2014年9月19日金曜日

昨日の世界、今日の世界

『現実=目の前の世界』とずっと思ってきた。しかし、自分が生きてきた何年間か何十年間だけを振り返ってみても、「目の前の世界」などは次の時代では消えてなくなっていることを知っている。

それでも「今の日本は…」などと平気で話している。そんなものは、実はないのだと、少し考えれば分かるはずだ。

盛んに番宣をしているので浅田次郎の『五郎次殿御始末』(新潮文庫)を買って読んでみた。収録されている『柘榴坂の仇討』が今週末に公開されるのだ。ところが、確かに映画の原作は良かったのものの、出来栄えからいえばメインタイトルになっている『五郎次殿御始末』が上だろうと思う-まあ、いい悪いは主観によるから、これだけでは大した意味もない。この<好きずき>だけで言えば、小生、『箱館証文』が好みだ。何も「所びいき」ではない。

最後に登場人物が小舟に乗り合わせ江戸(=東京)の神田川を遡上する場面がある。御茶ノ水の深い谷間を過ぎて、神楽坂を望む辺りで
オオッ、楓の御門じゃ ――
忘れかけていた武家言葉で与右衛門は言った(新潮文庫版76頁から引用)。この楓の御門というのは、江戸城外堀にあった牛込御門である。



楓の古木があったので「楓の御門」と呼ばれていたそうだ。『西空が一気に豁(ひら)けた。茜雲を纏った牛込御門が、緑青の甍に金色の鯱を輝かせて聳り立っていた』(新潮文庫版75頁から引用)と、美しく表現されている-日露戦争の2年前に撤去されたこの御門を筆者の浅田氏も目にしたことはないはずだ。





現在の私たちは上のような世界で暮らしているわけだ。そしてこれが現実だと思っている。いま生きている我々は上のような世界が現実だと思っているが、何十年も将来の世で上の上のような渡櫓が再建されて再び壮麗な姿を人々がみることになるかもしれない。そうすれば、すぐ上のように石垣だけをみていた現在の世代は寂しかった人たちとして歴史には残ることだろう。

一つの世代は、生きている一本の樹に芽吹いては散り、また芽吹いては散っている葉のようなものである。世代を通して息づいている「日本人」という集団が、実は命をもって存在している実態であって、一人一人の人間は一枚の葉のようなものであると認識するのが正しいとするなら、上の写真も上の上の写真も、どちらも「現実に存在するそのもの」であって、一方を昨日の世界、一方を今日の世界と区別することこそ無意味になるのである。

とはいえ、牛込御門を出てダラダラと登る坂が神楽坂であり、そこにいま愚息が暮らしている。この辺りに何かしら興味をもつようになったのは、やっぱり「身びいき」のなせることかもしれない。

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