最近は《混乱の時代》であるせいか、日本語のネット世界でも「理念」、「価値」、「哲学」、「宗教」、更には「数学」とか「論理学」まで、異種の文化概念が言葉のゴタ混ぜになって、一種異様な言論空間が形成されつつある。
もう言論界なんて聴く気にも、読む気にもなれないネエ
そんな風な年の瀬であります。
要するに、何が正しいのか分からなくなった。そんな世相である。分からないから何もしない。見通しもなく何かをする。失敗すると責任探しをする。不安になって誰かを先制攻撃する。ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」たる世界。不安の根源はここにある。
そんな混乱の時代は、既存の世界が変質していくのを目の当たりにするので、誰もが不安に感じるが、実は混乱の時代こそ進化の時代でもあることは、狭い日本史の空間に限定しても例えば「平安時代末期から鎌倉幕府にかけての時代」があるし、「戦国時代から豊臣政権成立」までの時代もある。新しくは「桜田門外の変から西南戦争の終息」までの約20年間も挙げてよいが、こちらはごく短期間で日本社会は新時代への歩みを始めることができた。ひとえに《外圧》のお陰といってよい。
昨秋に寺で相伝を受け、それから朝の勤行と日曜の写経が習慣となり、書き写した「一枚起請文」も52週分になった。来年からは月単位で『仏説阿弥陀経』の写経も始めよう。
その『阿弥陀経』は、要するに「一心不乱に念仏せよ」、趣旨はこれに尽きると言えるような短い経典である。ずばりWiikisourceから引用すると
舍利弗 不可以少善根 福德因緣 得生彼國
舍利弗 若有善男子善女人 聞說阿彌陀佛
執持名號 若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不亂
其人臨命終時 阿彌陀佛 與諸聖衆 現在其前 是人終時 心不顛倒
即得往生 阿彌陀佛 極樂國土
この部分が該当する。つまり、ここの本旨は
人は少々の善いことをしたからといって、だから極楽浄土へ往くことが可能になるわけではない。しかし、阿弥陀如来の名を七日間、一心不乱に念仏すれば、臨終の際に阿弥陀仏が現前して、平静な心のままで寿命を終えて、魂は極楽浄土へと往ける。
善行などの自力ではなく、仏の他力によって心は救われる、それに必要なのは念仏だけである。こういう主旨である。
これを日本の仏教界で文字通り「徹底」したのが法然であった。「専修念仏」というのは実にラディカルである。
この「一心不乱に」という個所だが、小生にはその狙いがずっと分からなかった。というのは、法然の直弟子であり、浄土真宗の宗祖でもある親鸞の思想に沿えば
念仏によって人は救われるのではない。人を救おうとする阿弥陀仏の願いが先にあり、阿弥陀仏の意志によって人は救われるのである。阿弥陀仏の願いによって人は浄土に往けるのであるから、念仏を繰り返し唱える必要はない。
こうなるはずだからだ。親鸞は法然に劣らず実にラディカルである。
実際、法然の『一紙小消息』を小生は毎月曜日には読むことにしているのだが、その始めの所に
行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。
こう書かれている。やるべきことを余りして来なかったからと言って、資格がないと思う必要はない、という意味だ。十回、いや一回だけの念仏で足りる。法然はこう書いている。しかし、これは阿弥陀経が求める「一心不乱」とは方向が違っている。ところが読み進んでいくと
行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生まる、況や多念をや。
念仏は絶えず唱えたほうが善いのだと書いている。
大学のゼミで、上の二つをゼミ生に話せば、
どっちが先生のホンネなんですか?
と確認してくるに違いない。法然は、一念で十分と口では言いつつも、心の中は「多念論者」であったのか?これでは表裏があるではないか?批判的な向きは、この点のほころびを必ず突いてくるであろう。
最近になって、こう考えることにした。
念仏は(理屈では)1回でも十分だ。しかし、真面目に一日千遍の念仏を何年も続けられる人は、「信」という不可欠の心を既に有しているから出来るのだ。
考えても御覧なせえ。
本当に阿弥陀仏の実在を信じているわけではなく、心のどこかで疑いをもっている状態で、毎日千回の「南無阿弥陀仏」を口で唱える気持ちになれるだろうか?それも自分が死ぬまでずっと欠かさず、一日千遍の念仏を続けることができるだろうか?心の中は実は科学主義で、阿弥陀仏や極楽浄土の実在を否定している人物は、一日千遍もの念仏は、バカバカしくてとても実行する気にならないはずである。まして、それを10年も20年も続けるとか、法然がしたような毎日三万遍の念仏を自らに課するとか、そんな「行」は、とてもじゃないが、引き受ける気持ちにはならないに違いない。
「信」をもたず、心の中に疑いをもっている人は、「この道を行くのは自分には合っていない」と、こう判断することで自ら納得するはずだ。浄土系の他力信仰は、禅宗など自力信仰と同じ程度に難しい道である。決して「易行」ではない。
物理、化学、生物学など自然科学でデータによって立証されていることのみが真理であると考える人にとって、信仰は素粒子や元素、更には化学反応など物の世界を理解することからは離れるので、とても難しいのである。
親鸞は「信」こそ始まりであって、最も重要であるから、「信」があれば念仏は本来は重要でないと考えたが、逆のロジックをたどると、「信」があれば阿弥陀仏と極楽浄土の実在を信じ、あとは自然に念仏が習慣になるはずである。結果として自然に多念になる。
「多念」がバカバカしいと感じたり、時間の無駄であるとしか思えないのは、その人は本当の意味で阿弥陀仏の実在や、念仏の意義を認めていない。つまり「信」の心がない。まだ始まっていない。そういうロジックになるのではないか。
もちろん目指すべき境地である菩提心に至るには阿弥陀仏の極楽世界のみに道が限定されているわけではない。柳宗悦は著書『南無阿弥陀仏』で
人はみな他力他力と喜ぶが、己は阿弥陀様の自力が有難い。
妙好人・庄松の言行録を引用することで第16章『自力と他力』を結んでいる。自力と他力とをことさらに区分して対立構造を持ち込むことは非生産的な煩悩に過ぎない。
最近はこんな風に考えることにしている。
う~~ん、本年最後の投稿はこんな話になったか・・・たしかに最近になって唯物論から親・唯識論へと走った小生の「転向」を象徴している。
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