2017年8月6日日曜日

科学・芸術と政治の埋められないギャップ

最近は多様な分野で仕事をしている人がマスメディアに登場し、自らの信条や哲学、政見を語ることが増えている。

政治評論家ばかりではなく、社会の出来事について科学者や芸術家のものの見方を視聴することは、確かに清涼感をもたらすもので、それが悪いというつもりは全然ない。

しかし、話題が政治になると学者や芸術家の発想の仕方と話題の性質とがまったく異質で、かみあっていないと感じることが非常に多い。なにも政治には素人だからというのではなく、切る刀と切られる肉がまったく合っていない、そんな感覚なのだな。

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学者にとって非常に重要なことは、細部における違いに注意することであって、そんな細かな違いを徹底的に考えることが新しい考え方や理解の仕方、新たな概念につながることが普通にある。細かな違いを発見すること自体が一本の論文になることも多い。大局に当てはまっている基本的な大枠は、大体は共通の理解として得られていて ー もちろん、そんな大枠がひっくり返ることも何百年に一度はあり、パラダイム転換と呼ばれている ー そんな基本的な観点を検証しても、まずは面白い結果は出てこないのだ。というか、巨大なパライダイム転換の始まりもまた、やはり理論と事実との細かく、小さな不一致が動機になることが多いのは、ケプラーによる楕円軌道の着想やアインシュタインによる特殊相対性理論の例を引くまでもなく、科学者であれば誰でも知っていることだと思う。だからこそ、多くの科学者は細部に執着する。それが第一歩であり、日常的な習慣になっているはずだ。

芸術家もそうではないのかな、と想像している。ささやかな、細やかな、ともすれば見逃しやすい事象に愛情を注いで見つめる姿勢から美の発見に至るものではないだろうか。大きなもの、普通にあるもの、頻繁にあるものは、これまでに何度も作品化され、テーマとしては陳腐で月並みなものになってしまっていると思う。

作家や哲学者、更には伝統芸能や医師、職人さんたちを含め、一般に高度に文化的知性的な活動に従事する人たちは、社会の出来事を語る際にも一人一人の人間の思いに目を向けることが多いのは、自分の仕事と取り組むときの精神がそこに現れているからだと思う。

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しかし、「政治」を語るとき、そういう細部、つまり少数例であったり、可能性であったり、ディーテイルであるような側面に執着する発想はまったく噛み合わないのではないかと。そう思ったりもするのだ。

そもそも「民主主義」を支える土台ともいえる「選挙」は、これ自体が100パーセント統計的な方式であり、一人一人に着目するというよりは社会全体の傾向を大雑把にとらえるのが目的だ。というより、民主主義という概念には最初から(国民を一個の政治的意思決定主体とみなせば)「国民」の大勢を統計的に把握しようとする意識が核心として含まれている。

まあ、上のような視点に立てば、「待機児童問題」や「いじめ問題」がいつまで経っても解決できないでいるのは、行政が民主的に進められていない証拠とも言える。が、解決できずにいるのは、予算制約など供給側の事情にもよる。

事情はいろいろある。が、ともかく正解があるのなら「政治」は要らない。行政機関が専門家に依頼すれば正解をみつけてくれる理屈だ。正解を探していては解決できず、解決に長い時間をかけていては、多数の人が困る、そんな場合に「政治」が必要になる。そうではないか。一口にいえば「政治」は全く科学的ではない。問題が政治的であるとは、(科学が利用される場がまったくないというわけではないにせよ)科学によっては結論は出ない問題であると言うこととほぼ同意義である。そうではないか。

しかし科学的でないというなら、史上初めての"Data-Driven-Management-System"の成功例といえるQC(=品質質理)のコアである「PDCAサイクル」と「重点指向」。まずは重点課題を選択し、ターゲットを定めて、解決への第1歩を実行せよというQC哲学も決して科学的とは言えないだろう。脚気患者が多くて困るなら、海軍がやったように「イギリス海軍では脚気患者がいないので、同じものを食することにしよう」というのが、正解ではないまでも有効な対応であったわけで、これを森鴎外のように『脚気の原因が不明であるのに食事で解決しようというのは科学的でない』と言っていては、解決には近づけなかったのだ。「政治」をマネジメントとみれば、「それは科学ではない」というのはそういう意味だ。

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小生が予測する未来の政治とはこんなものだ。「理想」ではなく、「夢」でもなく、こちらの方が選ばれる可能性が高いのではないかという単なる「予想」だ。

社会問題を政治的に解決するときは、関連するビッグデータをAI(=人工知能)に検証させて、ベスト・レコメンデーションを提案させる、その提案について人間が議論し、追加的条件を入力し、AIを学習させてレベルアップする、こんな方式が未来の政治システムになっていくのだと思っていて、そうなっていけば「政治の統計化」は目に見える形で進んでいくに違いない。これまた現れるべき技術革新ではないかと思う。

現代という時代に「面壁十年」や「即身成仏」を敢行する宗教家はもう滅多におるまい。巫女が託宣を下して政治を行なっている国はもう聞くことがない。時代が進歩したからだと言うのが正しいものの見方だ。あと百年もすれば、国会議員などのプロの政治家は職業としては二流・三流になっているかもしれず(今でもそうかもしれないが、これはまた別途)、もしそうなれば人類社会がそれだけ進歩したという証である。

が、今はまだそこまでは行っていない。なので、いずれにせよと言ってもいいが、政治的な解決が求められている時に「一人一人の気持ちに寄り添って・・・」という視線は結局は問題の性質と噛み合わないのであって、「普通の人は・・・」という冷淡な視線で問題を考えるのが実は本筋だろうと。どうしてもそう思うのだ、な。

「赤ひげ」のような人間的情愛も大事だ。しかし、高度医療を可能にする医療設備とそれを広く利用可能とする社会制度の設計が現実にはもっと大事である。どこかで何かを早く決めなければならないとすれば、QCのようにデータ・ドリブンで決めるしかないだろう、というのが本日の要点である。


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むしろ政治問題の解決を考える際にもっとも注意しなくてはならないのは、与えられた問題に対して<正解>を追求することではなく(正解などそもそもないのが通常である)、中でも正解だと思われるその解決策が生み出していく間接的影響(=戦略的効果)をあらかじめ、予測できる限り予測しておくことである。これは、何も対ソ戦略としてはベストの戦略と思われた満州事変が、結局のところ日中戦争への端緒となり、対米戦争を選択させ、国家崩壊につながっていったという、この歴史的事実を思い出すまでもないことだ。が、この面でも<政治的人工知能>のレベルアップによって人類の知的状況はずいぶん改善されるだろう。


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