2023年10月20日金曜日

一言メモ: ヒトの公判がそれほど面白いですかネエ、という話し

今日は下世話な批判ということで。


「猿之助一家心中事件」の公判が今日あるというのでTV各局は「待ってました!」とばかりワイドショーの話題にしている。

複数のTV局の異なるワイドショーで全てとり上げているので、一体、今日中に同じ話を何回聞くことになるのだろう?これは《公共の電波の無駄使い》ではないか、電波の重複使用ではないかと。公共性のある報道価値のある事柄なのかと。そう思っちまいます。

小生: ヨソの家族の一家心中事件だよ。心中でまだ生きていた人を救急搬送して治療して生き残った一人を、今度は有罪にして、刑務所に入れるか、入れないかという、その裁判をやっている。わざわざそんな事をやって、今日はそれをTV各局がエンターテインメントにするかねえ?俺にはこれこそ《人権侵害》としか見えないけどネ。

カミさん: ニュースなんだから報道でしょ?

小生: 事実のあらましなら、もうみんな知ってるヨ。大体、視聴者はそれほどデバ亀じゃあないヨ。これで猿之助に執行猶予がつかず実刑になったら、それこそ又「待ってましたア!」とばかりに熱をあげてTV画面で解説するのだろうネエ……目に見えるナア。もしそうなれば、これまた《人権侵害》じゃないかネ。日本のマスコミならいかにもやりそうだろ?

カミさん: 何だか人の不幸を待ってるみたいに言ってるヨ。テレビ局の人だって一生懸命仕事をしてるんだから。

小生: マ、それはそうだな。でも仕事の仕方が間違っているんだヨ。

この件については、発生直後の世間の反応をみた感想を投稿した。

有名人が心中をしたり自殺をするとワイドショーはそれで盛り上がる。いま荒れているパレスチナ・ガザ地区の病院にロケット弾(の破片?)が着弾して多数の犠牲者が出ると、「待ってました!」とばかりに重大ニュースにする — ま、重大ニュースであること自体は認めるが、それでも何度も反復して残酷な録画を再生して視聴者に見せるMCはやはり鈍感なのだろう。

ヤレ、ヤレ……多くの被害が発生していたにも関わらず、ジャニーズや旧・統一教会には口をつぐんでおいて、ヒトの心中や生き残った家族の公判は「待ってマシタ」とばかりに放送するのか、と。

これが今日一日の感想であります。


伝えるべき話には違いないが、新型のコロナウイルスが確認されるのとはワケが違う。どうもヒトの不幸をネタにしている印象がある。

不幸を伝えるのも時には必要だが、先に投稿もしているが、メディアというのは「役に立つ情報」を提供してナンボだと思う。社会の役に立つからこそ許認可権に守られているのだと思う。

とくに何の役に立つわけでもないのに、社会の多数が求めているからという根拠で特定個人の不幸を話題にして多数派勢力のエンターテインメントに供するのは、学校内、会社内でも見られる《イジメの構図》とそっくりだ。日本国民と一人の個人とが対立すると、日本では個人が「吹けば飛ぶような存在」となり、戦前期・軍国日本と同じ「社会に生かされている人間」、「鴻毛より軽きもの」として扱われがちである。

日本社会の底層では数々の《人権侵害》が蔓延していると小生はみているが、その根本的原因は「社会」から議論を始める日本人の思考回路にある。社会でなければ、町や会社、家族など共同体でもよい。個人ではない集団や組織である。<法人>という方がピンと来るかもしれない。日本では、この法人を個人に優越させて考える傾向が非常に強い。法人を個人より優越させて考える習慣があると人権侵害が多々発生するだろう。

みんなはこうしている

というシンプルな理屈が日本社会を強く支配している。

ちなみに、一人一人の日本人には強い束縛力を発揮する日本社会であるが、「黒船」ならぬ欧米先進国から来た外国人に対しては猫のように大人しくなる傾向は、常々情けなく感じているところだ。

ある人は、「法律で決まっているから仕方がない」と上から目線で語ったりする場面があるが、こんな諦念主義が大いに問題だ。法がおかしいと判断すれば変えればよいという理屈ではないか。法律が人権の上にあると考えるのは間違いだ。当たり前だが、この当たり前のことが日本社会ではしばしば否定されたりする。これが《人間軽視》であるのか、《管理の都合》であるのか、《日本的精神》であるのか、発生の起源は小生にはよく分からない。

人権とは前にも書いたが「個人の人権」だ。根底には個人主義の価値観がある。平等とは全ての個人の間の平等を指す。個人とは法人の逆でリアルに存在する人間である。法人は実体ではなく、リアルに存在するのは個人である。法人には「基本的法人権?」とか「法人の尊厳?」などという概念はない。あるべきでもない。

社会や共同体に先立って個人があると考える個人主義は、極めて西洋の香りのする思想で、現代においても日本人には苦手科目だ。社会の同調圧力にさらされながら日本で生きる日本人なら誰もがそんな感覚をもっているはずだ。

個人主義が苦手なその日本のマスコミ企業で働いている記者はほぼ全て日本人であり、個人主義の考え方が苦手である。その振る舞いが、欧米先進国のメディア企業と異なっていても、思考のあり方が違っていると考えれば当たり前の現象だ。


日本のマスメディアの振る舞いに対しては、どうしても冷淡な眼差しになってしまう。ま、「黒船」よろしく英国・BBCの報道があって以来、本年春から夏にかけて進んだ《マスメディアの信用崩塊》は思うに全治10年。(そもそも信用というのがあったと仮定しての上であるが)「信用」を取り戻すには、少なくとも10年程度の時間と誠実でたゆまぬ努力を必要とする。

日本国内の「ジャーナリズム産業」の構造は、その間に激動の時代を迎えるだろう。そんな風に予想している。

良質のジャーナリズムなき社会は、全てを「日誌」に記録する義務を負わず、情報を社内で共有しようとしない組織と同じである。国内企業で実力不足なら、外資の参入を仰ぐしかないという理屈だ。国籍を問わず取材記者として活用すれば日本国内のマスコミ企業にとってショック療法になろう ― 狭小な日本語空間で採算がとれるかどうかはまた別の難問だが。

これまた、国内産業合理化のための《黒船待望論》である。

【加筆修正】2023/10/21、10/23


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