2014年9月30日火曜日

議論の生産性にも<4M>はある

表題の<4M>というのはQC用語である。言葉や概念自体はかなり古いのだが、応用範囲は広いし、最近特にそれを痛感してきたので、一度書いておきたい。<4M>とは

  • Man: ヒト
  • Machine: 機械・設備・道具
  • Material: モノ(材料・製品そのもの)
  • Method: 方法・やり方・手順

この四つである。仕事を進めるうえで発生する問題は、あらかた上の四つのカテゴリーに属する原因からもたらされるものである。だから問題解決をはかるには、まず「人の問題」、「道具の問題」、「モノ自体」、「やり方の問題」。これらを列挙して、優先順位をつけたうえで、重点志向で解決する。その方がかえって速く済む。総花式にすべてを解決しようとはするな。そんな思想である。

何もモノづくりの現場だけではない。あらゆる人間の営みには、無駄がありうる、工夫の余地がある。同じことをするにも上手なやり方、下手なやり方がある。「勉強法」、「修得法」という言葉も同じ意味合いからできた言葉だ。

<問題解決技術>としてQCは大変応用範囲が広いのだな。

★ ★ ★

議論や会議の運営にも上手い・下手がある。議論を上手に進める企業は、それだけで競争優位に立っているというものだ。

先日は朝ドラの舞台になることが、どのように地域経済のプラスになるかという検討会に参加した。そこで紹介したのが下の「特性要因図」である。発案者である石川馨博士の名にちなんで「石川図」ともいう。


フリーソフト"XMind"で作成した。操作はしごく簡単である。

共通の図をメンバー全員が見ながら、図の完成度を上げていく議論をすれば、結果として何をすればよいかが浮かび上がってくる。次のアクションンにつながる。議論の開始から次のアクションが見えてくるまでに経過する時間が短縮化されれば、それ即ち生産性の向上に他ならない。

以前は、会議に参加する人たちがメモをとっていた。そのメモも人によって違うことがある。聴き方・受け取り方が違うとメモも違うのだ。異なったメモを事後的に調べるのは、歴史家の史料批判には面白かろうが、そんな相違は意思決定過程に問題があったということであり、つまりは<ノイズ>である。

組織的意思決定のプロセスは、人間が行っている以上、以前と何も変わらない、そんな一面もあるだろう。一方、ソフトの進歩によって以前とは様変わりになっている面もある。ヒューマン・ファクターによる組織的問題は、ソフトウェアの進歩で解決できるはずのものである。そしてソフト面の進歩はハード面での進歩がもたらすものだ。

勤務先の会議ではタブレットが配布され、紙の資料が配布されないケースが増えてきた。資料には、各自が自由に書き入れたりメモを加筆するのが勤勉の証であったが、そんなやり方が本当に組織的にプラスの効果をもたらしていたのか、たこつぼ型の勤勉さの温床になっていたのか、よく分からない。

そもそも江戸時代には「会議」などという言葉より「寄り合い」と言っていた。意見の集約の仕方にも技術進歩はある。というより、最も重要な技術であるように思われる。

2014年9月29日月曜日

マスメディアの「統計」感覚にはあきれることがある

御嶽山の「突然」の噴火には吃驚した。土曜日の昼頃、天気は快晴、紅葉は見頃。そのため多くの人が災難に巻き込まれた。

小生も若い頃に登山に凝っていた時期があり、北は吾妻連峰、南は北アの裏銀座コースまで色々と登った経験がある。残雪の仙丈ケ岳では数人前にいた一人が雪庇を踏んで斜面を滑落していった。どうなるかと思ったが、200メートル位から向こうは緩やかな上り斜面になっているので助かった。かと思うと、夏の北ア・船窪岳近くだったと記憶しているが、すぐ前を歩いていた先輩がぬかるみに滑り、左の断崖に落ちていった…と、路の端にあった木の根に偶然につかまり命拾いをしたものだ。その情景はまだ記憶、というかまざまざと眼前によみがえるようだ。

本当に山は危険にみちている。

地元・地方紙にはこんなことが社説に書かれている。
気象庁は「今回のような規模の噴火は予測できなかった」とする。ただ、兆候が全くなかったわけではない。
 今月中旬から火山性地震の頻発を観測したが、その後は減って警戒レベルは据え置いた。マグマの活動を示唆する火山性微動などは検知されず、噴火の「前兆」とまでは言えなかったからだという。
 技術的に予測が難しいのは分かる。だからこそ、人的被害を防ぐにはわずかな変化も前兆ととらえたい。一連の対応の検証と警戒レベルの基準の再検討が必要だ。
(出所)北海道新聞、2014年7月29日

 何も火山データ解析に限ったことではない。人間ドックで集められる検査データもそうだ。気にはなっていたが、その時には何も告げず、果たして数か月後に癌が見つかったとする。『なぜその時にはっきり伝えなかったのか』と、家族は抗議したいところだろう。こういう類のことは星の数ほどにあるのだ、な。

統計学でいえば<第1種の過誤>と<第2種の過誤>の話題に該当するわけであり、データ分析の基本中の基本とも言える箇所である。

上の地元紙編集部もそう思っているようだが、異変が近づいていれば測定データも異常を示すはずである。そう思い込んでいるのではないか。

もちろん間違いではない。あらゆるデータは「異常があれば、データも異常を示すはずである」と考えてデータを集めて分析するわけである。

もしデータが異常を示すのは、実際に異常がある時だけである、と。こう言えるのであれば
異常はわずかではあるが、データが異常を示している以上、実際に異常はある
こう断言しても何も問題はないわけである。しかし、このロジックが間違っているのだ。

× × ×

実際に異常がなくとも、データが異常を示すことがある。これは偶然原因によるノイズである。ノイズを全く含まないデータというのはありえない。健康であっても血圧が150を超えることは一過的現象としてありうるし、故に血圧が150を超えたからといって「高血圧ですね」とは即断できないわけである。

実際に異常はないにもかかわらず、データが異常を示したために「異常がある」と結論すれば、これは第1種の過誤に該当する。反対に、データは「異常(=有意)」とまでは言えないにもかかわらず、実際には異常がある。この場合は異常を見逃し、とるべきアクションがとれない結果になるので、今回の御嶽山は正にこれに該当するのだが、統計学では第2種の過誤と呼ばれている。

問題は、二つの過誤を同時に少なくすることは中々できないということだ — コストをかけてデータ情報を増やせば事情は変わる。「まあ、正常な範囲でしょう」と言いたいところを、「でもおかしいことは、おかしいよね」と異常宣言を出せば、異常を見逃す確率は小さくなる。これは間違いないのだが、実際には異常がないことが後日判明し、「また空振りか」と批判されるケースも同時に増えることになる。気象庁は、そんな「空振り」にどれだけ耐えられるのか。観光に依存している地元の人たちも数多いはずだ。そして、どちらかといえば、正常であるにもかかわらず、危なげに見えるデータが得られてしまうことの方が、案外、多いのだと推測される。新聞のいうように「わずかな変化も(噴火の)前兆ととらえ」てしまうのは、人間ドックで少しでもおかしな箇所があれば、片っ端から大規模病院で精密検査をすればいいのだ、と。そんな主張とどこか似かよっている。ことは人命にかかわるとなれば、コスト、ロジックは全く無視しても構わない。ここまで言えますか……。非合理は、やっぱり非合理であることに変わりはない。

× × ×

聞くところによると、御嶽山は1979年に突然噴火した。その後、1991年、2007年に小規模な噴火活動があったという。

そもそもいつ噴火してもおかしくはない火山だったのだろう。専門家の誰かが朝のワイドショーで話していたが、『近づかないのが危険を避ける近道です』。これが最も信頼できる格言だと(小生には)思われる。
生きること自体が危険なのです。
どこかのドラマでこんなセリフがあったが、活動中の火山に登ること自体、リスクを負担する行動である。こちらの方が本筋にかなっているのではないか。

データが正常なら、オカミは「異変が近づいている」とは言えない。しかし、データが正常であっても、それは異変が起こらないことの証明ではない。

これは、データが異常であっても、異変が必ず起きるとは言えない。その裏返しである。

2014年9月23日火曜日

はからずも「霊感」について気づいたことあり

本日は秋彼岸であるが、我が家では小生の亡母の命日にもなっている。今日は月参りはなく、寺にいき彼岸会に参加する。

終わると境内の大銀杏の下で地蔵供養が行われる。そこには13体(?)の地蔵菩薩像が建っており、いつもながら建っている数に何かの特別の意味があるのかしらと考えてしまう。

とこうするうちに、また読経が始まる。今度は銀杏の大樹の下に立っているので目をつむるわけにはいかない。聴いていると般若心経である。♪色不異空、空不異色、♫色即是空、空即是色……。

『色即是空』かあ…、独り想像の世界に入る。
今朝は年甲斐も無く思い人に結婚の意ありやと告白する夢をみた。あれは別次元で進行中のもう一つの平行宇宙なのか?いま経を読んでいるのは住職である。その隣に居るのは「ご隠居」こと、住職の親父ドノである。回りに立っているのは今日出席している善男善女である。こうして目でみえる人間達の間には透明な空間があるだけで何も無い。
色即是空の「色」とは姿形をもった人や物体である。それらは、しかし、原子がたまたま集まって仮の像をつくっているだけだ。それが姿形にみえるのは、人間が生きていく上で必要な感覚のなせる結果である。食べたり、獲物をみつけたり、生命の安全をはかるには、視覚、触覚、嗅覚など五感を通して外界を認識しなければならない。
人間は、物と生物のほかには見えない。そこには何も無い空間があるように見える。それは、そこに何かが存在するにしても、特段みえる必要がないからである。そんな理屈になろう。もし人間が生きるのに見えておく必要があるなら、実際に見える種族が進化のプロセスを通して<適者>になっていたはずだからだ。つまり、現人類に見えないものは、日常生活において人間とはかかわり合いが無く、見える必要が無いからだ。だから見えない。そう考えてよいだろう。
ということは、何も無いはずの空間にたとえば「霊気」とか「生気」のようなものが実際に浮遊しているにしても、それは人間が生きていく上で見る必要はなく、意味のない、まあ、いつもは視界に入らない塵のようなものである。こんなロジックになる。

……、見えている人や物は実は仮の姿であり、やがて解体し、分解し、塵に戻る。何もないはずの空間には何も無いわけではなく、それは人の感覚がとらえられないだけである。科学的な測定機器も人の感覚を精密にするものでしかない。なるほどこう考えれば、正に
色即是空 空即是色
あるものは実は無く、無い所には実はある。まるで下のエッシャーのだまし絵ではないか。



馬上の騎士は左から右に進んでいるようでもあり、逆に右から左へ進んでいるようでもある。一方を見たければ他方には何もなく、他方を見るときは一方はなにもないブランクだ。

存在と非存在は確かに対立しているが、どちらが存在していると考えるかによって、存在は非存在になり、非存在は存在になる。世界は異なって見える。それもまた真実ということか…。

ま、多くの人には霊魂がみえない。霊気を感じない。それは害がないからだ。害もなければ益もない。人の生活とは関係ない。これだけはハッキリしていることであるな、と。

それにしても北海道の秋彼岸という割には、暖かく、上着を着ていると汗ばむ程であった。

2014年9月21日日曜日

覚え書 − 1人の「影響力」なんてあるのか?

人間一人の影響力など砂粒のようなものだと思うことが多い。どれほど権力をもっているとしても形式的なものであり、一人で決めることができる事は少ない。国事はいうに及ばず、家庭内のことでもそうだろう。

人ひとり、どれほど偉くなっても身の回り三人がライバルであり、協力者であると感じることは多い。

会社の課長は10人前後の課員をまとめることが多いだろうが、一君万民的に意を達しているというより、やはり課長代理やベテランと相談しながら、全体の方向付けをするのが常だろうと推察する。まして社長が全社員を掌握するなどは無理だ。

そういう意味では、戦前期日本の天皇機関説ではないが、<社長機関説>はどの企業にも当てはまる。人が他人に及ぼす「影響力」はどれほど偉くとも間接的である。トップとは<旗>のようなものとなり、理想的なトップとはアレコレ言わないもの、そんな風にもなりうるわけだ。つまり人ではなく、組織、というかシステムが人をしばるのだ。

いまの季節には空中に蚊柱がたつことが多いが、蚊は近くの仲間をみているだけである。仲間をみるだけで集団はバラバラにならずにすむのである。リーダーになる個体がいるわけではない。

★ ★ ★


Monet, 印象・日の出, 1873

ネットを通して絵画作品をみることができるのだから、美術館に行くか、でなければ画集でしか鑑賞できなかった時代とは様変わりになった。

「印象派」という呼称は上の作品から生まれた蔑称だそうだが、小生、最初に画集でみて、不思議に好きになった。自分でも真似をして描いてみようと思って、それが今日までの趣味になった。真作は一枚きりであり、モネが描いたのだが、その後何千枚(何万枚?)もリプリントされた模造品を通して、100年以上も後の(フランス人からみた)外国人にまで影響を与えたわけだ。

上の作品は、ずっと前に日本で公開された時にみた記憶があるが、「ああ、これが本物なのか」と違和感を感じたものだ。まして上の画像の色調は真物とはっきりと違っているはずだ。小生が思春期にさしかかる頃にみた画集はもうないが、やっぱり相当偏った色調だったのだろう。

言葉による影響力もそんな風だろうし、まして言葉に包まれた思想など、聴いた人が勝手に自分で再構成しているだけである。

『これは……意図したことと違う!』とよくいうが、マルクスもヘーゲルもカントもすべて含めて、「▲▲が言ったように」と教えられている内容をいまきけば、いい加減なことをいうなと憤慨するのは必定だろう。

その意味では「影響」とは「誤解」であり、周りの思い違いから、最初に意図されたこととは違う結果が得られるものだ。社会の歴史は思い違いと偶然と無責任に満ちている。責任とは、結果ではなく、はじめの意志について問われるものだろう。ただ、小生寡聞にして、法律の文言に「運・不運」という文字をみたことはない。

2014年9月20日土曜日

覚え書 – スコットランド独立騒動

スコットランドが連合王国(UK)から離脱する危機(?)は回避された。あとはキャメロン首相が公言した「自治権拡大」が羊頭狗肉の空手形にならないかどうかだけが鍵になった。

それにしても世界市場における経済の相互依存関係の深まりで「国境」なるものの意味が無きに等しい存在になりつつあるいま、なぜ「独立」なのか?こんな根源的疑問を感じてきた小生であります。

独立しようとすれば、イヤ、するとしても、やっぱり英ポンドは通貨として使いたい、ということは金融政策はある程度(?)まで英蘭銀行に委任して、ただスコットランドの利益をより重要視してほしい、それがビルトインされるような政策委員会でも要請する気か…、これは全く「いいとこ取り」であるなあと。北海油田にこだわっているが、そもそも開発時にスコットランド資金が全体の何パーセントを占めていたのか。メンテナンスをする気はあるのか。こんな風に、小生としては、覚めた目で見ていたわけである。

「いいとこ取り」の姿勢は説得力をもたないものである。とはいうものの、マクロ的な利益が地域社会にどのように配分されるのか。この問題がますます強く意識されるようになってきている。これは事実だ。生産は地方でやりながら、地方で生産された製品を売って儲けた利益は大都市圏の本社が受け取る。これっておかしかござんせんか?こんな疑問は根源的である。本社を地方に移転しないと、高率の事業税をかけるぞ、と。これを言い出せば、当然、東京の日本政府が介入するわけである。じゃあ、独立だと。どの国にも、こんな風に物事が進展する可能性は潜在している時代だ。

やはり今ある「国家」は、19世紀帝国主義の遺産である部分が残っていて、その当時の技術水準、社会システムが前提になっている。ズバリ、中途半端に広いのである。中途半端だから、今の時代、狭いのだ。もっと広い視野で「国家」なり「国家連合」を構想しなければならない情況になった。そういうことだと思う。最も広い視野で統治を行う「世界連邦」がありうるとすれば、行政単位になる「国家」はたとえばスコットランドなり、カタロニアなり、北海道なり、沖縄でよいわけだ…と、思うのだな。

ただ、この世界連邦なるものがありうるとして、それは君主をいだく帝国になるのか、世界民主主義によって統治されうるものなのか。こうなるとユートピアに近くなり、想像もつかない。

2014年9月19日金曜日

昨日の世界、今日の世界

『現実=目の前の世界』とずっと思ってきた。しかし、自分が生きてきた何年間か何十年間だけを振り返ってみても、「目の前の世界」などは次の時代では消えてなくなっていることを知っている。

それでも「今の日本は…」などと平気で話している。そんなものは、実はないのだと、少し考えれば分かるはずだ。

盛んに番宣をしているので浅田次郎の『五郎次殿御始末』(新潮文庫)を買って読んでみた。収録されている『柘榴坂の仇討』が今週末に公開されるのだ。ところが、確かに映画の原作は良かったのものの、出来栄えからいえばメインタイトルになっている『五郎次殿御始末』が上だろうと思う-まあ、いい悪いは主観によるから、これだけでは大した意味もない。この<好きずき>だけで言えば、小生、『箱館証文』が好みだ。何も「所びいき」ではない。

最後に登場人物が小舟に乗り合わせ江戸(=東京)の神田川を遡上する場面がある。御茶ノ水の深い谷間を過ぎて、神楽坂を望む辺りで
オオッ、楓の御門じゃ ――
忘れかけていた武家言葉で与右衛門は言った(新潮文庫版76頁から引用)。この楓の御門というのは、江戸城外堀にあった牛込御門である。



楓の古木があったので「楓の御門」と呼ばれていたそうだ。『西空が一気に豁(ひら)けた。茜雲を纏った牛込御門が、緑青の甍に金色の鯱を輝かせて聳り立っていた』(新潮文庫版75頁から引用)と、美しく表現されている-日露戦争の2年前に撤去されたこの御門を筆者の浅田氏も目にしたことはないはずだ。





現在の私たちは上のような世界で暮らしているわけだ。そしてこれが現実だと思っている。いま生きている我々は上のような世界が現実だと思っているが、何十年も将来の世で上の上のような渡櫓が再建されて再び壮麗な姿を人々がみることになるかもしれない。そうすれば、すぐ上のように石垣だけをみていた現在の世代は寂しかった人たちとして歴史には残ることだろう。

一つの世代は、生きている一本の樹に芽吹いては散り、また芽吹いては散っている葉のようなものである。世代を通して息づいている「日本人」という集団が、実は命をもって存在している実態であって、一人一人の人間は一枚の葉のようなものであると認識するのが正しいとするなら、上の写真も上の上の写真も、どちらも「現実に存在するそのもの」であって、一方を昨日の世界、一方を今日の世界と区別することこそ無意味になるのである。

とはいえ、牛込御門を出てダラダラと登る坂が神楽坂であり、そこにいま愚息が暮らしている。この辺りに何かしら興味をもつようになったのは、やっぱり「身びいき」のなせることかもしれない。

2014年9月18日木曜日

Big Data - 冷めた視線の一例

先週まで続いた企業研修コースの最後に相手方の経営陣を混じえて懇親会を催した。先方は技術で売る企業なので上層部にはエンジニア出身の人が多かった。いまの時代背景としてはビッグデータをあげないわけにはいかないので、自然にその話になった。

小生: ビッグデータは、本来は使用済みデータの廃棄物であるものをデータベース化して再利用すれば、色々な用途に使いたいという販売先が出てきて商品になる。そんな面がありますよね。 
先方: でもね、自然に集まってくるごみのようなデータを使えば有益な情報が得られるというのはおかしいと思いますよ。何か確かめたいことが先にあって、それをデータと照らし合わせて検証する。科学的方法とはそういうものでしょう。何でもいいからデータを集めれば、何か大事なことがわかると考える方が間違っていますよ。 
小生: 正にその点なんですよ。だから、今回の研修では最初にWired Magazineに掲載された"The End of Theory: Data Deluge Makes the Scientific Method Obsolete"をみんなに読んでもらったんです。要するに、エクサバイト級のビッグデータになると、データで確認される相関構造は、すべて有意であると。理論モデルがあろうとなかろうと、現実はそうなっているんだろう、と。いや、「だろう」じゃない、「そうなんだ」。そこまで言える。ということはもう、考えるより先にデータを見る。その方がはやいと。研究方法、というか研究の順番が全く違ってしまうということなんですね。 
先方: そうやって何か新しいことが分かった事にはならないでしょ。そういうやり方は「漢方」と同じなんですよ。どうやらこの薬草がきくみたいだ。いや、きく。なんで効くかは分からんが、こういう症状があるときは、この薬草を飲ませよう。それ以上、どのようにしたら<進歩>するんですか?

そう。確かにビッグデータから多くのことが分かる。とはいえ、なぜこんなパターンが<必然的に>出てくるのか。やっぱり考えることは不可欠だ。考えることなく、観察されているからというだけで知識が形成されるのだとしたら、人間の知識は自らが経験したり、見たり聞いたりできる範囲から外には出られない。

現象があるだけで、メカニズムがない。予測にはそれで十分かもしれないが、予測が外れたときに、「いまはそういう時代ではない」と割り切って、頭の中をリセットするしかない。

ビッグデータは、科学なのか、技術なのか、技術だとしたらそれを支える学問は何か?いまだ、小生、ハッキリとわからない。

2014年9月14日日曜日

「反・高校義務教育化」の試論

現在の日本では高校進学率が90%超、大学進学率も50%水準に達している。高等教育というと大学学部というより大学院教育に重点がシフトして既に何年もたっている。

こういう事情は、ある程度先進国には共通の現象であり、そこから義務教育延長論も出てきているわけだ。どうせ高校にいくなら、最初から義務教育化して、学費を公的に負担すればどうかという政策である。

× × ×

今日は敢えて「反・高校義務教育化」のロジックはあるかという点をメモしておこう。

いま某TV局のバラエティ番組をみながら遅い朝食をとっているのだが、教育目的=所得力向上ということで割り切るなら、高校まで義務教育にして、若者を束縛する必要性はないと思う。

そもそも義務教育そのものの存在価値をゼロベースから再考察しないといけない。「義務教育」にはそれ自体として価値があるわけではないからだ。

江戸時代の日本の識字率は、外国と比べても大変高いレベルに達していたが、何もオカミが教育政策を展開したからではない。教育に時間を割くモティベーションには、ある意味「ネットワーク依存性」、というか「同調への動機」があるので、文字を読める人が増えてくれば、自分も文字を勉強しておく方が、毎日が面白いし、いい仕事にもつけるわけである。だから、生活水準が向上して、生活にゆとりが生まれてくると、言われずとも自然発生的に教育が国民の間に普及するものである。教育コストは、重過ぎることなく、軽過ぎることもなく、人々がもっともやりやすい水準に自然におさまる。民間に寺子屋や塾が自然に増えてきたのは、人為的にそうしたわけではなく、日本社会の発展の中で当然にそうなったわけだ。教育は、上から下へ義務づけるものではなく、衣食住を豊かにしたい人々の中から自然に生まれて来る。ここをまず見るべきだと思う―国民を無知の状態にしておく方が政治的安定性をもたらすと考える専制国家もありうるし、現にユーラシア大陸にはあったが、それは又別の問題だ。

こんな風に考えると、小生が思うのは、中学教育だけでも相当高度の事柄を教えている。方程式も二次方程式、連立方程式まで教えている。いまの義務教育の範囲で、鶴亀算などは誰でもが簡単に答えが出せなければならない。英語もそうである。中学レベルの英語が、100パーセント読んで、書けて、話せて、聴けるなら、現代社会で普通に暮らしていくには十分であると思う―もちろんビジネス交渉をするには、より高い英語力に加えて、論理的なインテリジェンスが必要だ。

国語もそう、理科もそう、社会もそう、音楽も美術もそうだ。思うのだが、高校義務教育化の背後には中学教育がうまく行っていない、落ちこぼれる生徒が増えている。それを小中学校で問題解決できないので、高校で解決しようと。そんな底意がすけて見えるような気がするのだな。この種の問題を、中学校から高校へ、外延的に延長するだけでは学校システム全体に問題を拡散させるだけである。

おそらく社会性に欠ける若者が増えている(ような印象がある)ので、学校教育に期待する向きがあるのだろうが、それは逆である。学校は<リアルな社会>ではない。学校に長期間いればいるほど、その人の意識・行動は実社会から隔離され、<バーチャルな社会>に最適化されてしまうものだ。

× × ×

小生、中学校も義務教育とする必要性はうすいと思っている。率直に言って、少年期から過剰教育になっている。国民の<共有知>は12歳までに全て確実に伝えることが出来るはずである。できないのは、しないからではないかと小生は疑っている。小学校教育の完成が問題のコアだと思う。小学校から中学校に、中学校から高校へ、未解決の問題をパスでつないでも学校システムでは解決困難である。これが現実ではないか。

それでなくとも今後の日本では、労働力人口が減少し、賃金が高止まりする確率が高い。小学校を卒業した段階で、教育で束縛することはせず、やりたい仕事を始めていくのがよいと思う。実社会が最良の学校である。自分が社会に貢献し、自ら生きていけることを認識することは、人生において大変大事なことである。

もちろん小学校教育をきちんと受けていることを証明する何らかの形のテストはいるだろう。落ちこぼれてはいけない小学校教育をきちんと受けておく。この点を徹底するだけで、日本の公的教育システムは改善されると思われる。

未成年期の所得と保護者との関係。課税するのか、将来のために積み立てさせるのか。年金保険料の納付等々、詰めるべき論点は多い。結論を出すのは難しいだろう。しかし、『教育はよいことだ。より多くの教育を受けられるようにするべきだ。故に、高校を義務教育化するのはよいことだ』。こんな単純な三段論法では、いまの現実はとらえきれまい。先入観を排してゼロベースから考える。これが大事ではないだろうか。

× × ×

昼過ぎ、近くの家電販売店でストーブを買い替える。いま使っているサンデンの技術を継承した岩手県・サンポット製「ゼータスイング」にする。相変わらず無骨なデザインだ。それにしてもいつの間にかサンポットは長府製作所の子会社になっていた。これは知らなんだ。調べてみると、サンデンは自動車用エアコンや自動販売機に集中するため2007年にストーブ(ゼータスイング)事業をサンポット社に売却した。サンポット社は同じ年に長府製作所に公開TOBを仕掛けられ上場廃止になった。翌年には石油ボイラーの生産設備もサンデンから長府製作所に譲渡された。どうも察するに、全体が長府製作所のM&A戦略であったのかと……。大変に面白い。勤務先の授業でケースとして使えそうだ。


2014年9月13日土曜日

人を恋ふる歌: すぐには分からなかったこと

『人を恋ふる歌』は、父の世代にとっては永遠のヒットソングであり、小生が若かった頃でもいわゆる応援指導部系というか、「右」寄りの人と言うか、酒の酔いが回ってくると歌いだす者が結構多かった。
〽 妻(つま)をめどらば才たけてエ、顔(みめ)うるはしくなさけあるウ
〽 友をえらばば書を読みてエ、 六分(りくぶ)の俠氣イ、四分のオ熱ウ
声が聞こえるようである。小生がピンと来なかったのは三番である。
ああわれダンテの奇才なくウ、バイロン、ハイネの熱なきもオ
石をいだきて野にうたふ、芭蕉のさびをよろこばずウ
ダンテは古典『神曲』の作家、バイロン、ハイネは言うに及ばす。芭蕉とは日本の俳人・芭蕉である。その芭蕉が「石をいだきて野にうたふ」、それが蕉風俳句の神髄であるサビということになるのかねえと。石を抱いて名句を作った情景があったかなあ…思い出せぬ。そんなわけでピンと来なかったのだ。

ちなみに『人を恋ふる歌』の原詩は与謝野鉄幹が作ったそうだ。

これが今日、何で思い出したのか分からないが、起きる前に何やら分かった気がしたのだ。

★ ★ ★

オマール・ハイヤームの『ルバイヤート』に次の句がある。若い頃から一番好きな所だ。
 地の表にある一塊の土だっても、かつては輝く日のおも、星のひたいであったろう。そでの上のほこりを払うにも静かにしよう、それとても花の乙女おとめの変え姿よ。
(出所)青空文庫『ルバイヤート』

胸に抱く石もいまはもう亡くなった我が何代か前の先祖が慕った思い人のいまの姿であるのかもしれないと、そう思えば不覚にも一筋の涙が頬を伝う。こういうことは大いにあり得る。

芭蕉が書いた『奥の細道』には、奥州平泉を訪れたときのことが書かれている。
夏草や つわものどもが 夢のあと
生い茂る夏草もかつては命のやり取りをした鎌倉武士であったのだろう。猛々しきもののふも今は夏草に姿を変えて、吹きすぎる風に静かに身をまかせている。これが芭蕉のワビ・サビの境地である。

過ぎ行く「時間」に人間存在の儚さとあわれをみるのが芭蕉の主題であったわけで、この感覚はハイヤームにも通じる普遍的な思いでもあった。そう気がついたわけ。

★ ★ ★

であるので、石くれを胸に抱き、ハラハラと涙をこぼすのは高い芸術的感性ということになるのだが、「あなた、抱いているのは単なる石だよ」と、そんな客観的指摘も当然なければならない。石を抱いて今はいない人を思うより、いま生きている人こそ恋しい。まあ生命讃歌である。

心の中の想念より、現に生きている人間の命こそ、何より尊いものでしょう。そんな立場である、な。

さすがに反戦歌人・与謝野晶子の夫である。そんな思いに、今日の朝、至ったわけだ。

それ故、軍国主義の時代に父の世代が愛唱したのはやや矛盾していた。そうとも思われるのだ。

★ ★ ★

一ヶ月続いた某企業の人材研修セミナーも昨日やっと終わり、みんな東京へ帰っていった。中にはどうなるかと心配になったユニットもあったが、結果的にはハイレベルの事業計画をプレゼンできていた。最終発表では経営陣も参加してもらったが、ヤレヤレという安堵を感じている。なもので、今日は一日中、眠かった。昨日、一昨日の北海道は異常な雷雨と豪雨に見舞われたが、今日は一転秋日和になった。ストーブが古くなったので、買い替えようと思っている。昼過ぎ、近くのホームセンターを見てきた。

2014年9月6日土曜日

ライバル心: 「敵意」に変えるのは誰なのか?

いま某大企業の人材研修ゼミに協力している。もう3週間が経過したところだ。昨晩は最終週を控え、ビジネスホテルから広壮な温泉旅館に宿を移し、盛大なジンパをやった。

今回の研修全体のディレクター役をしている同僚は、講義の中で『史上最大の作戦』(の一部であろうと思うが、時間的に)をみせたらしく、オマハビーチの話しが何度も出ていた。誰が真っ先かけて突進するかとか、誰が生き残るだろうとか、麦酒を豪快に飲み尽くしながらそんな風に盛り上がっているのをみていると、アアこいつらは文字通りのナイスガイ、my boysだ、そう思った。

★ ★ ★

戦争によらず、ビジネスによらず、勝負をかけることは多い。自分たちがナイスガイであると同時に、敵方もやはりmy good boysなのだ。直接戦い合った敵味方同士は、多くの場合、相互の敬意、というか命をかけた過酷な運命をともにくぐった友情のようなものが芽生えてくると言われる。敢闘精神というのは人間共通の心情なのだろう。人類は、原始の時代から殺し合いを続けてきたわけで、もし一度でも戦い合ったから互いを憎しみあうというなら、今頃はもう人類は自滅していたろうと、小生、考えるのだな。しかし、決してそうなってはいない。

元帝国海軍の高木惣吉は、著書『太平洋海戦史』(岩波新書)の序文で古代ローマ帝国が行ってきた数々の残虐な行為をその偉大な文明の創造と併せてともに見て理解することが、歴史を理解するということだ、と。そんなことを書いている。古代ローマが偉大であった点を、悪かった点と切り離して理解することは適切ではない。常に全体としてみることが大事だと述べている。小生もまったく同感だ。現実は一つのものであり、それをどう考えるかは、その人がどんな角度から見るかによって変わるものである。一部を全体から切り離す歴史理解は、単なる主義であって、歴史ではない。

★ ★ ★

それにしても、直接に戦い合った敵味方どうしでは、闘争心、というかライバル心はあっても、相手に対する憎しみという感情が意外やそれほどのものではない場合が多いとするなら、それでは敵に対する憎悪が一般に形成されるのはなぜか?

それは戦争継続の意図をもった人間集団がいるからだ、というのがロジカルな結論だろう。戦争は政治の延長である。故に、敵国に対する憎悪をつくるのは政治家、もしくは政治家につながる諸々の集団、これが理屈である。また、実際そうなのだろうと思う。戦争を続けるエネルギーは「憎悪」である。「不信」だけで戦争は続かないものだ。したがって戦争を継続したい政治家には「敵国に対する憎悪」が必要だ。

結果としてマスメディアがその憎悪を広く国民に伝播させる機能を果たすにしても、マスメディア自体が何かの政治的意図をもつことはない。マスコミによって好戦的気分が国民に広がり、政治が高揚した気分に押し流されるというのは、多分に表面的な現象で、本質的には政治が主導して戦争を選択肢に含め、マスメディアはプロパガンダを担当する。こんな理解が正しいと思う。

戦争をプロデュースする主体はマスメディアではない。あくまでも「時の権力者+支持基盤」である。

故に、権力を有した指導者が拡大を欲すれば、即ち「侵略」となり、停戦をこころざせば、即ち「平和」を築く努力とされる。この点は、当人たちの説明やまわりの解釈とは関係なく、ロジックとしてそうなる。

2014年9月2日火曜日

年齢差の限界-教えたり、教わったり?

小生がむかし某官庁に入って働き始めたころ、最上層部にいた人は60歳前後だった。小生とは30歳以上も違う。まるまる一世代上の先輩で、自分の両親よりももっと年上だったのだ。

30歳も年齢が違ってしまうと一緒に仕事をすることがない。そもそもトップ層の人たちは個室にいて、顔を見る機会もそう頻繁にはないものだ。小生がやっと仕事に慣れてくるまでには、みな退職してしまった。指導をうけ、いろいろな恩恵をうけたのは、小生よりも20歳、というより10歳前後先輩であった人たちである。その前後の人たちからは、本当に色々なことを教わった。一人前になったのはすべてそうした先輩のお蔭である。

いま某大企業の人材研修セミナーが本務先の大学であり、小生も「ビジネスエコノミクスとビッグデータ」というタイトルで一部を受け持っている。全体は1か月間のコースになっていて、小生は今週の午後の部を担当している。で、今日はその二日目だった。

昨日の初日は、夏の疲れが残っていたのか、時間管理が最悪で、言葉も滑らかに出てこず、ゴルフでいえば「OB」という有様だった。今日は、エネルギー補給と喉の渇き防止をかねてポカリを持参し、教室の黒板にはタイムスケジュールを大書し、タイムラインに沿って進めることを徹底した。そのお蔭かどうか知らないが、今日はまあフェアウェー・キープという出来栄えだと思っている。受講者は、しかし、みなすべて40歳前後である。まったく接点がないとまでは言わないものの、<同時代感覚>というものはない。一体、タメになる話をしているのだろうかと疑問を感じる。同じ目線でコミュニケーションができるのは、相手が40歳そこそこであれば、せいぜい40代終わりから50歳にかけての人物であろう。

父親から戦時中の話しをきいてもピンとこなかった。ましてや祖父から戦前期の水練場(=スイミングスクール)や東京・霊巌島で船を降りたときの印象をきいても、感覚を共有することは無理というもので、言葉の内容だけが記憶の倉庫にしまわれるだけだったことを覚えている。これは仕方のないことである。学問の話し、ビジネスの話しなら年齢を問わず役に立つというのもどうだろう。世代が違えば、当たり前の挨拶も当たり前ではなくなる。社交マナーも全く違ってきている。師弟関係、先輩-後輩関係、すべて移り変わっている。学問の進歩もあるので、勉強したことが違う。基礎知識があまりに違うのだ。当然、主義も思想も哲学も違うだろう。いま仮に渋沢栄一がタイムスリップをしてきても、現代の世で役に立つ話はあまり聞くことができないのじゃないかと思う。

人は誰でもアンテナをもっているものだが、その受信可能範囲は案外狭いものだと思っている。

× × ×

今日のセミナーが終わって、ヤレヤレと帰宅する途中の道すがら、まだ6時だと言うに空ははや薄暗くなっている。本当に日が短くなってきた。日中こそ暑いが、北国はもう秋である。あと一月もすれば、コートがほしくなり、それから少しすると雪虫も飛び始めるに違いない。