本ブログでも何度か投稿しているが、毎月23日は母の祥月命日で近くの寺から住職が、最近は若住職が来ることの方が多いが、拙宅に来て読経をして帰る。
『仏説阿弥陀経』がメインとなるが、時間の制約からその抜粋を読んで終わることが多い。
それで、月末は父の祥月命日になるので、今度は小生が毎日の読経に加えて『仏説阿弥陀経』の全体を読誦することにした、というのが最近になって始めた新しい習慣である。
明日から東京に行くので、今日、それをした。時間的には30分かかるから、日常勤行式よりは余程長くなる。確かにこれでは、毎月の月参りの中で住職が阿弥陀経全文を読むわけにはいかない。
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『仏説阿弥陀経』という経典は、いわゆる「浄土三部経」の一つであり、比較的短い。大体、15分強で読み終わるが、木魚ではなく切割笏をカチカチと鳴らしながら10分未満で読んでしまう時もあるようで、実際、Youtubeにはその様子がアップされている。とにかく速読みで、最後には僧侶の声がそろわず、混然とした音声になる。1951年のバイロイト祝祭でフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮してベートーベンの第九を演奏したときの生録がレコードになっているが、フィナーレに向かって怒涛のようなアップテンポが進むなか、崩れたアンサンブルの混然とした音響で一瞬に終わる終わり方は、演奏会場の興奮がそのまま伝わってくる思いがしたものだ。阿弥陀経の速読みもそれに近い所がある。
『仏説阿弥陀経』でマーカーを引くとすれば、人によって考えの違いはあるだろうが、小生なら
不可以少善根 福徳因縁 得生彼国
この部分1か所である。この意味は
少々の善行を重ねて良い徳を積むとしても(それだけでは)極楽浄土に生まれることはできない。
というものだ。
要するに、煩悩に支配され、濁世に生きている普通の人(=凡夫)がこの世で行い得る善なる行為は、タカがしれたものであり、そういうこと(のみ)では浄土へ往くことはできないということを言っている。
自力思想と他力思想の違いは、正にこの点にある。
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いま関心があるのは、ギリシア哲学と(特に)紀元1世紀前後に体系化された大乗仏教思想との関係である。北インドのヘレニズム世界でギリシア人とインド人は、かなりの長期にわたって混住しながら、また商取引、貿易取引を通して、相互に影響を与えながら高度に発展した文明社会を築いていたことが分かっている。
関係しているかもしれないし、関係がないのかもしれないが、
知識とはそもそも何であるか?智恵とは何であるか?
について考察した『テアイテトス」の中で、プラトンはこんなことを述べている。偶々アンダーラインを引いたのが英訳であったので、そのまま引用してメモしておきたい:
The elimination of evil is impossible. ... But it is equally impossible for evil to be stationed in heaven; its territory is necessarily mortal nature - it patrols this earthly realm. That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there. The escape-route is assimilation to God, in so far as this is possible, and this assimilation is the combination of wisdom with moral respect for God and man.
和文として少々不満はあるが、Google翻訳の結果を下に残しておこう:
悪の根絶は不可能です。...しかし、悪が天国に留まることも同様に不可能です。悪の領域は必然的に死すべき自然であり、この地上の領域を巡回しています。だからこそ、ここからあちらへできるだけ早く逃げるように努めるべきなのです。逃げ道は、可能な限り神に同化することであり、この同化は知恵と神と人間に対する道徳的尊敬の結合です。
プラトンの思想の要点は
人は自ら神の似像であらんと努力するとき自ずから善である
というもので、そのとき人は真理と美にも近づける。こうした骨格が色々な作品の中にうかがえる。上の引用文の最後にも「神との同化」を目指すべしという根本が表れている。しかし、この世界には悪があり、悪から逃れることは不可能である。その悪は、神の世界には存在しない。悪の非存在は阿弥陀仏国と同じである。人は善であるために、(また真理を知るために、美を得るために)神の国になるべく早く逃げるべきなのだ。こういうことを『テアイテトス』の中でも言っている。
こう考えると、上の英文の中の
That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there.
という箇所だが、"from here to there"、つまり「此土から彼土へ」という意味であるから、『仏説阿弥陀経』の
応当発願 願生彼国
と、思想としては同じである、と。そう小生には思われるのだ、な。
ちなみに紀元前1世紀前後に編纂されたと言われる『ミリンダ王の問い』の中で、仏僧・ナーガセーナは、また別のことを語っているようだから、ギリシア文化到来前に発祥・発展した原始仏教(及び小乗仏教)とヘレニズム文化の浸透後に体系化された大乗仏教とは、思想を支えている哲理に違いが生じている。どうもそう思われるのだ、な。
それで、いまはこの辺の思想発展史にちょっとした関心があるわけだ。