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2025年3月29日土曜日

断想: 大乗仏教思想とギリシア思想との関係を調べよということか

本ブログでも何度か投稿しているが、毎月23日は母の祥月命日で近くの寺から住職が、最近は若住職が来ることの方が多いが、拙宅に来て読経をして帰る。

『仏説阿弥陀経』がメインとなるが、時間の制約からその抜粋を読んで終わることが多い。

それで、月末は父の祥月命日になるので、今度は小生が毎日の読経に加えて『仏説阿弥陀経』の全体を読誦することにした、というのが最近になって始めた新しい習慣である。

明日から東京に行くので、今日、それをした。時間的には30分かかるから、日常勤行式よりは余程長くなる。確かにこれでは、毎月の月参りの中で住職が阿弥陀経全文を読むわけにはいかない。

『仏説阿弥陀経』という経典は、いわゆる「浄土三部経」の一つであり、比較的短い。大体、15分強で読み終わるが、木魚ではなく切割笏きりかいしゃくをカチカチと鳴らしながら10分未満で読んでしまう時もあるようで、実際、Youtubeにはその様子がアップされている。とにかく速読みで、最後には僧侶の声がそろわず、混然とした音声になる。1951年のバイロイト祝祭でフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮してベートーベンの第九を演奏したときの生録がレコードになっているが、フィナーレに向かって怒涛のようなアップテンポが進むなか、崩れたアンサンブルの混然とした音響で一瞬に終わる終わり方は、演奏会場の興奮がそのまま伝わってくる思いがしたものだ。阿弥陀経の速読みもそれに近い所がある。

『仏説阿弥陀経』でマーカーを引くとすれば、人によって考えの違いはあるだろうが、小生なら

不可以少善根ふかいしょうぜんごん 福徳因縁ふくとくいんねん 得生彼国とくしょうひこく

この部分1か所である。この意味は

少々の善行を重ねて良い徳を積むとしても(それだけでは)極楽浄土に生まれることはできない。

というものだ。

要するに、煩悩に支配され、濁世に生きている普通の人(=凡夫)がこの世で行い得る善なる行為は、タカがしれたものであり、そういうこと(のみ)では浄土へ往くことはできないということを言っている。

自力思想と他力思想の違いは、正にこの点にある。

いま関心があるのは、ギリシア哲学と(特に)紀元1世紀前後に体系化された大乗仏教思想との関係である。北インドのヘレニズム世界でギリシア人とインド人は、かなりの長期にわたって混住しながら、また商取引、貿易取引を通して、相互に影響を与えながら高度に発展した文明社会を築いていたことが分かっている。

関係しているかもしれないし、関係がないのかもしれないが、

知識とはそもそも何であるか?智恵とは何であるか?

について考察した『テアイテトス」の中で、プラトンはこんなことを述べている。偶々アンダーラインを引いたのが英訳であったので、そのまま引用してメモしておきたい:

The elimination of evil is impossible. ... But it is equally impossible for evil to be stationed in heaven; its territory is necessarily mortal nature - it patrols this earthly realm. That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there. The escape-route is assimilation to God, in so far as this is possible, and this assimilation is the combination of wisdom with moral respect for God and man.

和文として少々不満はあるが、Google翻訳の結果を下に残しておこう:

悪の根絶は不可能です。...しかし、悪が天国に留まることも同様に不可能です。悪の領域は必然的に死すべき自然であり、この地上の領域を巡回しています。だからこそ、ここからあちらへできるだけ早く逃げるように努めるべきなのです。逃げ道は、可能な限り神に同化することであり、この同化は知恵と神と人間に対する道徳的尊敬の結合です。

プラトンの思想の要点は

人は自ら神の似像であらんと努力するとき自ずから善である 

というもので、そのとき人は真理と美にも近づける。こうした骨格が色々な作品の中にうかがえる。上の引用文の最後にも「神との同化」を目指すべしという根本が表れている。しかし、この世界には悪があり、悪から逃れることは不可能である。その悪は、神の世界には存在しない。悪の非存在は阿弥陀仏国と同じである。人は善であるために、(また真理を知るために、美を得るために)神の国になるべく早く逃げるべきなのだ。こういうことを『テアイテトス』の中でも言っている。 

こう考えると、上の英文の中の

 That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there. 

という箇所だが、"from here to there"、つまり「此土から彼土へ」という意味であるから、『仏説阿弥陀経』の

応当発願おうとうほつがん 願生彼国がんしょうひこく

と、思想としては同じである、と。そう小生には思われるのだ、な。

ちなみに紀元前1世紀前後に編纂されたと言われる『ミリンダ王の問い』の中で、仏僧・ナーガセーナは、また別のことを語っているようだから、ギリシア文化到来前に発祥・発展した原始仏教(及び小乗仏教)とヘレニズム文化の浸透後に体系化された大乗仏教とは、思想を支えている哲理に違いが生じている。どうもそう思われるのだ、な。

それで、いまはこの辺の思想発展史にちょっとした関心があるわけだ。

2025年3月28日金曜日

断想: 東京が失った国宝級文化遺産は多い

最近は、メシの種としてきた統計分析より、このところの投稿にも反映しているが「形而上学的話題」に何だか関心が移って来たので、このブログも《統計》、《経済》でなく、《趣味》に偏ってきた感じがする — 「趣味」というより意識としては「余業」だが。

とはいえ、観察不能な抽象的な対象について何かを考えながら書いていくのは、結構疲れる作業である。考えなくとも、感覚的に鮮やかなものに触れたい。

理屈につかれるというか、そんな気分の時は、「エッセー」に限ると思う。司馬遼太郎の『街道をゆく』などは、抽象的な話題は全く含まれておらず、その点では最適だ。

これが通俗的に感じる時は、小生は永井荷風の文章を読むのが好きである。

目の前の情景を文章で表現したり、その時々に変化する心持ちを、心のままに淡々と表現していくには、日本語は実に「使える言語」だと思う。鴨長明の『方丈記』を英訳すると、単なる災害レポートのようになるような気がするし、清少納言の『枕草子』を英語(と限ったわけではないが印欧系言語)に翻訳すると、面白さが半減するような気がする  —  ウェイリーの"The Pillow Book of Sei Shonagon"は残念ながらまだ読んだことはないが。


今日は、岩波文庫『荷風随筆集(上)』所収の「霊廟」のページをパラパラとめくってみた。この霊廟というのは、東京芝の増上寺にある徳川家霊廟の事である。今は、戦災と戦後の困窮で境内もずいぶん狭小になって、「霊廟」も「徳川将軍家墓所」という情けない名称になってしまったが、荷風が生きた時代は、倒幕後の明治・大正であっても、それでもまだ「霊廟」という名前で通用していたのである。


翌日、自分は昨夜降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番はずれなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事はすでに『冷笑』と題する小説中紅雨こううという人物を借りて自分はつぶさにこれを記述したことがある。

自分はおごそかなる唐獅子の壁画に添うて、幾個いくことなく並べられた古い経机を見ると共に、金襴きんらん袈裟けさをかがやかす僧侶の列をありありと目に浮かべる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響き出るのを聞き得るようにも思う。また振り返って階段の下なる敷石を隔てて網目のように透彫すきぼりしてある朱塗りの玉垣と整列した柱の形を望めば、ここに居並んだ諸国の大名の威儀ある服装と、秀麗なる貴族的容貌とを想像する。そして自分は比較する気もなく、不体裁なる洋服を着た貴族院議員が日比谷の議場に集合する光景に思い至らねばならぬ。


上に引用した文中、「日比谷の議場」というのは「国会議事堂」のことである。永井荷風がこの作品を執筆したのは明治44年で、一方現在、永田町にある国会議事堂の竣工式が行われたのは昭和11年(1936年)11月7日で時の広田弘毅内閣の時である。議事堂建設予定地は既に明治20年に伊藤博文内閣の閣議で現在地に決定されていたのだが、戦争や関東大震災など色々な事情で工事が遅れ、この間はいま経済産業省が建っている敷地に仮議事堂が建てられ、そこで毎年の帝国議会は開かれていた。だから、いわゆる「大正政変」でデモに繰り出した群衆が国会を取り囲み、時の桂太郎内閣が総辞職するに至ったのは、日比谷(というより今の霞ヶ関1丁目になるが)にあった(小ぶりの)仮議事堂で起きた事件である。荷風が上の「霊廟」を執筆したのは、大正デモクラシーが現前するよりももっと前の時代にあたる。

ただ、近代日本を嫌悪した永井荷風であったが、旧・増上寺を見ることが出来たのは、いまの増上寺の惨状と比べればまだしも幸いであった。荷風は、 


すでに半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼となしてしまった。それ以来、新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代わり、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして、一刻一刻、時間の進むごとにわれらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。


と結んでいる。軍部も右翼も左翼も大嫌いな文化人・永井荷風ですら、こんな感情をもっていた。これは戦後・日本でなく戦前・日本に生きた日本人が全体として共有していた感情であったのだろう  ―  そうでなければ負けると分かっているアメリカと戦争する勇気など出なかったに違いない。

上の「東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼に」というのは、上野・寛永寺のことであり、明治維新後に長州人・大村益次郎が作戦指揮して、寛永寺に立てこもる彰義隊を砲撃をもって討滅した「上野戦争」をさしている。寛永寺にあった徳川家霊廟もまた豪壮華麗な建築芸術であった(はずだ)―もとより写真などが残っているとは思えぬが。


昭和の事を語るなら昭和の風景を体感として共有しなければ何を語ってもそれは現代人の空想だ。明治44年の世間を語りたいなら、永田町に国会議事堂はなく、芝には増上寺が(ほぼ)元の形のままで建ち、首都高速道路も高層ビルなどもない風景を眼前に思い浮かべながら喋る必要がある。

実は、永井荷風がみた増上寺も江戸・旧幕の増上寺と同じではなかった(はずだ)。明治政府が強行した神道国教化が廃仏毀釈運動を招き、増上寺の大殿も放火の被害に遭った。それでも、嵐が過ぎ去った明治44年当時のままで残っていれば、文字通りの国宝群であったろう。更に、寛永寺が明治政府軍の砲撃を免れ、幕末の混乱のさなかに火災で相次いで焼亡した江戸城・本丸御殿、二の丸御殿もまた現存していれば、どうであったろう。東京が伝える日本文化の価値はいまとは比較を絶して不朽のものであったに違いない。
産業はその気になれば興せる。実際、戦後日本の高度成長はその好例である。豊かさも再現可能である。しかし、一度失った文化遺産は二度と造りなおせない。コピーはコピーでしかない。取り戻すことはできない。と同時に、自らのアイデンティティもまた文化遺産と共に消えるのだ。

勝海舟による「江戸城無血開城」は、結局のところ、

やった甲斐がなかった

こんな結果で終わったのが、近代から現代に至る日本の歴史になった。

戦後日本に生きている日本人は、多くの遺産が失われた日本に生きている。

荷風が言いたいのは、多分、こんな事だろう。 


この週末、芝と上野の桜を見に行く予定だ。


2025年3月24日月曜日

ホンノ一言: 首都圏マンション価格急騰をTVでもとりあげ始めたようで

石破首相の10万円商品券は、世論を盛り上げるには話が小さすぎる。大体、この位の金額なら民間企業の社内でも似た事例があるかもしれない。TV局でやっていたとすればブーメランだ。それが怖い。かと言って、ノロ・ウイルスは話題として地味。国民民主党や立憲民主党、維新の会といった「野党」も、何だかイマヒトツ世間受けが悪い、「全野党連合」なんてものが出て来れば政権交代にもなるわけで、これは一択で決まりだが……。どうやら、それもなさそうだ。兵庫県知事の斎藤知事。これも下手にとり上げると、火傷をするリスクがありそうだ。トランプ大統領の関税引き上げも、どう説明するかで、スポンサーの怒りを買ったり、そうかと思えばアメリカ大使館から怒られるかもしれぬで、何だか怖い。愛媛と岡山の山火事も(今のところ)どうなるか分からない・・・

だから「ニュース情報番組など止めればイイのに」と思うのだが・・・そんな訳なのであろうか、ようやく首都圏内マンション価格の暴騰が今朝のモーニングショーでとりあげられていた。


視ていると

現在のマンション価格急騰ですが、需要があるから上がるわけです。思うに、これは投機ではなく投資だと思うンです。税をかけて価格を抑える検討に入っているらしいンですが、ナンセンスですヨ。持っていてダメなら、貸せばイイだけですから。つまり物件として優良なんです。だから買う。それで上がる。合理的ですね。投機ではなく投資です。

経済畑には素人のレギュラー・コメンテーターがこんな風な事を(正確に覚えてはいないが)語っていた。

イヤイヤ、何とも言えない「デジャブ感」がありました。

1985年の『プラザ合意』で急速な円高が進行した。それに危機感を感じた日本政府は、超低金利政策で景気下支えに打って出た。円高と超低金利の日本社会で盛り上がるのは、当然、製造業ではなく、不動産開発。特にリゾート開発であった。全国の土地・建物の価格は1980年代後半に急騰した。「バブル景気」である。カネ余りの中、金融市場も盛況を極め、後に「不良債権」となる「投資プロジェクト」にどんどん融資されていたのもこの時代だ。

日銀としては、資産価格の暴騰を抑えるため金融引き締めに転じるべきであったが、ちょうどその当時、《経済大国・日本》のユーフォリア(=陶酔感)に浸っていたのだろうか、

不動産価格の上昇は、国際金融センターとしての東京の地位向上から不動産投資が増えているためであり、買いは実需であって投資である。投機ではない。故に、現在の不動産価格上昇は合理的に説明できる。政策的に抑えるべきではない。

こんな見解を述べる経済学者、エコノミストがいかに多かったか。記憶している人は、次第に少なくなりつつあるかもしれない。

バブルがバブルでないと錯覚する背景には、何らかの理由、根拠が常にある。40年前のバブル景気では、《経済大国・日本》の酩酊感が価格上昇を当然と思わせた。いまは、《円安日本の割安感》が合理的説明を可能にしている。

チューリップの球根がバブルを起こしたこともある。(ほとんど)架空の企業の株券がバブル投機の対象になったことも歴史にはある。

バブルは時として合理的である。

上がると期待できるから買う。結果として、上がるのが資産価格バブルである。

首都圏のマンション価格上昇は、既にバブルである可能性は高い。賃貸運用した場合の投資利回りから(ある程度は)見当がつくはずだ。国内大都市圏のマンション価格を比較分析すればイイだけだ。既にミクロデータからバブルを検知する方法も研究開発されている。

しかし、1980年代後半の「バブル景気」の最中でも同じであったが、

これは合理的な価格上昇で、投機ではありません。

こんな意見がメディア、世間で多数派を占めている限り、バブルは続く。これがバブルのロジックである。そもそも近代社会で、《バブル》という経済現象と《マスメディア》という情報産業の勃興とは、シンクロしているのである。

バブルは中央銀行による金利引き上げが特効薬であり、天敵とも言える。しかし、

中央銀行は、いまは金利を引き上げにくいのではないか?

と。そんな憶測を生むような政治経済的・国際関係上の情況があれば、その分だけバブルは強勢になる。バブルは「山火事」に似ているのだ。

バブルは、「これはバブルではないか」というリスクを世間が感じた瞬間に(=1、2か月以内に)、急激に崩壊に転じる。

バブル崩壊は、ある時点で、(懸念は広がっているにせよ)予想困難なタイミングで始まる。


今回の首都圏マンション価格も、そんな風に下落へと転じて、上昇局面は終わる。結果として、バブルであったか否かは、むしろ事後的に判明するものであると、小生は思っている。

少なくとも、

政策的にマンション価格上昇を押さえ込む

と。本気で価格押さえ込みを断行する程の大胆な(というより無知な?)政治家・専門家は今の日本にはいない(と思う)。いわゆる

あつものに懲りてなますを吹く(の正負逆バージョン?)

そう、観ているところです。


故に、既にバブルなのであれば、行くところまで行く。早めに手を打てる人はいない。最後まで行って40年の昔と同じく、再び崩壊する。後処理も遅れる。迅速な後始末を実行できる政治家が日本にはいない。こう予想したりしています。

歴史は繰り返す。それは以前の経験を忘却するのが人間であるからだ。こう考える次第。


あとは、瀬戸内の山火事の広がりと備蓄米放出後の米価、大阪万博の客の入りくらいかネエ・・・。予算案の年度内成立は地味だからナア・・・。

リスク回避を是とする現代日本のメディア業界。安全に「放送可能」なイシューを探すのに苦労しているTV報道局現場の(涙ぐましい?)苦労が伝わってくる今日この頃であります。

【加筆修正:2025-03-25】


2025年3月21日金曜日

断想: 海外文化が日本にやって来ると、何でも日本化されるというが・・・

 前々稿の最後にこんなことを書いた:

だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。

いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。 

仏教思想だけではない。何でも日本が海外文化を輸入すると《日本化》される。 オリジナルの海外文化を本物とする視線からみると、日本に来て歪みが生じたことになるのだろうが、必ずしもそうではないと、最近になって思うようになった。

毎日の読経では『日常勤行式』の折本を使っているのだが、表側のメインは『無量寿経』の「四誓偈」あるいは『仏説阿弥陀経』を読誦する。そこでは、前々稿でも話題にしたように智恵と学理の修得が大前提になっている。ところが、折本の裏側に入ると法然の『一枚起請文』が柱となって、「一文不知の愚鈍の身」となることが求められる。しかし、最後になって和文から漢文に戻ると、再び「四弘誓」で学理の追求が求められるわけだ。

単純にいって、これは矛盾ではないかと、(現時点では)感じる。ベクトルが違うのだ。

日本に来ると、精緻な仏理を理解するべきところで、逆に一文不知の愚鈍さが要請される。禅には禅の哲理があるのだが、日本に来るととにかく「不立文字」が強調される。カントやヘーゲルが一大体系を構築して、人間理性の限界や無限の成長を精緻に考察した一方で、日本で誕生した本格的な哲学である西田哲学(及び京都学派)では、

モーツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。

という一文が『善の研究』にあったりする。

そして

実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである

このように極めて、主観的で、直観的、正に客観と主観が一体化するような心境こそ「最高の境地」であると。《道》というべきか、《悟達》というか、こんなレベルに憧れる日本人は(今でも)結構多いのではないだろうか?

概括的な印象論でしかないが、日本では面倒で、学問的な議論は、嫌がられることが多い。いわゆる「神学論争」はヨソでやってくれ、というわけだ。

《真理》は、ソクラテスやプラトンが行った「対話」や「論争」ではなく、ただ心の直視によって、認識しうるものである。そして、真理は一つである。

こんな《真理観》(?)に共感する日本人が多いのではないだろうか?

もしこんな印象が的をついているなら、この傾向が原・日本語の言語としての貧困さから生じたものであるか、大半の日本人の感性に由来するものなのか、これこそ日本的精神であるのか、小生には明らかでない。

海外で生まれた思想や哲学が、日本に来ると極端に振れて、よく言えばシンプル、悪く言えば原始的になるのは、真理は一つ、真理は清らかで、誰にとっても明らかで、疑いの余地がないものである、と。どうもそうであるらしいのだ、な。

だからこそ、本来は煩悩を断ち、(物理ではなく)仏理を徹底的に理解し、仏国土の存在を深く信じ、そこへ往くことを願うことが求められているにも関わらず、善人・悪人を問わず誰でも「信じて」、「願えば」、それでイイのだ、と。オリジナルの浄土信仰ではありえない程にラディカルな救済思想が日本では誕生した。

それは、

これが真理である以上、他の考え方は排するべきである。正しい行動はシンプルでなければならない。

と。

何だか、日本人の割り切り方の特徴が、宗教面にも反映しているのじゃあないか。そんな風にも考える今日この頃です。



2025年3月19日水曜日

ホンノ一言: 石破首相による10万円商品券贈与をどう見るかという話し

石破首相が新人議員に一律で10万円の商品券を贈ったというので、結構な騒動になっております。

ごくごく内輪の事情がなぜマスメディアに出てくるのか?

この辺で色々と揣摩臆測しまおくそく(?) ― これも大変古い用語である ― が飛び交っているようで、そのうち週刊誌か何か「その辺の」記事になるかもしれないし、下らないのでならないかもしれない。

民放TVは(例によって)電波を使った井戸端会議を繰り広げているようで・・・



ただ正直、思うのだが、ずっと以前、甥が国家試験に合格したとき、小生は10数万円の腕時計を贈ったし、別の甥には大学合格祝いにMacbook Proを買ってあげたことがある。人生一度の目出たい達成を親戚の一人としてお祝いしてあげたかったというそれだけの事であるが、税制上は贈与という事になるわけだ。これが特に問題にならないのは、贈与税基礎控除内であることと、社会的慣例内でもある(と思われる)、さらに親族内のやりとりだから問題はないのではないか、マアマア、こんなところが理由になるのであろう。

しかし、何が社会的慣例かという意識には個人差がある。叔父から10数万円のパソコンを買ってもらったという事実がそもそも腹立たしいと感じる人が世の中にはいるかもしれない。たとえ親類であっても、それは優遇・不遇を分けるソーシャル・コネクション(の一つ)であるから理念的には排するべきなのだ。故に、合格祝いだからといって甥にこれほど高額な物品を買い与えるのは不公正である。余裕があれば慈善的な寄付に充てるべきである ― 本当に「べき」ならもはや「寄付」とは言えない理屈だが、これはまた別の話し。こんな主張が目に入ったとしても、(いまの世相なら)想像の範囲内でもある。

商品券ならダメで、新人議員個々人に(仕事で使う)PCを進呈していれば良かったのか?そんな話でもあるまい。

血縁関係はなく、党総裁と党所属の新人議員だから問題なのか?……、これも違うと思います。

与野党問わず、時の議長・副議長連名で、一律に10万円の商品券をお祝いに進呈するというなら許されたのか?

・・・よく分かりません。

初当選という事実は新人議員にとって《人生一度の慶事》と言えよう。大先輩からお祝いしてもらって『これもらったらダメなんじゃないの?』と怪しみ、不安に感じる議員が本当にいたのだろうか?誰かに言われて、はじめて心配になったのじゃあないか?違うかな?

ある民間企業が、新入社員に一律でオーダースーツのお仕立券10万円を贈ったとしたら、世間はその会社と社長を非難するのだろうか?周りの経営陣が株主代表訴訟を心配するだろうか?・・・分かりませぬ、何しろ令和時代というのは、こんな世相ですから。


ある「法律専門家」は、政治資金規正法に違反する行為となる可能性があります、と。そんなコメントを公衆に向けて発信しているが、小生は法律の条文は現に機能している社会的慣行を壊すこと自体を目的としてはいけないと考える立場にいる。なので、この種のコメントをする人は「法匪」にしか見えない。

プラトンは『国家』の中で、こんな攻撃的タイプの御仁を、毒針をもった《オス蜂》に例えている。実に秀逸な比喩ではないか。安定した国制が危機に陥るとき、常に《オス蜂》が飛び回る様を表現力豊かに描写している。


・・・まったく(メディア関係者のギャラと企業利益以外は?)ロクに付加価値を生み出しておらず、極めて生産性の低い経済活動としか、小生には見えない。多分、マイナスの副作用がある。合計すれば、この間、生まれた社会的価値は概ねゼロであろう。不要にして無駄である。悲しいかな、悲しいかな。空なる人生の虚しさよ、と言いたいところです。


・・・実際のところ、小生は今回の騒動は誰かが意図をもって仕掛けている騒ぎにしか見えません。前々稿でも書いたが、マア、最近目立って増えてきた「言論テロ」の一例ではないか、と。こんな印象であります。

【加筆修正:2025-03-29】

2025年3月18日火曜日

断想: 社会的な善を求める自己の信念というのは評価していいのか、という話し

先日の投稿でも

浄土に往くことを願うこと(=願生彼国)は、ギリシア哲学でいう「善のイデア」を見る(=知る)ことへの憧れと変わらない

と、そんなことを書いた。つまり、最高の(=状況や関係性に依存しない絶対的な)善をこの世界で実行したいなら、まずは最初に願うべき事がある、と。そんな「命題?」である。

ところで「善」というと西田幾多郎の『善の研究』の(遅まきながらの)読後感を本ブログに投稿したことがある。

その時は英米流の「功利主義的価値観」は(断固として)廃するという西田哲学の立場に触れていた記憶がある。

それと関連するのだが、

一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。

こういう問題があるということは西田も意識していた。言い換えると

動機が善だからと言って、結果が善いとは言えないだろう。

動機は善だとは言えないとしても、結果が善になることもあるだろう。

こんな問いかけは、当然意識するでしょう、ということだ。

先日の投稿で書いたのは、上の二番目の問いかけに関する西田の回答だった。実は、一番目の問いかけも結構重要だ。

善かれと思ってしたことが・・・

という後悔は世間には多いだろう。

これについては西田はこんな風に回答している:

個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。

真に心の中で願う社会的欲求というのは、社会の中に事実として存在する欲求なのであるから、それを欲求として意識するのは自分という一個人であっても、その願いは社会の欲求であると信じて、(断固として)行動を起こすべきである、と………

戦後になって《西田哲学》あるいは西田がリードした《京都学派》の戦争責任が(一部で?)問われる事態になったのも「ムベなるかな」と小生は思う。

これについては、Kindleのメモでこんな風なコメントを書いておいた:

このような社会観は、エリートの暴走を肯定することにもなろう。《至誠》という言葉は、煩悩を具足した一般公衆には使ってはならないとも思われる。「善」なる行動には深い知識の裏付けが必要である。だからこそ、仏教の四弘誓には『法門無尽誓願知 無上菩提誓願証』という一句がある。

いま読み直すと、

煩悩具足の凡夫に「至誠」が本当に可能なのか?凡夫の善意志に基づけば「善行為」になりうるのか?というか、「凡夫」は本当に真の「善意志」をもちうるのか? もてるなら、既に「凡夫」ではないだろう。

むしろ、善意志であろうが、利己的行為だろうが、結果が善いかどうかで善悪を判断する功利主義的価値観の方が、実用上は有効ではないか?

こう付け加えたいところでもある。

上でいう《四弘誓》というのは、浄土系宗派の日常勤行式に含まれるだけではなく、大乗仏教全体の目的として広く了解されている次のような四句である:

衆生無辺誓願度

煩悩無辺誓願断

法門無尽誓願知

無上菩提誓願証

但し、上の四句は小生が属する宗派の文言で、主旨は同じでも宗派ごとに異なった字句が使われている。

仏教でいう最高の善とは、上の最終句にある「菩提」、即ち「覚り」を指す。それには無限の学識を学び尽くす必要があるというのが第三句である。もちろん自分自身の「煩悩」は断つことが前提だ(第二句)、それでこそ社会(=衆生)を救済するという「善」を為すことが出来る、と。

西田幾多郎には悪いが、現実の社会をみる見方としては、仏教的社会観のほうが真実ではなかろうかと思う次第。

ただ、面白いのは、仏教オリジナルとしては上のような人間観、学問観、社会観を採っているはずなのだが、法然はその『一枚起請文』の中で

唐土もろこし我朝わがちょうにもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細しさいそうらわず。

と、まず最初に確言していて、学問と浄土往生とは関係がないとしている。念仏を声に出して称える事だけが必要だとしている。ここが日本仏教の最もラディカルなところで、神秘的な箇所でもある。悪意に見ると呪文を唱える魔術のようだと感じる人もいるかもしれない。実際、他力宗派にも「一念」で十分と考える一念義と何回も称えなければダメだとする「多念義」の対立があったが、一念だけ称えればよいとする一念義は念仏を呪文のように使う秘術に似ているという批判があったそうである。絶対他力の親鸞もこの系譜にある。

確かに、個人が浄土に往生することは個人にとっての善であって、社会とは関係がない事なのだが、浄土系仏教では浄土に往生した後、次は娑婆(=この世界)に戻り衆生(=社会)を救うというのが、基本的筋道である。これを「往相」、「還相」と呼んでいる。なので、個人的善ではあるのだが、「還相」までを考えると、社会的善を希求してもいるのが仏教思想である。

だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。

いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。 

【加筆修正:2025-03-19】

2025年3月15日土曜日

断想: 高度成長期とは逆方向のモメントが必要なのでは?

3月下旬から4月上旬と言えば、全国的なスケールの《大移動》が行われる。

親元を離れて上京するとか、入社式を控えて地方圏から大都市圏に引っ越すとか、あるいは社内の人事異動とか、それぞれの悲喜こもごもや運送業者の人出不足問題は別にして、色々なことを考えさせられるのも、いま頃の季節である。


「高度成長期」の定義ですら、人によって違う。が、小生は個人的には、「神武景気」のスタートから「いざなぎ景気」終焉までの期間を「高度成長」だと理解している。とすれば、1954年(昭和29年)12月から1970年(昭和45年)7月までが「高度成長期」であったことになる。

戦後日本にとっては正に「黄金時代」ともいえる時代を通して、日本人は農村地域から大都市・工業地帯へと移動していった。歴史上かつてない程の《大移動》だった。

データは省略しても可だと思うが、その大移動を支えた経済的動機は明瞭で、農村より大都市・工業地帯の方が給料がイイ、収入が増える。実に単純な動機だった。農村地域には、過剰な人が暮らしており、潜在的失業者があった一方で、この時代に勃興した「京浜、阪神、中京、北九州」といった《4大工業地帯》や大都市の第3次産業部門では、人手不足で「イイ仕事」が多数あったわけである。

そして今もなお、首都圏が人を引き付ける力は残っている。だからこそ、東京一極集中が懸念されているのだ。

高度成長期には、労働資源が地方から大都市に移動することで、地方の経済にはマイナスの作用が働いたが、人を受け入れる大都市ではプラスの作用があった。しかし、マイナスよりはプラスの方がずっと大きかった。だからこそ、日本全体で所得が増え、高い経済成長率を維持できたのである。

人の移動はこうでなければならない。小さなマイナスを大きなプラスでカバーするわけだ。

しかしながら、今もなお続く「東京一極集中」の下で、日本人の所得はほとんど増えていない。一世代丸ごとと言ってもよい程の長期間、日本人の実質所得は停滞ないし低成長を続けていて、これを日本人は《失われた30年》などと呼んでいる。

地方から東京へ人が移動して、地方ではマイナス、東京にはプラス。ところが合計すればプラスマイナス・ゼロというわけだ。東京に人が集まる効果は地方の衰退で帳消しになっている。というより、地方では過剰な流出で過疎化が進み、東京では過剰な流入で過密化が進むので、実質的には日本社会は悪化していると言うべきだろう。

その理由は明らかで、首都圏の経済活動、中でも主要部分であるマネジメント、サービス部門の生産性が低いからである。低いだけでなく、向上もしていない。

日本を代表する大企業のマネジメント能力の低さは、今回の「日産自動車」や「セブン&アイ」のドタバタ劇を見ると、容易に了解されるはずだ。あれは氷山の一角である。

日本の立法府・国会の低生産性は、その法案作成・立法の実績をみれば歴然としている ― 昨年来の兵庫県議会を知るにつけても、日本の「議会」の生産性に関する実証的な国際比較をみたいという思いがつのる。そもそもコロナ禍の3年を通して、日本社会のいわゆる「上層部」の低生産性が目の当たりにされた記憶はまだ鮮やかなはずだ。

日本の言論界、マスメディアと呼んでもいいかもしれないが、もはや「言論」と云えるような代物ではなく、

やっていることは《言論テロ》であろう

と、遠くからみていると、そう感じるのだ、な。 

サービス業も(モノではなくサービスの特性上)人口集中地域で展開しやすい。しかし、純粋な意味で付加価値を生み出しているサービス活動がどの程度あるのだろう。生産性がどれほど上がってきているのだろう。例えば、医療や介護は専門職一人当たりの業務効率は上がっているのだろうか?教育産業の生産性はどうなのか?リモート教育、リモート診療が最近でこそ広がってきたものの、大体は同じ業務スタイルのままではないかと、近くの病院で診察を請う時などはそう思う。理容・美容も同じだ。

というより、職業資格で従事者数が規制される活動は別として、エンターテインメントも含めたサービス一般。昭和20年代の農村と状況は似ているのではないか、と。いま潜在的失業者が滞留しているのは、地方の農村ではなく、大都市である。そう観ているが、違うかな?

それにしては「人手不足」だ・・・と?。

いわゆる「人手不足」は、雇用政策、社会保障政策が適切さを欠き、結果として潜在失業者をロックインして、自由な移動を阻害している厚労省による《疑似的人手不足》だ。小生はそう思っているのだが、違うかな?

大体、「人手不足」は、省力化投資を怠って来た企業経営者側のマネジメント能力の欠如を示すものでしょう。

マア、挙げだすとキリがありません・・・

高度成長期とは異なり、いくら人が地方から大都市に移動しようが、日本全体の合計でみれば、まったく生活水準が上がってこない、収入がチットモ増えてこない。これには、都市と地方の(名目ではなく実質的な)生産性格差が、(マージナルな意味で)ほぼ消失済みであるという実態的な理由がある。そう思うわけです。

大都市の魅力は、もはや根拠をなくし、単に見栄であったり刺激を感ずるという主観になってしまっている。

まとめると、

大都市圏への人の移動は、日本社会にとって、もはやプラスの結果をもたらさない。少なくとも、現時点の国内大都市の経済実態はひどいものだ。とすれば、経済的なチャンスが存在するとすれば、過疎な地方だと考えるのがロジックだ。


ただ、江戸期に自然形成されたような《地方間経済ネットワーク》、ひょっとすると《広域国際間地域経済ネットワーク》かもしれないが、それを再構築するには、情報発信が不可欠だ。情報産業の生産性を上げる必要が絶対にある。

日本は《日本語空間》であって、空間として狭小だ。故に、「知的サービス市場」では「英語空間」、「中国語空間」に中々かなわない。

とすれば、地方ごとに「差別化・深堀り」の経済運営を支える情報拠点を人為的に組織化する必要がある。

どこが「組織化」するって?

「官庁」に決まっているでしょう。新設してもイイくらいだ・・・と、今は書いておきましょう。


先ずはメディアの「東京一極集中」を廃することから始めてはいかが?

首都圏には大手新聞社、大手TV局、大手出版社、大手広告企業などが過剰に集中している。

これを地方ごとに分立させる ― 具体的システムのありかたは、また別の話題にはなるが。新聞・TV・出版産業を保護対象から外すだけで、現在の産業組織は一変するはずだ。あとは競争メカニズムが最も自然なあり方をもたらしてくれるだろう。但し、統治機構によるメディア・コントロールは難しくなる。が、これまた別の話題だ。そもそもメディアが東京に集中するなど、スパイ網じゃあるまいし、そんな産業組織で価値ある情報を日本の津々浦々に伝えられるはずがない。

求めている情報は地域ごとに異なるのだ。情報価値の地域差は極めて大きい。中央集権的配信システムでは非効率で不満が鬱積する。

北海道で暮らしていると、道外の細々とした報道は不要である。東京で制作したドラマやバラエティはマスに販売するカップ麺のような味わいで、地元の感性と外れることが多い。地域に価値を提供しないものは廃止し、空いた時間スペースで地域ごとの需要に応えればよい。

「構造改革」が望まれる。


メディア市場を含め、日本経済はいま大都市圏と地方圏で、生産性・資源配分という面で、捻じれ状態になっていると観ている。

高度成長期とは逆のモメントを働かせる時機が来ている。

ただ、高度成長は民間主導で実現したが、現在の停滞は統治機構の権力が資源配分に介入する形で生まれている ― 本質から逃げる日本のメディア産業の罪でもあるのだが。これを是正するのは、現在の政党、国会議員達の能力では極めて困難かもしれない。

日本が落ちたトラップは、実は「高齢化社会」ではないと確信している。高齢化社会でも成長へのモメンタムが生まれるのは十分可能だ。出来るはずのことが出来ていないのだ。その理由は、日本人の大半が無意識に望んでいる《社会主義的社会》にある。つまり《中央集権への根拠なき信頼》がまだ心の奥にあるのだ。実に驚きに値する。社会主義は必ず停滞する。いくら停滞しても、それがイイのだと考える。だから閉塞感を感じるのだ。

そんな現代日本観をもっている。

【加筆修正:2025-03-16、03-18】


2025年3月11日火曜日

覚え書き: エンゲル係数を見るなら、ミクロとマクロと、両方から見るべきだ

経済統計でいう《エンゲル係数》は、消費合計に占める食費の比率で、これが直ちにその世帯の生活水準を伝える指標とは言えないまでも、

毎日の食費が多ければ、やりくりがそれだけ厳しくなり、他の目的に充てる余裕がなくなる

この事実に変わりはない。

なので、国内の世帯を平均したエンゲル係数が傾向的に上昇していれば、あまり良い兆候とは言えない。生活が苦しい世帯が増えているのだろうと推測する根拠にはなるのだ。

エンゲル係数は色々な要因で上がることがありますから・・・

という割り切り方は、経済専門家としては不誠実である。

そのエンゲル係数については、つい先だっても日本経済新聞(2025年2月7日付け)が

食料価格の高騰が個人消費の重荷になっている。総務省の家計調査によると、2024年の消費支出は実質で前年比1.1%減少した。消費支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」は28.3%と1981年以来43年ぶりの高水準となった。

このように伝えている。足元の米価急騰の世情もあって、「エンゲル係数の歴史的高さ」がちょっとした話題になった。

日本のエンゲル係数は、「欧米先進国」と比べて突出して高い、と。日本が貧困化している表れである、と。そんな指摘がある。

確かに良いニュースではない。

改めて、年間収入で層別化されたデータを(e-Statを利用して)家計調査からとり、第3階層、即ち「中位層」を対象にエンゲル係数を求めてみると、2024年平均で29.1%になるから、日経報道とは概ね整合的な数値になる。

ちなみに外食と酒類を除いて食費に占める割合を求めると、上の数値は23.5%になるので、この違いはかなり大きいことに留意しなければならない。

年間収入階層別のエンゲル係数については、以前にも投稿したことがあった。足元では本年1月までの月次データが家計調査で得られているので、再計算した結果を下に示そう。


薄いグレーの折れ線は、生のエンゲル係数を3カ月移動平均した値。色分けして重ね書きしているのは、局所回帰(LOESS)で成分分解して得られた傾向成分である。年間収入階層は、"01"から"05"にかけて収入が高くなっている。各階層は5分位階級になっているので、5分の1ずつの世帯が含まれている。但し、外食・酒類を除くエンゲル係数である。

トレンドを見ると、最もエンゲル係数の高い第1階層は、本年1月時点で大体28%。中位に当たる第3階層では22~23%程度である。最も豊かな第5階層は18%というところだ。確かに、同時点で(=物価水準が与えられたとすれば)、年間収入が増えれば、エンゲル係数は低くなる。これは歴然としている。故に、エンゲル係数の高低は、(ある程度にせよ)生活水準の指標として使えるわけである。

このエンゲル係数は、どの世帯も2015年前後を境にして、それまでの横ばい傾向から上昇傾向へと動きが変わり、この10年程の間に5~6%ほど高くなった。これが2014年4月、2019年10月の二度に渡る消費税率引き上げとどれほど関係しているのか、多くの人が経済専門家から解説を聴くことはほとんどないのではないだろうか?というか、そもそも因果関係について研究が満足になされていないのかもしれない。

この辺も、普通の日本人にとって、経済学が(ずっと以前に比べて)縁遠く感じられる一因になっているかもしれない。

上図で視ておくべき点として、低収入世帯ではエンゲル係数がずっと(傾向として)上がり続けているが、高収入世帯では最高水準の高さにまで上がっているわけではない点だ。

食品価格の上昇の痛みをより強く感じているのは、やはり低収入世帯であるという認識はどうやら的をついていると言える。

家計調査は、家計に対するミクロベースの統計データである。これとは別に、マクロ統計でエンゲル係数を見ることもできる。GDP統計はマクロ統計の代表だが、GDPは国民経済計算(SNA)の一環として公表されているデータだ。SNAの付表12は「家計の目的別最終消費支出の構成」を教えてくれる。

この付表12からマクロのエンゲル係数を求めると下のようになる。



確かに、マクロのエンゲル係数も上昇トレンドを示している。ただその「上昇トレンド」は、リーマン危機が出来した2008年前後を底にしたアップ・スウィングになっていて、家計調査では目立っていた2015年以降の上昇はそれほど大きいものではない。せいぜいが2~3%程度上がっているに過ぎない。そもそもマクロのエンゲル係数は、たしかに歴史的高みに上がってきているとは言え、その高さは確報公表値のある2023暦年で19%程度である。

但し、このエンゲル係数は、目的分類の中の「食料・非アルコール」を帰属家賃を除く家計最終消費支出で割った値になっている。外食は別の目的「外食・宿泊サービス」に含まれている。

家計調査ベースのエンゲル係数と比べる時には、概念を揃える必要がある。マクロの家計消費と家計調査ベースの消費は、かなりの概念差があるのだが、大きな部分は帰属家賃(マクロの消費に含まれている)である。あとは「外食」、「酒類」を「食費」に含めるかどうかである ― そのほかにも、マクロの消費概念とミクロの消費概念には微小な差異が残るのだが、大勢には影響しない。一番目のグラフに描画した家計調査ベース・エンゲル係数は、外食と酒類を除いた数値だから、概念的には、いま示したマクロのエンゲル係数に近くなっている。


以上の点を考慮しながら、家計調査ベース・エンゲル係数の2023年平均を求めると、第3階層で23.2%である。マクロのエンゲル係数は同じ2023年に20%未満である。


この違いは、調整しきれない概念差だけからもたらされているにしては大きすぎるような気がする。

つまり、

全体として、マクロのエンゲル係数は世帯を対象にした標本調査結果より低くなっている。

こう言ってよいのではないだろうか。

この違いをみて、思うのだが・・・

マクロのエンゲル係数がミクロのエンゲル係数より低い理由は、低収入世帯が高収入世帯より相対的に増えていることだろう。具体的には、高齢化が進む中で、「年金のみで生活する高齢者世帯」が数において増加している。だから、世帯を単位として平均すると、エンゲル係数の平均値が上がる。基本的なロジックはこういうことだろうと推察している。

高齢化によって家計のやりくりが段々厳しくなるのは、ザックリと言えば、避けようがない(と小生は個人的に思っている)。

世帯平均とは別に、社会を一家族として、即ちマクロ的にみると、日本のエンゲル係数は20%未満になる。これは「海外先進国」に比して、それほど突出して高いとはいえない。これまた「経済的な真実」なのではないかと思われる。

更に、統計専門家であれば、家計調査に混じる《過小記入性(=Underreporting)》を指摘するかもしれない。家計調査は、サンプル世帯の自記入方式で集められるデータであるから誤記入、ゼロ記入の可能性を否定できない。特に臨時的支出である耐久消費財購入はゼロ記入になりやすい。だから、エンゲル係数を計算する時の分子になる食費より分母になる消費合計の過少性の方が大きくなる確率が高い。結果として、家計調査ベースのエンゲル係数は高くなりがちだ。この辺については、日本のデータを対象にした分析例もアカデミック・ペーパーとして公表されている。

いずれにせよ、自記入式で毎月「家計調査」を実施している国は少ない。国際比較には、国ごとの統計実施環境の差が大きい点を念頭に置く必要がある。


であるので、

家計調査が示すミクロの平均値だけをみて騒ぎ立てるのは、(無意味ではないが)「偏っている」とは言えそうだ。

身の回りの報道で、マクロで見た時のエンゲル係数が(一度も?)参照されないのは、(小生の目には)不可思議である ― 簡単な作業なんですが…


【加筆修正:2025-03-13】


2025年3月9日日曜日

前稿の補足: なぜ「浄土」を目指すのが善いか?「好いことがあるから」ではない

昨秋に小生が属する浄土系宗派の相伝を受けた後、平日には朝の勤行で読経をし、日曜はカミさんと拝礼をしてから写経をすることが新たな習慣になった。

勤行は、遠く遡れば『昼夜六時』、つまり晨朝(早朝)、日中、日没、初夜、中夜、 後夜の六回、行うべき行なのだが、現代に生きる凡夫なる小生は朝一発で勘弁してもらっている。

それでも、読経後は気分が晴々として、なかなか、良いものである。朝の散歩もイイが、発声しながら一念集中していると、無念無想にも近くなり、心身の健康維持にもよいのじゃないかと、今はヨカッタと思っている次第。


前稿の補足:

毎日の読経では、「往生安楽国」とか、「応当発願 生彼国土」とか、色々と出てくるが、(浄土系宗派では)「安楽国」も「彼国」(=彼岸にある国)も浄土に数多存在する国の内の阿弥陀仏国を指す言葉で、その国名が「極楽」なのである。

このような超越的世界概念の実在性について前稿では数学との類推から覚え書きを保存したのだが、存在論としては理解可能というものの、なぜそこに往くのが善いのかという点で、こんな風に書いた:

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

こんな風なまとめ方をした。

その後、上の点を考えたが、解答は一つだ:

阿弥陀仏国に往こうと願う意志は、この世に生きている内に行い得るあらゆる「善行」を超える、最高の善意志であるに決まっているからだ。 

こう考える以外に答えはない。

存在論として理解可能で、倫理として「そこへ往くべきだ」となるなら、あとは「そこへ往こう」と志すだけになる。残る問題は、日本仏教で発展した《称名念仏》という法然以来の他力宗派が強調する「念仏」が、なぜ有効なのか。残る問題はこれだけになる。

当然ながら、これについては色々な研究の積み重ねがあるようだ。


それはともかく、上の答えは(自分や社会にとって)良い結果がもたらされるかどうかで、その行為が善いかどうかを決めるのではない。善を目指す意志そのものに善の源をみる立場だ。これは英米流の功利主義よりカント以降のドイツ観念論に近い。日本の西田幾多郎が『善の研究』で展開した善の観念もそうである。西田の功利主義批判は既に投稿した中で触れている。

この関連で言うと、仏教の「阿弥陀仏国」はプラトンの「善のイデア」とほぼ同じものを指しているとも思われる ― かなりアバウトではありますが。そういえば、プラトンの『国家』の最終章には『エルの物語』があるが、あれは仏教でいう輪廻転生のギリシア版ともいえる生命観、世界観である。

プラトンは、人の幸福は善であることであり、善とは善のイデアにどれほど近いかであると、こう考えていたが、善のイデアに憧れる意志と阿弥陀仏国に往きたいと願う意志とは、小生にはほとんど無差別にみえる。

ギリシア思想は、紀元前三世紀からゼロ年頃まで続いたヘレニズム時代に、東方へ拡散し、特にパキスタン、北インド、アフガニスタン辺りのガンダーラ地方ではギリシア文明の影響が顕著にみられる。この地域は、仏教が発祥・発展し大乗仏典が編纂された地域とも重なっている。仏典編纂とヘレニズム文化は時代的にも重なっている。当時の北インド地方では、サンスクリット語、ギリシア語、中国語その他が混在して使われていて、文字通りに国際化された社会があったに違いない。インドで生まれた仏教思想とギリシア思想との関係は、掘り下げて勉強すると面白いテーマだと思う。

毎日の日常勤行式の中の『四弘誓』には

法門無尽誓願知

という一句があるが、正に真理を知ろうとする動機によって、最高の善に近付くという、共通の発想が色々な文脈の下で重なっている。そんな気がする。

以上、前稿の補足まで。

2025年3月6日木曜日

断想: 数学的虚構が実在するならば・・・宗教的実在も?

愛読書の一つにプラトンの著作があるというのは、本ブログで度々述べてきた ― プラトンとは学理上の競争者であるアリストテレスの方は、どうも波長が合わなくて、ほとんど読んだことはない。そんな小生が、長い間、現実に即した実証主義に共感を感じてきたのは、それ自体が矛盾ではあった。

その意味では《民主主義》とか《平等主義》よりも前に、《プラトン主義者》であるのかもしれないネエと改めて感じていたところ、ずっと前にも似たような下りを読んだことがあったナアと思い出したのが、ロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(="The Emperor's New Mind")である。原本は1989年、訳本は1994年に刊行されている。著者のペンローズは宇宙論上の業績で2020年にノーベル物理学賞を受賞している。

要するに、AI(=人工知能)なるものに対する批判的論評である。当時は、まだ最近の「生成AI」は未登場であったが、それにもかかわらず、あらゆるAIに対して当てはまる根本的問題意識に、物理学の視点から解答するものになっている、解答というより疑念になっている、こういう受け取り方はまだまだ可能だと思う。

なので、AI進化の発展史はまだまだ続く、今後も多くの山があり壁があり峠があると、予想しておくべきだというのが、小生のAI観、ロボット観である。

その中の第3章『数学と実在』という章であったが、末尾にこんな文章がある:

……数学については、少なくともより深遠な数学的概念については、他の場合に比べて、玄妙な外的な存在を信じる根拠はずっと強い、と私は感じないではいられない。このような数学的アイデアには、芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる、有無を言わせない独自性と普遍性がある。数学的アイデアが無時間の、玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった。そのためにこの見解はしばしば「数学的プラトン主義」と呼ばれている。

つまり数学的概念は数学者の空想ではなく『実在』である、と。実在する場所の特定は、未解決としても、とにかく「実在」している。こうした世界観は確かにプラトン的である。即ち、数学的な概念はプラトンの《イデア》であって、この世界にはなく、《イデア界》に実在する、と。こんな哲学のことである。

その前の下り

彼ら(=数学者)は現実的な実在性のない、精巧な心的構成物を作り出しているに過ぎないが、……それとも数学者はすでに事実「そこに」存在している真理 ― 数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理  ―  を本当に暴き出しているのだろうか。

… …

数学には、「発明」というより「発見」という言葉の方がはるかに適切な事柄がある。…このような場合には、数学者は「神の業」にぶつかったのだという見方をすることもできる。

このタイプの思考と、プラトンが『国家』や『ゴルギアス』で展開している思考は、まったく同じ形式を共有している。

1572年にラファエル・ボンベリが『アルジェブラ』と題した著作の中で、カルダーノの(3次方程式の根に関する)研究を拡張し、複素数の代数を実際に研究し始めた…

現実には「存在するはずもない」虚数が、数学で使われ始めたことをどう観ればいいかで、著者の立場を述べているわけである。


この本を読んだ当初には、まったく注意しなかったが(読書はそんなものである)、改めて読むと実に深いことを書いていたわけだ。

で、改めて欄外にこんなメモを書き加えておいた:

事実としてそこに存在する真理だが観察はされない。西田幾多郎は純粋経験による認識にだけ実在性を認める。両者の関係はいかに?鈴木大拙の「霊性」か?

人間が作ったものは全て無常で永遠のものではない。神の業は永遠に不変である。真理とは変わるものでなく、変わらないものである。

素数は人類がいようといまいと、素数はこの世界に存在していた。ピタゴラスの定理がユークリッド空間において真理であること自体は、たとえこの世界が消失しても、真理であることに変わりはない。

こんな事を鉛筆でメモ書きした。

上のメモ書きにもある鈴木大拙だが、同じ岩波文庫にあるとはいえ『浄土系思想論』は豊かな実質がこもっているが、最高峰の定評がある『日本的霊性』は昭和19年に大衆向けに刊行されたためなのかレベルが低い(と勝手に判断している)。

『浄土系思想論』の冒頭には、結論の主旨が箇条書きされているので、二点だけ抜粋しよう:

  1. 極楽(=阿弥陀仏が主宰する浄土世界の一つ)は霊性の世界で、娑婆(=現に生きているこの宇宙)は感覚と知性の世界である。ここに霊性というのは感覚や知性よりも次元を異にする主体なのである。感覚は物の世界の働きを、知性は分別をその性格としている。
  2. 極楽を知性と感覚の方面より見る限り、物質的なもの、即ち時間的・空間的となる。それではどうしても本当の「安心」が得られぬ。「安心」は霊性に属するものである。

この二つより適切な浄土観を小生は読んだことがない。

このページの上にも何かメモ書きがしてある。判読してみるとこう書いてある:

感覚と知性では認識できない。故に経験では認識できない? → カントの神と同様。霊性なる働きを人間はもっている?誰でも?霊性の働きでのみ認識できるのか?

こんな事を書いてある。

鈴木大拙は、感覚や知性で「浄土」や「極楽」の実在をとらえられない、と。そう述べている。が、この世界に存在するはずもない数概念を、数学では理性を用いて使いこなしているわけだ。

空想だと思われる数概念を使うことで、実際にこの世界の理解が深まる事象が多々ある。とすれば、この世界には存在しようがない数だが、この世界の背後、というかこの世界の「現象界」の背後に実在していると考えるよりほかはないであろう。これが数学的プラトン主義の骨子であった。

同じように、「浄土」という概念がある。それは此の世界から直接に行ける世界ではない。が、その実在性を当然のように考えて宗教哲学の中で使うとしても、直ちに空想とは言えないわけである。

鈴木大拙がいう「霊性」に頼らずとも「知性」のレベルで議論するとしても、存在論として浄土を否定することは無理である。その実在は、人間の(というより、全ての衆生になるのだが)この世界の全体像について、よい世界観を提供するのか否か。この議論次第であるという理屈になる。

つまり、「浄土」なる世界については

  • その存在論は超越的世界として理性的に受け入れ可能
  • しかし、形態論としては、時間や長さ、大きさ、色・形など感覚的とらえ方をするわけにはいかないので、経典では色々な言葉で表現されているが、すべて感覚的であり不適切。
  • 機能論としても、例えば「浄土三部経」で述べられている内容は、(当然ながら)荒唐無稽。不謹慎(?)な事を敢えていえば、浄土に多々ある中の一つである「極楽」という世界だが、その名称の割にはそれほど安楽で面白そうな所ではない。
  • ただ、価値論としてみるとき、つまり此の世でいま生きている人間が目指すべき世界なのか、言い換えれば阿弥陀経のいう『応当発願 願生彼国』、即ち

信仰心のある立派な若者たちと立派な娘たちは、かの仏国土(=極楽浄土)に生まれたいという誓願をおこさなければならないのだ

と。ここまで強く願うに値する世界なのか、極楽浄土は?この点は、もっと研究の余地ありではないか。「厭離穢土」というが、それほどにまで「厭離」するべき世界なのか、この世界は?こういう疑問である。実際、生まれ変わっても、この世で人間としてまた生きたいと願っている人間は数多くいるに違いない。『輪廻を離る』どころか『輪廻に執着する』人は、案外、多いのだろう。この現実をどう見る?

  • 最後に、検証可能性という点もある。とはいえ、そもそも観察不能な超越的対象についてどんな検証を行えるのか?検証するためには、そこから導かれる反証可能性のある仮説を立てるしかないわけである。これがない限り、議論に使うのは自由だが、実在性については未確認ということになる。つまり、浄土を目指す他力信仰は、今もなお、《信》こそが最も大事な《難信之法》であるわけだ ― だからこそ「宗教」に分類されてもいる。

今のところ、科学的には(?)こんな風に整理しているところです。

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

 

2025年3月3日月曜日

ホンノ一言: ホワイトハウスの悲劇を英誌はどう見たかの一例

ずっと以前、イギリスは「世界の歴史の黒子役」と形容したことがある(例えば、これこれ)が、今回の米国・ホワイトハウスを舞台にした悲劇というか、喜劇というか、これについて、英誌・The Economistは、

これは"manufactured fight"(=仕組まれた戦い)だった

と観ているようで、早速こんな風に概括している:

Even deputies from Mr Zelensky’s inner circle agreed that it had been a disaster. Some reasoned the president had been tired, three years into war and a long transatlantic flight. He had been provoked into a manufactured fight. “J.D. was the problem,” said one of them. “Zelensky had to show strength to be credible for negotiations, but the emotions were too much.” A senior Ukrainian security source said Mr Vance seemed to be pleased that the negotiations never even happened. “As a wrecker, Vance had been well prepared,” he says. “He did his thing professionally.”

At the end of the shouting match, Mr Trump quipped, “This is gonna be great television.” The president of Ukraine scowled as he sat with his hands clasped. Mr Vance smirked. His work was done. 

Source: The Economist
Date: Feb 28th 2025
URL: https://www.economist.com/europe/2025/02/28/a-disaster-in-the-white-house-for-volodymyr-zelensky-and-for-ukraine

ウクライナのゼ大統領、英国人の目には『仕組まれた戦い』(=manufactured fight)に絡めとられたと映ったようだ。

マ、罠に落ちたと云う方が分かりやすい。

終わった時、副大統領はニヤリと笑い、ゼ大統領は顔をしかめた。彼は仕事をした、と。

中国人なら「欺計」とでも呼ぶようなプランである ― 目的は当然のこと「ゼ大統領の排除」であるのは明白で、欧州側の思惑とは別に、アメリカはとっくにそう決めて、準備万端、練っていたのだろう。TVを観ていたヨーロッパ首脳にはアメリカ側の意図が伝わったはずである。

その後の英首相との協議、英国王との謁見はイギリスの仕事である ― 多分、マクロン仏大統領はどんな役を演じるのか、イギリスが(アメリカと裏で相談しながら?)決めるのだろうと憶測している。古来、イギリスの「二枚舌」(?)には定評がある。

グレアム・グリーンやイアン・フレミング、ジョン・ル・カレを生んだ国民性は伊達じゃあない。

思うことは、一つ。

国の運命をこうして外国の胸先三寸で決めるなんてことは、情けなくて、情けなくて、金輪際、いやだネエ・・・ということだ。

戊辰戦争勃発のとき、徳川慶喜がフランスの支援申し出を断ったというエピソードは、この日本を救う大英断であった。改めてそう思います。


念のため、引用した英文にGoogle翻訳がつけた和訳をコピーしておく:
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ゼレンスキー氏の側近の議員たちも、これは大惨事だったと認めた。大統領は戦争が始まって3年、大西洋を横断する長い飛行で疲れていたと推論する者もいた。大統領は挑発されて仕組まれた戦いに巻き込まれたのだ。「問題はJ.D.だった」と議員の1人は語った。「ゼレンスキー氏は交渉で信頼を得るために強さを見せなければならなかったが、感情が勝りすぎた」。ウクライナの安全保障当局の高官は、交渉がそもそも行われなかったことにヴァンス氏は満足しているようだと語った。「破壊者として、ヴァンス氏は十分に準備していた」と同氏は言う。「彼はプロとして自分の仕事をした」。

口論の末、トランプ氏は「これは素晴らしいテレビになるだろう」と皮肉った。ウクライナ大統領は顔をしかめ、両手を握りしめて座った。ヴァンス氏はニヤリと笑った。彼の仕事は終わった。
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いつも思うのだが、海外のメディアが日本に参入する際の《言葉の壁》はもはやない。

Amazon Primeの会員数が日本で増加中であるのと同じく、アメリカの"The New York Times"や"Washington Post"、イギリスの"The Telegraph"や"The Guardian"をネットで購読する日本人もこれから飛躍的に伸びていくのではないかと想像している。

とにかく海外メディアは低価格で高品質の情報を提供しているのが強みである。

AIの進化速度と放送技術の進歩を考えると、10年後には、紙媒体のメディアだけではなく、音声媒体である(先ずは)ネット動画でも「言葉の壁」が消失している可能性は高い。国内のTV、ラジオは、世界のメディアとの競争を迫られるだろう。

2025年3月1日土曜日

ホンノ一言: 日本がウクライナにしてあげられる事はあるのか?

たとえ新聞やTVを相手に「情報断ち」をしても、ネットからは断片が入って来る。いくら目張りしても、どこかの隙間をみつけて家の中に入ってくるカメムシに似ている。

今日も

ウクライナとアメリカの平和交渉は混とんとしてきました。

Source: アゴラ AGORA 言論プラットフォーム

URL: https://agora-web.jp/archives/250228222304.html 

こんな一文が目に入った。

昨日、ホワイトハウスを舞台に激論を繰り広げた挙句に決裂した、アメリカ=ウクライナ会談のことである。その後、上のような記事が出回っているわけだ。


確かに「混沌」としてきた。が、これはいわゆる将来予測でメシを食ってきた野次馬の目線からいえば、「線形的予想」、というか「単純な外挿予測」である。

野球で3回までに2点差がついた。とすれば、9回までやればその3倍、6点差がつく。先行されたのなら負けてしまう。こう考える人は悲観論者だ、先取点をとって勝っているなら6点差で楽勝だ、そう考えるなら(とんでもない)楽観論者というわけだ。

世界を予測するのに単純な外挿予測は当てはまらない。


今の場合、

混とんとするより前に、ウクライナという国が消滅してしまえば、ウクライナとアメリカの平和交渉も自動消失する。

情勢は、予測によって動くのではなく、力学によって動くものだ。戦争をしているなら軍事力と外交手腕に着目して将来予測をするべきだ。

「混沌」などと言う楽観的予測にはとても賛成する気になれない。


アメリカの軍事支援は西側ヨーロッパ諸国がまとまっても(量的に)補えない。イギリスは(最初からそうだったと観ているが)賢く立ち回っているようであり、ドイツはもう既に青息吐息というところ。そもそもドイツはロシア融和外交で経済的繁栄を築いて来たのである。開戦当時から在職しているマクロン仏大統領は、昨年の選挙で与党が大敗北して昨年末には4人目の首相を任命したばかり。最大の政敵である極右政治家・マリーヌ=ルペンを検察を使って不正経理で葬り去ろうとしている真っ最中である。これでは国内を統治するので精一杯だろう。後は推して知るべし。ハンガリーなどは最初からロシアに同情的である。

日本も太平洋戦争で酷い負け方をした。試みに<太平洋戦争 戦没者>で検索すると、

太平洋戦争における日本の戦没者数は、約310万人とされています。そのうち軍人や軍属は約230万人、民間人は約80万人です。

と表示される。

次に<太平洋戦争 1944年以降 戦死者>で検索すると、

太平洋戦争で1944年以降に戦没した日本人の数は、約281万人です。これは全戦没者数の約91%を占めています。

という結果になる。

太平洋戦争は1941年12月に始まり、42、43、44年と続き、45年で終わったが、戦没者の90%超が後半1年半に集中しているわけだ。

1944年1月時点は、まだサイパン島が落ちておらず、日本の敗戦が「決定的」だとまでは言えなかった。そこで真剣に和平を求め停戦していれば、戦没者の9割以上は助かったかもしれない。

しかし日本は和平を求めなかった。何故なら日本には日本の正義があったからである。

戦争を支配する論理、重視するべき計算とはこういうものである。


劣勢が決定的になった後に停戦を選んでも"too late"であるのは歴史が教えてくれている。日本人が経験した歴史をウクライナ指導者に伝えることも日本として出来る事の一つであるには違いない。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・』といった精神は、ウ国の歴史全体がひょっとすると、そんな歴史であるかもしれず、言いたいことが伝わる可能性があるというものだ。

あと一月もたたないうちに、『ゼレンスキーはもはや狂人だ』と、そんな風評がアメリカ発で世界に拡散されていくのではないだろうか?

予想されうる状況ではあったものの、憐れムベし、憐れムベし……