夢をみた。小生はよく夢をみる。夢を見ている途中で目覚めることが多いので、夢で話していたことをよく覚えてもいる ― 何分か時間がたつと、鮮明に覚えていたはずの夢の内容を、不思議なことにまったく思い出せなくなるので、メモに書いておくことも夢投稿が増える理由かもしれない。
こんなことをカミさんと話していた:
小生: 裁判官っていう職業は仕事が楽しくてやるもンじゃあないよね?
カミさん: だけど仕事は楽しんでやらないと長続きしないのじゃないの?
小生: それはそうだ。だけど僕の祖父が判事だったンだけど、ずいぶん齢をとってから『法廷で 死刑を宣し 勲〇等』っていう俳句というか川柳を詠んだらしくてネ、祖母から聞いたことがあるンだな。
カミさん: お祖父さん、民事が多かったンじゃないの?
小生: 刑事裁判も偶にはやったンだろうね。いかに犯罪者とはいえ、懲役とか、まして死刑を判決で言い渡すなんて、そんな仕事が楽しいわけないよ。
下の愚息が、10年以上も前になるが、法律専門家の道を歩き始めたので、これと同じ話を既に投稿したような気もするのだが、ちょっと出てこない。こんな時は、やはりブログよりは紙媒体のノートの方が便利である。キーワードが特定できる時は検索機能が効率的だが、極度にあいまいな時は、かえって不便なのである。Googleでも《あいまい検索》ができるといいのだが、Geminiがこれほど進化した現時点でも、このブログであいまい検索は出来ない。
*
それはともかく、楽しんでやるべきではない職業は、世間には多い。
判事がそうであったと同じ理由で、検事も楽しんでやるべき仕事ではあるまい。なるほど法律を犯している悪人を裁判にかけて求刑をする仕事は、公益にもかない、やりがいはあるのだろうが、人を処罰する行為を一生の仕事にしたくはない、というのが小生の主観である。マ、個人的な主観に過ぎないので、一般化はできないだろうが。
もちろん楽しくなくとも、充実感や達成感や、何らかのプラスの感情は仕事に付随しているとは思う。
よく考えると「軍人(≒自衛官?)」という職業もそうかもしれない。
戦前期・日本のエリートであった陸海軍の軍人は、例えば陸軍省や参謀本部でデスクワークを行う人物の方が、最前線で部隊を指揮する現場の将校よりは、はるかに《格上》であったということだ。
日本の「庶民」は「現場重視」や「たたきあげ」が大好きで、国防という重要な職務においても、デスクワークを担当する参謀が現地司令部の行動を指示するその上下関係に嫌悪の感情をもっていたと、これまた聞いた事がある。
現場が「表舞台」、参謀は「裏方」。現場のことは現場に任せて、弾の飛んでこない後ろからあれこれと指図するな、というわけだ。マア、その感情は今でもとても分かる。
似たような話は、製造業の民間企業にもあって、工場の現場より本社の経営企画室やらが肩で風を切って歩くような会社はダメだと、エンジニアであった父からよくそういう話は聞いていたような記憶がある。
*
それで小生もずっと、物事は現場が大事。デスクワークを得意とする高級参謀が威張るような組織は腐っている、と。そんな風に社会をみていた時代、というより年齢上の期間があった。
しかし、いま現在はまったく正反対の思いを持っている。
話は陸軍に戻るが、最前線で兵を指揮する仕事というのは、いかに敵兵とはいえ(もしそうなれば)戦場で人を殺すことを仕事にするということだ。それが国益を守ることである。しかしどう考えても、現場で人を殺す仕事が、戦術・戦略を考える頭脳労働より高等(?)であるはずがない。
有能な戦略家は、戦わずして勝つ道筋に組織全体を導いていくにはどんな選択をすればよいかを常に考えるものだ。戦術家も有能であれば、味方の犠牲が少なく、短期のうちに勝敗を決するやり方を考案する。血みどろの戦いが展開されるのは、戦略や戦術を考えるセクションが無能であるためだ。だからといって、現場で戦っている人間こそ戦略家や戦術家を超える高い価値を有しているとは思われない。そんな風に観るようになった。
ずっと以前、『現場の経済学』などとタイトルをつけて何回かのシリーズを書いたことがある。小役人をしていると、まさに「現場」こそ組織の核心だと思っていたのだろう。
慙愧に堪えない迷妄であった。
経済的混乱を救うのは「現場」ではない。学理に通じた有能な人物が「中枢」に配置されて、置かれている状況に応じて効果的な経済戦略を見出すとき、社会全体も救われるのだと、いまは理解している。
インドのカースト制は強固な身分制である。西洋にも東洋にも永らく身分という社会慣習が世を支配していた。現在では、すべての人、故にすべての職業も平等だと信じられているが、これは近代民主主義のイデオロギーがもたらした社会意識上の大変革である。
しかしながら、やはり職業や仕事には《職業上の貴賤》がある(のではないか?)。職業と言っては語弊がある。同じ組織、同じ社会でも、生業というか、日々の仕事というか、何をやって報酬をもらっているかという点で、行動には貴賤がある(のではないか?)。
なので、超長期のあいだ続いた伝統社会の貴賤思想には、近代市民革命でも払拭できないような、人間社会を見通す深い叡智が隠されていた、と。いまではそんな風に思えるときがある。
少なくとも言えることは
その仕事の貴賤は、いわゆる「市場価格」の高低とは、まったく別の問題である。
プラトンも職業上の貴賤を『国家』の中で論じていたが、何だか最近はずっと持ち続けていた固定観念が、溶解していくような気持になることがある。
0 件のコメント:
コメントを投稿