2014年9月23日火曜日

はからずも「霊感」について気づいたことあり

本日は秋彼岸であるが、我が家では小生の亡母の命日にもなっている。今日は月参りはなく、寺にいき彼岸会に参加する。

終わると境内の大銀杏の下で地蔵供養が行われる。そこには13体(?)の地蔵菩薩像が建っており、いつもながら建っている数に何かの特別の意味があるのかしらと考えてしまう。

とこうするうちに、また読経が始まる。今度は銀杏の大樹の下に立っているので目をつむるわけにはいかない。聴いていると般若心経である。♪色不異空、空不異色、♫色即是空、空即是色……。

『色即是空』かあ…、独り想像の世界に入る。
今朝は年甲斐も無く思い人に結婚の意ありやと告白する夢をみた。あれは別次元で進行中のもう一つの平行宇宙なのか?いま経を読んでいるのは住職である。その隣に居るのは「ご隠居」こと、住職の親父ドノである。回りに立っているのは今日出席している善男善女である。こうして目でみえる人間達の間には透明な空間があるだけで何も無い。
色即是空の「色」とは姿形をもった人や物体である。それらは、しかし、原子がたまたま集まって仮の像をつくっているだけだ。それが姿形にみえるのは、人間が生きていく上で必要な感覚のなせる結果である。食べたり、獲物をみつけたり、生命の安全をはかるには、視覚、触覚、嗅覚など五感を通して外界を認識しなければならない。
人間は、物と生物のほかには見えない。そこには何も無い空間があるように見える。それは、そこに何かが存在するにしても、特段みえる必要がないからである。そんな理屈になろう。もし人間が生きるのに見えておく必要があるなら、実際に見える種族が進化のプロセスを通して<適者>になっていたはずだからだ。つまり、現人類に見えないものは、日常生活において人間とはかかわり合いが無く、見える必要が無いからだ。だから見えない。そう考えてよいだろう。
ということは、何も無いはずの空間にたとえば「霊気」とか「生気」のようなものが実際に浮遊しているにしても、それは人間が生きていく上で見る必要はなく、意味のない、まあ、いつもは視界に入らない塵のようなものである。こんなロジックになる。

……、見えている人や物は実は仮の姿であり、やがて解体し、分解し、塵に戻る。何もないはずの空間には何も無いわけではなく、それは人の感覚がとらえられないだけである。科学的な測定機器も人の感覚を精密にするものでしかない。なるほどこう考えれば、正に
色即是空 空即是色
あるものは実は無く、無い所には実はある。まるで下のエッシャーのだまし絵ではないか。



馬上の騎士は左から右に進んでいるようでもあり、逆に右から左へ進んでいるようでもある。一方を見たければ他方には何もなく、他方を見るときは一方はなにもないブランクだ。

存在と非存在は確かに対立しているが、どちらが存在していると考えるかによって、存在は非存在になり、非存在は存在になる。世界は異なって見える。それもまた真実ということか…。

ま、多くの人には霊魂がみえない。霊気を感じない。それは害がないからだ。害もなければ益もない。人の生活とは関係ない。これだけはハッキリしていることであるな、と。

それにしても北海道の秋彼岸という割には、暖かく、上着を着ていると汗ばむ程であった。

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