2012年7月13日金曜日

バブルとその後始末が大難問になるのはおかしいじゃないか

ずっと以前、まだ日本の土地バブルが燃え盛っていた時代、某官庁の経済統計関係部局で仕事をしていたことがある。

保有資産の評価額が上がれば、購買力が増える。経済学ではそれを<キャピタルゲイン>と呼ぶ。地価の上昇で1980年代末には1年間の名目GDPを超えるほどのキャピタルゲインが全国で生まれていたように覚えている ― 敢えて数字を確認するほどのことでもないが。

クラブに所属していた某通信社の記者とこんな会話をしたことがある。
記者「キャピタルゲインで日本が潤っていると言っても、土地を買う人からみれば上がっているわけでしょ。持っている方のプラスと持ってない方のマイナスを合わせればプラマイ・チャラですよ。土地の面積は同じだもん!キャピタルゲインで日本の国富が増えたなんて、意味ないんじゃないですか?」
小生「その一定の土地が生み出すと期待されている国民所得がこれまでの予想より大幅に上がった。つまり国際社会で日本の国土が高く評価されるようになったのですよ。これは、やはり日本が金持ちになったってことでしょ?」
記者「日本を売るなんてしないわけよ。それでほんとに日本が得したわけ?」
小生「得ですよ。評価されないより、評価される方がいいに決まっているじゃないですか。」
記者「う~ん、とは言っても、家を買うのは、大体、日本人だからねえ、ほとんど。買う人にゃ困るんだよね。高い土地を買えるのは外資とかでしょ。これで日本は豊かになったってことになるの、ほんとに?そりゃあ、おかしいよ。」

キャピタルゲインの話は、土地だけではない。株もそうだった。株が上がれば持っている人は富裕になる。しかしこれから株を買おうと思っている人にとっては高値になる。そもそも株は証券であり、それ自体が何かの富ではない。その価値が上がるというのは、株に対応している企業という実態が利益を生み出す期待、配当の増加期待などがあるからだ。要するに、予想なのだな、株価を決めているのは。予想が評価額を決めているという点では土地もそうだ。

株価バブル、土地バブルの崩壊は、つまり<予想の崩壊>である。土地バブルが崩壊しても、土地の面積自体が減るわけではない。株価バブルが崩壊しても、家計・企業の実物資産が失われるわけではない。実質的には、何がどう増減したわけではなく、すべては予想の変化とそれに基づく金銭貸借の混乱。100%、ヒューマンな側面で混乱しているわけだ。そう割り切れば、割り切れなくもない。

× × ×

景気循環論という授業が経済学部には必ずあった ― 以前は「経済成長論」という授業科目もあった。景気には好況から不況へ移行する下方転換点と不況から好況へ移る上方転換点がある。供給ボトルネック、過小消費、利潤率の低下など理論的に説明が容易なのは下方転換点の方であって、不況がなぜ終わるのかについては、(今のところ)うまい説明がない。小生が聴講したのはそんな話であった。

今はマクロ経済の教え方が昔と様変わりになった。それでも、時々、バブル崩壊を放っておいたらどうだろうと思うこともある。人間の予想が崩壊しても、金銭貸借がきれいさっぱり踏み倒されてチャラになっても、それは元の状態に戻るだけで、実質的には何も貧困にはなっていない。ま、無駄な投資をして使わない施設ができてしまった。カネを借りてそのまま踏み倒した。モラル的な面で許されないことはある。それはあるだろうが、いまあるものは転用、流用すればいいでしょ!なくなるわけじゃない。それにバブルの恩恵は、大なり小なりみんな受けたわけだ。大体、<火事と喧嘩は江戸の華>と言うでしょ。焼けたほうがいいこともある。焼けてなくなるから、町の再建特需が出てくるってもんだ。たまには焼けないとね。いいことだって出来ねえよ。まあ、そういうロジックであって、これをシュンペーター流には<恐慌=浄化説>という。

収束プロセスで心配するべきは、金銭貸借不履行、賠償義務など財産権に関する裁判事務の効率だけである。裁判事務が十分効率的であれば、そもそも金融バブルとバブル崩壊を自然の流れにまかせても、国として、世界として困る問題ではない。これは余りにも乱暴なロジックだろうか?公的資金による銀行救済とか、救済するなら責任を追及せよとか、そこまで政治が経済の面倒をみないといけないか?どうせ見るなら全部見ろ。そういうことであります。素朴な疑問である。もしどんなに熱が出ても身体は大丈夫だと確かめられているなら、発熱は放っておいてよい、むしろ積極的に自然治癒にまかせたほうが良いに決まっている。発熱は身体の防衛反応なのだから。マクロ経済もそれと同じだ。これもまた米FED流の<後始末戦略>であるには違いない。

0 件のコメント: