今は、マッサンの放映がきっかけになって急増中の観光客のプロファイルをどう分析して把握するかをやっている。アンケート分析にはコレスポンデンス(対応)分析からクラスタリングを絡めるのが便利なので授業でとりあげているのだが、説明+実習の授業メニューを作るのは、わりと手間取る仕事だ。
実際、普段はやったことはないだろうしねえ・・・、考えてみれば普段はやったことがない世界も、どんどん進んでいる。その成果の一端が何かの拍子に見えてきては、これもビジネスには必要なツールだという具合になるのだが、勉強するとなると大変である。その大変さはしばしばネグレクトされるのであって、多くの人は「楽に身につけたい」、「結構大変だ」、そして「役に立たないかもしれない」、結局は「なくてもいいか」という撤退の王道をたどっていくものだ。そうならないように勾配を調整する必要がある。関心を持続させる必要がある。誘導が不可欠なのだ。
教室とジムは、使うのが頭か筋肉かの違いはあるものの、やっていることはほぼ同じである。
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それはさておき、この数日の覚え書き。
池上彰氏が『韓国は棚からぼた餅式にできた国だ』と発言したというので、結構、物議を醸しているらしい。時折のぞいているレコードチャイナで報じられていたのだ。どうも日本のテレビ番組でそう話していたようだ。
小生もその番組は一部をみていたような記憶があるのだが、これが本当なら物議をかもすだろうねえ…。しかし、考えてみれば戦後日本がたどった軌跡も、米ソ冷戦が特にアメリカの対日姿勢の変化をもたらしたことによる「棚からぼた餅」式の奇跡であった。運よく、世界と時代が変転する中で、たまたま開かれた発展への道であった。そうも言えるだろうと正直思うのだ、な。
そもそも日本に高度の産業は復興させないというのが連合国の当初の方針だったのだから。
アメリカが言うならまだ分かるが、日本がいう言語表現かなあ…、とは思う。日本人なら、歴史的なパワーバランスの変化も思い出しながら、もっと別の観点から語ったほうが豊かな内容になると思うが、どうだろうか。
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表現は(基本的に)自由だが、それを聞いて怒る人も怒る自由はあるわけだ。決まっていることは、紛争の決着は腕力によって私的につけるのではなく、裁判で決着させる。公権力以外に力の支配に頼るべからず。これだけである。
元少年Aが出版した『絶歌』が世を騒がせている。
中年以上の人は「よくない」と反応し、若年層は「こうしたことを伝えていくという意味では必要かもしれない」という風に、世代間でかなり違いがあるようだ。
結論的にいえば、小生、元少年Aが非難されるのは当たり前だと思う。
自らの犯罪を語ることでカネを儲けちゃいかんだろう、と。当然のモラルである。犯罪は許さぬ、故に犯罪経験を種にして儲けるなどはあってはならぬ。これが社会だ。単純な話である。
しかし、今後の犯罪防止に専門的な分析の蓄積は不可欠のことである。心理学的分析も必要であろうし、行政上の、あるいは町内自治システム上の検討経過も体系的に蓄積して、共有化することが犯罪の予防を目指すうえでの常道だろう。
とすれば、本人が出版するよりも先に専門家がインタビューをして客観的な文書をまとめておくべきであったろう ― そんなことは既にやっているのかもしれないが。もちろんその種の文書は専門的であり、一般読者を対象に販売できるような文章ではないだろう。
表現の自由は基本的な権利だが、苦痛を与えた場合の責任もまた逃げることはできない。自由には責任が常に付随するのだ。責任がないのは「そうせよ」と命令され他に選択肢がなかったとき、もしくは旧幕時代・浅野内匠頭刃傷で問われたように「乱心」のケース。これだけである。
近代社会において個人は基本的に自由だが、自由であるからこそ責任がついて回る。文字どおり、同じコインの表と裏が自由と責任。これが一般原則であるわけだが、いま初等教育で教えているのかどうか……。ま、当然、最大のポイントなので教えていることでありんしょう。
で『絶歌』出版の件だが、分かっているのかなあ。多分、いいとこどりをするつもりでござんしょう。それじゃあ、すまないだろうけどねえ……。指示をしない政府の責任ではなく、自由であるが故に責任も個人が引き受ける。それが近代社会と前近代社会の違いである。
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