とすれば、平均寿命が永くなる、長生きできる国というのは、幸福な国を築くための一里塚である。私たちはそう思ってきたのではないか?では、長寿社会の到来は、疑いもなく社会に光をもたらしてくれるのだろうか?正面からそう問いかけると、必ずしもそうは言い切れない、そう思うようになった、最近。長生き社会には光もあれば、陰もある。それは誰もが知っているはずなのだが、誰もが光の部分だけを語りたい。そんな心理を持っている話題でもある。
× × ×
むしろ高齢化社会の陰をリストアップするほうが容易なくらいである。
まず高齢化社会は貧富の格差を半ば自動的に拡大する。日本の所得(資産)不平等度は1980年代以降、上昇トレンドを描いているわけだが、この主要因として高齢化が挙げられていることは周知の事実だ。少し古いが総務省統計局が作った資料をみても、年齢が上がるにつれて、同じ年齢層の中で不平等が目立つようになる。ちなみに、2000年前後で日本の不平等度は、北欧諸国よりは不平等、ヨーロッパの大国並み、アメリカよりは平等。そんな位置にあった。最近時点の数字は中々ないが、規制緩和が進み、それと同時に急速な技術革新によって産業構造が大きく変わる時代には、世界共通で不平等化が進む傾向があるので、相対的ポジションはそれほど大きく変わっていないと予想してよいと思っている ― そもそも不平等度は統計の取り方で非常に違った数字になり、実態はとらえにくいものだ。
ともかくも長生きをする人が増えて、高齢の人が社会の高い割合を占めるようになると、大きな格差が自動的に目立つようになる。最初の5キロでは接戦をしているマラソン走者も、ゴール手前では大きな差がついてくる。それと同じ理屈だ。
長生きをすると、有病率が高くなる。厚生労働省の患者調査だが、30~34歳と70~74歳で10万人当たりの有病率を比較すると、(少し古いが)前者が3300人、後者が15000人。壮年期から老年期になると5倍も病人が増える。まあ、当たり前のことである。
年齢別の自殺率を見よう。最も自殺率が高い年齢層は50歳代、次に70歳以上、それから60歳代である。日本の自殺率高止まりの背景として高齢者の増加をあげても差支えはない。
但し、幸福感には各世代ごとの個性というか、特徴もある。以前、内閣府から公表されたディスカッション・ペーパーにこの点が紹介されている。その中に下のような結果がある。元データは国民選好度調査の満足度指数である。
図をクリックして拡大してご覧頂きたいのだが、青い矢印はいわゆる<団塊世代>の満足感であって、上図全体としては各年齢層の満足感がどのようであったかという中で、団塊世代の数字がどのように推移してきたかを伝えている。そんなグラフなのである。
これを見ると、時代を通して、団塊世代が生活満足感のボトムを一貫して形成している。他の世代は、団塊世代よりは高い満足を感じながら暮らしている。そんな事情が見て取れるだろう。面白くもあるが、やっぱりなあ、そんな感懐も覚えるのだ。
いま少子高齢化の中で高齢者の比率が非常に高くなりつつあるのだが、その高齢者の中で団塊世代の人たちが増えてきている。その人達が持っている低い満足感が社会全体の満足感を決定しつつある。そんな事情もあると思われる。
それでは寿命が永くなることの光の面というか、その恩恵は何であろう。実を言うと、小生、大変申し訳ないというか、小生自身がこれから高齢層への門をくぐっていく階におり、情けなくもあるのだが、正直を言うと、長寿社会のメリットを中々思いつかないのである。しいて言えば、人生経験の長い人たちが多数を占める社会は、社会的暴走をすることが少なく、平和を守り、何事にも成熟した判断ができるようになるのではないか。そんな風に考えることはある。企業経営の現場でも永年苦労をしてきた先達の意見は、決して軽んじて聞くべきではないことは、色々な場で確認されてもいる事実だ。しかし、全ての高齢者が年少の後輩に貴重な助言を提供しうるのかといえば、亀の甲より年の功とはいうものの、人数が増えてくると助言も多様になり、どれを信ずれば良いのか不確定になろう。有益なコンテンツとノイズが混じって、その分信頼性が落ちるわけだ。やはり、70歳を迎えるのは古より稀なり、というように長老的先達の実数が少なかったことが、経験知の価値を高めていたとも言えるのではなかろうか。
× × ×
小生が少年の時には55歳が定年で、平均寿命は65歳程度であったと記憶している。仕事をやめて、概ね、10年くらい悠々自適の暮らしをしたわけだ。恩給だって、まあ、10年くらいは支給してくれるかな、そんな状況である。15歳まで義務教育で、それから働き始めるとすれば、40年働いて25年は扶養してもらう。各年齢層が同じ数であっても、大体二人が老人ないし子供を養えばよい。実際には老人の数は少ないので、4人、5人が一人の扶養者を養う、そんな感覚であったろう。現在は、高学歴化しているし、若い人達の失業率も高い。定年は60歳が多いだろうか。基本的には25歳位から60歳まで働くとして35年間は生産活動を行う。平均寿命が80歳になるとすれば、残り45年間、人生の半分以上は非現役だ。土俵には立たない。そんな数字になる。こんな算数を、今日の明け方、たまたま目が覚めて、何となくやったのですね。
カミさんとも、時折、話すのだ。平均寿命が65歳から80歳になったとして、追加される66歳から80歳までの月日は人生の幸福をどの程度増やすのだろうかと。
こうして考えると、長寿社会の到来は、日本の誇るべき社会的成果だとよく引き合いに出されるのだが、その光と陰の部分を熟考しなければならないのではないだろうか?
× × ×
社会が進化していくときは、どこかで価値の転換が必要になる。その点を先日来の投稿で記してきたのだが、
生とは何ぞや?
人生の意義とは何ぞや?
日本人の死生観とは何ぞや?
この事柄について、今後ますます一層、日本人は考えることを迫られるのではないか。そう思うのであります。野中・戸部他の「戦略の本質」は名著「失敗の本質」から20年を経過した後に発刊された続編と言える新著だ。そこで強調されていることは「戦略とは、第一に真の目的を明らかにすることである」。そこから説き起こしている。定まらぬ死生観と定まらぬ人生観。これでは、生きたいと思う人生も定まらず、送りたいと思う生活も定まらず、エネルギー戦略も定まらず、結局はお上の仰ることに盲従する結果になるのではなかろうか?お上の指示するエネルギー戦略をギブンとすれば、国民が就職するべき産業や企業も自ずから決まってくる理屈である。何を最高善として意識するか?あんな風に生きたいよねと、どのように思うか?日本の社会組織の価値尺度は、やはり日本人の死生観を基にしているのではないかと思うのだ。
戦前期、昭和10年代の軍国主義の下では、日本人の命は鴻毛の如き価値。1銭5輪の値打ちでしかなかった。国を思って戦いに死すことは名誉であるという価値尺度。終戦と共に価値転換を強制された。戦後日本では全ての人の命は地球よりも重く、死は何よりも忌避するべきこととなった。政府が公布する憲法ではこのような規定(修正:理念)で差し支えないが、それとは別の国民の心情として、いかなる死生観に立って生を全うするのか?
日本文化の真髄としては、吉田兼好が徒然草第七段に記してあるように
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥ずる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。こんな風な心情がいま現代においても心の奥底にはあるのではあるまいか?
このことは、予想外に日本の将来を決めるのではないかなあ、とそんな風に思いめぐらす今日であります。
0 件のコメント:
コメントを投稿