今年も歳末である。しかしe-Learningはなお道遠しである。
統計分析こそ一歩一歩ではあるが、e-Learningサービスの水準を上げてこられたが、なお感性には程遠い。人間一人でできることは限られているし、どれほど特定分野の内容を充実しても、統計領域だけでカリキュラムが構成されるわけではない。バランスよく多くの科目でe-Learning化を進めない限り、全体としての魅力は上がるまい。
以前勤務していた役所の先輩で金沢経済大学に転じたN氏に連絡をとって、先方のネット教育への取り組みを聞いてみた。すると「以前にも内部でシステムを開発したことがあるが、使い勝手が悪く今では利用者はほとんどいなくなった。」とのことである。
システムは日進月歩だから内部で資金・労力を投入しても直ぐに陳腐化するのが大問題である。恒常的にメンテナンスが続くものと覚悟しないといけない。これは個別の大学で大規模な資金を投入してネット教育の充実を検討するときに主たるリスク要因となる。大学全体ならまだスケールメリットが期待できるが、個別授業の担当教員がコンテンツを編集する時は、長期にわたるメンテナンス作業には耐えられないという厳しい現実が全ての与件となる。かくしてコンテンツの蓄積は遅々として進まないが今の現実だと言えよう。しかも人材の交代は大学では日常茶飯事であり、加えて大学での仕事は個人ベースで進められ、柱になる人材の流出は直ちにその大学における当該業務の停滞を意味する。そのことが予め予見されているので、本腰を入れたプロジェクトチームが中々作動しない。ゲーム理論でいう「囚人のディレンマ」である。
初夢にはまだ数日があるが、<フリーユニバーシティ>という目標の下、大学を跨って多数の人材がインターネット配信授業をサーバーに集約し、体系化した上で公衆に向けてネット配信授業をフリーで公開してはどうだろうか。
規制緩和といえば聞こえはいいが、たとえば今はロースクールを受験するにも予備校での補習が必要になりつつあり、更にDVD、WEBなどマルチメディア教材が大変高い価格で予備校から販売されている。高等教育へアクセスできる経済的能力に近年の所得格差が反映されつつあることは随分前から指摘されているが、大学に続いてロースクールも金がなければ受験勉強も満足にできない<贅沢な職業選択>になりつつある。法律専門職は社会全体が必要としている公共性の高い職業であるにもかかわらず、広く人材を求められる社会システムになっていない。
知的財産をビジネスに活用することは一面望ましいものではあるが、本来公共の資産とするべき専門教育に経済的理由のために多くの者がアクセスできない社会は発展できるはずがない。それと言うのも、教育産業が規制産業であり、価格が自由化されていないこと、ブランドバリューが過度に形成され、参入が自由でないところに様々の歪みの原因があるのだと思われる。
多くの学問領域について自由に視聴できる授業を大学が自らの責任として一般に公開していくことは大学という組織の存在意義でもあると思うのだがどうだろう。そうしたリソースを管理運営するサイトを望む潜在的なニーズは一層高まっていると思うのだ。もちろん在学生からは授業料を徴収しているわけだから正規の教育サービスとの区分けをする必要はある。一方で授業料を徴収しながら、その資金を活用してフリーのネット教育を運営するわけには行くまい。授業料は在学生に対する教育サービスとして還元するのが筋だ。
それはそうなのだが、教育産業をとりまくこのところの社会状況は悲嘆にくれる域に達している。