2025年9月27日土曜日

ホンノ一言: 「最も下らない」政情は継続中のようで・・・

今夏の参院選は小生の経験している中で最も下らない国政選挙であったことは投稿済みである。その下らなさをもたらした主因は、足元の問題を解決すると各政党が「のたまう」提案が、どれも非現実的で、(事実上)実行不可能であるにもかかわらず、それがまるで《選択肢》であるかのように、メディアが争点設定をして放送をし続けたことである。

思い出したのは、大学入試センター試験のことだ。試験当日の解答開始後に、時々、問題修正を板書することがある。これが結構面倒くさいのであるが、放置していると選択肢の中に正解がないということになるので、修正は絶対に必要だ。それでも、試験終了後に出題の誤りが発覚し、その場合は「全員正解」になったりする   —   実は正しい選択肢はなく、全受験生は誤答なのであるが、正解が含まれていない以上、全員を誤答とするわけにはいかず、正答として扱うわけだ。ま、グダグダ対応ではあるが、そうしないと当該科目を選んだ受験生は100点満点ではなかったことになるので、不公平になる。仕方がないわけであるな、とまあ思いをめぐらしながら、現場で試験監督をやるのも独特な面白味があるというものだろう。

今夏の参院選はそんな感じで、どの政党の提案も誤答で、それをメディアは指摘するべきであったにもかかわらず、それが有効な選択肢であるかのように報道したのは、稀に見る不誠実さであったと、いまも益々憤りを感じる今日この頃であります。


ところが、その不誠実な姿勢を、自民党総裁選挙でも続けている。

世も末だネエ

と、慨嘆に堪えないとはこのことだが、逆に番組編成側にはそれなりの戦略があって、あえて欺瞞的な放送を続けているのではないか? こう思うこともある。

財源もなく消費税を減税したり、ガソリン暫定税を廃止したりすると、当たり前の理屈だが国債を増発して財源とするわけであるが、仮にそうなるとその後一年間にどんな経済問題が新たに発生すると予測されるか?

予測可能であるにもかかわらず、マイナス面には触れず、減税が《選択肢》であるかのように報道をし続けているのは、

崖から落ちれば、落ちた後にまた皆で知恵を寄せ合って這い上がればイイ

確かに、これもまた政治哲学、立派な報道理念と言えるわけである   ―   日本発の金融危機は世界にとっては大迷惑なのであるが、もしそこに目が向いていないとすれば、「国際的信頼性」が日本の貴重な国富であることを認識できない島国根性とも言えるわけだ。

しかし、小生が知っている報道理念とは

真の報道は大衆の一歩前から有益な情報を提供することである。

誰が言ったかは忘れたが、「一歩前から」というのが記憶に残っているのだ。これに反して、近年の報道は、一歩前からではなく、「一歩遅れて」だろうと感じる。

大衆から一歩遅れて、大衆が聴きたい報道をするのが報道ビジネスなのである。

感心できないが、これまた選択可能な一つのメディア企業経営理念ではある、と。そう思うようになった。

話しは変わるが、上の議論とも少し関係があるような気がするので、書いておきたい。

アメリカの経済学者・クルーグマンはThe New York Timesのコラムニストから身を引いた後、substack.comから精力的に意見を発信している。

基本はトランプ政権批判で一貫しているのは分かり切っているが、最近ではこんな調子になっている:

Can we blame Trump for rising electricity prices? Not yet. The AI boom began well before Trump won the election, and the grid just wasn’t ready. Trump is, however, doing all he can to make the problem worse — boosting crypto and AI while blocking the expansion of renewable energy, which has accounted for the bulk of recent growth in electric generating capacity ...

Many people, myself included, have drawn parallels between the current AI frenzy and the telecoms boom and bust of the late 1990s — an alarming parallel, because the telecom bust led to years of elevated unemployment. But as Peter Oppenheimer of Goldman Sachs has pointed out, there have been many such boom-bust cycles over the centuries, going back to Britain’s canal mania in the 1790s. And here’s one analogy that has occurred to me: What would have happened if, midway through the 1790s canal-building boom, investors had realized that there wasn’t enough water to fill all those new canals?

So the electricity crisis is serious, adding significantly to the risk of stagflation. Unfortunately, it would be hard to find policymakers I’d trust less to deal with this crisis than the Trump administration, whose energy policy is driven by petty prejudices (Trump is still mad about the windmills he thinks ruin the view from his Scottish golf course), macho posturing (real men burn stuff), and hallucinations (the imaginary windmills of New Jersey.)

・・・

It also endangers America’s future. The Fed’s perceived independence is a major source of economic stability — more about that in this week’s primer. We’re already worried about stagflation. The risk will be far greater if Trump can dictate monetary policy by bullying individual Fed officials and creating a servile Federal Reserve Board. Just look at what happened in Turkey.

Author : Paul Krugman

Date : Aug 22, 2025

URL : https://paulkrugman.substack.com/p/kilowatt-madness

Googleで和訳させると

電気料金の上昇をトランプ大統領のせいにできるでしょうか?まだ無理です。AIブームはトランプ大統領が選挙に勝利するずっと前から始まっており、電力網はまだ整備されていませんでした。しかしトランプ大統領は、暗号通貨とAIを推進する一方で、近年の発電能力の伸びの大部分を占めてきた再生可能エネルギーの拡大を阻止することで、問題を悪化させようと躍起になっています。

私を含め、多くの人が現在のAIブームと1990年代後半の通信ブームと不況を比較しています。これは憂慮すべき類似点です。通信バブルの崩壊は長年にわたる失業率の上昇につながったからです。しかし、ゴールドマン・サックスのピーター・オッペンハイマー氏が指摘するように、1790年代のイギリスの運河ブームに遡り、過去数世紀にわたり、このような好況と不況のサイクルは数多くありました。そして、私が思いついた一つの例え話があります。1790年代の運河建設ブームの中頃に、投資家たちが新しい運河を満たすのに十分な水がないことに気づいていたら、どうなっていたでしょうか?

電力危機は深刻であり、スタグフレーションのリスクを著しく高めています。残念ながら、この危機への対応において、トランプ政権ほど信頼できない政策立案者を見つけるのは難しいでしょう。トランプ政権のエネルギー政策は、つまらない偏見(トランプ氏は、スコットランドのゴルフコースからの景観を台無しにしていると考えている風車に未だに憤慨しています)、マッチョな姿勢(男は物を燃やす)、そして幻覚(ニュージャージー州の空想上の風車)によって動かされています。

・・・ 

これはアメリカの将来をも脅かします。FRBの独立性は経済の安定の大きな源泉です。この点については、今週の入門書で詳しく説明します。私たちはすでにスタグフレーションを懸念しています。トランプ氏が個々のFRB職員を脅迫し、従属的な連邦準備制度理事会(FRB)を創設することで金融政策を主導できるようになれば、そのリスクはさらに大きくなります。トルコで何が起こったかを見れば一目瞭然です。

たとえ主観的には気に食わなくても、ト大統領は(曲がりなりにも?)民主的選挙で選ばれた(それなりの?)正統性がある米・大統領だ。しかし、そんなことには遠慮も頓着(≒忖度)も一切することなく、電気料金暴騰の背景とトランプ政権の無策から中央銀行に相当するFRBへの人事介入へと、当たるを幸いとばかり、斬りまくっている・・・とにかく毎投稿、そのたびにこんな調子である。さすがにThe New York Timesの紙上でここまでズケズケ言うと、会社に迷惑が及んだでありましょう。そして、クルーグマン先生とは価値観を異にする自分を確認することが多いのだが、小生の目にもKrugmanの指摘はとても正しい。 

本来、民主主義社会の運営はこうでなくてはなりますまい。上ばかりではなく、下の方にも期待されることは多く、覚悟も必要であるのが、民主主義である。

今夏の日本の参院選から現在の自民党総裁選にかけて論議されている政策案は、具体性、実行可能性に欠けており、どれも下らない。

これを《下らない》と指摘して批判したり、理論的妥当性を疑ったりするメディア企業が日本国内に1社としていないのは、日本のメディア産業が保護産業であり、スキャンダル発生時を除けば、政治にはなにも逆らえない体質が染みついているからであろう。

日本の政治家に何も忖度しない外資系企業がメディア産業大手として1社でもあれば、いまの情況はまったく違っていたと思う。そう思うと、本当に情けないのが今日この頃であります。この意味でも、小生は移民大歓迎、外資導入大賛成であります。国立大学法人の一つや二つ、海外の大手私立大学に買ってほしいくらいだ。政府には臨時収入が入り、運営交付金支出の国庫債務が減り、加えて大学経営の合理性が日本に導入できることにもなる。正に一石三鳥である。

人の構成は変われど、日本列島で暮らす人たちが豊かな生活を送れるなら、それがベストである。文化の継承、文化の創造は、未来の人に任せるべきである。これがいま持っている社会哲学である。唐様で「売り家」としか書けない凡々の三代目は、継承だの、伝統などとはいわずに、黙って家を売るのが合理的行動なのである。

苦い薬を飲むべきときもある

敢えてこう報道するのもメディアの役割であろうと思うのだが、ここ日本では誰も傷つけたくはないという感情の方が優先されるようだ。

政治家は数多おれども政治なし

「下らない政情」、これもムベなるかな、ではないか。

仁は人の心なり、義は人の路なり

孟子の言である。なるほど全ての人にやさしくありたいという思いは、報道業界(?)だけではなく、政治家も(ヒョッとすると?)共有しているのかもしれない。しかしながら、現代日本社会は

心はあれども路はなし

いまの日本社会で、仁は求められているのだろうが、義は無視されて誰も省みない。

【加筆修正:2025-09-28、29】

2025年9月24日水曜日

断想: 「懐疑主義」は近代を生んだが「怠慢」をも生む

昨日の彼岸は母の祥月命日でもあるので、いつもの経に加えて、小生の好きな無量寿経「往覲偈」を「四誓偈」の後に追加し、別回向文で戒名を読んだ。そのため起床時間はいつもより早くセットした。その後、午前11時には寺で彼岸会があるので歩いて往復した。疲れたのか、目覚ましを寝る前にかけ直すのを失念し、今朝は予定より30分ほど遅く、カミさんの目覚ましで起きた。

昨日は、拙宅と寺で二度も読経をしたので、今日の読経はもういいかとも思った。が、これを機会に日常勤行式ではなく、専修念仏でやってみようかと思いついた。但し、三万遍とか六万遍などという本式の念仏ではない。毎朝の時間に入れるなら僅かに三百遍でしかない。鴨長明が『方丈記』の最後で書いた「不請の念仏」はこんなのかナア・・・と思いつつも、それでもやってみると、妙に心が定まったので不思議な感じがした。

法然上人の『一枚起請文』は

唐土我朝にもろもろの智者たちのさたし申さるゝ観念のねんにもあらず。又、学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。唯往生極楽の為には、なむあみだ佛と申してうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の仔細候はず。
こんな書き出しで始まっているが、しばらくの間、小生は「智者の観念」や「学問による理解」を踏まえて行う念仏にはなぜ意義が小さいのか、これが不思議だった。学問的基礎は要るだろう、と。そう思われたのだ。それをスキップして、「これをやればイイ」とするのは、物事を単純化する日本文化の特色、というか悪癖がこんな所にも表れているかとも思ったものだ。

しかし、こう思ったのは全くの間違いだった。


最初に思い至ったのは、観念にせよ、学問にせよ、どちらも「私はこう思う」であり、そこには「自己」という存在が前提されている。「自分はこう理解する」というその理解には、必然的に《自我》が根底にあり、従って《我執》、《我愛》が混じっている。しかし、仏道ではすべて「我」という実在は「空」であって虚妄であると考える。だから、そんな「自己の理解」には意味がないのだ、と。

しばらくの間は、こう考えてきたが、今でも全くの間違いではないと思う。とはいえ、もって回った理屈である。これよりは実に単純明快な根拠があることを知った。


それは、極楽浄土を(智のみが捕捉可能な叡智界において)建設した阿弥陀如来は、その「本願」(=誓い)に「念仏」のみを云っており、学問をせよとか、最高の智慧を備えよとか、善い事をしたかどうかとか、男性か女性かとか、民族的な出自とか、往生極楽がかなうかどうかの一点において、一切の条件をつけていない。ただ仏名を称える行為のみを求めている。そう明確に『無量寿経』には(釈迦が弟子に伝える「教え」として)記されている。『浄土三部経』を読めばこの辺は明らかである。

往生極楽を願うなら、人が勉強して色々と考えるよりは、阿弥陀如来の本願に従うことが必須であるのは、当然の理屈である。故に、大事であるのは《学理》ではなく、阿弥陀如来の本願をあくまで信じようとする《信》である。その本願は、サンスクリット語でいう<アミターユス>、つまり漢訳の「阿弥陀」の名を念じることだけだ、と。古代インドで「ナーマス・アミターユス」と発声されていた仏名が漢訳では「南無阿弥陀仏」になった。これが日本に輸入されて今に至るわけだ。この事実そのものが阿弥陀の本願が成就された証拠であるというのが、浄土系仏教の骨子である。

こう考えると、『一枚起請文』の最後が

念仏を信ぜん人はたとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
と、こう結ばれているのは、書き出しの内容を改めて反復しているわけで、
余計なことで議論せず、阿弥陀仏の「本願」を信じよ。阿弥陀は念仏だけを求めており、他のことは求めていない。
こういうことだろうと勝手に理解している。念仏を観想から称名に具体化したのは唐僧・善導である。法然上人は「偏依善導」の人である。だから法然上人の専修念仏は称名念仏である。故に他の行為は求めず、ただ一つ称名念仏だけが重要であるとした。

「宗教」としては実に本質的なロジックではないか。「学理」が大事なのではない。「信仰」が核心なのである。「専修念仏」という発想が単純なのではない。そもそも本質が単純なのである。簡単に証明できる定理をあえて複雑に証明するのは手筋が悪い。むしろ定理の本質を見失う。これに似ているかとも感じる。

 

現代世界では、何事によらず「真理」(とされているもの)に対して懐疑を表明し、単純明快な真理を覆すことが知的であると喝采する現象がよくみられる。いわゆる「キャンセル・カルチャー」は同じ流れに属するかもしれない。

他方、唯識論で論じる心の作用(=心所しんじょ)の中には《善》と《煩悩》が含まれている。煩悩が悪であるのは当然なのだが、各種の煩悩がある中に《不信》がある。つまり物事の道理に疑いを抱き、真理を認めない姿勢を指すのだが、実はこんな「不信」の心性は、結果として懈怠けたいの原因になると論じられている。つまり《怠慢》、《さぼり》につながるその原因は真理や道理を疑う「不信」でありがちだ、と。

逆に言うと、一生懸命さやひたむきに努力する生き方は誰がみても美しいものである。この裏側には《信》という心の働きがある。一度信じたことは真理として疑わず自らの柱とする。これが大事だ、と。こうも言われている。


確かに《懐疑》は精神として大切だ。しかし、尊重し、敬意を表するべき真理を、理解できず、疑いをもち、道理に反した言動をとるのは、一口にいえば(大概の場合)「怠け者」である・・・「ひねくれ者」とも言われるだろう。この認識は、現代世界にも結構当てはまるような気がする。実際、そんな人の数例を知らないわけではない   ―   ただ、小生自身がまた、相当のヒネクレ者であったから、同僚はすべてバランスのとれた優秀な人だと感じていた。そんな小生が本日のような投稿をするのは「何とした事か」と言われる喜劇なのである。

懐疑主義の元祖・デカルトも、全てを疑った後にたった一つだけ疑い得ない存在を見出して、絶対的真理の実在に気づいた。精神的柱が確立される好例である。

2025年9月22日月曜日

前の補足: 人間のありかたをどう見るかは、時代や国を問わず、同じであるようで

前の投稿は前の前の投稿の補足だった。本日の投稿は、そのまた補足になるから、事後的には前の前の前の投稿への補足にもなる・・・ややこしいが、ややこしい事が大好きだ。

日本文化はシンプルを愛し複雑を排するのだが、とすれば純日本風の美意識に小生はどこかで疑問を感じているのかもしれない。いや、また、これは別の機会に書くことにする。



前の投稿の最後でこんな下りを書いた:

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
前者はカント的、というか西洋的な道徳観だ。後者は、仏教的な人間観。

この両者の違いは大きいと書いているが、よくよく考えれば、実質的には同じだと言ってもよいのである。というのは

人間は、自然の傾向に従えば快を求め、不快を避け、満足を求めるものだ。それが幸福だと誤認しているのだが、真の幸福とは実践理性が己に命ずる道徳法則に従ってはじめて実現するものである。故に、真に幸福でありたいと願うなら実践理性の声に耳を傾けて従うべきであり、そもそも最初から快・不快を問わずそうするべきなのだ。こう考えるのが、西洋流。
これに反して、
人間の心は煩悩に塗れており、快に執着する貪欲(=とん)を常とし、不愉快に怒りをぶちまける瞋恚(=じん)、そして物事の正否善悪を間違えてばかりいる迷妄とそれに気がつかない無知(=)この三毒煩悩に汚れているのが現実の人間である。故に、真の幸福を願うなら、先ずはこれらの煩悩をすべて止滅し、悟りを求める心すなわち菩提心を発しなければならない。最高の智慧を獲得し涅槃に達すれば真の幸福が得られる。従って、菩提心を発する、あるいは浄土系の回向発願心こそが、人が生きる上で最も大事なことである。こう議論するのが仏教流。
自然に任せておくと、人は(自己)満足ばかりを追って、不愉快な対象は満足するまで叩き続けるものなのだ、と指摘されれば、まさに現代社会にも当てはまる認識である。あろうことか、自己からみて不愉快な対象は正義に反していると言い、自分が正しい側にいるとも主張しているから、人間社会は仏教誕生以来、なにも変わってはいないわけでもある。

このような人間理解だけは、洋の東西を問わず、時代を問わず、一貫して同じであるように思われる。もちろん、いま使った「人間」という言葉は、「理性/知性」とは区別された、丸ごとの意味での具体的な「人間存在」のことを指していっている。一言で言えば、

良薬は口に苦し
この一言につきるというものだろう。
善い政治家とは、そもそも、国民には不愉快なことを求めるものなのだ。
そんな示唆にもなるが、とてもじゃないが、そんな余裕は現代社会にはないようだネエ・・・アナ、おそろしや、なさけなや。


省みると、いわゆる《末法》という世が始まったのは、西暦1052年からであると日本では理解されている。藤原道長は既に世を去り、息子・頼通の時代だ。頼通は父・道長の宇治別荘を改修して阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂を遺した。その頃から鎌倉時代にかけて浄土系信仰が非常に高まったのは末法思想が理由である。もし「末法千年」と仮置きすれば、西暦2052年以降は「教え」が完全に消滅する《法滅》の世となる。対して「末法万年」とするのが多くの説であるようだ。この場合は、法滅までにまだ長い時間がある。いずれにしても、現代風にいえば「都市伝説」、「言い伝え」の類である。

現代日本だけではなく、世界では人類を救うのは《科学》であると確信されているが、科学が解決できるのは物質的な、というか「客観世界」を基礎づける物理学で(最終的には)アプローチ可能な問題に限定される  ―  数学ではない。物理学の対象は、その内部で思考することはない。物質は考えることをしないのだ。モノがそれ自体として意志や目的をもつことはあり得ない ― でなければ、宇宙は自ら考え、自らの意志と目的に沿って発展するという過激な(素っ頓狂な?)唯物論を認めなければならない。こんな空想は「科学的社会主義」以外に候補はない―いかなマルクス経済学でもここまでは議論していないはずだ。考えたり、理想を追求しようと意志をもつ人の「意識」、つまり理想や意志そのものは、身体器官の内部には存在しない。それとは違う非物質的存在である。考える「知性」は「知性自らの所在」を確認することはできないのだ。とすれば、「意識」の中で生じる問題は科学によって解くことはできない。こんな理屈になる。(最近の投稿でも述べているように)これが(現時点の)小生の生命観・世界観である。

クラークの名作にして名画でもある「2001年宇宙の旅」。作中の(実質的な)主人公は人工知能"HAL"であった。そのHALは最後に暴走した。しかし、いかに偉大な知能であっても、その知能自らが自己の論理の暴走を認識することは不可能である。真はあくまでも真。偽はあくまでも偽。知能がよって立つ数学的論理では真であり同時に偽である命題は存在しない ― というより、実際上そうあらねば困る。即ち《排中律》である。なので、科学だけではなく、知能がよってたつ論理も大前提のうえに造られている。そんなことも考えたりする今日この頃であります。

2025年9月19日金曜日

覚え書き: 中島義道『カントの「悪」論』を読んで

この数日は中島義道の『カントの「悪」論』を読んでいた。ドイツ発祥の観念論哲学は、気にはなれども、専攻も違うので、研究する暇もなく、言い訳代わりに「実証科学の精神に逆行して古ぼけた屁理屈を並べているだけサ」と。そんな目線でほおって来た。それにカントにしろ、ヘーゲルにしろ、長い。文章も(日本語訳で読むと)極めて難解かつ錯綜しており、丸ごと読んで理解するだけで相当の時間資源を投入しなければならない。一方で、最新のマクロ経済理論を理解するには、変分法やポントリャーギンが確立した最適制御理論が必要になるが、その基礎にある「最大値原理」を理解するには偏微分方程式論まで勉強しないといけない。どちらも「いきたしと思えども」そんな時間はない。小生にとってドイツ観念論哲学と最大値原理は(方向は南北正反対だが)同じような位置、同じような距離に立っていた的であったわけだ。

人間存在を理解する上で唯識論という世界に馴染んでしまったいま、カントは倫理や道徳、善と悪について、そもそもどう考えていたのかを展望してみたくなった。

というのは、唯物論的な科学主義を信じている間は、善と悪の判断基準はどうしても結果を重視しがちであり、イギリス流の功利主義に共感をもつものである。実際、アダム・スミスは一人一人が自己利益を追求して自由に行動する結果として、社会的には善い結果がもたらされる道筋を示した。これが《経済学》の始まりである。

しかし、自己利益の追求から社会的善が生まれるというのは、よく考えてみればやはり奇妙であるわけだ。この辺は、日本の哲学者・西田幾多郎『善の研究』でも力説しているが、小生自身の最近の《転向》については本ブログでも時系列順に投稿してきているところだ。

上にあげた『カントの「悪」論』は、特に『道徳形而上学原論』と「実践理性批判」を対象にしてカントの哲学を概説しているが、特に面白いのは(やはり)第4章である。Kindle本に(ページ丸ごと)ブックマークを付けている個所も第4章に集まっている。

例によって、引用しながら書き入れたコメントを並べて書評としたい。

まず

自然因果性を攪乱することなく、「みずから何ごとかを始める能力」としての超越論的自由を認めることができるか否かが問われているのである。
こんな下りに黄色く色をつけて保存している。「自然因果性」というのは、人間を自然科学的にみれば物理化学的プロセスそのものであるから、ある状態から次の状態へ遷移するのは因果必然的である、という意味合いだ。しかるに、人間には意志の自由がある。これは因果必然的な物質的人間存在に矛盾していないか、というのがカントが考察した問題である。

これに対して、こんなコメントを付けている:

意志の自由を議論するのであれば、あらゆる生命体に共通する「意志」と「目的」とをまず議論するべきだ。物理化学的プロセスである生命現象が他の現象とどう区分されるのかが重要である。
このあとカントは(というよりこの本の筆者が?)
・・・私が(椅子に腰掛け続けるのではなく)椅子から立ち上がることを、そのとき私は「自由に選んだ」ということになる。
とあるのだが、ここでも
因果束縛性と目的束縛性の両面から議論を整理するべきだ。椅子から立ち上がるとき、その人は立ち上がる動機に従って行為したのであって、ただランダムに何の意味もなく、立ち上がろうと意志したわけではないはずだ。
こうコメントしている。カント倫理学においては「自由」が主題になっているのは知っているが、「意志」の前には「目的」があり、「目的」の前には「欲求」がある。そして「欲」には善なる欲もあり、悪なる欲もある。自由を主題にすると、この辺に焦点が定まらなくなる。

次のブックマークに行こう。こんな下りだ。

もしわれわれが自然因果性によって文字通り未来永劫にわたるまで完全に決定されているのだとすれば、実践的自由は成立しないように思われる。
カントがいう《実践的自由》とは《実践理性》が「・・・するべきである」とその人に道徳的な命令を下す自由のことだと理解している。要するに、人は誰かに命令される「他律」にあるのではなく、自分の道徳的価値に従う「自律」にある、そんな意味合いで述べられている。

これに対して、

唯識論でいう阿頼耶識あらやしきが蔵する種子しゅうじ業縁ごうえんに束縛される凡夫に実践的自由はないと言える。親鸞が唯円に語ったように、一人の人も決して殺すまいと意識では決意していても、因と縁によって人は人を殺すことがある。ひとえに業縁ごうえんによって「煩悩具足の凡夫」は支配されている。浄土信仰が前提する人間像とカントが考える人間存在には大きな違いがある様だ。
こんなコメントを付けているのだが、統計分析が万能であると考えていた以前の小生なら、科学主義者でもあったからカントが考えるように実践的自由について考えていたものと想像する。

次はこんな文章だ。

もし人間が実践的意味で自由でないとすると、どういうことになるか考えてみよう。・・・すると人間はからくり機械の最高の親方によって組み立てられ、ゼンマイを巻かれたマリオネットかヴォカンソンの自動機械となるであろう。・・・自発性の意識はそれが自由とみなされるならば、ただの錯覚に過ぎないであろう。
非常に面白い思考実験ではないか。このカントの(物質的ないし精神的な)「人間機械論」について、小生はこんな風にコメントしている。
人間機械論に限定するのは一面的だ。国家が定めた目標を達成するための最適行動をとり続ける場合も、その人に実践的自由はない。

自由は、目的を設定できる主体にのみあり得る。もし目的を人が自ら設定するのであれば、その後にその人が採るべき行動は制限されてしまうが、その人は自らを自由であると思うはずだ。
こんな風にコメントしている。人は、一面では因果合理的で一つの自然現象であるが、同時に意志をもった目的合理的な存在でもある。目的合理的な存在が辿る軌道は、選択可能な無数の軌跡の中の唯一の最適解であるが故に、それ以外の軌道ではあり得ず、したがって因果合理的な必然的プロセスとしても説明ができるのである。

第4章も次第にクライマックスに向かっている。次にこんな箇所に色を付けている:

われわれ人間が自由であるとは、善へ向かう自由に悪に向かう自由がぴったり張り付いているということである。われわれは悪への自由があるからこそ、善への自由がある。われわれは、悪を自由に選びうるからこそ、善を自由に選びうるのだ。
なかなか深い。カントは、選ぼうと思えば悪を選べたにもかかわらず、それでも善を選ぶからこそ、その人の行為には道徳的価値があるのだと断言している。善行を行うことが、その人の名声を高め、人から尊敬され、その人の自己利益になるなら、放っておいてもその人は善行をなすであろう。しかし、そんな善行には自己利益の動機が混ざっているはずで、道徳的価値はないのだと、カントは一刀の下に切り捨てている。この辺は極めてラディカルというか、気持ちがいい。

小生はこんなコメントをつけている。
繰り返しコメントするが、人間は過去からの因果と自らが意識する目的に束縛されており、決して自由ではない。・・・

「自由ではない」・・・カントの論理に従えば、故に善を為すことは不可能である、という帰結になる。と同時に、悪を為しうるとも言えない。

実践的自由がないならば、その行為の、法的はともかく、実質的な責任がない、という理屈になる。

さすがにこれはおかしい・・・と感じる人は多いはずだ。ということは、目的束縛性という条件から外すか   ―   理性、即ち「考える我」にあらゆる目的や動機から解放された「自由」を認める・・・最近になって何度か投稿している唯識論的人間理解においては、「我」は仮構であり、色々に条件づけられた依他起性を本質とする。カント的思考とは相当な違いがある。

自己に対してある目的を課すことには実践的自由がある。こう考えなければ責任を問えない。一連の行為に先立つ目的、言い換えれば最初の動機において、理性が求める道徳法則に耳を傾けていたかが問われる。こういう解釈になるであろう。国家が(あるいは組織が)定めた目的を拒否する自由はあったはずだ。こういう議論にもなる。いま何度きいている言葉だろう?

カントの倫理学は時に残酷である。

最後にこの箇所である。

・・・こうしてカントは道徳法則の背後に神を「認識する」という構図を峻拒しながらも、ここで感性的(肉体を有する)理性的存在者である人間の「自然」がみずからのあり方にみあった道徳的善さを実現するように、自然の創造者(すなわち神)が、人間を(その精神もその肉体も)創造した、という物語を導入するのである。
多くの人は、この辺でカント(あるいは上の本の著者が理解するカント?)にはついていけなくなるのかナア、とも思われる。が、小生はこの箇所を読みつつ、
結局、ソクラテスの口を借りてプラトンが展開した《道徳》と《幸福》との統一にカントも戻ったか・・・
そう解釈した次第。

カントが一貫して述べているのは、人間が自らの幸福を求めるのは当たり前である。つまり、そこに道徳的な価値はない。誰でも従うはずの「幸福の原理」よりも優先して実践理性の命ずる道徳法則を心から尊重して誠実に守るという「誠実の原理」を貫く。それ以外に、善が善である根拠はない、と。これがカント倫理学の主軸である。

とすれば、人が善く生きるには自らの幸福を犠牲にしなければならないという意味になるが、決してそうではない、と。人が真の意味で幸福になるためにこそ道徳が法則としてあるのであって、実践理性は常に「・・・こうするべきである」と人間にささやく。その道徳法則に逆らうことも出来るのであるが、多分それは自己の利益、自己の幸福を目指してのことだろう。しかし、そのような行動から人は幸福に至ることはできないのだ、と。

概略、こういうことだが、まったく同じことをプラトンは『ゴルギアス』(だけではなく一貫して)ソクラテスに語らせている。

いずれにせよ、人間が《悪》を為すのは、善を命令する理性の声に耳を傾けず、自己の「幸福」というか「満足」を優先する時である。言い換えると、その人の内部に《善》はあるのだが、利益や満足を優先して善を欠如させてしまう状況。それが《悪》である、と。こうした人間理解がカント倫理学の底にはあるようだ。

他方、仏教的理解では、人は自らがどれほど善人であろうと意識しようとも、心の最深部に潜在する業が、不図した偶然の縁から現勢化して、自分も驚くような悪行を為してしまう。それをもたらすのは、煩悩と言えば煩悩であるが、貪欲(=貪)と怒り(=瞋)、無知ゆえの迷い(=痴)という三毒に苦しむのが、現実の人間存在であると理解する。

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
 

本日は先日の投稿の補足にあたる。

2025年9月17日水曜日

断想: 日本人は決して「リスク嫌い」ではない。しかし・・・

「貯蓄から投資へ」という標語を拡散させたのは岸田内閣ではなかったかと記憶している(違ったかな)。日本限定か世界の課題としてかは分からなかったが、「新しい資本主義」という呼びかけもしていたはずである。

しかしながら、最近になって、「投資なんてリスクがあるでしょ?リスクは避ける方が賢いですから」と言いつつ、投資に背を向けて、(何と)家賃収入が得られるからと貸家を買ったり、直近で相場が急騰している金をわざわざ高値で買おうとする若年世代が増えつつあると、どこかのメディアで視たか、読んだかした覚えがある。

不動産など土地にしても住宅にしても流動性に欠けるし、メンテナンスにも資金がいる。金など唯々値上がりを待つのみという非運用系のゼロ配当資産である。それでも消費財ではない以上、これらを買えば資本支出。つまり投資である。

このほかにも

リスクって言葉の意味、理解していないヨネ

と、思わず突っ込みを入れたくなるような記事が結構目につくわけである。

それでも

日本人のリスク回避や安全志向が成長を妨げる最大の理由なんですヨネ

と。こう断定してしまう訳には、実はいかない。事実は、逆である(と思ったりする)。

実際には、日本人は結構ギャンブルが好きである。

公認カジノこそまだ開業していないが、競馬、競輪、競艇は公的に認められた賭博であるし、パチンコだって実質はギャンブルである。

こんな投稿もネットにはみられる  ―  数字の裏はとったほうがイイかもしれない:

【データ】日本のギャンブル依存症率

➡ 成人の約3.6%(約280万人)がギャンブル依存症(2017年 厚生労働省調査)

➡ 他の国と比べても異常に高い(アメリカ1.0%、フランス1.2%)

この原因として、日本にはパチンコが全国に多く存在する ことが影響しています。

パチンコは「ギャンブルではなく遊戯」として扱われているため、実質的に規制が緩い のが現状です。

URL:  https://note.com/misa_matsuzawa/n/n52866dd75655 

年末が来れば「歳末宝くじ」を必ず買う人は普通にいる。「賭け麻雀」、「賭けゴルフ」はご法度であるが、実際には厳守されているわけではないだろう。

ことほど左様に、元来、日本人は《丁か、半か》の声が飛び交う鉄火場を決して嫌っているわけではない。

ギャンブルの好きな国民がリスク嫌いである理屈はない。どこかに勘違いがあるのだ。

小生思うに、「リスクは避けるべきだ」という注意/助言が、メディアを通じて、過剰に日本国内で発信されている。

何だかメディアが注意している通りに日本人は慎重にリスクを避けているかのように思ってしまうではないか。

しかし、事実は違っている。最近のメディアに目立つのは独演・一人踊りである。

現実には、日常生活の中で日本人は高リスクの遊びに相当のカネを支出している。但し、それらの支出は、遊び、つまり《消費》として観念されているので、《投資》とは言わないだけである。しかし、「払いっぱなし」ではなく明らかにリターンを求めてパチンコで遊ぶ心理は、値上がりと配当を求めてお気に入りの銘柄の株式を買う投資家の心理と、当事者の感覚としてはホボゝ同一である。その支出を楽しんでいる心理に変わりはないのだ。

競馬の馬券を買うときの「リスク」は、米株AMZN(=アマゾン)を買うときのリスクよりは、余程大きいであろう。公開された経営情報や随時の換金性を考えると、株式投資は極めて透明かつ合理的なカネの使い方である。

違いがあるとすれば、JRAに払われたリスクマネーが次はどのような使途に振り向けられるか。Amazon.comに流れたリスクマネーがどのような目的に使われるか。ここが違う。近年の結果から確認されるように、JRAに払われるリスクマネーは日本経済にはほとんど何の役にも立っていない。他方、Amazon.comが受け取ったリスクマネーは、同社の事業効率化やAWS拡充など生産性向上のために使われている。

本来はリスクを恐れていないにもかかわらず、日本人が支払うリスクマネーが(まったく?)生かされないのは、払う先がマネーを生産的に使わないからだ。そもそも生産的に使おうという意志すらもないためだ・・・こう考えるのが理屈というものだろう。

つまり、

日本人はリスクが嫌いなのではなく、むしろギャンブル好きな方なのであるが、自分が引き受けるリスクを客観的に認識・評価できていない。リスクとリスクをカバーするリスク・プレミアムとのバランスに無頓着である   ―   この根底には確率的な思考が苦手である点が挙げられるが、これはまた別に。

だからこそ、カネをドブに捨てて省みない金持ちもいれば、無駄遣いを無駄と認識できない経営者が数多いるわけである。

こういう事が、マクロ的には日本経済の足を引っ張っているのではないかと思いついた次第。

「株式や債券(!)といった金融投資にはリスクがあります」と、(たとえばTV番組が)資金の運用を話題にする時に必ずと言ってよいほど断りを入れる。それもムベなるかな、である。そもそも、メディア企業自体がリスクについてよく分かっていないのである   ―   保護産業にリスクが理解できないのは自然な結果ではあるが・・・

たとえば(株や馬券ではなく)土地や貸家などの実物資産を買う時にも、必ず(より巨額の?)リスクを負っているのであるが、そういう資金運用の仕方を(ここ日本では?)株式ほどには不健康視しない。これも不思議な感性である。

リスクという概念の定義、リスクの大小を評価する方法。消費の感覚と投資の感覚、投機の感覚。これらの経済的センスは、自動車を運転するための交通ルールと同程度の常識とするべき知識である。せっかく新聞、TVというオールドメディアが(まだ?)あるのだから、もっと頻繁に登場してもよい話題だと思う・・・ちょっと日本のメディア企業には無理な期待かな?

【加筆修正:20250918】

2025年9月14日日曜日

ホンノ一言: それほど外国資本に買収されるのが怖いですか?

記者会見の発言にしろ、ネットにアップされている投稿記事にしろ、切り抜きはよくないとは思う。切り抜きは全体の趣旨を伝えないからである。

しかし、その部分が記事全体の論調を凝縮している核心的部分であるとしか思えない箇所もある。そんな場合は、切り抜くことで概要をシンプルに伝えられるであろう。

こんな投稿がある:

こうしたなか、永谷園や大正製薬などはMBO(経営陣による自社の買収、Management Buyout)を行い、株式上場を止めている。もはや敵対的買収を防ぎ、中長期的に日本型経営を行おうとするならば、株式上場を止める以外にない、というのが現状だ。

 日本文化に根差した日本型経営が否定され、欧米型経営に法律で無理やり改造され、日本のサラリーマンの給料は上がらなくなり、株主配当は増えている。

 日本型経営では、一部の事業が不採算であっても会社全体でカバーすればよいとされたが、欧米型経営に転向した日本企業では、選択と集中の名のもとに、事業所閉鎖と首切りが横行している。リストラにあった技術者のなかには、生きるために外国の企業へ転職し日本の技術を教える者もいて、結果として、日本の競争優位を下げている。

Source:PRESIDENT Online

Date:9/14(日) 7:16配信 

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/6ea3b4d116816d1b82af39db82353bddeab8b72d?page=3

岸田内閣による対内直接投資(対日直接投資)推進政策がきっかけとなって、今や日本的経営の良い所を継承する老舗企業が続々と非上場化を迫られたり、買収された後で社内リソースをしゃぶりつくされている。そんな懸念を伝えているのである。


単純に思うのだが、

日本文化に根差した日本型経営が否定され、欧米型経営に法律で無理やり改造され、日本のサラリーマンの給料は上がらなくなり、株主配当は増えている。

ここの下りなのだが、サラリーマンの給料がずっと上がらなかったのは、日本企業の方であり、上がり続けていたのは日本型経営とは縁のない欧米企業だったのではないだろうか?

実にシンプルなファクトチェックをすれば十分だ。


今後も日本型経営を続ければ給料は上がる。欧米資本が日本企業を経営管理すると、上がるはずの給料も上がらなくなるという意味なのだろうか?

そりゃ、本当なのだろうか?

概して外資系企業は給料が低く、日本型企業は給料が高かったのか?逆だろう。


短期的利益のみに関心があり、長期的な再生には興味がないから、期待が持てないということなのだろうか? だとすれば、日本企業の買い手に問題があるのであって、相互にウィンウィンの関係になれる欧米企業に日本の側からアプローチするべきだという結論になるのではないか?

確かに非上場化をすれば買収される心配はなくなる。しかし、広く資本(=出資・リスクマネー)を求めることを諦めるという事は、これ以上の事業拡大、新規立ち上げは積極的に求めないという意思表示であるとも邪推される。これまで通りの会社経営を続けられるというものだ。しかし、日本全体でこんな姿勢を続けたことが、失われた30年の根源的な背景であったのではないか?


一口に買収といっても、悪質なものもあるし、良質なものもある。日本だって海外企業を買収している。日本型経営を強要して失敗した例も多いし、うまく行ったところもある  ―  ちなみにサントリーが新浪社長の下で買収した米国・ビーム社は日本企業との経営統合が成功した事例としてよく知られている。経営統合は、買われる側と買う側との共同事業である。海外資本が入ってくれば、必ず食い物になるというのも、「じゃあ、そもそも何を期待していたンですか?」と。逆に問いたいところであります。


1945年に日本に「進駐」してきた「連合軍総司令部」を目の当たりにした時の恐怖心がその人の原風景になったというならまだ分かる。そうでもないのに、「貿易立国」だとのたまいながら、一度は「輸出大国・経済大国」になって、今度は形勢不利と見るや「日本型経営」や「非上場化」を国家防衛政策よろしく語るというのは、「鎖国」でもしたいのか、と。水際で防衛したいのか、と。

本気でそう思ってるのかもしれないネエ・・・という感想です。


つまるところ、この世はお互い様である。相互主義である。既に日本は国としてグローバル世界で売買をしながら食っている。故に、グローバル世界の中で、お互い様を原理としてやっていかずばなりますまい。いつまでも我を張っていれば、取引困難の相手とされるだけである。

国内で日本文化や日本趣味をいつまでも大事に守るのは、感性の世界のことである。日本人が日本文化を心から本気で守りたいと思っているなら、経済活動がどうであろうと必ず守られていくはずである。



2025年9月12日金曜日

断想: コンプラいでて、創造ほろぶ?

朝起きる前にこんな事を考えた:

法律は「守る」ものであり、「守らせる」ものである。

創造は、従来の理解を修正させるものであり、変更させるものである。

起きる直前には、人間、何だかえらく難しい事を考えるものかもしれない。

ずっと以前になるが、コンプライアンスについて投稿したことが何度かある(たとえばこれ)。そこでも書いているが、どんな言葉にも表の意味と裏の意味がある。しばしば徳を表す《勇気》や《大胆》も、裏側から見ると《侮蔑》や《鈍感》と一体になっていることが多い。完全な善というのは、プラトンと同じく思考の世界にのみ存在する観念で、この世において実際に達成するのは人間には不可能だというのが、小生の世界観である。

明治の文明開化が落ち着いて、憲法制定、法律整備へと向かっていた時代、

民法いでて、忠孝滅ぶ

と訴えたのは、東大法学部で教授をしていた穂積八束である。

確かに戦後日本で価値転換が激しく進んだと同様、明治前半もあらゆる真偽善悪が前時代とは逆転した時代であった。しかし、実際には成人した明治天皇や側近たちの主導で、教育勅語や道徳教育の復活が実現し、文字通りに「忠孝」が滅んでしまう状況にはならなかった。これが日本社会にとってよかったのか、悪かったのか、戦前期民法を含め、戦前期・日本をどう評価すればよいのか、まだ国民的な理解は形成されていないと思う。

話しは別だが、いま思い出しているのは、2004年に起きた《Winny事件》である。最後には、(当時としては)時代の先を行く新たなソフトウェアを開発したエンジニアまでもが警察に逮捕され、強制的家宅捜索と厳しい取り調べを経て、起訴され、最終的に2011年に最高裁で無罪が確定するまで、長い時間を要した。

バブル崩壊からごく最近までに至る日本経済の長期停滞に関しては、バブルの後処理に失敗したとか、1997年のアジア危機が痛かったとか、小泉改革の生煮えさが原因であるとか、東日本大震災によって原発施設が全面停止し、以後、不安定なエネルギー供給が続いてきたためであるとか、多くの原因が指摘されている。

しかし、これほどまで日本経済の活力が奪われた出発点として、最先端ソフトウェアの不適切な使用の事後責任までをソフトウェア開発者に負わせようとした捜査・司法当局の厳しいコンプライアンス重視主義を挙げてもよい。小生は、そう観ております。

科学と技術で生じた問題は、科学と技術の進展によって解決するべきであり、法律で解決してはならない。「ならない」というより、とにかく法律関係に落とし込んでから、関係者を処罰、処罰でもって「解決」とするのは、余りにも単細胞で、かつ後ろ向き。とてもじゃないが、感心できない姿勢である。

《Winny事件》は、日本の研究者、開発者を(というより経営管理層を?)強く委縮させるものとなった。そして日本社会は、捜査当局のそうした抑圧的姿勢が《公益》に寄与するものとして、これを是とした。これが日本経済の停滞の根源的要因(の一つ)として働いた。そう観るわけであります。

まさに

コンプラいでて、創造ほろぶ

所詮、法は促進させるものではなく、守らせるものである。法律で出来る事には限界がある。それは日銀の金利政策で出来る事には限界がある。それと同じである。

一度、ゼロ金利にまで下げてしまうと、金融政策で成長軌道に戻らせることは極めて困難になるのと同じように、司法で創造への意欲を委縮させてしまえば、再びフロンティア精神を活性化させるのは難しい。

法は安定を守らせるもので、創造は安定を破壊するものだ。

両者のバランスが最も重要だ。火を消せば灰が残るのみ。その灰の中から再び火を起こす義務は火を消した司法当局にはないのである。その責任を免れるところから、過剰なコンプライアンス重視主義が世を跋扈してやまない。

研究開発の火が消えれば、人は人が集まっている都市に集住し、互いに何かをしあって報酬を得る。地方には生産現場が残る。食えることは食える。共生空間、互助経済と言えば気持ちは和むが、「花見酒の経済」である。生産性向上とは縁なく、ただ面白いだけである。大都市への人口移動が進みながら、高度成長時代とは異なり、生産性向上、生活水準向上が伴わないのは、これが背景だと観ている。

「いやはや何とも・・・」としか言う言葉を知らない。


以上、朝起きる前に考えていたことを文字起こししてみたまで。

2025年9月9日火曜日

ホンノ一言: 早速、前倒し自民党総裁選挙に期待するネット記事をみつけた

漫画『ハレンチ学園』というと天才・永井豪の代表作である。小生、ずっと以前は永井作品の結構なファンであり、連載されていた『キッカイ君』だったと記憶しているが、ドクター・ポチとその助手であるアルフォンヌ・ルイ・シュタインベック3世がお気に入りのキャラクターだった。加えて、まったく関係なく現れる寄席の師匠・炎天下冷奴もまだハッキリと覚えているから、よほど気に入っていたのだろう。

確か最後は地球最後の日がやって来るという話しだったと覚えているのだが、まあ、とにかく全人類が滅亡するのだから、大変な話だ。そんな騒動を描いた横で、というか後ろで、羽織姿、手には扇子の冷奴師匠が

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ、ヨイヨイヨイヨイ・・・

満面の笑い顔で踊っている。そのコマがとても好きであった。

まあ、無責任といえば無責任の極みである。とはいえ、どうせ地球が滅びるなら、その最後の瞬間まで楽しく踊りまくるのが、最も合理的で賢い生き方なのであると、ずいぶん後になって、何かの経済学関連書で読んだ記憶がある。

自民党の総裁選挙が前倒しされることになって、ネットにはこんな記事がある:

自民・公明両党は衆参両院で過半数割れの少数与党となっており、次期総裁には難しい国会の舵取りが求められる。“進次郎構文”の「小泉総裁」か、“右過ぎる”「高市総裁」か──日本の未来はどこへ向かっていくのだろうか。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Original:NEWSポストセブン

Date:2025-09-09 7:14配信

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/ab503a565e878486a85f68b7edcd31a9a2c19746

解決困難な問題に次期総理(?)は直面する。ところが、一方の小泉候補は「中身が薄くて」、理解困難な言葉を発する。他方の高市候補は「靖国神社への参拝がライフワーク」で、「(極右である)参政党との連立なんてことも言いかねない」というお人柄だ。

「小泉総裁」か、「高市総裁」か ― 日本の未来はどこへ向かっていくのだろうか?

これを読みながら、なぜこの記事の最後に、

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ、ヨイヨイヨイヨイ・・・

という一文を付け加えなかったのかと、そう感じた次第。

そうすれば、この記者は天才ではないかと思った事でありましょう。

振り返るにつけ、日本のメディア文化からいわゆる「風刺画」と呼ばれるヒトコマ漫画がすっかり廃れてしまったのが、とても残念だ。おりしもNHKの大河ドラマ『べらぼう』では天明・寛政期に普及した狂歌が素材になっている。江戸の町人には道徳至上主義者の老中・松平定信を笑い飛ばす根性があったが、いま現代日本の大衆はえらくクソ真面目で、すっかり大人しくなっちまったンだネエ、大人しい割にはストーカー犯罪とか通り魔殺人とか、現代型犯罪は結構出てるようでもあるがナア・・・・・・と、そんな感想です。

ちなみに、上の

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ ・・・

についてだが、気になってオリジナルは何だったのか調べてみると、「エ~ライコッチャ」でなくて「エ~ライヤッチャ」。あとに続くのは

〽踊る阿呆に 見る阿呆 おなじアホなら踊らにゃ損々

であった。阿波おどりは少年期に何度も近所の悪ガキたちと歌いながら真似したものだ。なぜ思い出さなかったかナア・・・

となれば、最近の世相、世を嘆く記事をネットにあげては、エ~ライヤッチャ、エ~ライヤッチャと、付け加えてほしい。何度も何度も、手を舞い、足を踏んで、踊り歩ける。

同じアホなら 踊らにゃソンソン

ではないか・・・

【加筆修正:20250910】


2025年9月5日金曜日

ホンノ一言: プロスポーツ応援にも現代日本社会の空気が現われてきたか?

 Yahoo Japan!ニュースをみていると、

今シーズンの大谷翔平にどのような期待を寄せていますか?

という問いに対するネットアンケートの結果が掲載されていた。

結果が面白い、というか本当に「情けない」ので下に切り貼りしておき、最近年の日本社会をよく映し出す事例とし、併せて自戒と致したい。




Date:2025年9月5日
URL:https://news.yahoo.co.jp/polls/55031

プロスポーツの選手に何を期待するかという思いに、そもそもなっていないように感じた次第。

何だか、現代日本社会を覆っているドンヨリとした気分が、ここにも表れているような感覚を覚えた。

この空気は、一体、日本社会のどこから発しているのだろう?
それをこそ、情報発信してほしいネエ。

以上、ホンノ一言。


2025年9月3日水曜日

補足一言: 「国益」と「私益」の区別についてだが

前稿でこんなことを書いた:

国益の計算としては、微細な違法性でつまらぬ家宅捜索を警察がしでかしたと感じるものの、グローバル企業・サントリーを代表する会長としてみると、不道徳な買い物をしていたと受け取られるのはやむを得ない。

この箇所、見る人がみれば、こんな見方自体に厳しいクレームがあるに違いない。いわく・・・

  • 地位を失うのは私益。違法薬物取締は国益。この二つを天秤にかけることは許されない。警察は国益に随って行動するべきだ。
  • サ社の元(!)会長が地位を辞したのは当然。そもそも高い地位にあって利益を会社から得るばかりで、社員、日本社会に何も還元してこなかった。今回の責任の取り方は当然。

他にもあるだろうが、まあ、まあ、こんな反応は当然予想される。

小生の立場は本ブログで何度も投稿しているが、また繰り返しておくと、

誰の私益とも関係しない、純粋な意味での《国益》という概念を小生は認めない。

共同利益という意味での公益はある。が、日本全体の国益は私益を合計したものである。故に、ある人の私益が増えることは、(略奪のようなゼロサムゲームでない限り)日本の国益が増えることを意味する。

逆に言えば、国益を増したと主張するには、私益の増減が差し引きプラスであると言えなければならない。誰の私益も増えないのに、国益だけが増えるという可能性は認めない。 

なので、小生の目には、警察にとっての益は警察にとっての個別利益、捜査される人の損はその人の個人的な損。この二つを合計したものが、日本全体の公益の増減である  ―  さらにサントリー社の個別的損失、経済同友会の個別的損失、内閣府経済財政諮問会議の個別的損失も計上するべきかもしれない。

ずっと以前からこう考えているし、今も変わらない。

なぜこんな風に考えるかって?

純粋な意味での国益を主張すると、その延長線上で

国益は私益に勝る

こう主張してやまなくなる。この思想から

日本国のために、人間一人の命を捧げるのは当たり前

という極右の国家主義が現われるのは、あと一歩である。仮構を実在と思い込む典型的な煩悩のなせる所で、極めて愚かな思想だ。

純粋な意味での国益の存在を認めないのは、そのためである。

しばしば、警察にとっての個別利益が、イコール公益であると、こう認識され、あろうことか社会全体で公益は私益に勝ると大合唱になることがある。

戦前期・日本の最大の軍律違反である「満州事変」も、(理屈としては)陸軍の(というより一部数名の軍人の?)私益であったのが、何ということか国益とされ、国益はあらゆる私益に勝ると強引に主張されたところから、日本の統治機構は崩壊し、その後の孤立・破滅へと至って行ったのである。

国の危機は「国益」を大義として僭称する一部勢力の「私益追及」によってもたらされるのだ、という歴史的な経験を日本社会は忘れるべきではないだろう。


純粋な意味での「国益」なるものを最初からキッパリと否定すれば、その心配はない。江戸時代以前の日本では、天皇をお上とする朝廷が弱いながらも「公」であり、幕府は形式上は「私」であった。しかるに明治維新を境目に、強い公が復活し、この国で猛威を振るった。敗戦を機にその感覚は一時消失したが、長期の停滞の果てに、また「公私の公」と「国益」が肩で風を切って世間を支配し始めるかもしれない。

いつの時も、「公」を僭称する勢力の目的が「私益」にあったことを忘れるべきではない。金銭欲、物欲、出世欲、歴史に名を残したいという欲、自己を正当化したいという欲、すべて自己愛と我執に由来する欲で、私益を欲しているのである。

純粋の「公」や純粋の「国益」なるものは、仮構であって実在はしない。「ある」と思いこむのは、「ある」と思い込んで執着するからであって、虚妄である。実在しているのは「私益」あるいは「共同私益」のみである。経済学から入ったせいか、この社会観は変わらない。

まとめると、私益に動機づけられるべきではない公的機関が自ら純粋の「公」や「国益」を意識するとすれば、それは虚妄であるというロジックだ。

何というパラドックス! 何という矛盾だろう!!


政府の公的機関に出来ることがあるとすれば、結局のところ(これも困難な課題だが)貧困を減らし、豊かさを向上させること位である。少なくとも経済面の不安は少なくなる。国益は確実に増すに違いない。しかしながら、仮にこの課題を解決できたとしても、人々の心の中に残る(はずの)「生きる不安」、「老後の不安」、「死ぬ不安」を解消することは、政府には無理である。そもそも公務員の仕事ではないでしょう。

人生は《苦》であります・・・そこから出発するしかありませヌ。生きるための「不安と悩み」は、《我執、我愛》から生まれる。即ち、煩悩がある限り不安はなくならない。人々の幸福を実現することこそ究極的な《公益》であるなどと語る人もいる。その人は夢をみている。語っていることは妄言である。こんな仕事は役所には無理である。無理なことを引き受ける体裁はつくらないほうが良い。予算要求の理由になるだけだ。

苦悩は人の心の煩悩に由来する。菩提心を発して煩悩を止滅し、涅槃に至るのは自利、つまりは私益に属する。一切衆生を度するのは公益そのものだ。しかし、公務員には無理である。(仏教においては)菩薩の仕事となる  ―  「度する」(=救済)が具体的に何を意味するかは、それなりの知識がいるが。キリスト教社会、イスラム教社会のロジックはよく知らない。


・・・以上、昨日稿の補足までと思っていたが、内容がどうにも拡散してしまった。本日はこの辺で。


【加筆修正:2025-09-06、    09-07

2025年9月2日火曜日

ホンノ一言: 代表的経済人が犯したエラーと守るべきモラル

日本の代表的経済人で現サントリー会長の新浪剛史氏が会長職を辞任した件で、政財界に激震が走っている由。

これに関しては以下のような報道がネットには上がっている:

サントリーホールディングス(HD)会長を辞任した新浪剛史氏は、自身で購入したサプリメントは、合法の「CBD(カンナビジオール)」だと説明した。CBDは大麻草由来だが、有害だとされておらず、厚生労働省の大麻規制に関する小委員会による2022年のまとめによると、欧米を中心に、リラックス効果をうたう食品やサプリメントの市場が急拡大している。国内でも販売されている。

一方、同じ大麻草由来のTHC(テトラヒドロカンナビノール)は幻覚などを引き起こし、依存性もあるなど健康被害の恐れがある。厚労省の監視指導・麻薬対策課によると、CBDもTHCも、油分に溶けやすいなど性質が似ている。CBDの抽出が目的でも、その過程でTHCが微量に残ってしまう可能性がある。大麻由来の成分の規制は国によって違いもあり、米国の一部の州では合法で購入できる場合もあるが、日本では、定められた残留限度値を上回るTHCが製品に含まれていれば、違法になるという。

Source: 朝日新聞、2025年9月2日 20時45分

捜査した福岡県警は(ちょっとした?)《お手柄》だが、もし上の説明が事実なら、極めて微細な違法を犯している(のではないか)というのが、正直な印象だ。

警察の「小さなお手柄」は確かに国益の向上に資する。しかし、「小さな手柄」を警察に立てさせるために、有能な経済人が地位を失うのはそれ自体として「国益の損失」にあたる。

故に、国益の損得計算としては、今回の件は、捜査当局の行動がヤボ、というか粗忽、というか強引、マア、そんな感想である。

ただ・・・

国益の計算としては、微細な違法性でつまらぬ家宅捜索を警察がしでかしたと感じるものの、グローバル企業・サントリーを代表する会長としてみると、不道徳な買い物をしていたと受け取られるのはやむを得ない。

高い地位にいる者は、高い道徳性を体現しなければならない。

この大原則を身をもって示したことは、今回の件で、最も重要な側面(の一つ)であるに違いない。