの政策が実行されていない。むしろ多くの日本人が不利益をこうむる政策が採られることが多かった。ミステリーだ。


最終結果から逆に憶測すれば、日本では国民が全体として政策を決める仕掛けになっていない。だからこうなっているという「事後確率」が高い。たとえば政治活動に経費が必要な場合、資金調達力の違いから同じ政治家どうしで地位の上下が形成され、当選した議員の多くが一部政治家の意向に従うバイアスが生まれる。こういう政治プロセスモデルがあるかもしれない。また投票権を持っていないはずの大組織の意向が政治家の意見を左右しており、そのために普通選挙が正常に機能していないという政治的意思決定モデルがあるかもしれない。これらは、無論、小生にとっては憶測であり、仮説ですらもない。とまあ、確かにこういう推理はあるだろうなあ、ということだ。橘木氏はここまでは述べていないが、方向としてはこんな見方にもつながるかもしれないとは思っている。ただ上のようなモデルが仮に当てはまると仮定して、それは何かの制度的背景から合理的に生まれてきた病理なのか、日本のデモクラシーの未熟な本質を伝えるものなのか?そこまでは分からない。



2012年7月22日日曜日

日曜日の話し(7/22)

画家ゴッホはオランダ人だが、フランスに来てパリから南仏アルルに移り、その地で自分が描くべき画題を見出した。


Gogh, Irises, 1890
Source: WebMuseum

ゴッホが描いているのは青いアイリスだが、観る人が感じるのは花の美ではない。美しい花だなあと思いながら作品を鑑賞するわけではない。それなら写真のほうがよほどマシであろう。私たちが感動するのは、単なるアイリスという花を上のように表現できたゴッホの感性に対してである。誰でもが心の中に持っている花に対してもつ感情。その感情を目に見える作品として顕在化してくれている。だから立ち去り難いのだ、な。

セザンヌは南仏エクス・アン・プロヴァンスからパリに出るが、後年郷里に戻り、ずっとその地で生涯を送った。ゴッホ、というかその他にも数えきれないほどの表現派芸術家はいるが、セザンヌの作品からは揺れ動く精神上の不安を感じることはあまりない。というか、美のみを感じるのであって、画家セザンヌ本人の心の中に吹く風を感じることは(小生の感覚からは)全然ない。<美>は、真に美なる価値がそこに投影されているから<美>たりうるのであるという考え方が的をついているなら、セザンヌの作品の中に人間の心ではなく、どこかで完成された永遠なるものを見るような心地がするのは、まさにそういうものをセザンヌが求めた、ということだったのであろう。これは確かに<表現主義>の理念とは正反対の位置にセザンヌが立っているとも思われる。 中でも小生が好むのはセザンヌの静物である。「静物」とは、文字通りの静かなライフ(Still Life)であり、命がつきて、再び生命を吹き込まれるまでの間の静寂を指している。一つが以下の作品。


Cézanne, Stil Life with Skul, 1895-1900
Source: WebMuserm

もう一つは以下の作品だ。


Cézanne,  Le vase paillé, 1895
Source: WebMuseum

生きた存在であるのは林檎の方であり髑髏は既に死んだ存在である。しかしセザンヌの絵を観ていると、命のあるなしは既に問題にはなっておらず、存在というものを考える等しい眼差しがあるだけである。小生はそう感じるのだな。そこがいい。心の安らぎを覚えるのは、一睡の夢のような命を超えた<美>と言う真に存在するものを、あらゆるモノから等しく、一様に、統一的に感じ取ったセザンヌという画家の精神に共感を覚えるからだ。たとえそれが無意識の共感であるにせよ。

いま韓流の宮廷サスペンスドラマ「根の深い木」を観ている。何回目だったか面白いやりとりがあった。ハングルを創製した世宗と王に敵対する首謀者とのやりとりだったか。
「民に文字を教えて、その民が表現する楽しみを覚えたらどうなりますか?無学なものが無学なままに、書いて、伝えれば、世の中は混乱するでありましょう」
「それを混乱と言うのか?」
「秩序の崩壊です。文字を覚える過程で両班は必ず倫理の修養をします。そのための本を読みながら文字と倫理を並行して身に着けるのです。たった二日の勉強で、他人に伝えたいことを文字にできる。それが秩序の崩壊でなくしてなんでありましょう?」
「しかし、文字を簡単に使えるようになれば、知識も簡単に身につけることができる。そなたが言っておるのは両班が既得権益を手放したくないというそれだけではないのか?」
「民は文字を使って何を求めるとお考えになります?欲望です。無限の欲望です。民は欲望を満たすためにのみ、文字で知識を身につけることでございましょう。それをお許しになるのですか?」

本当に韓国人は理屈が好きだねえ。というか、一般に大陸諸国では洋の東西を問わず白熱した哲学論争を聴くのを好む点、古典として残っている多くの文学作品をみればわかる。

古代ギリシアでは人間を三つの部分から考えた。理知と感情と欲望である。欲望は常に理知に反しようとするが、怒りや情愛という感情が常に理知に味方する。ギリシア人はそう考えた。アングロサクソンから発した経済学では、人の利己心を前提する。別に善いこととして是認するのではない。人は欲望に駆られるものと認識するのだ。そう容認するとしても、人の欲望を他の人間の欲望と衝突させ、相互にバランスさせることによって、社会的には秩序を形成することができる。秩序をもたらすのは、統治者の理知ではなく、市場価格という匿名の、抵抗しがたい数字である。もはや統治者は人間ではないが故に抗いがたいのだ。これが自由市場の理論として、この200年間、世界に浸透してきた"Economics as a social science"、社会科学としての経済学であるわけだ。こういう社会観は、しかし社会を統治するのは理知であるべきであり、欲望を是認し、それを利用することによって政治を行うべきではない。欲望とは、倫理や宗教を通じて統制するべきなのである。こういう思想とは相対立する。歴史を通じて一貫して主流の考え方であったのは、むしろこちらの立場なのだな。

欲望の自然なバランスではなく、あくまでも理知によって社会を治めるべきであるとすれば、そのとき大衆が自らを自らによって治めるという道がありうるのかどうか。<デモクラシー>という社会のありかたと、欲望ではない<理知の尊重>とは両立できるものなのか?

「簡単に覚えられる文字を民に与えて、あとは勝手にやっていけと。殿下はそう言いたいのでありましょう。うまく行かなくとも、それはお前たちの責任だと。これほど無責任な政治がありましょうか?政治は責任です。知識のあるものが政治を担当し、失敗をすれば士大夫は責任をとれます。民が民自身を治めるのはよいが、もし失敗したら、誰が責任を取るのです。民がみんな死ねばいいとおっしゃるのですか?」
「お前はなぜ民を信頼できないのか?欲望を求めるとしてもよいではないか?」

いやあ、経済学から統計学に移民した小生にとっては、誠に知的興奮を感じるやりとりであった。そんな知的興奮を感じるやりとりは、もしセザンヌとゴッホが芸術論を闘わせていれば、そしてそれが文章になって残っていれば、これはこれで大したものであったに違いなく、やはり見落とすことのできない古典となっていただろう。

2012年7月20日金曜日

責任感より、将来不安が世を動かすとき

どこに分類されるかだけから言えば、小生はいわゆる<既得権益層>に所属しているのだろうとは思う。

年間収入は、同窓生に比べれば半分ほどである。が、しかし、それは仕事に制約される時間が半分しかないからでもある。昨日は、カミさんと一緒に朝から映画を観に行った。平日で地方の港町であるから、海を望む地区にあるシネマコンプレックスは、他に数人がいるだけだった。ランチをして、帰宅すると2時である。今日は、夕刻の4時から数理統計学の授業がある。昼前から研究室に行くと昼食を食べに出るのが面倒だ。「やっぱり食べてから行くか」と。気楽なものである。こんな風なのだから、毎日忙殺され、週末にも緊急招集がかかる旧友たちの半分しかカネをもらわなくとも文句はない。大学で暮らす人間は大なり小なり、似たような境遇である。

それでもリタイア後は、白老か洞爺湖の辺に隠宅を買って、いま暮らしている海辺の町と行ったり来たりするか、そんなことを考えている。薔薇でも育てながら隠居生活をおくり、たまには品評会に出品するのは悪くない。絵も描かないといけないし、リタイアしても結構忙しい・・・・・明らかに生活上の余裕がある。政府は、消費税率を引き上げようとしているが、それよりも本当は所得税を引き上げる、特に累進度を高めて、余裕のある世帯にはより多く課税する。本当は、その方がずっと公平である。資産課税も強化するべきだ。しかし、いくら「本当はその方がフェアで正しいやり方だ」と頭で考えるにしても、年金制度を国家直営のままで維持しながら、どこまで増加するかが分からない生活困窮者を余裕のある者たちが税で支える。それが聞こえはよいが公権力から強要されるとなると、「自分たちの家族はどうなるのか?」、そんな将来不安が先立つのは仕方のないことである。困っている人を助けて、私的な互助関係を築く方がまだマシである。

窮極的に言えば、国がなくとも、自分はいる。家族がいる。親族がいる。生き続けようと思う。日本国が崩壊しても、ここはどこかの領土にはなって、それでも我々人間は何とかして生きようと思うだろう。なくなるのは社会制度だけである。国家がなくなって身を切られるのは、自分の身体を考えるのと同じように日本を考えることができる立場の人たちである。それは、古くは王であったし、市民革命を経た国民国家では、国家は皆の共有財産だから、国民全体がそういう痛みを感じるはずだ。そういう話になるのだ、な。日本という国がなくなる場合、国を伝えてきた天皇家は悲しむだろうが、一般国民は、どうだろう?本当は<既得権益層>こそ、日本国の存続に誰よりも関心をもち、国益への感覚を磨かないと理屈に合わないのだが、必ずしもそうならないときもある。

実は、ヨーロッパ世界とドイツ国家。この関係について個々のドイツ人も迷いの心境にあるようだ。独誌"Die Zeit"に以下の記事がある。ドイツ連邦議会がスペイン救済を了承した点についてだ。
Merkel, die strategisch denkende Naturwissenschaftlerin, sollte aber vor allem folgendes beschäftigen: Der fehlende Zuspruch ihrer Abgeordneten begründet sich nicht in bösartiger Renitenz, sondern in einer massiven Verunsicherung. Die meisten Parlamentarier sind keine Finanzmarktexperten, haben sich mühsam in die Euro-Rettung eingelesen. Sie sind sich ihrer europapolitischen Verantwortung bewusst und daher in überwiegender Mehrheit aus dem Sommerurlaub zu dieser Sondersitzung angereist. Sie würden den Euro gerne retten, aber sie fühlen sich – wie auch schon vor den letzten Abstimmungen – völlig im Unklaren gelassen.
...Eine Frage beschäftigt die Republik seit Tagen: Haftet jetzt Spanien für einen möglichen Zahlungsausfall seiner Banken oder tut das Deutschland über seinen rund 30-prozentigen Haftungsanteil am Rettungsfonds EFSF? Gibt es womöglich Hintertüren, versteckte Klauseln in den Vertragswerken, die am Ende doch eine Vergemeinschaftung der Schulden in der Euro-Zone bewirken? Stimmen die Zahlen überhaupt? 
(Source: Die Zeit, 19.07.2012 - 20:26 Uhr)
ドイツの連邦議員はバカンスで旅先にあったのが、スペイン救済という重要案件がかかるから戻ってきたというのは、いかにもドイツの国情を伝えていて面白い。彼らもヨーロッパのために果たすべき政治的責任については自覚している。だからこそ休暇から戻ってきた。しかし彼らは金融財政のプロではない。メルケル首相が言うように義務があることは分かった。ユーロを守る責任があることも分かった。しかし五里霧中の中に放り込まれるような不安が先立つ。それは次の段落にある様に、ヨーロッパ全体の債務にドイツが共同責任を負わされてしまうような、何かの密約(Hintertür)が隠されているのではないか、そういう不安である。そもそもスペインを救うというが、数字のつじつまは合っているのか?あっているなら助けるが、もはや死に体であるなら一蓮托生は嫌だという不安である。

日本の社会保障制度は大丈夫なのか?困窮世帯はこれからどれだけ増えていくのか?解決可能であるのなら、日本国のためにひと肌ぬごう。ぬぐだけの余裕はある。義務があることも分かっている。しかし、どうやっても駄目なのだ。やりくりは出来ないのだ。そうであるならもう一蓮托生は嫌だ。国がつぶれるなら自分たちで生きていく方策を探す。不安が行動を決めていく点では見事に共通しているではないか。多くの人たちの義務感、責任感を現実に引き出すには、勝利への道筋、成功へのプラン、戦略的な議論を目の前でビジュアル化しないと駄目だ。日銀は市場との対話が下手であると何度も指摘されるが、政府もまた国民との対話が下手である。その下手が物事の停滞をもたらしている。「何が何だかわからないが、彼ならやってくれそうだ」、そんな訳のわからないビジュアル化がつまりはカリスマなのだろうが、これまた国民との対話の帰結の一つである。

2012年7月18日水曜日

官製「スケールメリットのおすすめ」をどう思う?

少し古いが本年6月20日の日経に『VWとアップルが変えた「経産省白書」』というコラム記事がある。政府が公表した「2012年版ものづくり白書」をそこでとりあげている。

ポイントは、日本の製造業の底力、<匠の技>、日本の技術力に自信を持ち続けてきた従来スタイルから、独フォルクスワーゲンと米アップルの経営スタイルを高く評価するという変化。日経はそこが面白いとしている。
製品の企画と開発に特化するアップルの経営モデルはもう有名なので省くが、VWと共通しているのは、設計の段階から車なら世界で数百万台規模、デジタル家電なら数億台規模で生産することを念頭に置く経営だ。世界経済をけん引する新興国ビジネスの要諦はとにかく「速く、安く」である。それを実現するにはつくり方を標準化しつつ、たくさん生産してコストを下げるに尽きる。(出所:2012年6月20日、日本経済新聞「ニュースこう読む」、中山淳史) 
この30年間、日本企業は顧客多様化に対応して、以前の標準規格・大量生産方式から多品種・少量生産方式へと生産管理スタイルを変えてきた。最近では顧客ごとのオーダーメイド製造方式を自社の強みと称するようなメーカーも現れているほどだ。

経済産業省も「それではいかん」と。「時代に合わん」と。そう言うようになった。

ただ官がいくら旗を振っても、この30年間進めてきた方向は間違っておった、逆方向へもう一遍戻れ、そう言われてもねえ、そんなところではないか。

それに<一点突破・全面展開>はリスクが高い。高度成長時代に大量生産方式で勝てたのは、日本がキャッチアップ途上にあったからだ。つまり現在の中国の立場と同じ立場で戦っていた。手本があった。だから一点集中でよかった。しかし今は違う。経営資源の集中投入が成功するには、チャンスを洞察して、天・人・時を手繰り寄せる経営トップの眼力が、最大のキーポイントとなる。<匠の技>ではない。<トップの天才>だ、勝利に不可欠なのは。人間の徳はともかく、才能に着目すれば、日本にも人材はいる。決して枯渇してはいないと見ている。しかし、それには会長、社長というか、欧米流にCEOと呼ぶ方が雰囲気が出るが、全責任を引き受けるだけの高い報酬と決定権限を日本企業、日本社会が容認しないと、人は出てこないだろう。高々1億円位の年棒で「私にやらせてください。責任はすべて引きうけます」、忠君愛国時代ならいざしらず、そんな人が湧くように続々と現れてくる理屈はない。変わり者しかいない、今の仕組みなら。リスクと責任に応じて、もっと所得分配に傾斜をつける。ズバリ<不平等>にする必要がある。でなければ、日本企業のイノベーションは生ぬるいペースでしか進まない。これだけは確実だ、な。 "The Winner Gets All"、この位の心意気でいかないと、大半の秀才取締役はリスクを回避しつつ、成功の分け前をのみ期待するフリーライダーになるだけである。

新井白石が自伝「折たく柴の記」の中で将軍家宣の述懐を記している。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才が薄い。まことに人を得るのは難しいものである』、天才的な勘定奉行である荻原重秀を弾劾する白石に対して徳川家宣はこんな風なことを言ったという。和を重視する日本的組織原理を維持する限り、似た者同士、相談をしながら合意を形成し、確実なところから攻める。それには顧客密着、シェア確保。働く分だけ職階アップ。いくら官が檄を飛ばしても、この行動パターンに本質的な変化はないと断言しておく。


社のあり方はトップが決める。そういう決め方にしようと決められるか。それを言わずして、ただVWやアップルを羨んでみてもねえ。そんな風に感じるのだ、な。大体、みんなで相談して「この分野は切り捨てて、この分野に全面集中しよう」と。そんな合意ができるはずはない。小生はそう思うのだが、どうだろう?

2012年7月16日月曜日

幸福度指標は世論調査よりはマシなのか?

第二次大戦後の経済政策の展開においてGDPという統計数字が果たしてきた役割は極めて大きい。戦前期の世界とは違う。いよいよ戦争となってから、ケインズが当時確立しつつあった国民所得統計に基づいて『戦費調達論(How to Pay for the War)』を書いたのは事実だが、全てのマクロ統計を整合的に推計する今日の国民経済計算体系(SNA)が整えられるようになったのは、時期を早めに設定するにしても1950年代以降、厳しく言えば1968年にSNA体系が国連から示されて以降のことである。

そのGDPは今は"Cold Number"と呼ばれるようになった。OECDは幸福度指数(≒Better Life Index)を作成するようになった。少し古くなったが英紙"The Guradian"のWEBサイトに以下のブログが掲載されている。

Better life: relaunching the happiness index

The OECD is relaunching its Better Life Index today - and has given us the key data behind it
• Get the data• Data journalism and data visualisations from the Guardian 
For an indicator we have to use all the time, GDP has very few friends. The idea of a single number to show a country's economic power came from US Nobel-prize winning economist Simon Kuznets - and that's what GDP is, a measure of economic output. 
What GDP misses is, arguably, more important than what it includes. 
Robert Kennedy argued that
the gross national product does not allow for the health of our children, the quality of their education or the joy of their play. It does not include the beauty of our poetry or the strength of our marriages, the intelligence of our public debate or the integrity of our public officials. It measures neither our wit nor our courage, neither our wisdom nor our learning, neither our compassion nor our devotion to our country, it measures everything in short, except that which makes life worthwhile
Even Kuznets agreed that "the welfare of a nation can scarcely be inferred from a measure of national income". 
This government - like many others - is keen to find new ways to compare nations, which is the motivation behind the moves to measure happiness and life satisfaction - and you can read more about these here. 
The Organisation for Economic Cooperation and Development - OECD - has been trying a new approach: asking people what they think is important, via its Better Life Index. (Source: The Guardian, 22 May 2012)
 OECDのオリジナルデータには日本の数字も含まれている。総括的要約をみると、
Japan performs favourably in several measures of well-being, and ranks close to the average or higher in several topics in the Better Life Index. .... In general, the Japanese are less satisfied with their lives than the OECD average, with 70% of people saying they have more positive experiences in an average day (feelings of rest, pride in accomplishment, enjoyment, etc) than negative ones (pain, worry, sadness, boredom, etc). This figure is lower than the OECD average of 72%.
幸福度指数には経済面や治安面、人生への満足感など幾つかの次元から抽出された数字が反映されるが、日本の特徴は上に記されているように"Life Satisfaction"(暮らしへの満足感)が低いところである。ただその他の次元において比較的高い数値を示しているので総合指数としては、日本人の幸福度指数はOECD平均と同じか、少し高いところにある。そうなっている。

ただ、以前の投稿でも紹介したように所謂<団塊の世代>は若かった昔からずっと暮らしへの満足感が他の世代に比べて低いという傾向が認められる。長寿社会・少子高齢化が進む中で、団塊の世代の特徴がより強く全体の数字に反映されるようになってきたという側面もある。"Life Satisfaction"の数字が低いという日本的特徴も年齢別に観察する必要があると考えられる。

× × ×

それはともかく、確かにGDP以外に多くの社会経済データがあり、それらは相互に相関しているが、完全に相関しているわけではなく、GDPに織り込まれていない、GDPとは独立の変動をする社会経済的次元が残されている。この点を否定する専門家はいないはずだ。特に統計学者なら「第1主成分の寄与率はせいぜい半分にも達しないでしょう」と、当たり前の表情をして断言するはずである。大体、金持ちの人が幸福で、貧しい人は不幸であると言えないことくらい、とっくの昔から分かっている事である。

しかし、カネがあるよりない方がいいですか?いまカネを使わないなら、いつか使えるようにとっておけばいいだろう。それが家族や地域社会に安心感をもたらし、その人たちに幸福感を提供できるのではないだろうか。日本人の不安、満足感のなさに、どこか欠乏している感覚、財政の将来不安がある、そんな側面も否定できないだろう。だとすると不安や欠乏感もつまりはカネの問題だ。カネの次元とは全く関係のない”純粋の幸せ感”とはどんな感覚なのだろう?

GDPは合計であって分配の是非はGDPから分からないともいう。しかし、こういう指摘には平等は不平等よりも良いという価値観が織り込まれているのだ、な。ならば問う。完全に平等な世界が最善なのか?それは唯一の独裁者に分配をゆだねる以外には実現できないはずだ。完全な平等が最善ではないとするならば、ではどの程度の不平等が最善なのか?それをあなたは知っているのか?全ての人が賛成するのか?要するに、論理的に解決不能な問題なのだ。所得分配は、資源の配分、技術革新の伝播など実体経済と裏腹の関係にある、その自然の流れをストップすることが正しいのか、善い事なのか?そういう風には、小生、どうしても思えないのだな ー もちろん、市場の独占的支配や交渉上優位な地位の濫用などフェアネスの問題は別にある、念のため。

確かにGDPは"Cold Number"である。GDPでは把握できない面が人間社会にはある。しかし、とらえられない面があるということと、とらえられない面をこそ優先するべきであるということとは違う。GDPとは関係のない側面をこそ注意しながら政府は<経済政策>を実行していかなければならない。それは、小生、かなり言い過ぎだと思いますな。カネとは関係のないスピリチュアルな次元は、実務家集団である政府ではなくて、癒しと信仰こそがふさわしい領域であろう。神にゆだねるべき救済といえる領分であろう。愛の役割であろう。正義が問題となる次元であろう。「信じるものは幸いなり」、懐疑と不信は欠乏感をもたらす。GDPより幸福のほうがなるほど重要だが、政府が幸福を増進できるかどうかとなると、小生、それは違うと思う。

人間、貧すれば鈍す。社会の閉塞は、要するにカネがなくなってきた、つまりはGDPが増えないことから発生している面が結構あるのじゃないか?善をなすにはカネがかかることが意外と多いのじゃないか。俗人集団である政府が解決できるのは、こういう俗な問題である。GDPと関係のない次元がどうなっているかを定期的に確かめることは、なるほど重要だ。内閣総理大臣たるもの世論調査くらいは時々は見てほしい。それと同じ程度には”純粋の幸せ感”なるもの、それもまた確かに重要だ。しかし、それが目的だ、政府は純粋な幸福を求めるべきだ。それを言っちゃあ政府もお困りでしょう。魂の救済を政府に求めても、声がかれて疲れるだけである。本日の結論はそういうことであります。


2012年7月15日日曜日

日曜日の話し(7/15)

先週は、勤務先が展開しているリクルート活動(=企業訪問)でナシオまで行ったり、札幌でヒアリングを行ったりで、結構時間をとられた。住んでいる所が海に近い港町だから、一回の外回りで半日以上はとられる。金額評価すれば2万円位を投入しているか。明日は海の記念日で授業がない。もしあれば大変だった。もし営業に時間をとられて授業の品質低下を招けば、外回りの営業コストは3万円に達するかもしれない。それに対して、志願者一人を発掘できたとして、一人につき授業料収入は在学期間合計で100万円である。その志願者一人が見つかる確率だが、営業50回に1回あればいいほうだ。とすれば、期待値は2万円。どうやら3万円を投入して2万円の収入を得る。そんな営業活動をやっているような気もする。

とはいっても関係者でなければ「そんなことはどこでも当たり前だ。贅沢言うんじゃない、愚痴をいうな」と、まあ、そんなところであろう。これまた組織重視=人間軽視という基本定理が当てはまる事例であろう。基本定理の系を書いておこう。人間重視=道理重視と言える。だから組織重視=道理軽視となる。道理軽視=理解軽視でもあるので、組織重視=理解軽視となる。これは、組織重視=命令重視という公理とも矛盾しない。

要は何が大事だと考えているかである。

× × ×

前の投稿でとりあげたクリムトもシーレも、第一次世界大戦前後、帝国末期のウィーン文化を象徴するような作品を残した。しかし、あれだな、同じ時代にフランスで生まれた絵画作品をみると、やはりオーストリアという国で育まれた文化そのものが、どこか閉塞状態にあったというか、一口に言えば「これを爛熟と言うのかなあ」と、そんな感懐を覚えるのだ。

同時代のフランス絵画を代表する人としてアンリ・マティスを挙げるのに反対する人はいないはずだ。マティスは1910年には既に有名な”ダンス”を制作している。


Matisse, Dance II, 1910

使っている色彩の数が極端に少ないことに驚くが、それぞれの色がピタリと決まり、これ以上に何を付け加える必要もないという点に更に吃驚する。クリムトの作品とは正反対であるが、20世紀芸術の新たな創造を可能にしたのは、(結果として)上の作品を作りえた感覚のほうである。ここの見方については、まず異論は出てこないと思うのだ、な。ある意味で、第一次世界大戦までのウィーン芸術は、ハプスブルグ王朝という基盤の上に形成された美的感覚が生んだものであり、であるが故に帝国の崩壊とともに芸術文化までもが更なる発展をやめてしまった。そんな風な所があると思うわけ。

オーストリアという敗戦国は、戦後混迷を続けたすえ1938年には独墺合邦(Anschluß)してしまうのであって、1918年には既に残骸国家になっていたわけだ。思うのだが、未来への成長を続けている国家は、たとえ軍事的に敗北しようとも、占領されようとも、必ずまた元に戻り、再び成長・発展を始める。もしそうならないとすれば、敗北する前から既にその国は死んでいたのだ、と。そう思ったりもするのだ、な。

フランスもオーストリアも新興プロシアと戦争をして敗れた点は共通しているが、仏・墺この二国、その後の歩みが全く異なってしまった。負けたことをきっかけにして、フランスでは無数の新しい芽が生まれ出た。新しいタイプの創造活動が、文字通りの巨大な津波となって押し寄せて、そのエネルギーがそのまま現代のフランス文化を作り出していった。そこじゃないかと思う、見ないといけないのは。

太平洋戦争に敗北して、日本はGHQ製の輸入憲法を受け入れ、戦前とはずいぶん国の形が違ってしまったが、それがこれだけの期間、国民の間に定着し平和裏に続いているということ自体、上のロジックからいえば、戦前期・明治体制は根無し草のような国家、というかどこかで既に枯れていた、まあ権力だけが素のままに動いていた骸骨国家であったのだろう、と。そうも言える気がする。夏目漱石は、作品『三四郎』の中で『(日本は)滅びるね』と、暗闇の牛たる先生に言わせている。さすがに漱石の社会眼は大変鋭かった、よくぞ言い切りました。そうも思うわけだ。

× × ×

マティスは元々はフォービズム(野獣派)の一人として活動を始めた。


Matisse, Portrait of Andre Derian, 1905
Source: Same as above

この人物はマティスの盟友であるアンドレ・ドラン( ANDRE DERAIN)のことか?ミスプリか?それとも別にDerian氏がいるのかな?ちょっと確認しないといけない。

シーレが第一次大戦中に前の投稿でとりあげた"Vier Bäume"を描いていた丁度その頃、マティスは下の作品を描いていた。


Matisse, Bathers on the River, 1917
Source: Same as above

芸術活動は美を追求するものだが、その美は自分とは関係のない<規範>としてあるのではなく、自分の心の中にある。自分の感情の中にある、その心の動きを他人の目に見える作品として表現するとき、その作品の中に他人は人の感情を感じ、思想を感じ、美を感じる。上の作品はそんな時代の理念をストレートに表現しているではないか。シーレとは別の意味で。

第一次世界大戦の犠牲者は、戦死者だけで1000万人、戦傷者が2000万人。行方不明者が800万人。人類にとっては文字通り<巨大>な災禍だった。上のマティスの作品は、そういう時代から今と言う時代に伝えられたメッセージである、というかあり続けている。帝国末期のウィーン芸術が作った美にそうしたメッセージはあるだろうか、むしろ最後に開いた花であった。これまた一つの見方かもしれない。大輪の花であった点は、ハイエクもシュンペーターもポランニーもそうだったわけだ。

2012年7月13日金曜日

バブルとその後始末が大難問になるのはおかしいじゃないか

ずっと以前、まだ日本の土地バブルが燃え盛っていた時代、某官庁の経済統計関係部局で仕事をしていたことがある。

保有資産の評価額が上がれば、購買力が増える。経済学ではそれを<キャピタルゲイン>と呼ぶ。地価の上昇で1980年代末には1年間の名目GDPを超えるほどのキャピタルゲインが全国で生まれていたように覚えている ― 敢えて数字を確認するほどのことでもないが。

クラブに所属していた某通信社の記者とこんな会話をしたことがある。
記者「キャピタルゲインで日本が潤っていると言っても、土地を買う人からみれば上がっているわけでしょ。持っている方のプラスと持ってない方のマイナスを合わせればプラマイ・チャラですよ。土地の面積は同じだもん!キャピタルゲインで日本の国富が増えたなんて、意味ないんじゃないですか?」
小生「その一定の土地が生み出すと期待されている国民所得がこれまでの予想より大幅に上がった。つまり国際社会で日本の国土が高く評価されるようになったのですよ。これは、やはり日本が金持ちになったってことでしょ?」
記者「日本を売るなんてしないわけよ。それでほんとに日本が得したわけ?」
小生「得ですよ。評価されないより、評価される方がいいに決まっているじゃないですか。」
記者「う~ん、とは言っても、家を買うのは、大体、日本人だからねえ、ほとんど。買う人にゃ困るんだよね。高い土地を買えるのは外資とかでしょ。これで日本は豊かになったってことになるの、ほんとに?そりゃあ、おかしいよ。」

キャピタルゲインの話は、土地だけではない。株もそうだった。株が上がれば持っている人は富裕になる。しかしこれから株を買おうと思っている人にとっては高値になる。そもそも株は証券であり、それ自体が何かの富ではない。その価値が上がるというのは、株に対応している企業という実態が利益を生み出す期待、配当の増加期待などがあるからだ。要するに、予想なのだな、株価を決めているのは。予想が評価額を決めているという点では土地もそうだ。

株価バブル、土地バブルの崩壊は、つまり<予想の崩壊>である。土地バブルが崩壊しても、土地の面積自体が減るわけではない。株価バブルが崩壊しても、家計・企業の実物資産が失われるわけではない。実質的には、何がどう増減したわけではなく、すべては予想の変化とそれに基づく金銭貸借の混乱。100%、ヒューマンな側面で混乱しているわけだ。そう割り切れば、割り切れなくもない。

× × ×

景気循環論という授業が経済学部には必ずあった ― 以前は「経済成長論」という授業科目もあった。景気には好況から不況へ移行する下方転換点と不況から好況へ移る上方転換点がある。供給ボトルネック、過小消費、利潤率の低下など理論的に説明が容易なのは下方転換点の方であって、不況がなぜ終わるのかについては、(今のところ)うまい説明がない。小生が聴講したのはそんな話であった。

今はマクロ経済の教え方が昔と様変わりになった。それでも、時々、バブル崩壊を放っておいたらどうだろうと思うこともある。人間の予想が崩壊しても、金銭貸借がきれいさっぱり踏み倒されてチャラになっても、それは元の状態に戻るだけで、実質的には何も貧困にはなっていない。ま、無駄な投資をして使わない施設ができてしまった。カネを借りてそのまま踏み倒した。モラル的な面で許されないことはある。それはあるだろうが、いまあるものは転用、流用すればいいでしょ!なくなるわけじゃない。それにバブルの恩恵は、大なり小なりみんな受けたわけだ。大体、<火事と喧嘩は江戸の華>と言うでしょ。焼けたほうがいいこともある。焼けてなくなるから、町の再建特需が出てくるってもんだ。たまには焼けないとね。いいことだって出来ねえよ。まあ、そういうロジックであって、これをシュンペーター流には<恐慌=浄化説>という。

収束プロセスで心配するべきは、金銭貸借不履行、賠償義務など財産権に関する裁判事務の効率だけである。裁判事務が十分効率的であれば、そもそも金融バブルとバブル崩壊を自然の流れにまかせても、国として、世界として困る問題ではない。これは余りにも乱暴なロジックだろうか?公的資金による銀行救済とか、救済するなら責任を追及せよとか、そこまで政治が経済の面倒をみないといけないか?どうせ見るなら全部見ろ。そういうことであります。素朴な疑問である。もしどんなに熱が出ても身体は大丈夫だと確かめられているなら、発熱は放っておいてよい、むしろ積極的に自然治癒にまかせたほうが良いに決まっている。発熱は身体の防衛反応なのだから。マクロ経済もそれと同じだ。これもまた米FED流の<後始末戦略>であるには違いない。

2012年7月11日水曜日

歴史の見方と皇位継承の関係

日本史を勉強すると多数の天皇の名前が一貫して出てくる。有名な存在は誰だろう?まずは後醍醐天皇は誰でも知っているか。明治天皇もそうだな。それから天智天皇とか天武天皇は?100%「覚えてます」とはいかんだろうねえ・・・

日本には天皇が飛鳥・奈良・京都にいて朝廷なるものをしいておったから、歴史の主要人物であり続けたのは当然でもある。しかし副作用もある。歴史の大きな進展を批判的にというか、「あれは間違いだったよね」という結論もあるかもしれないという視点で、振り返る事を難しくしている ー 多くの人は「そんなことはもうありませんよ」と言うだろうが、近世・近代が絡んでくると声高に常識を真っ向から否定する意見は述べにくいと(小生は)思いますなあ、いまでも。

現在の皇位継承範囲を広げるために、戦前の宮家で戦後皇籍を剥奪された家の末裔を皇族復帰させようという案が根強くある。表向きは何百年も遡らないと血縁関係はないのですと。そういう理由付けがされているのだが、それでも戦前は宮家で皇族だったのでしょう?そう聞かれれば、それは確かにそうなので、「そうですね」と認めるわけだ。憶測するのだが、これは歴史評価にも直結する事柄じゃな。戦前の伏見宮、閑院宮などなど、多くの人物が皇室の藩屏にならんとして軍を志し、軍内で実績を積み、皇族の立場で帝国陸海軍に隠然たる影響力を持ったのは周知のことだ。そして昭和天皇の意志に必ずしも沿わずして、軍の意向を正当化する役割を演じた。そういうこともあった。ま、はっきりいって、戦後に離脱した旧皇族を元の地位に戻すのは嫌だ。それが本音なんだろうねえ、そんな風に感じる事もないわけではない。第一、極右勢力にまた担がれるかもしれんし、ね。悪くすると国がひっくり返ってしまう。

そんな目で日本史を振り返ると、じゃあ明治天皇はどうなんだ、と。明治維新はどうなんだ、と。日清戦争は?日露戦争は?きりがないわけだな。小生は個人的には太平洋戦争に至る道は明治という時代、明治天皇の「治世」に根ざしていると思っているが、そんなことをアカラサマに論じる事が今の日本社会で、外国人ではなく、日本の学者に可能だろうか?容易だろうか?100%完全に賢明な統治をした時代など一つもないわけだ。そこを分類して批判する作業をしないといけないのだが、最初から明治維新は救国の大事業として不動の結論を定めていると、やりにくいわけだ。そしてそこには明治天皇崇拝感情が根っこにあり、やっぱり引いてしまうのじゃないかと思うのだ、な。その延長に太平洋戦争を終わらせた昭和天皇の苦悩と英断もまた尊重するべき民族的記憶と化している。これがいま日本人が合意している歴史評価であるし、これは一つの立場でしかないとも思うわけだ。

もし万が一、そんな歴史的発想も混じっていて、それが皇位継承論議に影響しているなら、これはいかにもまずいやり方だ。ま、そんなことは絶対にないとは思っているが。

中国では新王朝が旧王朝の歴史を編纂する方式を一貫してとっている。それも革命後おおむね100年程度が経過してから歴史評価をまとめ始めることが多かった。急いだ場合は改訂稿が編まれた。中国の前の支配者は清王朝で1911年の辛亥革命から100年がたったばかりだ。原稿としては既に1920年代に書き上がった『清史稿』、共産党政府、国民党系の台湾政府が編集した『清史』がある。ここ400年の中国の歴史をどうみるか。当の中国人もまだ決めかねているわけだが、ごく自然なことだと思う。日本の歴史も同じ事である。明治維新の評価は永久に決まっていると断定する必要はない。戦前期まで存在した旧宮家の歴史評価をいま決める必要は全くない。それは100年後の日本人に任せるべきであろう。

歴史評価は未解決で棚上げしたまま解決できるところから先に解決するのが合理的である。だとすれば、日本の歴史を通じてずっと皇族であった家門は、戦後の皇室宗家の民主化の流れと比較対照すれば、やはり事実として今でも皇族であると認識するのが合理的であろう。日本国憲法の改正問題もそうだが、日本では国の形を議論し始めると必ず天皇・皇室が関連してくる。歴史評価で激論になる。これは日本国にとっては非常に不幸なことである。その不幸のツケは日本の国民が払っていることを忘れるべきではないと思う。

2012年7月9日月曜日

人生 ー 再生の時なくして長寿社会は無理

白老の「海の別邸」に一泊してきた。カミさんのギックリ腰快気祝いと愚息が続けてきた某国家試験の受験勉強が一応終了し、マアある意味、区切りのタイミングになったので小生が発案したのだ。距離的には住んでいる街から大体150キロ弱、高速経由2時間ほどで着いた。


ホームページのURLに"kokorono-resort"の文字列があるだけに、館内にはドビュッシーやバロックのArieが流れていて、これぞ正真正銘の隠れ場である。大半の客は登別温泉に流れるから、かえってよいわけだ。広いラウンジの窓越しに暮れ行く海の景色を眺めながら、ボンヤリとコーヒーを飲んでいると、伸びきったゴムのようになった、浮き世の暮らしで泥まみれになった心が洗われて、またやっていこうかという気持ちが湧いてくるのが不思議である。



枯れ木のような、高さが3メートルくらいあるだろうか、奇妙なオブジェが二本直立している。下にプレートがあるので読むと、「再生・Rebirth」という題が制作者の名とともに記されている。Rebirthか、再生か、新生か・・・先日放映が終了したドラマ「ATARU」では"Reborn"であったなあ。死にかけた心に新生の息吹を吹き込んでやらずして、人生80年の長寿時代をどのようにして生きて、人生を全うすればよいのか。小生、最近、ほんとに仕事なるものに倦んだというか、必要不可欠でもなく、人に求められてもおらず、なかんずく役にも立たず儲け話しでもないような話しをして、話す対価にカネをもらって生を盗む。そんな風に生きる事は果たして<善>なのか?そんな問題提起を自らにしては解答を探しあぐねていた。<再生>の二文字、"Rebirth" という言葉には、まさに救済のメッセージをすら感じたのだった。

横にいた愚息を相手に話した。
お前も仕事を始めるとな、色々あると思うぞ。 よく「この道一筋」というだろ?芭蕉も「この道を 行く人なしに 秋の暮れ」とかさ、言っているだろ。それは人生50年の時代だな。芭蕉だって若い頃の仕事と、年とってからの生き様は違うんだよ。 
まして現代だ。これだけ変化が速くて、人との競争が激しくて、無常というか移ろいやすい世界でナ、この道一筋を貫くのはほとんど不可能さ。ストレスがそれを許さないよ。それが現代という時代だと乃公は思うなあ。再生、新生、Rebirthを 繰り返していかないと、とてももたん。弱いって事じゃないと思うよ。もうそれは、疲れ果てるのさ。 
乃公もそうだった。15年は役人生活を送ったけど、それから教える仕事をやった。まあそれは見ようによっては敵前逃亡みたいなものだったかもしれないけどナ、乃公は不器用だからねえ、そこが限界だったんだろうねえ。だけど今の仕事ももう20年だ。雑巾をしぼりつくしたようなもんだ。心の中に燃えている火が消えかかるのを放っておくと本当に消えてしまう。そういうものだと乃公は思うよ。 
ここは、そんな時、来るのにいいところだね。自分を焼き尽したい気持ちになるときは独りで来るといいのじゃないかナ。大体、身体というかな、自分の体、生命そのものからして、普段からの再生そのものだろ?古いものを捨てて、新しい自分をつくっているだろ?それをずっと繰り返しているだろ?心のRebirthは自分でやらないとネ。新しい心になっていかないとな。人生80年は無理だよ。再生を何度か繰り返さないと、80年走り続けるのはしんどいぞ。新しく生まれ変わりながら、乗り越えていくんだぞ。
そんな話しをしながら、海をみていた。


一晩あけた今日、帰る途中でポロトコタンに寄って、古式舞踊とムックリの演奏を聴いてから宅に帰った。


今週は授業、雑事が集中している。仕方がネエなあ。生きていくためだ、やるか。

2012年7月8日日曜日

日曜日の話し(7/8)

小生の旧友がカール・ポランニーの勉強会に参加していると知らせてきた。ポランニーといえば、クリムトを中心とした分離派装飾芸術によって、ウィーンに華やぎというか、倦怠というか、退廃というか、ハプスブルグ帝国末期特有のすえた香りが醸し出されていたはずの時代である。特に市場や資本主義のまやかし的本質をえぐりだした大物がポランニーである。同時代のウィーンからは、他に自由主義者ハイエク、創造的破壊で著名なシュンペーターが輩出した。『金融資本論』で有名なマルクス派・ヒルファーディングが活躍したのも同時代のオーストリアである。異なった分野に目を向けると、論理哲学のウィトゲンシュタインや科学哲学のエルンスト・マッハもいた。精神分析のフロイトもそうである。作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーは1911年に世を去っていた。

小生はどちらかと言えばあくの強い帝国末期のウィーン芸術よりも、まだフランス人の作品やドイツ表現主義を好む。しかし、もしも見れたら必ず見に行くという作品の一つはクリムトの下の作品だ。ギリシア人実業家がクリムトに制作注文して描かれた。


Klimt, Schubert am Klavier, 1899

この作品は、残念ながら第二次大戦最後の年である1945年に焼亡して、今はいかなる手段をもってしても実物を鑑賞することはできない。クリムトの色彩世界は、大体は美しい反面、むせ返るような衰退感と死の予感を伝えるものであるが、この作品は自然な清らかさが醸し出されていて、悲哀にも似た儚さを感じるのだな。ないのは残念だが好きな一品だ。

クリムトの弟子であるエゴン・シーレは次世代の若手であり、帝国崩壊前後のウィーンを象徴するような絵を描いている。シーレの多くは独特の人物像だが、ごく少数、自然を描いたものがある。


Egon Schiele, Vier Bäume, 1917

1917年といえばロシア革命が勃発し、第一次大戦・連合国側の大国ロシア帝国が倒壊した年である。この翌年、オーストリアは敗北しハプスブルグ王朝による統治は崩壊した。シーレはクリムトの弟子だったが、1918年に28歳で死んでいる。だから、シーレがみた世界は古い世界だけである。とはいえ、新世代ではあったが、実質は旧世代に属していたとは、上の作品を見る限りとても言えない。この作品を描き得た感覚は、伝統という規範をものともしない、100%完全な表現主義そのもののスピリットだ。

第一次世界大戦で戦死したアウグスト・マッケが"Der Blaue Reiter"に寄稿して書いている。
生命は食物以上のものであり、身体は、衣服以上のものではないか。
捉えがたい思想が、具体的に捉えられるフォルムであらわされる。星、雷、花として、フォルムとして、私たちの感覚によって捉えられる。(出所: カンディンスキー・マルク編(岡田素之・相澤正己訳)「青騎士」、42ページから引用)
目に見えている対象を描くのが絵ではない。それを見て何を思うか、その感情を表現する一つのツールが絵である。そんな思想が伝わってくる作品ではないか。まあ、芸術はすべて自分の感情を伝えるツールであり、その成果なのだから、いまの感覚から言えば当たり前のように思うが、そこは帝国末期のウィーンに生きた次世代だけあって、時代の一歩先を歩いてしまったのだろう。人間の喜びや苦悩が作品の背後にないもの、空虚で世界がそこにないものは、また芸術でもない。そんなことが記されている。

現代日本は、中学校2年の生徒が、自殺の練習を強制されたうえで、自殺をする時代である。中学生の行動は成人社会を動かしているホンネ・ベースの価値観をうつす鏡である。太平洋戦争で特攻作戦を実行した日本人の精神は何も変わってはいない。人間が大事にされない国家と時代の象徴だ。そんな時代の中でどんな悩みがあるのか、どんな喜びがあるのか、自由に表現をさせてあげれば、ビジネス志向、人気志向のいまの日本でも新しい芸術が花開くはずだ。それをしない。止める。避ける。抑える。指導に執着する。執着してもうまく行かないから形だけの社会になる。生を抑圧するものは、いつの世でも<全体の枠組み>であり、指導であり、矯正の精神である。民主主義社会においても無自覚な抑圧がある。一人の人間の生よりも多数の人間の合意を尊重する価値観。デモクラシー・民主主義という理念に含まれるこの密やかな毒のような非モラル性・非人間性を小生は甚だしく嫌悪する。

<組織重視=人間軽視>は永遠に真なる基本定理であると小生は思っている。




2012年7月7日土曜日

なじみ深い問題 ー 家門の継承

日経新聞の連続小説のタイトルは今は「黒書院の六兵衛」で今日が第54回。浅田次郎の作である。幕末、将軍の御側近くで護衛の任に当たる書院番士である旗本・的矢六兵衛が、実は借金苦から旗本株を金に換えて身を隠した前の当主の入れ替わりであるという話しにさしかかっている。

家門を継承し発展させていくのは、結構、大変な事業であり、日本人は跡目争いというものに興味を刺激される傾向をもっている ー というか血統に関心をもつのは(たとえゴシップ的興味にすぎないにしても)世界共通の現象であろう。新しくはダイエーを創業した中内家の没落が世の注目の的になった。古くは天皇家の皇位継承争い。

本日の朝刊に女性宮家創設につき二案が両論併記される方向になったとのこと。一案は三人いる内親王に限り宮家を一代限りで創設し、子は皇位継承権をもたないというもの。もう一案は、宮家は創らず、結婚による皇籍離脱の後も内親王の称号を使用させるというもの。この案については更に他の宮家の女王にも称号の使用継続を認めるかどうか、検討される見込みだ。

どちらにしても皇位継承権を新たに取得する人物は現れない。ここがミソである、な。ここを論ずると、議論が対立してまとまらない。そう踏んだのだろう。

しかし、意味がないよね。誰しもそう思うのではないか。次世代の男子継承者が悠仁親王ただ一人である点が懸念されていて、だから検討されている事柄であるのに、皇位継承者を増やさないという解決のしかたがあるものか。無意味である。単に女性に称号を与え、一生皇族として働かせる名分を作っているだけである。内親王は行動の自由を奪われるだけである。文字通りの<ご都合主義>。どこに生まれるかは運命が決めるが、それにしても悲惨ですな、こりゃ。

五代将軍徳川綱吉は子に恵まれなかったので、紀州藩に嫁がせた娘・鶴姫の夫である徳川綱教を次期将軍にしようとした。子ではない娘婿である。その時、綱吉には若くして世を去った実兄・綱重の遺子である甲府宰相綱豊がいたにもかかわらずである。これには流石に水戸藩のご隠居である徳川光圀が反対したという。それはそうだろう。血のつながりの濃さによって継承していくのが<世襲>というシステムの本質なのだから。しかし、もしこれが、娘・鶴姫の子であったら水戸黄門も反対しきれなかったのではないか。これが<女系将軍>というものだ。結果としては、肝心の紀州藩主綱教が死んでしまい、兄の子である甥が六代将軍家宣になるのだが、こうしてみると幕府内に<女系将軍>が後を継ぐという事態にそれほどの拒絶感はなかったのではないか。そう思わせる逸話であろう。

確かに江戸幕府は本家と血のつながりが薄く、単に能力があるという理由で徳川慶喜が本家を継いだ時点で、実質的には滅んだと語る向きが多い。正統は確かに大事だ。しかし家門の継承をはかるには、絶えないように工夫をこらして、広く認めておかないと、いつか絶えるのが確実である。




2012年7月6日金曜日

中身のない(?)欧州銀行同盟と先ゆき不安

ロイターが以下の報道をしている。
[ベルリン 5日 ロイター] ドイツIFO経済研究所所長ら150人を超えるエコノミストは5日、メルケル首相が欧州連合(EU)首脳会議で合意した銀行同盟計画に反対するよう、有権者は議員に働きかけるべきとの見解を示した。
ここでいうドイツ国内の指導的経済学者の提言については、独紙Frankfurter Allgemeine Zeitungが、次のようにまとめている。 

Ökonomen: Gewinner sind die Banken, Verlierer die Steuerzahler

Führende deutsche Ökonomen hatten zuvor in einem offenen Brief an die „lieben Mitbürger“ gewarnt: Mit den jüngsten Gipfelbeschlüssen zur Haftungsunion werde nicht der Euro gerettet. Vielmehr würden sie den Gläubigern der Krisenbanken helfen, schreiben die Ökonomen. Das sei der falsche Weg: „Banken müssen scheitern dürfen.“ Von den Gipfelbeschlüssen profitierten daher Investoren an Finanzplätzen wie der Wall Street oder der Londoner City sowie marode Banken. Die Wirtschaftsprofessoren um Ifo-Chef Hans-Werner Sinn und den Dortmunder Wirtschaftsstatistiker Walter Krämer riefen die Bevölkerung auf, die aus ihrer Sicht falschen Beschlüsse nicht mitzutragen, da deutsche Steuerzahler sonst für ausländische Banken mithaften müssten. (Source: F.A.Z., 2012, July, 05)
 欧州銀行同盟で救済されるのは、ユーロではなく、銀行に投資をした投資家である。ブリュッセル主導(=EU)でまとめられたこの構想は、外国の銀行が有する支払債務を、ドイツの納税者に共に負担させるものである。ドイツ国民は、自分が間違っていると考える政策を決して容認しないよう、ここに呼びかけるものである。まあ、こういう提言を経済学者たちが共同でしたわけだ。文中のHans-Werner SinnとWalter Krämerは経済学者としては相当の大物だ(日本の竹中平蔵氏よりもずっと重量級である)。よって彼らの呼びかけはドイツ国内で相当の影響を与えることは間違いないと予想する。

他方、政府側は次のように反駁している。まずメルケル首相。
Angela Merkel ist der Kritik von Ökonomen an den jüngsten EU-Beschlüssen zur Lösung der Schuldenkrise entgegengetreten. „Es geht hier überhaupt nicht um irgendwelche zusätzlichen Haftungen“, sagte Merkel am Donnerstag in Berlin. Daher sollte sich jeder die Beschlüsse „wirklich gut anschauen und dann auch das berichten, was in diesen Beschlüssen steht“.
誰かが更なる負担をするという話ではない。今回の決定は誰しもが「良し」と認めるべき内容だ。そう言っている。更に、レスラー経済相は次のように補足している。
Auch Bundeswirtschaftsminister Philipp Rösler (FDP) verteidigte die EU-Beschlüsse gegen die Kritik. „Die Ökonomen kritisieren mit der Bankenunion etwas, das es noch gar nicht gibt“, sagte Rösler der F.A.Z. in Freiburg. Erst müsse es eine europäische Bankenaufsicht geben. Dann müssten klare Möglichkeiten für eine Restrukturierung angeschlagener Banken geschaffen werden. Erst dann griffen die Beschlüsse, dass der ESM Banken direkt rekapitalisieren dürfe. Allerdings wird schon jetzt Spanien für seine Banken Geld aus dem ESM erhalten. Eine Bankenunion mit einer Vergemeinschaftung von Haftung lehne er ab, sagte Rösler.
 今回の決定は、まず第一に欧州金融機関の監査をしっかりとやる。それに引っかかった銀行は経営再建(=リストラ)を進めることを確約させる、それからESM(=European Stability Mechanism:欧州安定機構)から公的資本を入れる、これはスペインの銀行に対して既にやっていることだ。今回の決定はそういう道筋を示すものだ。欧州の銀行の支払い責任を共同で負うという話ではないと言明しておく。だから(最初の下りに戻って)反対の提言をした経済学者達は、ありもしない事柄に反対しているのだ。ま、こう言っている。何だか外国で約束してきたことが国内で騒動になって、「いや、そうじゃないんだ」と火消しに躍起になっている図に非常に似ておる。

そもそも経営破たんした銀行救済策は、日本でもアメリカでもそうだが、甚だ筋が悪い。国民が反対するのは当たり前である。ましてドイツ国外の銀行の経営失敗を、ドイツ人が自分のカネで救済するとなれば、ドイツの経済学者でなくとも(日本人であっても)「そりゃあ、おかしいよ」と言うのが当然だ。

しかし、欧州内の<資金偏在>が解決を要する経済問題であることは、ドイツの経済学者も認めるはずである。では定石はあるのか?財政統合と地域間財政移転システムの構築が本筋であることに反対する人はいないだろう。しかし、それには欧州財務省の設立が必要だ。とすれば欧州財務長官が任命されるだろう。誰が任命するのか?更には<域内個別国内税>とは別の<欧州税>が認められなければ、すべては<絵に描いた餅>である。まあ率直に言って『日暮れて道遠し』じゃな。欧州政治の遅々とした歩みは、欧州経済の地盤沈下に追いつくことができずじまいで、すべてが終わる可能性が高いと(いまは)見ておく。

2012年7月4日水曜日

中国、欧州経済 ー まあ、こんなところか

本日の日経朝刊・国際面に以下の記事が掲載されていた。
中国人民銀行(中央銀行)の胡暁煉副総裁は香港での記者会見で「中国の資本勘定の自由化はおよそ75%進んだ」と指摘した。人民元の自由交換を意味する、資本自由化に向けた残りの25%は「債務に関する部分とデリバティブなど金融取引に関する部分だ」と述べた。 
そこで、中国政府が広東省深セン市の前海地区に設置を認めた金融を中心とする「実験地区」が注目される。胡副総裁も「前海地区の金融機関による人民元の対外融資」や香港を含む「域外からの前海地区の企業への融資」などを例に挙げた。もっとも「考慮し認可することも可能」「前海地区で実施することも可能」など言い回しは慎重。実現の可否や時期については明言しなかった。

(香港=川瀬憲司)
 対外投資をする時には為替レートが固定化されている方がリスクが小さい。19世紀の経済グローバル化を金本位制が支えていたのは当然のロジックである。が、今は変動相場制である。ヘッジをかけずに対外投資をするのは危険である。だから金融先物取引、オプション取引などの金融派生商品が発展してきた。そのデリバティブ取引が規制されている限り、人民元を含む複数通貨が関係する対外取引は肝心なところで規制されていると見てよい。

中国経済も無限の余剰労働力を活用したテイクオフ段階ではもはやない。ヨーロッパ経済は周知のとおりだ。アメリカ経済はある程度安定するだろうが、日本経済もどうなるか分からない。加えて、今後、労働市場の需給に応じて中国の国内賃金が決まってくるとすれば、為替相場は変動相場制に移行しておくのが中国国内の経済安定化には寄与するはずだ。それは中国の政策当局も分かっているが、金融市場メカニズムは本当に信頼できるのか?危ない・・・そんな言い方である。

ドイツでは金融取引税導入のたたき台が与党内で議論されている。そもそも野党が言い出したことであるし、フランスは社会党政権になった。詰めるべき個所はまだ残っているが、導入される可能性は高いとみている。ギリシア、スペイン、イタリアもずっと後を引きずる問題だが、金融取引税は世界経済の潮流を変えるモメントになるだろう。もし、実施されれば、だが。

そのヨーロッパ経済だが、日経と提携しているのだろうFTの報道が紹介されている。
欧州中央銀行(ECB)は今週の理事会で政策金利を引き下げると予想される。ユーロ圏の失業率が過去最悪となり景況感も低水準になったため経済を活性化する狙いだ。先週の欧州連合(EU)首脳会議で、中央銀行として銀行監督の役割を果たすべきだと合意。ECBのユーロ圏の債務危機脱出を助ける役割が再び注目されている。

今週、ECBが低金利融資や債券買い入れなど銀行や政府に追加的な直接支援をすると予想するアナリストはほとんどいない。だが市場は、ECBが初めて政策金利を1%未満に引き下げると見る。この措置は中央銀行の融資に依存するユーロ圏の銀行を支援する手立てとなる。

INGグループのシニアエコノミスト、カールステン・ブルゼスキ氏は2日の調査リポートで「0.25%の利下げはほぼ織り込み済み」と指摘した。一部エコノミストは0.5%の利下げを検討するとみる。

EU統計局は2日、ユーロ圏の5月の失業率が11.1%に達し、ユーロ発足以来最悪になったと発表した。ブルゼスキ氏は、失業率が低いドイツを除き「ユーロ圏諸国すべてで景況感が過去の平均値をはるかに下回っている」と指摘する。ユーロ圏の製造業購買担当者景気指数(PMI)は、景況感の分かれ目となる50を11カ月連続で下回る。ブルゼスキ氏は「ユーロ圏のリセッション(景気後退)入りが間もなく正式に発表される」とみる。

ECBが政策金利を据え置くと予想するエコノミストも一部いる。ECB理事会が預金金利見直しを検討する可能性は高い。ECBは2009年と10年のほとんどの期間、政策金利を1%に据え置いてきた。後に「出口戦略」で引き上げたが、再び1%に引き下げた。この時、期間3年の前例のない低利資金供給を発表した。

(3日付)

=英フィナンシャル・タイムズ紙特約
ECBといえば、昨夏、まだ経済回復軌道に不安が残るのに、金利を引き上げたことが思い出される。思えば、ソブリン危機の激動はそれからであった。昨年の秋には小生もECBの政策ミスだと悪態をついた。 やっと現実が分かってきたのネ・・・まあ、そんな気配だが、それでも上の記事の最後に付け加えられているように、金利据え置きを予想するエコノミストもいるというから驚きじゃな。金利引き下げの必要なしという見解がECB内部にあるわけだ。


何事も「できる」理由があるし、「できない」理由もある。そうそう、韓流ドラマ「張禧嬪(チャン ヒビン)」を録画しては楽しんでいるのだが、気の利いた科白があった。粛宗国王が正室・仁顕(イニョン)王后に言った言葉であったな。
できない理由もあれば、できる理由もあろう。そなたはいつも出来ない理由ばかりを余に伝える。そなたは「それは嫌です」と言わず、「それは間違っております」といつもいう。なぜ「それは嫌です」と、そう余に言わないのか?
ドイツ経済は好調だから、ドイツの観点から言えば、金利引き下げの必要はあまりない。むしろ物価が心配であろう。「それはドイツにとって困る」と言えばいいものを、「それは政策として適切ではない」という。

ドイツ人ゲーテは、イギリス人について以下のような論評をしている。
ドイツ人が哲学上の問題の解決に悩みぬいている間に、イギリス人の方は、その偉大な実践的知性を発揮して、われわれを嘲笑しながら世界を征服している。奴隷売買に反対するイギリス人の長広舌はみんなも知っている ・・・我々をたぶらかそうとしているが、今や、その真の動機が現実的な目的の方にあるということは明らかだよ。(出所:エッカーマン「ゲーテとの対話」(中)、137ページ)
南ヨーロッパが、適切な財政政策とは何かを解決するために悩みぬいている間に、ドイツ人はその勤勉と企業家精神を発揮して、世界市場で高いシェアを奪うことに成功した。金利引き下げとリフレーションに反対するドイツ人の長広舌はみんな知っている・・・・我々をたぶらかそうとしているが、今やその真の動機が(ドイツ人の)現実的な目的の方にあるということは明らかだよ。

フランスやイタリア・スペインのゲーテがいれば、おそらく上のような見解を述べることでありましょう。


2012年7月3日火曜日

ぶれないことが最も大事なことなのか?

今日はエッセー、というより雑談に類することを書きとめておきたい。

小生の同僚の母上は、野田現総理のファンであるそうな、というよりか「あのぶれない所が総理らしくて、信頼できる」と評している由。

「ぶれない」ということは、洋の東西を問わず、大変重要な徳性であると思われている。確かに、危機に瀕すれば瀕するほど、絶体絶命に陥れば陥るほど、指導者がかざす目標こそが死守するべき価値となり、それが<下々の人>を鼓舞する。そんな目標はあってほしいものだ。まさに「親の屍を越えてでも」目標達成に力を尽くす。弔いは勝利の後だ。生まれてきた甲斐があるというものじゃないか。真の指導者が人々に真にやるべき事を与える。そうすれば団結心も醸し出されてくるものだ。人は誰か偉大な人物に直に命令されたいものである。この辺の状況は、たとえば塩野七生女史が「ローマ人の物語」(Ⅳ・Ⅴ)で古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーの人物像を活写している。「指導力」とは何なのかを考える良い材料になるだろう。とにかく、シーザーという男、やはり「ぶれない」のだな。そこが歴史的に稀有なほどのリーダーであった所以だ。もちろん女史本人も古代の人物を知っているはずがなく、胸中のイメージが作品の中のシーザーに投影されているわけだ。とはいえ、ぶれないシーザーは自己の意志を貫き、共和制末期のローマを内戦状態に陥れ、それに勝利したらしたで独裁者を目指しているとの疑いから自らは共和制支持者によって暗殺された。彼の甥が後継者になり最終戦争に勝ちぬき、帝政への移行を実現し、国に最終的平和をもたらしえたのは、多分に偶然によるところが大きいと思う。

大震災前から「危ない」という声が一部関係者にあったと言われている東京電力福島第一原発。「福島第一は危ない」説と、それに対する経営陣の姿勢はどうであったのか。そんな指摘に勇気と方向感覚を失うことなく、同社は一貫して立派な仕事をしていると。安全性について誇りを持てと叱咤激励し、社員から不安をなくし、士気高揚に努めていたのだろうか。だとすると、そうした指導者像はぶれない指導者として内部から求められていたことなのか?う~ん、もし小生が同じ立場であったらどうしたろうか。思わず考えあぐねてしまうのが偽らざる思いだ。

ま、どちらにせよ、いまとなっては問題提起すら無意味なほどの愚問になってしまったことが限りなく悲しい。「正攻法で行こう」と言い、それより先に敵機が来襲して、<負けるべくして>負けてしまったミッドウェー海戦を思い起こさせる。負けるべくして負けたのではなく、<不運にも>という形容句がより適切なのだろうか?

× × ×

言いたいことは、よき指導者でありたいと願っていることは、誰であれ変わりがあろうはずはない。迷わず、ぶれず、確固たる姿勢を仲間に見せることが、トップにとって大事であることも分かっている。が、その一方で、危機が近づきつつあるという情報に接すれば、そこで方針転換を即座に打ち出し、危機対応の指示を出すのもまた指導者がするべきことである。

「これで大丈夫だ」、「危機は来ない」と言いつつも、実際に危機がやってくれば、それは誤算であったわけだから、それまでに言ってきたことは間違っていたことになる。そこなのだ、な。歴史の分岐点は。

いま何をなすのが最も合理的か?頭の良い人間であれば正解を出せる。しかし1年後において、予想と現実は違う。その違いが<想定外>であれば、前提が崩れた以上、1年前に下した意思決定は撤回するのが賢明だ。そこで当初の計画に固執するのは頑迷であり、愚かである。しかしながら、賢明な人、利発な人が、多数から尊敬されるわけではない。尊敬なくして指導者が指導者であり続けるのは困難だ。だから指導者は往々にして情報を軽視する。結果として賭けに出る。それが的中すればよいが、間違えれば人災になる。真の指導者であれば、勇気もあるはずであり、<撤退>に迷うはずはない。この合理的判断をためらわせる要素が何なのか、正直、よく分からない。

単に「ぶれない」だけでは非知性的蛮勇と同じになる。昨日まで言ってきたこと、やってきたことを、今日もまた決然とやる。それだけなのじゃないか?これでは余りに非知性的であろう。小生の希望は、即断即決でなくとも、ぶれてもいいので、指導層には<知性>のある<賢明>な人物が多くいてほしいということだ。

昨晩、授業が終わってから、高速バスの車中でこんなことを色々と思いながら、家路を急いだ。


2012年7月1日日曜日

日曜日の話し(7/1)

いつの間にか今年も7月だ。あと半年の今年かな。北海道の夏は短い。昨日は30度の真夏日だったが、お盆の頃には秋風が吹く。コスモスの蕾も大分大きくなってきた。

前の投稿ではノルデをとりあげたが、彼はドイツ表現派でもBrueckeに入っていた。振り返ると、ブリュッケや青騎士など、ドイツ派の芸術家を多くとりあげてきたようだ。ブログというのは、何年も短文を積み重ねることで、自分が本当に好んでいるもの、本当にしたいと願っていることを再発見する。そんな所に効き目があるのかもしれん、ね。


Klee, Outburst of Fear, 1939

上の作品が描かれた1939年といえば第二次世界大戦が始まった年である。この年の9月1日、ドイツはポーランド侵攻を開始した。確かにポーランドはフランス、イギリスと相互条約を結んでいたが、ドイツ政府は英仏が戦争に踏み切るとは考えていなかった。現実の歴史は、<誤算>が<誤算>を生むことで進む。一度発生した想定路線からの離脱は、離脱が離脱を生み、稀に、偶然に、再び元の路線に復したとしても、もはや元の世界ではない。日本国民が原発再稼働を容認するとしても、もう元には戻れない。それと同じだ。だとすると、今という時点から20年後の世界を展望することはできんね。世界は<非エルゴード的>である所以だ。

それともあるべき<均衡点>というのが、その時代、その時代に最初からあって、戦争や内乱はその均衡点に向かうまでの調整プロセスであるのか?どうも議論が難しくなりそうだ。また別の日にしよう。

上の作品もそうだが、それにしても日本人はとてもパウル・クレーが好きだ。日本パウル・クレー協会もあって、会費を払って活動を支えている人もいる。モネやルノワール、ゴッホといった印象派が好みだと言われるが、一般的な人気はそうであっても、是非手元に置きたいという程ののめり込みから言えば、必ずしもそうでもないようだ。「ゴッホ協会」や「セザンヌ・ファンクラブ」は、小生の知る限りでは、あると聞いたことはない。