愛読書の一つにプラトンの著作があるというのは、本ブログで度々述べてきた ― プラトンとは学理上の競争者であるアリストテレスの方は、どうも波長が合わなくて、ほとんど読んだことはない。そんな小生が、長い間、現実に即した実証主義に共感を感じてきたのは、それ自体が矛盾ではあった。
その意味では《民主主義》とか《平等主義》よりも前に、《プラトン主義者》であるのかもしれないネエと改めて感じていたところ、ずっと前にも似たような下りを読んだことがあったナアと思い出したのが、ロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(="The Emperor's New Mind")である。原本は1989年、訳本は1994年に刊行されている。著者のペンローズは宇宙論上の業績で2020年にノーベル物理学賞を受賞している。
要するに、AI(=人工知能)なるものに対する批判的論評である。当時は、まだ最近の「生成AI」は未登場であったが、それにもかかわらず、あらゆるAIに対して当てはまる根本的問題意識に、物理学の視点から解答するものになっている、解答というより疑念になっている、こういう受け取り方はまだまだ可能だと思う。
なので、AI進化の発展史はまだまだ続く、今後も多くの山があり壁があり峠があると、予想しておくべきだというのが、小生のAI観、ロボット観である。
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その中の第3章『数学と実在』という章であったが、末尾にこんな文章がある:
……数学については、少なくともより深遠な数学的概念については、他の場合に比べて、玄妙な外的な存在を信じる根拠はずっと強い、と私は感じないではいられない。このような数学的アイデアには、芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる、有無を言わせない独自性と普遍性がある。数学的アイデアが無時間の、玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった。そのためにこの見解はしばしば「数学的プラトン主義」と呼ばれている。
つまり数学的概念は数学者の空想ではなく『実在』である、と。実在する場所の特定は、未解決としても、とにかく「実在」している。こうした世界観は確かにプラトン的である。即ち、数学的な概念はプラトンの《イデア》であって、この世界にはなく、《イデア界》に実在する、と。こんな哲学のことである。
その前の下り
彼ら(=数学者)は現実的な実在性のない、精巧な心的構成物を作り出しているに過ぎないが、……それとも数学者はすでに事実「そこに」存在している真理 ― 数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理 ― を本当に暴き出しているのだろうか。
… …
数学には、「発明」というより「発見」という言葉の方がはるかに適切な事柄がある。…このような場合には、数学者は「神の業」にぶつかったのだという見方をすることもできる。
このタイプの思考と、プラトンが『国家』や『ゴルギアス』で展開している思考は、まったく同じ形式を共有している。
1572年にラファエル・ボンベリが『アルジェブラ』と題した著作の中で、カルダーノの(3次方程式の根に関する)研究を拡張し、複素数の代数を実際に研究し始めた…
現実には「存在するはずもない」虚数が、数学で使われ始めたことをどう観ればいいかで、著者の立場を述べているわけである。
この本を読んだ当初には、まったく注意しなかったが(読書はそんなものである)、改めて読むと実に深いことを書いていたわけだ。
で、改めて欄外にこんなメモを書き加えておいた:
事実としてそこに存在する真理だが観察はされない。西田幾多郎は純粋経験による認識にだけ実在性を認める。両者の関係はいかに?鈴木大拙の「霊性」か?
人間が作ったものは全て無常で永遠のものではない。神の業は永遠に不変である。真理とは変わるものでなく、変わらないものである。
素数は人類がいようといまいと、素数はこの世界に存在していた。ピタゴラスの定理がユークリッド空間において真理であること自体は、たとえこの世界が消失しても、真理であることに変わりはない。
こんな事を鉛筆でメモ書きした。
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上のメモ書きにもある鈴木大拙だが、同じ岩波文庫にあるとはいえ『浄土系思想論』は豊かな実質がこもっているが、最高峰の定評がある『日本的霊性』は昭和19年に大衆向けに刊行されたためなのかレベルが低い(と勝手に判断している)。
『浄土系思想論』の冒頭には、結論の主旨が箇条書きされているので、二点だけ抜粋しよう:
- 極楽(=阿弥陀仏が主宰する浄土世界の一つ)は霊性の世界で、娑婆(=現に生きているこの宇宙)は感覚と知性の世界である。ここに霊性というのは感覚や知性よりも次元を異にする主体なのである。感覚は物の世界の働きを、知性は分別をその性格としている。
- 極楽を知性と感覚の方面より見る限り、物質的なもの、即ち時間的・空間的となる。それではどうしても本当の「安心」が得られぬ。「安心」は霊性に属するものである。
この二つより適切な浄土観を小生は読んだことがない。
このページの上にも何かメモ書きがしてある。判読してみるとこう書いてある:
感覚と知性では認識できない。故に経験では認識できない? → カントの神と同様。霊性なる働きを人間はもっている?誰でも?霊性の働きでのみ認識できるのか?
こんな事を書いてある。
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鈴木大拙は、感覚や知性で「浄土」や「極楽」の実在をとらえられない、と。そう述べている。が、この世界に存在するはずもない数概念を、数学では理性を用いて使いこなしているわけだ。
空想だと思われる数概念を使うことで、実際にこの世界の理解が深まる事象が多々ある。とすれば、この世界には存在しようがない数だが、この世界の背後、というかこの世界の「現象界」の背後に実在していると考えるよりほかはないであろう。これが数学的プラトン主義の骨子であった。
同じように、「浄土」という概念がある。それは此の世界から直接に行ける世界ではない。が、その実在性を当然のように考えて宗教哲学の中で使うとしても、直ちに空想とは言えないわけである。
鈴木大拙がいう「霊性」に頼らずとも「知性」のレベルで議論するとしても、存在論として浄土を否定することは無理である。その実在は、人間の(というより、全ての衆生になるのだが)この世界の全体像について、よい世界観を提供するのか否か。この議論次第であるという理屈になる。
つまり、「浄土」なる世界については
- その存在論は超越的世界として理性的に受け入れ可能
- しかし、形態論としては、時間や長さ、大きさ、色・形など感覚的とらえ方をするわけにはいかないので、経典では色々な言葉で表現されているが、すべて感覚的であり不適切。
- 機能論としても、例えば「浄土三部経」で述べられている内容は、(当然ながら)荒唐無稽。不謹慎(?)な事を敢えていえば、浄土に多々ある中の一つである「極楽」という世界だが、その名称の割にはそれほど安楽で面白そうな所ではない。
- ただ、価値論としてみるとき、つまり此の世でいま生きている人間が目指すべき世界なのか、言い換えれば阿弥陀経のいう『応当発願 願生彼国』、即ち
信仰心のある立派な若者たちと立派な娘たちは、かの仏国土(=極楽浄土)に生まれたいという誓願をおこさなければならないのだ
と。ここまで強く願うに値する世界なのか、極楽浄土は?この点は、もっと研究の余地ありではないか。「厭離穢土」というが、それほどにまで「厭離」するべき世界なのか、この世界は?こういう疑問である。実際、生まれ変わっても、この世で人間としてまた生きたいと願っている人間は数多くいるに違いない。『輪廻を離る』どころか『輪廻に執着する』人は、案外、多いのだろう。この現実をどう見る?
- 最後に、検証可能性という点もある。とはいえ、そもそも観察不能な超越的対象についてどんな検証を行えるのか?検証するためには、そこから導かれる反証可能性のある仮説を立てるしかないわけである。これがない限り、議論に使うのは自由だが、実在性については未確認ということになる。つまり、浄土を目指す他力信仰は、今もなお、《信》こそが最も大事な《難信之法》であるわけだ ― だからこそ「宗教」に分類されてもいる。
今のところ、科学的には(?)こんな風に整理しているところです。
今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような
何かいいことはあるのか?
と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。
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