2015年6月22日月曜日

20年後の明治維新は?

前から考えるたびに違った発想をしてしまうので覚え書にしておくかなあと考えてきたのが『明治維新をどうみるか?』という問いかけだ。

もちろん初等中等教育で教科書検定を通っている「国定教科書」では明治維新は近代日本の出発点となったモニュメンタルな節目である。

本当にそう考えていいんだろうか?
そんな疑問がいつから兆し始めたのかねえ・・・かなり前、いつしかだ、な。


戦前の経済学界では、明治維新を市民革命とみるか(≒労農派)、それとも絶対主義の確立とみるか(≒講座派)、この二つの陣営で激論が闘わされたと聞いている。

後付けの理屈としては、憲法学界でいうところの「昭和20年8月革命説」に立脚するとすれば、講座派が正当であったことになるだろうか。

この論争はマルクス経済学者どうしの狭いコップの中の争いのような話だったが、小生、最近の潮流をみていると今から20年後の歴史教科書はかなり違っていくのじゃないか、と。そんな(嬉しい)感覚を覚えるようになっている。


書き出すと長くなるのでブログの投稿にはなじまないが、簡単にいえば『明治政府は一体何度の対外戦争をやったのか?』、と。

これに尽きる。

実際、明治政府が行ったことは、そもそもの理念であった「尊皇攘夷」でもなかったわな。それもある。

作家・城山三郎の『落日燃ゆ』は若いころの愛読書であった。元首相・広田弘毅が『長州の作った憲法が日本を滅ぼそうとしている』と語る場面が一つのクライマックスであったことが記憶にある。

日本史には概略を知るだけでも「酷い時代」が時にある。鎌倉時代から室町時代へと移る幕間にあった建武新政から観応擾乱までの20年も酷い世の中だ。また、応仁の乱に始まり北条早雲が相模を平定するまでの50年もまったく酷い無責任時代である。同じように、明治維新で誕生した中央集権型の政府が日本を統治した78年間、一体いつからいつまでがマトモな政府であったろうか……。ま、どんな酷い酷寒の地でもたまには晴れた暖かい日はあるものだ。長くは続かないにしても。


徳川の幕府政治は250年間の平和を対外的にも対内的にも実現した。豊臣政権の負の遺産や大航海時代の欧州諸国が往来する中で、これは中々難しい政治的課題であったはずだ。

明治以降の国の履歴と対比する時、根本的な面におけるこの違いは大きすぎる。大きな違いは本質的な原因によってもたらされるものだ。そう思うのだ、な。

三代家光以降の鎖国政策がもたらしたプラス・マイナスはいろいろある。これをまあ、明治政府的志向から総括すれば、なるほど徳川の平和は姑息かつ退嬰的で全てがマイナスであったのかもしれない。しかし、これ自体が政治的な派閥性の際立つ歴史観になっている。日本の産業革命の前時代にあった永い泰平の世を”Pre-Meiji Era”として評価しないとすれば、それはどこか奇妙でイビツな偏りのある歴史観ではないか。

小生にとっての不思議は - 若いころは流石にそんな意識はなかったが - 昭和20年夏にすべて倒壊し、失敗した国造りであったことが明らかであったにもかかわらず、明治維新を絶対的に高く評価する歴史観にいささかの修正も加えられなかったことである。

最近になってようやく幕府政治から明治政府へと続く戦前期日本の政治的・経済的発展を全体として眺める議論が歴史学界においても広まってきつつあると耳にする。教科書の書き方も次第に変わっていくかもしれない。これからの20年が、小生、大変楽しみなのである。

東アジアと日本との関係が本質的に深化し、相互信頼に基づいた広域的文明圏として統合されるのも、まず日本の側でそうした歴史的認識の深まりがあってからのことかもしれない。





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