今朝、一生懸命考えていたのはいわゆる「差別用語」。「差別用語≠差別」という結論についてだ。
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その昔、ある北欧の田舎町で学会があったとき、大学の先輩と二人で参加したことがある。
学会の最終日には、エクスカージョンでフィヨルドの見える高峰を歩き回るハイキングがあり、その夜はパーティが開かれた。食事は8時か9時頃にお開きになるのだが、外国から来た人は(まあ欧米人ということだ)、それから朝まで徹夜で延々と飲み、食い、そして踊ったそうだ。
『まあ、なんていうかなあ、奴らいつも肉食ってるからよ、俺達とは構造が違うんだよな』
『大きさ自体はいまの日本人とそう変わりませんけどね』
『もともと狩猟民族だしな…▲トウっていうのはヨ。農耕民族みたいにノロ助(←これも危ない)じゃねえんだよ』
『古代ローマ人なんて、パスタを食いながら車もないのにテクテク歩いて進軍して、一大帝国をつくりましたよね。根性ありますよ。お上品な人間にゃあ無理ですね』
『そうそう』
懐かしいねえ……
女優・市原悦子氏でないにしても、『▲トウってさ、まあ鬼だと思っとけば丁度いいんじゃない』、いま不特定多数が集まる場でこんな言葉使いをすれば「差別」の判定をされてしまうだろう。
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起きる前に考えていたが、その時使った言葉は「差別」とは全く違う。逆だ。むしろ「かなわない」、「さすがだ」という感嘆の感情を表出したものである。
真剣な仕事の場で「ありゃ人間じゃねえ、鬼のような奴らだよ」という形容がされれば、されたほうは嬉しいだろう。小生が仕事を始めたとき隣席にいたのは「鬼のような先輩」だった。今でも人柄まるごと、その人を尊敬している。逆に「やんごとなきお方だからね」と形容されれば、これほどの侮辱はない。
チビの大先輩もいた。これは尊称であって、ウドの大木との対照をイメージしていたのだ。
▲トウに囲まれて育ったくせに俺達のことをわかっているじゃないか、というのは帰国子女への感想。
ドイツの話しで盛り上がったあと、今度イタリアンレストランに行きましょうと持ちかけると『イタめし?ま、いいけどサ、それにしてもイタ公ってのはなんでああ旨いものに目がないのかねえ、あの感覚と執着は真似できんよ』。これは大学の別の先輩がわが町の某金融機関支店長として赴任したとき、会食した時の話し。
昔、ある官庁は「公卿の館」と形容されていた。もちろん馬鹿にしているわけだ、な。頭の横で指を回す仕草をすれば、これは蔑視の表現になる。英語では"loopy"が有名になったが、日本語の「○○パー」とは少しニュアンスが違うと思う。どちらにしても大っぴらに言うのはまずいが、数年前に民主党政権であった時には首相がアメリカでやられた。
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言葉には野卑な言葉が確かにある。野卑な言葉を差別用語と分類し、野卑ではない言葉は差別用語ではない、と。まあ単純にやりたいなら、そう考えてもいけなくはない。
しかし、そんな機械学習と人工知能にもはるかに劣る単純分類をやってみても、差別を防止することにはつながらない。言葉の暴力を防ぐことにはつながらない。
こんなことを今朝は考えていた。なぜこんなことを突然考えていたのか…まったく分からない。人間の脳の活動には分からないことが多い。
ぼんやり考えていたことをメモしただけだが、タイトルにするほどのことでもないし、議論にもなっていない。決まらないねえ、やっぱり。
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