21世紀を特徴付けるキーワードとして何年か前に同僚と議論したことがある。
その時は、(DAIGOの流儀で言えば)"RE"、つまり宗教(Religion)と民族性(Ethnicity)を挙げたことを覚えている。その後、イスラム国(IS)の暴虐ぶりが報道され、やっぱりなと思ってきたが、上の三つに加えて「情報」というものを真剣に考えておかないと、未来がさっぱり見えてこない、と。そう思う今日この頃である。
フェースブックは、(投資先の一つでもあるので)これからも頑張って欲しい。フェークニュース(≒流言飛語)批判にどう対応するかで今は苦労しているようだが、未来の社会インフラを構築したいというZuckerbergの抱負は是非実現してほしい、と。本当にそう思う。
トランプ米大統領が既存大手メディアを(ほぼ毎日)厳しく批判しているが、その批判は100%政治戦略であると受け取るのは現実にそぐわない(ような気がする)。小生がアメリカに在住していたとして、トランプ候補に同調したかと言えばそれは違うような気もするが、確かに今の新聞やテレビ、ちょっと編集ぶりが酷いよね、と。これでは「情報ダイジェスト」にならないよね、と。世間をゆがんだ方向に誘導しているみたいだね、と。そんな感覚を覚えることは実際にままあって、ある意味ではアメリカ国民一般にあると言われる「メディア不信感情」を共有できている(ような気もするのだ)。
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小生も、時代の流れには抵抗できず、いつのまにかFBのページ・フィードでフォロー中の報道を毎日何度かチェックし、それと併せてフォロー中のグループの投稿状況、それから知人達の近況をニュースフィードからざっと見る。そんな習慣になった。フォローしている先には、WSJも日経もCGTNもあるし、英紙"The Telegraph"も独紙"FAZ.NET"もある。さらに、世界中の散在している何人かの美術家も趣味として見ている。
FBにGoogle+が加わると、World Economic Forumや日本のNHK、朝日新聞社、The Economist、Zeit Onlineなどが入ってきて、併せて仕事に必要な"R"や"Python"のコミュニティの動向が次々に画面に表示されてくる。
投稿には、詳細な情報が記載されている資料へのURLが含まれていて、そこに入ると、さらに関連情報が表示されてくる・・・。という具合に、FBでなくともいいがSNSを使うと効率良く、バランス良く、情報を整理することができるのだ、な。どんな時事的なテーマについて、でもだ。しかも、付加機能が加速度的に向上しつつあり、5年先にはどんなサービスを提供してくれているのか想像もつかない(想像もつかないという点では、分野は違うがAmazonもそうだ)。未来の社会インフラを目指すというFBの戦略軸は大げさではないと思うのだ。
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さて、日本国内のテレビでは(NHKニュースではなく、「ニュースもどき」の方だが)、この時期、東日本大震災に関係した話題が増えている。が、それより優先しているのが、まだ「森友事件」だ。ちなみにFBやGoogle+の投稿を概観すると、「森友事件」関係の情報はゼロではないが、内容相応の比率を占めるのみである。今日のテレビでは韓国の大統領弾劾判決は関心外。北朝鮮のミサイル4連発は何日か前にちょっと触れただけ。昨日登場したキム・ハンソルは今日は消えている。まあねえ・・・、何をどうするかはプロデューサーが決めるのだろう。
なお書きで付け足しておきたいのは、(不思議なことに)テレビで放映される国会・予算委員会の審議内容がテレビのワイドショーとシンクロしているようなのだ。これって、テレビ・ワイドショーの「国会ジャック」というべきか、「国会の堕落」というべきか。言葉を知らない。
それはさておき、
テレビでも何度か紹介されている問題。福島県から避難した児童が避難先でいじめにあっているという状況である。放置している学校側と黙って我慢している児童本人、気がつかなかった両親。たまたま見つけた作文で真相を知る。「いじめ」一般をとりあげる時の共通のフレームワークを今回も使っている。
ただカミさんとも話した。(小生も経験したことがあるが)転校生というのは一般に友人ができにくいものである。特に、方言が残っていて周囲の児童との異質性が目立ち、年齢的にも小学校上級生から中学生にさしかかる時期は、仲間になかなか入れないものである。
避難してきた児童と、その他一般の転入生とを比較して、確かに福島県から避難してきた児童は「いじめ」に遭いやすいという事実がデータから確認できれば、やはり日本の学校に、というか日本人全般の側に問題が隠れている。弱者に同情するのではなく、反対に虐めてしまうような傾向がある、と。そう言えるのだと思うが、ただ「福島県から避難した人で虐められている児童がいる」という事実を感情的に訴えるだけでは説得力に乏しい。そんな話をするとカミさんは憤慨していたが・・・。
上の問題は統計的には有意性とか、「サンプルセレクション」という問題に関連するのだが、この関連で言えば、以前に一度話題にした風評。たとえば『福島県では突然鼻血を出す人が増えている』という『美味しんぼ』がとりあげた「伝説」。あるいは『福島県の児童は確かに甲状腺癌発症率が高まっている』という風評。これらの話題も「非常に重要」といえばそのとおりであり、是非とも定期的に報道番組やその他ワイドショーで近況報告してほしい事柄である。
ところが、不思議なことに森友事件にはこれほど集中するのに、『科学的データでみる福島県の復興』などという特番はこれまで見たことがない。もちろん、医学的見地から直ちに結論が出るというわけでもない(参考資料)。とはいえ、ビッグデータの時代である。いじめ問題にしても、除染問題にしても、鼻血問題・甲状腺癌問題にしても、かなりのことは資金を投入すれば多くのことが分かるはずであるし、そもそも必要な数値データ、文字データ、画像データ、その他非構造化データはデータベース化されていなければならず、また可能な限りオープンデータにしておくべきでもある(小生が寡聞にして知らないだけかもしれないが)。『被災地で知りたいことがほとんどわからない状況になっている』、『これは東電の不作為なのか、政府の不作為なのか?』。これだけでも十分ワイドショーの話題になるはずではないか。多数の関心もあるはずだ。それをしないのは、する意思が既存大手メディアには(ほとんど?)ないことを意味する。
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ハッキリとは分かっていないが、日本にとって「重要な話題」に、多くの人が関心をもつ、問題意識を持つように、いま分かっている情報を提供していく。メディアに期待されているとすれば、これも役割の一つ、というか最も重要な役割ではないか。
制作側の戦略的意図は分からないが、このところの"ニュースもどき”、いや厳密に言い換えると「△△ステーション」や「ニュース○○」、その他ワイドショーのように「ニュース+付加価値」で構成される番組がすべて該当するのだが、これらは明らかにフィクションやフェークニュースではない。かといって隠れた事実を取材して紹介するドキュメンタリー番組でもなく、明らかにニュース関連番組なのだが、素材を加工して「楽しませる」、「興味を刺激する」というサービスがついたハイブリッドな編成になっている。批判ではない。ただ、観ているとそう思うのだ、な。こう書くと「それが悪いのですか?」と聞かれそうだが、ザックリといえば「フェーク・ドラマ」になっているような印象を受けてしまうのだ。
確かに近年の視聴者はメディアからリアリティを求める。たとえばスポーツ中継。特に国際試合が高視聴率をとるのはそれが先ずドラマではなく現実であり、その現実をリアルタイムで観ることができる。それが陶酔感をもたらすコアである。スポーツ中継番組は、生のゲーム展開に加えて、解説や関係映像をパッケージングすることで、リアリティにドラマ性を付加している。付加というより強調・拡大し精神興奮作用を高めている。だから一層成功する。このところ(特に民放で)隆盛を極める"ニュースもどき"を支えている番組制作戦略に、スポーツ中継番組の編成技術が活用されていないと誰が断言できるだろう。
(これは誰でも同意すると思うが)スポーツ中継番組は決してスタジアムでみる「生のゲーム」そのものではない。「フェークニュース」とは逆の「フェークドラマ」である。だから(それを求める人にとっては)ゲームそのものよりも面白いのだ。
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スポーツは(特にプロスポーツは)元々エンターテインメント産業なのだから、放送側がいいように加工してもよいのだとも言えるが、社会経済のあらゆる事実を素材として切り取って、自由にドラマ性を付加して、ニュースとして放送するビジネスモデルは、小生は(自主?)規制するべきだと思うようになった。
なぜなら、ネット化社会の中で自然に形成される情報の淘汰(=真偽や社会的重要性のスクリーニング)プロセスの中で、エンターテインメント性を帯びたメディア発の「お話し」は無視できないほどの影響力をもった参加者になるからであるし、現にもうなっている。
視聴率上昇には効果的な戦略かもしれないが、「情報」の提供になっているかどうかという点では、正直なところ疑問符をつけたいのだ。週刊誌のように自由市場で自由に営業するなら何の問題もないが、放送法で法的に保護された下では事実と虚構との間の厳格な線引きは曖昧にしてはならないと思う。
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