高市内閣の政策で対皇室観だけは共感できるというのは以前にも書いたことがあるが、この国会で可決する見通しになった皇室典範には中々に反発が大きいようだ。
特に「旧宮家から養子案」については、実際はどうか分からないが、反対の声が多く上がっている。入ってくるのはメディア経由かネット経由の声が大多数で、それが日本人全体のサンプルになっているのか、今の世相では分からないが、反対が多いという事実はあるのだろう。
先日の投稿でこんな事を書いていた:
最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。
これは確かにその通りだと思うが、確か白壁王の正室は天武系の皇女ではなかったか、その正室との間に息子がいたはずだが、という記憶もあったのでChatGPTに聞いたところ、
他戸皇子は、
天武天皇
↓
舎人親王
↓
大炊王
↓
他戸親王
という系譜で、天武天皇の男系曾孫に当たります。
これは《とんでもない間違い》であると直ぐに分かった。どうやら日本史に関する情報収集力は数学的処理の卓越さに比べると見る影もないほど貧弱であることが分かったので、今度はGoogleのGeminiに聞いてみた。回答の一部を下に引用しておこう:
まとめ
- 天武系の男系が枯渇していたというのは正しい認識です。
- ただし、光仁天皇の即位は「天武系との決別」ではなく、「天武・聖武の血(女系)を引く他戸親王へ繋ぐためのワンポイントリリーフ」でした。
- その後の藤原氏の政変(呪詛事件)によって他戸親王が廃されたことで、結果的に完全な天智系(桓武天皇の系統)へと変わっていきました。
壬申の乱の後、100年続いた天武天皇の皇統を排して天智天皇系を選んだというよりは、聖武天皇の女系の孫・他戸皇子が成長するまでのつなぎとして天智系の白壁王は即位した、と。天武系の男子が(政変や粛清によって)ほゞほゞ途絶えていたという認識は概ね間違ってはいないが、「敢えて血筋は遠くとも男系の白壁王を選んだ」という意識ではなかったのではないか、と。言い換えると、皇位は女系継承でも可だと、当時の人たちはそう意識していたのではないか、と。Geminiはそう推測している。
ふ~~む、往年の『時の娘』を書いたジョセフィン・ティや『成吉思汗の秘密』を書いた高木彬光ではないが、これは歴史ミステリーそのものではないか・・・
これ以上に立ち入るのは専門外の小生には時間も基礎知識もない。少なくとも言えることは
複数のAIに質問して、答えが一致するかどうか、確認するべきである。
いくら物知りの友人でも、得意・不得意はある。特定の友人を丸ごと信じるのが失敗の元であるのと同じように、AIの答えをそのまま信じるのはダメだということだ。
ちなみに「旧宮家から養子」という案だが、ChatGPTに以下の質問をした:
最近、第二次大戦後に皇籍離脱した伏見宮系の旧宮家が話題になりますが、男系を遡ると祖先の天皇までは何世代も数えるそうです。一方で、皇族であっても一定世代が経過すれば臣籍降下するのが慣行であったはずです。伏見宮系の皇族は何故これほど長い間皇族であり続けたのでしょう?
すると、以下のように応答してきた:
非常に重要な点です。実は、伏見宮系が長く皇族として存続した理由は、「皇位継承の予備系統」として制度的に維持されたからです。
まず、平安時代まではおっしゃるように、皇子・皇孫は数世代経つと臣籍降下するのが一般的でした。例えば、以前お話しした良岑安世のように、天皇の子孫でも皇族を離れて臣籍に下る例は数多くあります。
ところが、鎌倉時代になると事情が変わります。
伏見宮家の成立
伏見宮家は、伏見天皇の皇子である栄仁親王が14世紀初めに創設しました。
当時は、いわゆる持明院統と大覚寺統の対立があり、皇位継承が非常に不安定でした。そのため、本流以外にも男系皇族を維持しておく必要がありました。
「世襲親王家」という特別な家
室町時代以降、伏見宮家とそこから分かれた宮家は世襲親王家と呼ばれました。
これは通常の宮家とは異なり、
- 皇位継承者を確保すること
- 皇統が断絶しそうな場合に備えること
を目的として、代々親王・王の身分を保持することが認められた特別な宮家でした。
江戸時代には
- 伏見宮家
- 桂宮家
- 有栖川宮家
- 閑院宮家
の四家が代表的な世襲親王家でした。
明治以降
明治時代になると、伏見宮家からさらに
- 久邇宮
- 朝香宮
- 東久邇宮
- 竹田宮
- 北白川宮
- 賀陽宮
- 東伏見宮
- 梨本宮
などの宮家が創設されました。これらはいずれも伏見宮系の男系子孫です。
つまり、現在話題になる「旧宮家」とは、もともと皇位継承の予備として制度的に存続していた家々なのです。
1947年の皇籍離脱
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、皇室の規模を縮小するため、これら11宮家51名が皇籍を離脱しました。
したがって、現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。
むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。
この点が、平安時代などの臣籍降下とは大きく異なるところです。歴史的には、伏見宮系は一般の皇族とは異なり、「皇統維持のために特別に皇族の身分を世襲することが認められた家系」であったため、何百年にもわたって皇族であり続けたのです。
伏見宮栄仁親王の父である天皇の名(正しくは崇光天皇)や伏見宮創設時期(正しくは15世紀初め)が間違っている ― 親王の名は正しい(ようだ)から可笑しいが。やはりChatGPTは歴史は苦手のようである。とはいえ、この問題はGeminiに質問しても、「世襲親王家」という着眼点については同じ趣旨の答えが返ってくる。
つまり、
現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。
むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。
この問題意識は両方のAIで一致している。とるべきアプローチは、「ほとんど赤の他人」とも言える民間人を皇族にしてもいいかという問題提起とは別である、ということだ。
この見方は、いま世間で話されている内容とは違うし、小生の感覚では
世論よりはAIの方が冷静で、かつ客観的な問題理解だと思われる。
こういう事であります。
いずれにせよ、天皇というものについて議論を始めれば、基礎になるべき教養、知識は、高々100年にも足らない戦後日本の民主主義を遥かに超える厚みと深みを伴うものとなる。当たり前である。現代民主主義を大前提にしながら皇位継承を議論する時、何だか納まりがつかないモヤモヤ感があるのは、神社で柏手を打つ時に感じる小っ恥ずかしい感覚に通じているのである。
日本国憲法を大前提にしながら、国民統合の象徴を決めるなら、日本を共和制にして大統領を選挙で選ぶ方が余っ程ロジカルなのである。最近、上野千鶴子氏がこの見解をハッキリと述べているが、他の点はともかく知的誠実さには感服を禁じ得ないのだ、ナ。
何党か分からないが立候補して選挙運動をしたあと私たち有権者が投票をして選ばれる大統領と天皇陛下と日本人はどちらに日本の象徴性を感じるのか?それはまた自ずから別の事柄であろう ⋯⋯ 国歌「君が代」も廃止しないとネ、大統領制にするならば。
本当はこの選択を日本人はして、それに整合するように憲法を書き直す(=改正する)のが望ましいと思うが、これはまた別問題。
囲碁の名人がDeepMindのAlphaGoに負けてからAIの優越性が可視化されてきたのだが、歴史的背景と今の政策との関連をどう理解するかという点でも、世論よりはAIの方が正確になってきた・・・こんな感想を持たざるを得ない。
いよいよ、世界の民主主義も知的な意味で限界に近付いているのかもしれない。
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