2017年3月5日日曜日

メモ: ポピュリストとメディア・大衆の関係とは?

ドイツ・ナチス政権は大衆の支持により合法的に権力を奪取したことはよく知られているし、政治学・社会学分野においては永遠の研究テーマになっている。同政権がプロパガンダ、つまり「世論操作」を最重要視した。これも周知のことである。

同じ「永遠の研究テーマ」の中に、中国で吹き荒れた文化大革命と毛沢東の親衛隊であった紅衛兵が数えられるだろう。なぜあれほどまでに大衆の支持が毛沢東個人に集中できたのかという疑問は政治学の永遠の難問であるには違いなく、大衆の支持が紅衛兵運動に結実したのか、紅衛兵の活動が大衆の支持に結びついていったのか。小生はまだ10台で、いまも専門外のことは熟知しないが、いまだに不思議である。ただ『毛沢東語録』とその中の「造反有理」、「百家争鳴、百花斉放」が当時の若い世代が愛用したキーワードであったことは鮮明に覚えている。公式メディアまでも敵対勢力の側にある時、一つの小冊子であっても有効な宣伝ツールになりえると洞察できた点は流石である。

よく考えると、現中国政府の恥部である「(第二次)天安門事件」は指導部が共有していた文化大革命への恐怖の記憶から発生したのだろうとほぼ確実に推測できる。

権力を奪取したわけではないが、戦後アメリカのマッカーシズム(1950年代)も当時アメリカで生きていた人間のリアルな思考や感情を追体験するのが難しい、それでいて社会の構造を変えるほどの力を発揮した政治運動であったという点では、これまた大衆の爆発の一例だろう。日本の60年安保闘争はやはり本質的に学生運動でしかなかったと思う。

まだまだありそうだが、これら全てを総括する用語が、今はやりの「ポピュリズム」である。そして、ポピュリズムは大衆(=社会の圧倒的多数者)が共有する「怒り」や「恐怖」に支えられる。これも周知のことだ。

そんな大衆が共有している「怒り」や「恐怖」の本質をつかむことができる人間は、即ち「政治の天才」ということになるだろう。日本の第二次安倍政権は、失敗者にして、かつ必敗の候補者と見なされていた安倍氏が「あとはない」という気構えで自民党総裁選に立候補したことから始まるが、「アベノミクス」にせよ「憲法改正」にせよ、大失敗に終わった民主党政権への「怒り」が追い風になっていたのは確かだろう。ま、比較的分かりやすい例かもしれない。

アメリカでトランプ候補が当選した時、ポピュリズムの不合理性が多くの専門家によって(英国のEU離脱国民投票とともに)指摘されていたが、エマニュエル・トッドはあれもまた「民主主義」の表れであると語っている ― イコールの関係ではなく、民主主義(=デモクラシー)はポピュリズムを包含するという論理関係にあるという趣旨だと解している。つまり、ポピュリズムが支配する社会はすべて民主的であるが、民主主義だからといってポピュリズムであるとは限らない。

いまGoogle+ですすめてきたフルトヴェングラー指揮のブルックナー第7番第2楽章のアダージオを聴いている。1942年のベルリンフィルだ。これがまた実に素晴らしいのだ、な。ベストワンだと思ってきたマタチッチと並ぶか、それを超える。周知のようにフルトヴェングラーはナチス政権が支配したドイツに留まり続け、そのため戦後になって戦争協力者の疑惑をもたれた人である。帰国した友人の証言、戦時の言行をつぶさにみれば非難はあたらないとの判断から音楽活動を続けられたものの、大衆(=周囲の人々のほとんど全て)の攻撃によって自国が変容していく惨状にある種の絶望を感じたことは、同様の経験をまったくしたことのない小生も漠然と想像できるのだ、な。ひょっとすると、昭和初年の恐慌の時代、急速に右傾化し、国粋主義化する日本社会に漠然たる不安を感じた祖父の世代ならより切実に共感できるかもしれない。

こういう「想像」とは、つまるところ「天安門事件」を弾圧した共産党指導部の心理につながるものである、と。そうとも感じる。

最近の「トランプの100日」の下で、同氏の敵は大手マスメディアである。もしも今後、マスメディアがトランプを攻撃し、ほとんど大半のアメリカ国民がメディアに同調しトランプを非難するようになり、その潮流の中で大統領弾劾が発議され、新たな政治家(といっても規定上まずはペンス副大統領になるが)が次期大統領候補として現れるなら、そちらの方が真のポピュリストであることは、言葉の定義からして間違いのないところだろう。

が、既存メディアのメディア性は10年前に比べれば大きく低下している。ツイッター、フエースブックなどのSNSが台頭したためだ。

ミュージカル『ジーザスクライストスーパースター』の中でユダが熱唱する下りを思い出す。
そちらじゃ、みなさんどうですう~~
お釈迦様はお元気でえ~~
マホメットは、山をほんとうに~、動かしましたか、あれは宣伝かあ~~
いまなら世界を動かせえたあ、昔のイスラエルにはテレビもないしさ〜
まあ、確かにトランプ大統領は最新のメディアを愛用する(ゲッベルス宣伝相がラジオを愛用したように)イノバティブなポピュリストなのだろう。大統領から広く大衆にダイレクトにメッセージを届ける。いわば卸売・小売りをスキップして農家からダイレクトに消費者に新鮮な野菜を届ける。これと同じモデルでありいわば「産地直送型政治プロパガンダ」だ。"Facebook Live Trump"と検索すれば、選挙運動中に作成された多数のライブ資源(一例)を見ることができる。こういう場は10年前には存在しなかった。今後の職務遂行上のツールとしてフェースブックが活用されることは確実である(一例)。というか、今後はこちらがメインになるかもしれない。

このまま新しいプロパガンダ・モデルが成功し、拡大し、いつの間にか既存の大手マスメディアが信頼、いやメディア性を失い、いつしか年収1千万円程度の評論家が物言うご談義の場にシュリンクしていく運命にあるのかもしれない(存在感を失うことなくたとえ現状維持を続けてもメディアとしての競争には負ける)。あるいはトランプ大統領が大衆の支持を失い、新たなポピュリストが登場するかもしれない。いずれにせよ、その結果はメディア産業の競争優位性がどこにあるかという一つのエビデンスになると思われる。

0 件のコメント: