「改革」とか「総決算」という言葉は日本人の大好きな言葉だ。1982年から始まった中曽根内閣のスローガンは「戦後政治の総決算」であったし、20世紀が終わる間際に橋本内閣が目指したのは(残念ながら達成できたのはごく一部であったが)行政・財政・金融・経済・社会保障・教育にわたる「六大改革」であった。中央官庁が再編成されたのもその一環だ。その後も小泉内閣の「郵政改革」があり、安部内閣のアベノミクスと経済再生へと改革志向は続く。アベノミクスも「異次元」を売りにしていたので、それまでの政策の「ちゃぶ台返し」と言っていい。
とにかく、日本人は服を着替えるように「心機一転」するのが大好きである。
外国は、たとえば大統領選や国王の世代交代で自然な「変革」が事実として進行するのだが、日本はそうでないというのが、本質的原因なのか?
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なぜ同じことを何度も繰り返すのだろうと常々不可思議に感じているのだ、な。大体、変えること自体が善いという理屈はない。大正デモクラシーの潮流を変えて国家総動員に変えた結末は誰もが知っている。真珠湾を攻撃して対米開戦の火ぶたを切った時になぜ多くの日本人は喝采の声をあげたのだろう。スカッとしたということか?前途を悲観する人は内外事情に通じる極々少数の人たちだけであったと聞いている。
なぜ「改革」やら「心機一転」をこれほど好むのだろう。ChatGPTにニュアンスが近い表現を聞いてみると
I decided to start afresh after the failure.
He promised to turn over a new leaf this year.
I went for a walk to clear my mind.
色々と複数の言い回しがある。最初の"start afresh"は失敗のあとのリセットに近く、これが「心機一転」のニュアンスに近いかもしれない。二番目はひょっとすると坂本龍馬の『夜が明けるゼヨ~~~』の乗りか…。最後の"clear my mind"は何かに執着している心を一回解きほぐすといったニュアンスだ。ちょっとこれは日本人の好きな「改革」とは違うかもしれない。
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最も不可思議なのは、変えること自体を主張するときに、現行方式のそもそもの目的は何であったのかという、当初の目的の再確認を誰も言い出さない点である。
だってそうでしょう。
初心忘るべからず
という。一度目指した目的を中途で放棄することは最終的失敗への道である。そんな根気のない国民は何をやっても所詮は失敗します。
何かをやり始めたのは《目的》があったからだ。その目的を確認せずして、うまく行っていない/うまく行っている、そんな評価が出来る理屈はないのである。
その目的は今でも有効で、これまで通りの目的を今後も追及していくのか?うまく行っていないのであれば、その原因は何か?改革にはこんな議論が自然に出て来るはずだ。これが日本では出てこない。いわゆる「暗黙知」を前提するにも程合いってものがあるでしょう。
目的の確認があって初めて社会科学的分析に入れる。・・・当たり前のことを更に書いても仕方がないが、いわゆる《PDCA》。Plan‐Do‐Check‐ActionのPDCAだが、実のところ"A"をAnalysis-Actionの二つにしたいとずっと思ってきた。が、それはともかく、最初はプラン"P"から始まっている。がしかし、プランには目的があったはずだ。目的は"Goal"でも"Object"でもよい。だから私的にはObject-Plan‐Do‐Check‐Analysis-ActionのOPDCAAだと話してきた。チェック(C)と分析(A)の前と後に二つの行動フェーズ、つまりDoとActionがある。この二番目のアクションが日本人の好きな「改革」に当たっていると小生は思っている。
つまり日本人の好きな「改革」とは「軌道修正」のニュアンスに近いのかもしれない。
しかし、チェック(C)と分析(A)が目的の再設定につながることも理屈としてはあるし、それこそが大事だと小生は思っている。
端的にいうと、改革は目的の再設定を必ず伴うというべきだ。目的は変えないということの再確認でもよい。
ところが目的の議論が一切ない。日本人なら日本国の《国是》くらいはわかっているという大前提があるのだろうか?そんな姿勢で日本国の国際化などは不可能でしょう。
目的の確認なき"PDCA"はあり得ないのだ。
目的確認なき改革はプランなき行動につながる。
よい例がエネルギー計画だ。《再エネ重視》もいつの間にかなし崩しになってきた。そもそも原発から再エネへと方向転換をしたのも原発事故があったからである。小生は何も再エネ主義者ではないが、福一原発事故の後遺症がいまだ残っているのに再エネ見直しをするのは『初心にこだわるべからず。何事も臨機応変!』を見事に実践しているわけだ。一事が万事ですナア、と思っている。
改革、改革とみな連呼している。
鎌倉時代、室町時代の「徳政令」は「徳政」ではなく、要するにただの「借金棒引き」でありました。徳政とは真逆の失政である。分析なき改革、目的の再設定なき改革は、ロジックなき統治で必ず失敗するということである。
だから幼稚に見えて仕方がありませぬ。
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