2014年9月21日日曜日

覚え書 − 1人の「影響力」なんてあるのか?

人間一人の影響力など砂粒のようなものだと思うことが多い。どれほど権力をもっているとしても形式的なものであり、一人で決めることができる事は少ない。国事はいうに及ばず、家庭内のことでもそうだろう。

人ひとり、どれほど偉くなっても身の回り三人がライバルであり、協力者であると感じることは多い。

会社の課長は10人前後の課員をまとめることが多いだろうが、一君万民的に意を達しているというより、やはり課長代理やベテランと相談しながら、全体の方向付けをするのが常だろうと推察する。まして社長が全社員を掌握するなどは無理だ。

そういう意味では、戦前期日本の天皇機関説ではないが、<社長機関説>はどの企業にも当てはまる。人が他人に及ぼす「影響力」はどれほど偉くとも間接的である。トップとは<旗>のようなものとなり、理想的なトップとはアレコレ言わないもの、そんな風にもなりうるわけだ。つまり人ではなく、組織、というかシステムが人をしばるのだ。

いまの季節には空中に蚊柱がたつことが多いが、蚊は近くの仲間をみているだけである。仲間をみるだけで集団はバラバラにならずにすむのである。リーダーになる個体がいるわけではない。

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Monet, 印象・日の出, 1873

ネットを通して絵画作品をみることができるのだから、美術館に行くか、でなければ画集でしか鑑賞できなかった時代とは様変わりになった。

「印象派」という呼称は上の作品から生まれた蔑称だそうだが、小生、最初に画集でみて、不思議に好きになった。自分でも真似をして描いてみようと思って、それが今日までの趣味になった。真作は一枚きりであり、モネが描いたのだが、その後何千枚(何万枚?)もリプリントされた模造品を通して、100年以上も後の(フランス人からみた)外国人にまで影響を与えたわけだ。

上の作品は、ずっと前に日本で公開された時にみた記憶があるが、「ああ、これが本物なのか」と違和感を感じたものだ。まして上の画像の色調は真物とはっきりと違っているはずだ。小生が思春期にさしかかる頃にみた画集はもうないが、やっぱり相当偏った色調だったのだろう。

言葉による影響力もそんな風だろうし、まして言葉に包まれた思想など、聴いた人が勝手に自分で再構成しているだけである。

『これは……意図したことと違う!』とよくいうが、マルクスもヘーゲルもカントもすべて含めて、「▲▲が言ったように」と教えられている内容をいまきけば、いい加減なことをいうなと憤慨するのは必定だろう。

その意味では「影響」とは「誤解」であり、周りの思い違いから、最初に意図されたこととは違う結果が得られるものだ。社会の歴史は思い違いと偶然と無責任に満ちている。責任とは、結果ではなく、はじめの意志について問われるものだろう。ただ、小生寡聞にして、法律の文言に「運・不運」という文字をみたことはない。

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