2024年4月8日月曜日

断想: 皇族の「東大入学」をどう思うかという話し

将来の天皇になるであろう秋篠宮悠仁親王がどの大学に進学されるのかで話が盛り上がることが増えてきている。

そりゃそうだろうなあ、と思う。多くの人は(多少の?)関心をもつだろうと思う。

関心領域が昆虫の生態研究にあるということから、農学系統の研究基盤が充実している東京大学や筑波大学、東京農業大学の名が挙がっていたが、最近は北大も可能性としてあがっているらしい。

それでも、豊富な研究予算、首都圏所在に着目すれば、やはり東京大学に進学するのがベストではないかという声も多いという。

小生も一票を投じたい。

仮に東大に進学されるとなると、筑波大学付属高からの推薦入学という枠を使うことになりそうだ(と伝えられている)。

ところが、これについても五月蠅い批判が世間にはあるようで。

皇族、というより未来の天皇になるであろう身分ゆえに東大入学ができるのではないか、と。これは不平等である、と。

まず本稿の前提を書いておくと、現代日本社会、というより実は歴史を通して日本社会の底流にあったかもしれないのだが、いわゆる《平等原理主義》を小生は支持しない。

何度も投稿しているように、平等や不平等は社会的プロセスがもたらす結果であって、それ自体について善悪の価値判断を下すのは難しい。戦争や内乱によって私有財産が解体されることで訪れる平等社会もあれば、長期間の平和と経済発展の中で創業者利得を得る超富裕層が生まれ、その結果として不平等化が進むこともある。どちらにしても、色々な格差は自然に発生し定着するもので、誰の責任でもない。平等を最優先して強権的に不平等を消滅させる権力は別の悲惨さと腐敗をもたらすだけである。これが小生の基本的な立場だ。


明治から戦前期・日本を通して日本社会に潜在していた《一君万民》という思想は、むしろ有害無益で、負の影響を社会にもたらしてきたと考えている。日本の戦前末期の政治的混迷は、正に一君万民思想にかぶれた過激派軍人が下剋上の行動を起こし、上層階層に属する天皇の側近を「君側の奸」として殺害する蛮行から始まったものであった ― 当の天皇陛下が悲嘆にくれるとしても蛮行を義挙と盲信していたわけだ。ゲニ、ゲニ、思想というのは恐ろしいモノで御座る。

「一君万民」よりは「ノーブレス オブリジェ(noblesse oblige)」のモラルの方が個人的にはずっと好きである。


そもそも世襲による天皇の継承という憲法の規定そのものが不平等である。不平等な規定から出発している社会の下で、原理的平等に執着しても、双方を納得させる有意義な結論は出ない。無益な紛争を避けて、道理に適った議論をしなければならないのが、現実の日本社会だろうと思っている。

だから求められているのは観念論ではない。功利主義、もっと露骨に言えば便宜主義に沿って議論するしかない。日本社会の建て付けがそうなっている。実は、律令の建前が崩れた平安時代から以降、摂関政治、武家政治、内閣制度へ移りながら、日本はずっとこんなやり方で一貫してやってきた。そう思うのだ、な。

「ごまかし」と言わば言え、和を以て貴しとなす、これが日本のお国柄なのだ

というわけだ。この気風はちょっとやそっとでは変わらないというのが小生の日本社会観である。

実際にはそんな事はないと推測しているが、仮に悠仁親王が皇族であるが故に有利な評価を得て、東大に推薦入学が許可されるとしても、それ自体が問題であるとは小生には思えず、シンプルに考えてそれは良い結果につながると思う。

大体、皇族が百人もいるわけではない。毎年、二人や三人の学問に関心ある皇族が東大に推薦入学するとしても、東大の授業運営、研究管理に何ら影響はないであろう。

他方、皇族が東大に在学する若者と交流して、人間関係を形成するのは、日本社会にとってもプラスの効果が期待されこそすれ、マイナスになるとは全く考えられない。

話しは違うが、福沢諭吉の子孫は慶應義塾に自動的に推薦入学が認められる。これを「既得権」だと非難する人物が世間にはいると予想するが、既得権だろうと何だろうと、こうした扱いがマイナスの結果をもたらすとは到底考えられない。寧ろ教育機関としての発展を考える時、創立者の子孫を迎える制度は、プラスの効果を結果として期待できる。こういうロジックなのだろうと思っている。だから、小生の主観としては、こうした扱いは(小生の家族とは無関係だが)ウェルカムなのだ。

東大に入学して以降の成績評価で皇族を相手にするが故の不正が行われるのではないかと心配する向きがあるかもしれないが、愚かな杞憂だ。

入学試験問題が本当に知力を測定できる問題なのかという疑問は以前からあるが、そもそも大学の成績は入試を遥かに上回って下らないものだと思っている。

大体、同世代としてリスペクトできる人物であるかどうかは、周りの東大生が一番よく分かっている。指導教官も大規模授業ならともかく研究室内の学生の知力はマズ正確に把握している。

まったく評価されていないにもかかわらず、皇族であるが故に卒業証書だけは手にするとしても、そんな資格はむしろ皇族としては恥であり、しかもその恥部を同期の東大OBや教職員に知られているという事ほど当人の心の負担になるものはない ― 実質的な学歴詐称なのだから。そんな事が分からない愚物であれば、分かった上で放置し、自然の成り行きに任せるのが最上だろう。そう割り切っても日本には何らマイナスではない。

東大卒を一枚看板にして一流企業に就職したいという俗世間的な願望を皇族がもつとは思えない。そんな願望は持つ必要がないのだ。そもそも一般、普通の人物ではない。正に日本社会があえて残している例外的不平等だ。「不平等の取り扱い」に日本社会は慣れなければならない、そういう問題であるのかもしれない。

平等原理主義の主張の背後には往々にして嫉妬と恨み、それに日頃鬱積した反社会感情が隠れているものだ。

【加筆修正2024-04-09】


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