2017年8月21日月曜日

覚え書: 政治参加機会は平等であるべきか、平等になっているか?

民主主義の下では、誰にでも選挙権が与えられる普通選挙が欠かせない。と同時に、誰もが公職(特に議員や知事、市長など)に立候補できる被選挙権をもつことも大事である、これは歴史や政治学、高校以下の授業「公民」でも強調されているので周知のことだろう。

ただ「公職」とはいっても、国公立大学長や中央官庁の事務次官や局長、あるいは地裁所長や地検・検事正、警察署長や税務署長などに誰もが自由に立候補できるわけではない。学位などが求められることがあるし、組織内現役であることが求められることも多い ― とはいえ、国立大学では原則的に公募が行われ出来る限り参加機会の平等が図られていることも付け加えてよいかもしれない。

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誰もが参政権をもち、誰もが公職に就く権利を有するとはいえ、まさか「非常識なバカ者」が当選するという事態はこれ自体歓迎されてはおるまい。まあ考え方によっては、権力者に「とんでもない愚か者」が当選してしまう事態もまた、民主主義のコストであって、民主主義を維持するためには耐えるべき不幸な事態であると、こんな見方もあるかもしれないが、おそらく少数派であろう。

合法的に選出されたヒトラーやマッカーシーなどのレベルに至らないまでも、ダメな国会議員、好戦的な大統領、常軌を逸した知事などは十分出現可能である。とはいえ、こんな種類の人物にも他と平等に当選する可能性を与えるべきであると本気で考えている有権者が多数いるとは(小生には)とうてい思われない。もし平等に当選する可能性を与えよというならクジを引くのが一番だが、とんでもない人物が紛れ込んでいるのにクジを引かせようとは誰も考えまい。つまりそんな「問題のある人物」には当選させたくないのである。

こう考えると、普通選挙と言い、民主主義とは言っても、誰もが平等に同じだけの政治参加機会を有するべきだと考えているわけではない。特に被選挙権についていうときは、「誰でも」と考えているわけではなく、「適任者」を選抜しようと考えているのであるから、問題は民主主義というより、「選挙」は最適な人材選抜方式であるのかどうかということになる。「選抜」という以上、言葉の定義上、望ましい人物と望ましくない人物を区別(≒差別)する意思がそこには含まれている。

投票する立場からは平等に参加できているように見えるが、実際に選ばれるのは誰かという側からみれば、平等では決してなく、選ばれやすい立候補者と選ばれにくい立候補者に分かたれる。「能力主義」なのだと言えば一見合理的だが、能力を測るのであれば選挙という方式を用いる必然性はない。能力評価を客観的に行う方がよいのだ。なので、立候補する立場に立とうとするとき、参政権の平等という言葉は(現在の日本社会は)多分に欺瞞であると思う。

もし選挙される側に存在する実質的な不平等を理にかなったことと認めるのであれば、選挙する(=投票する)側における望ましい区別(≒差別)を認めるまで、あと一歩しかない。有権者を限定したり投票権の数や内容に区別を設ける制限選挙である。目的が「選抜」であるなら、選抜精度・民主性・コストの側面から最も社会的合理性をもつ方式を採用するべきである、ということになる。実際、世の中は大きく変わってきた。激しく変わってきた。今後、どう変わっていくか誰にも分かるまい。

・・・このような考察が民主主義社会を根本的に変質させる危険な考え方であることは言うまでもない。政治参加機会の平等に努力することは民主主義社会であり続けるための必要条件である。

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もし最高裁が考えているように、住んでいる都道府県によって選挙における一票の重みが違うことが憲法上の平等規定に反すると考えるのであれば、被選挙権、いや被選挙権という言葉に含まれているはずの実質的な参政権が社会のあらゆる階層に現実として平等に与えられているかどうかにも目を向けるべきではないだろうか。これも合理的な問題だと思うのだ。

社会の行方を決めるのは、実際には立候補し、当選し、公職につく人物たちに限られるのだから。投票権はいくら平等でも、公職につく可能性が実質的に不平等であれば、政治参加の機会が平等に提供されているとは言えないのではないか。

とすれば、現に国会議員の少なからぬ割合が親から地盤を世襲した二世、三世議員である現状をみれば、裁判員決定方式と同じにして、たとえば市会議員、都道府県議会、国会議員の議席の何割かは、全住民に平等な参加機会を与えるため抽選で決め、議員歳費を支給し、議会開催時の出席は有給休暇消化に参入しない。論理からいえば、こんな措置も必要になるのではないか。

・・・もしこんな議席決定方式が国会の円滑な機能を阻害すると、「それは無理です」と反論するなら、選挙区ごとの定数配分もまた国会の円滑な機能のためには必要なのだ、と。それは国内政治が必要とすることなのだと。そんなロジックになるのではないか。

都道府県ごとの、というより選挙区ごとの一票の重みの違い云々は、参政権平等を考える問題群の中のたった一つの(恐らくあまり重要ではないが、数字で「見える化」されている)問題でしかない。そう思っているのだ、な。

多くの論点の中のたった一つに注意を集中することは、正しい判断を得るには有害であると思う。

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