戦争に神頼みを持ち込むと、太平洋戦争を戦った日本の「神風待望」と変わりがなくなる。
迂闊に開戦した対イラン戦争の出口が見えなくなったトランプ大統領。かたやイスラエルと米国内のキリスト教福音派 、こなたアメリカ国内で過半数を優に超える戦争反対派。どちらにつくべきか?
アメリカはいま政権丸ごと《迷える子羊》になってしまったようだ。で、ホワイトハウスに牧師団が慰労目的で訪れ、みんなで祈りを捧げている映像も公開されている・・・
ただ、残念なことは、こうして祈りを捧げている主の御名は極めて宗派ローカルなものである点で、敵方のイランには何も響かないのが弱いところだ。
信仰はカントも洞察したように《美と崇高に関する感情》がどこかしらで関係するもので、理性とは異なり人類に普遍の心の(あるいは頭の?)作用ではない。
経済学者のBrad DeLongがsubstack.comに寄稿している記事を読むようにしているのだが、今朝はこんな下りに目が行った:
What warrant do we have for any belief or even hope that there is any sort of arc tending the world toward justice? And if they were, shouldn’t that properly terrify us all? And do we not—looking around these days—have even less warrant for any belief or even hope that there is any sort of arc tending towards any sort of mercy?
But the big question: How does that matter as we wake and go about the deeds that it is proper and fitting for us to undertake each day?
世界を正義へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠はどこにあるのだろうか?もし存在するとしたら、それは私たち全員を恐怖に陥れるべきではないだろうか?そして、今日、周囲を見渡すと、世界を慈悲へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠は、さらに薄弱になっているのではないだろうか?
しかし、大きな疑問は、私たちが目覚めて、毎日行うべき適切でふさわしい行いをする際に、それが一体何の関係があるのかということだ。
Source: substack.com
Author: Brad DeLong
Date: Apr 04, 2026
URL: https://braddelong.substack.com/p/reading-fred-clark-holy-saturday
神に祈りを捧げる人が、ただ「あいつらは危険だ、気に入らない」という理由で奇襲をして他人を殺害し、プロスポーツに興じる庶民がただ自分の生活を楽しんでいる二つの情景を見比べると、どちらが「適切でふさわしい行い」をしているのか分からない人はいないだろう。DeLongは当たり前のことをそのまま書いているだけである。
親鸞の弟子・唯円が師の言葉を記録した『歎異抄』の一節を連想している所だ:
「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、
「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、
「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。
「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。
しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、
我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。
URL:https://xn--6quo9qmwi.com/tannisho13.html
人の悪行は、その人が前生から継承した「業」とこの世に生まれてから巡り合った様々な「縁」が結びついて、その人の意志となり行為へつながった結果である。
こう書くと、人には《独立した人格》、《自由意志》、《実践理性≒良心》がないという趣旨に受け取れるが、確かに仏道では《凡夫》は《煩悩》に常に支配され、その煩悩は「無始」、つまり無限の過去に由来する。煩悩を滅却して《菩提心》に到達するなど、凡夫にはまず無理である、と考える。だから、成り行きによっては「意図せざる悪行」を行いうるのである。
しかし、日本独特の、というか中国発祥とも言えるが、浄土系他力本願思想では、極悪人であっても、凡庸な凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信じ、一向に(=ひたすらに)阿弥陀仏の名を称えることによって、死後は極楽浄土へと救済される。
「死後に救済」というのは、物質的身体に関するものではなく、そこに宿っていた精神的エネルギーについてである。輪廻転生思想では「今生」の次に必ず「次生」がある。次生で再び苦しい生涯を送り、再び死ぬよりは、次は生死を超越した純粋の精神的存在に生まれ変わりたい。そういう意味である。高校生向け(それとも中学生向け?)哲学書として世界的ベストセラーになった『ソフィーの世界』でも、主人公・ソフィーと哲学の先生・アルベルトは、宇宙の実空間とは独立した次元に転生して肉体を持たない純精神的存在になったが、ちょうどこれと同じようなイメージである(と勝手に思っている)。
もしも輪廻転生、でなければ素朴な「霊魂不滅説」を根底で認めておかないと、すべての生物は死ねば無になると理解するしかなくなる。物質だけが実在して、精神的実在はない。だから、生きている間に、好きなことをして、言いたいことを言えたのは、炭素を主とする高分子化合物が「うまい具合に結合して」物質自らが意志を持ち、自由に移動したり、音声を発したり、論理をマスターして考えたりできていたのである、と。このような「唯物論」を信じる立場にいる、ということになる ― 小生は何年か前に転向して今ではこの立場にはいないが。
まあ、どちらの《神話》を信じるかという選択であります。
親鸞の悪人正機説はラディカルであるが、実は師・法然も同様のことを語っていたという事実が最近になって確認されたようだ。ただ、『一紙小消息』では逆のことも書いているので、法然という人は改革者特有の幅広さをもっていたのかもしれない。没後、弟子たちが多くの流派を創っていったのも「むべなるかな」と言える。
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