予想は的中しそうだ。
衆議院憲法調査会で参考人質問があったところ、憲法学者三人がそろって集団自衛権行使を含む安保関連法案は違憲であると述べた由。
与党推薦の学者も違憲だと述べたので野党は痛快の声をあげ、与党はオウンゴール(?)的な展開に困惑している、と。
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法律の方は専門外だが、論点をしぼって純粋の概念論だけで話すとして「自衛権」を否定する国家はありえない。存続を予定し得ないからだ。今日はこれを無条件に真とする、つまり公理としよう。である以上は、「集団的自衛権」そのものを現行憲法違反として否定する論理は極めて難しいはずであり、小生は構築不能ではないかという感覚をまず覚える。行使に反対するには、概念論だけではなく、いまの政情とか、国民心理とか、雑多な事柄を理由にあげなければ反対論は構築できないとみるのだな。
つまり「違憲」、「合憲」という議論自体が政争である一面をもつ。
その集団的自衛権の行使に武力の保持と武力の行使が当然含まれると言うなら、集団的自衛権を認める以上、そのための武力の保持と武力の行使をただちに認めなければならないという論理になる。
集団的自衛権行使そのものが違憲だと主張する人が多いのは、ある程度、上の論理に立っているからだと思われる。
集団的自衛権と非武装戦略とは、小生自身としては、矛盾しないと思う。むしろ非武装戦略と自衛の確保を両立しようとすれば、何かの形で他国と協調し集団的自衛権を使わなければ意味が無いと思っている。戦後日本の日米安保体制もかなり既にこの発想に近いではないかと思っているのだ。
それはさておき……
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聞いていると反対論には二つあるようだ。
集団的自衛権の行使そのものが現行憲法と矛盾しているというのが一つ。もう一つの見方は、集団的自衛権自体は現行憲法と矛盾しているわけではないが、武力の具体的な行使を含め「自衛行動」のあり方が憲法が認める集団的自衛権の範囲外にあたることがあるというものだ。更に、もう一つを加えれば、提案されている政府案が集団的自衛権の行使以上の内容を含んでいる。つまり「攻撃」にまで踏み込んで規定しようとしているという見方もあるかもしれない。これが本当なら文句なく戦争を放棄した現行憲法と矛盾していて違憲である。
最初の見方は論理的に導出できないと小生は思う、というのが最初に述べたことである。
他方、二つ目の見方はありうるような気もする。三つ目の見方はあまり面白い問題ではない。「法案のここが違憲だ」と論陣を張るのは、寧ろマスメディアが得意の分野だろう。
二つ目の見方をどう考える。これによれば、現行憲法が容認している集団的自衛権は「制限された集団的自衛権」であるということになるわけで、つまり日本国は「完全な個別的自衛権+制限された集団的自衛権」をもっている、と。そう憲法は規定していることになる。
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理屈はこうなると思うのだが、そもそも憲法が自国の自衛権を制限するという状態は原理的にありうるのか?憲法制定時に生きた世代が後世代をそこまで本質的に束縛できるのか?常識的には、後世代がとりうる自衛権の具体的内容は(憲法改正はせずとも)その世代に委ねられていると思われるのだが、専門外の人間にとってはこの辺までである。ただまあ、何度も常識を言うようだが、憲法9条は日本の自衛権をどうするこうするという主旨ではないと思う。大体、自国の自衛権は最初に述べたように当然に持っているのであって、自国の憲法でそれを規定するというものではないと思われるのだ、な。
以上から、二つ目の見方に基づいて「違憲論」を展開するにも、やはり、論理としては少し弱いような気が個人的にはする。
とすれば、違憲論を展開する本筋は三つ目の見方しかないということになる。
政府案が規定している自衛隊の行動は法案の主旨とは違って集団的自衛権そのものを越えている。だからダメなのだ、と。第●●条と第▲▲条は明らかに集団的自衛権を越えている。こんな反対論しかありえないのではないか。しかし実際には、こんな風な議論になってはいない。
こんな議論を繰り広げていても、結局は神学論争であり、政府の基本戦略に沿った展開だと。そう見ているところだ。
この問題は専門外だからと法律専門家に100%任せるしかないという風にはならないのであって、これは相当のところまで論理で詰められる問題ではないか。そんな気もするのだな。
政争の一面があるからと言って、ただ声の大きさを争う、大人数で押すというばかりでは、良い結果にはつながらないだろう。何といっても憲法にかかわる話しなのだから。
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