2014年9月2日火曜日

年齢差の限界-教えたり、教わったり?

小生がむかし某官庁に入って働き始めたころ、最上層部にいた人は60歳前後だった。小生とは30歳以上も違う。まるまる一世代上の先輩で、自分の両親よりももっと年上だったのだ。

30歳も年齢が違ってしまうと一緒に仕事をすることがない。そもそもトップ層の人たちは個室にいて、顔を見る機会もそう頻繁にはないものだ。小生がやっと仕事に慣れてくるまでには、みな退職してしまった。指導をうけ、いろいろな恩恵をうけたのは、小生よりも20歳、というより10歳前後先輩であった人たちである。その前後の人たちからは、本当に色々なことを教わった。一人前になったのはすべてそうした先輩のお蔭である。

いま某大企業の人材研修セミナーが本務先の大学であり、小生も「ビジネスエコノミクスとビッグデータ」というタイトルで一部を受け持っている。全体は1か月間のコースになっていて、小生は今週の午後の部を担当している。で、今日はその二日目だった。

昨日の初日は、夏の疲れが残っていたのか、時間管理が最悪で、言葉も滑らかに出てこず、ゴルフでいえば「OB」という有様だった。今日は、エネルギー補給と喉の渇き防止をかねてポカリを持参し、教室の黒板にはタイムスケジュールを大書し、タイムラインに沿って進めることを徹底した。そのお蔭かどうか知らないが、今日はまあフェアウェー・キープという出来栄えだと思っている。受講者は、しかし、みなすべて40歳前後である。まったく接点がないとまでは言わないものの、<同時代感覚>というものはない。一体、タメになる話をしているのだろうかと疑問を感じる。同じ目線でコミュニケーションができるのは、相手が40歳そこそこであれば、せいぜい40代終わりから50歳にかけての人物であろう。

父親から戦時中の話しをきいてもピンとこなかった。ましてや祖父から戦前期の水練場(=スイミングスクール)や東京・霊巌島で船を降りたときの印象をきいても、感覚を共有することは無理というもので、言葉の内容だけが記憶の倉庫にしまわれるだけだったことを覚えている。これは仕方のないことである。学問の話し、ビジネスの話しなら年齢を問わず役に立つというのもどうだろう。世代が違えば、当たり前の挨拶も当たり前ではなくなる。社交マナーも全く違ってきている。師弟関係、先輩-後輩関係、すべて移り変わっている。学問の進歩もあるので、勉強したことが違う。基礎知識があまりに違うのだ。当然、主義も思想も哲学も違うだろう。いま仮に渋沢栄一がタイムスリップをしてきても、現代の世で役に立つ話はあまり聞くことができないのじゃないかと思う。

人は誰でもアンテナをもっているものだが、その受信可能範囲は案外狭いものだと思っている。

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今日のセミナーが終わって、ヤレヤレと帰宅する途中の道すがら、まだ6時だと言うに空ははや薄暗くなっている。本当に日が短くなってきた。日中こそ暑いが、北国はもう秋である。あと一月もすれば、コートがほしくなり、それから少しすると雪虫も飛び始めるに違いない。

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