画家ゴッホはオランダ人だが、フランスに来てパリから南仏アルルに移り、その地で自分が描くべき画題を見出した。
Gogh, Irises, 1890
Source: WebMuseum
ゴッホが描いているのは青いアイリスだが、観る人が感じるのは花の美ではない。美しい花だなあと思いながら作品を鑑賞するわけではない。それなら写真のほうがよほどマシであろう。私たちが感動するのは、単なるアイリスという花を上のように表現できたゴッホの感性に対してである。誰でもが心の中に持っている花に対してもつ感情。その感情を目に見える作品として顕在化してくれている。だから立ち去り難いのだ、な。
セザンヌは南仏エクス・アン・プロヴァンスからパリに出るが、後年郷里に戻り、ずっとその地で生涯を送った。ゴッホ、というかその他にも数えきれないほどの表現派芸術家はいるが、セザンヌの作品からは揺れ動く精神上の不安を感じることはあまりない。というか、美のみを感じるのであって、画家セザンヌ本人の心の中に吹く風を感じることは(小生の感覚からは)全然ない。<美>は、真に美なる価値がそこに投影されているから<美>たりうるのであるという考え方が的をついているなら、セザンヌの作品の中に人間の心ではなく、どこかで完成された永遠なるものを見るような心地がするのは、まさにそういうものをセザンヌが求めた、ということだったのであろう。これは確かに<表現主義>の理念とは正反対の位置にセザンヌが立っているとも思われる。
中でも小生が好むのはセザンヌの静物である。「静物」とは、文字通りの静かなライフ(Still Life)であり、命がつきて、再び生命を吹き込まれるまでの間の静寂を指している。一つが以下の作品。
Cézanne, Stil Life with Skul, 1895-1900
Source: WebMuserm
もう一つは以下の作品だ。
Cézanne, Le vase paillé, 1895
Source: WebMuseum
生きた存在であるのは林檎の方であり髑髏は既に死んだ存在である。しかしセザンヌの絵を観ていると、命のあるなしは既に問題にはなっておらず、存在というものを考える等しい眼差しがあるだけである。小生はそう感じるのだな。そこがいい。心の安らぎを覚えるのは、一睡の夢のような命を超えた<美>と言う真に存在するものを、あらゆるモノから等しく、一様に、統一的に感じ取ったセザンヌという画家の精神に共感を覚えるからだ。たとえそれが無意識の共感であるにせよ。
いま韓流の宮廷サスペンスドラマ「根の深い木」を観ている。何回目だったか面白いやりとりがあった。ハングルを創製した世宗と王に敵対する首謀者とのやりとりだったか。
「民に文字を教えて、その民が表現する楽しみを覚えたらどうなりますか?無学なものが無学なままに、書いて、伝えれば、世の中は混乱するでありましょう」
「それを混乱と言うのか?」
「秩序の崩壊です。文字を覚える過程で両班は必ず倫理の修養をします。そのための本を読みながら文字と倫理を並行して身に着けるのです。たった二日の勉強で、他人に伝えたいことを文字にできる。それが秩序の崩壊でなくしてなんでありましょう?」
「しかし、文字を簡単に使えるようになれば、知識も簡単に身につけることができる。そなたが言っておるのは両班が既得権益を手放したくないというそれだけではないのか?」
「民は文字を使って何を求めるとお考えになります?欲望です。無限の欲望です。民は欲望を満たすためにのみ、文字で知識を身につけることでございましょう。それをお許しになるのですか?」
本当に韓国人は理屈が好きだねえ。というか、一般に大陸諸国では洋の東西を問わず白熱した哲学論争を聴くのを好む点、古典として残っている多くの文学作品をみればわかる。
古代ギリシアでは人間を三つの部分から考えた。理知と感情と欲望である。欲望は常に理知に反しようとするが、怒りや情愛という感情が常に理知に味方する。ギリシア人はそう考えた。アングロサクソンから発した経済学では、人の利己心を前提する。別に善いこととして是認するのではない。人は欲望に駆られるものと認識するのだ。そう容認するとしても、人の欲望を他の人間の欲望と衝突させ、相互にバランスさせることによって、社会的には秩序を形成することができる。秩序をもたらすのは、統治者の理知ではなく、市場価格という匿名の、抵抗しがたい数字である。もはや統治者は人間ではないが故に抗いがたいのだ。これが自由市場の理論として、この200年間、世界に浸透してきた"Economics as a social science"、社会科学としての経済学であるわけだ。こういう社会観は、しかし社会を統治するのは理知であるべきであり、欲望を是認し、それを利用することによって政治を行うべきではない。欲望とは、倫理や宗教を通じて統制するべきなのである。こういう思想とは相対立する。歴史を通じて一貫して主流の考え方であったのは、むしろこちらの立場なのだな。
欲望の自然なバランスではなく、あくまでも理知によって社会を治めるべきであるとすれば、そのとき大衆が自らを自らによって治めるという道がありうるのかどうか。<デモクラシー>という社会のありかたと、欲望ではない<理知の尊重>とは両立できるものなのか?
「簡単に覚えられる文字を民に与えて、あとは勝手にやっていけと。殿下はそう言いたいのでありましょう。うまく行かなくとも、それはお前たちの責任だと。これほど無責任な政治がありましょうか?政治は責任です。知識のあるものが政治を担当し、失敗をすれば士大夫は責任をとれます。民が民自身を治めるのはよいが、もし失敗したら、誰が責任を取るのです。民がみんな死ねばいいとおっしゃるのですか?」
「お前はなぜ民を信頼できないのか?欲望を求めるとしてもよいではないか?」
いやあ、経済学から統計学に移民した小生にとっては、誠に知的興奮を感じるやりとりであった。そんな知的興奮を感じるやりとりは、もしセザンヌとゴッホが芸術論を闘わせていれば、そしてそれが文章になって残っていれば、これはこれで大したものであったに違いなく、やはり見落とすことのできない古典となっていただろう。
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