2012年7月28日土曜日

原発比率 ― 決めても空手形になることは決めない方がよい

エネルギーに占める原発比率をゼロにするべきだというデモンストレーションが官邸を取り巻くようになった。「たかが電気」の発言で有名になったミュージシャンの坂本龍一も脱原発支持である。いま脱原発を唱えることは良識派のシンボルなのだろう。

再生エネルギーで全てのエネルギーを賄おうとすれば、大変な広さの土地面積がいる、と。そんな数字を紹介すると「原発比15%に誘導している気がする」とクレームがつく。全く、ヤレヤレである。だから需要供給のことは市場に委ねればよいのであって、その選択肢を削るべきではなかった。これでは道理に基づいた議論はできぬわ。担当者は職場に戻ってボヤイていることであろう。問答無用の勢いで「そうしてよ!なぜ駄目なの!!」、と言い募られているようでもあろう。

社会は、自分たちの声で変えられるという意識は、民主主義にとても大事である。しかし、自分の考えに沿って社会を変える事ができたという人がもしこの世にいたとすれば、時空を超えて小生の眼前に蘇ってほしいものである。事前に意図した通りに社会を変革することができた人間・人間集団は、歴史を通して、いない。自信をもって断言できる。変革が成功したかに見えるが故に、それが成功するが故に、当初の理念とは無縁の人たちが混入し、いつの間にか別の人間が別の意図をもって社会を動かすようになるのが常である。だから社会の運行は原理的に予測不可能である。

何か決めても、必ずその決定は空手形になる。社会のことは全てそうしたものではないか?そしてそうあるべきなのではないか?

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小生の祖父母はみんな長命した。明治の人である。仕事でもかなり成功した。父は大正15年の人であり、母は昭和4年だった。軍事教練や勤労奉仕を経験した戦中派である。父の職業生活は戦後に始まり、高度成長時代とオーバーラップしている。中年までは成長の果実を満喫したが、1970年代の世界的経済調整の荒波に揉まれた頃、ちょうど責任ある年齢にさしかかっていた。勤務先の新戦略に携わることになったが、時機が悪く失敗に終わり、病を得て、50代半ばで世を去った。戦争では死なずにすんだが、経済戦争で討ち死を遂げた。母も父の死後10年程して他界した。二人ともこの長寿社会の中では短命である。それでも小生が成人するまでは両親の暖かい庇護の下にあった。

小生は、最初の20年は苦労を知らずに成長し、次の20年では役人稼業に就くが父と母を失った。その次の20年は北海道で統計を教えてきた。大病もせず平和な暮らしを続けている、というより、こんな風にして20年を全うできるような気がする。小生は、平均寿命よりも長生きする意志は毛頭ない。とすれば、最後の20年をどうやって生きるか、今はそれを考えている。

自分の生を超えて何か永遠なるものと同一化して死にたい。これは普遍的な意識だろう。神の意識もこの辺の心情から発するのかもしれない。永遠なる存在・・・たとえば<父系の家>なるものはその一つだったろう。しかし、父系の家制度が形成されたのは、日本でもせいぜい平安時代以降だと言う。いま暮らしている北海道では<父系の家>なる実態はもはや微塵もなく、むしろ周囲の知人をみると<母系の繋がり>が生き生きと働いているようである。家だけではない。地域社会も会社も、すべて社会的な組織や制度は、永遠の実態ではありえないのだ、な。すべては風化して無くなるものである。真に永遠なる存在は<自然>の他に何かありうるだろうか。

昔の武芸者のようだが「天地と一つ」、その心境にたどりつきたいものだ。自然と社会というけれど、社会もまた<自然現象>の一部として観察しようと思い定めたい。そんな意識で終盤の20年を送りたいと考えているのだ。だからいま暮らしている町から、雪の少ない白老か伊達辺で、命を育てる活動にあたりたいと計画している。

市内廃線跡地

白老、ポロトコタン

天と地は、小生の父と母にとっては、甚だ過酷だったような気がする。反対に、小生には(今までは幸いにして)優しく接してくれたような気がする。気障ったらしいが、自然に感謝の気持ちを伝える何かをして、最後の20年間を送りたい。もらった分の一部だけでも、お返しをしたい。それが、しなければならない仕事であるような気がするのだな。

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人間社会の運行と変化を自然現象の一部ではなく、人間の意志で ー というより自分たちの意志で ー 決定していこうという脱原発グループの心意気と義務感には文句なく尊敬の気持ちを否定するものではないが、その努力がその通りの形で実を結ぶ事は小生は決してないと思うし、また自分のなすべきことを上のように考えているので支援しようと言う気持ちもない。

エネルギー産業のあり方は、技術進歩と生産システムのバランスの中で、誰がというより社会経済的なロジックによって選択され、半ば自動的に決まっていくものなのだ、な。人間の意図でどうこうできるものではない。どうこうしようとすれば、その途中で無用の対立や紛争が起こるだけである。

社会の進歩も自然現象の一部であると思う。その進歩を人為的に遅らせるものは、残念ながら人間の正義感や善意などヒューマンファクターなのではないかな。それは法律や慣習になって社会を<ギプス>のように束縛している。善意と良心は品格を保つためには不可欠だが、モノの生産と消費は品格のために為されるのではない。

だから、小生、すべて法律は25年の間、何も改正がなければ、自動失効するのが良いと思う。憲法は、何も改正がなければ、50年で自動失効するのが良いと思う。だってそうでしょう。その文章を起案した人間は、ほぼ全員が死に絶えているか、25年で区切っても社会構造は全く変化している。古い規則は邪魔なだけである。その時、生きている人間が、自らを律する権利を確保しておくべきである。江戸時代の武家社会を律する憲法であった武家諸法度ですら、徳川将軍の代替わりごとに、新将軍の理念に沿った新しい法度を公布していたのである。よほど合理的ではないか。無論、独裁者からトップダウンで下々に押し付けるのは<反民主主義的>ではありますけどね。






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