2012年7月9日月曜日

人生 ー 再生の時なくして長寿社会は無理

白老の「海の別邸」に一泊してきた。カミさんのギックリ腰快気祝いと愚息が続けてきた某国家試験の受験勉強が一応終了し、マアある意味、区切りのタイミングになったので小生が発案したのだ。距離的には住んでいる街から大体150キロ弱、高速経由2時間ほどで着いた。


ホームページのURLに"kokorono-resort"の文字列があるだけに、館内にはドビュッシーやバロックのArieが流れていて、これぞ正真正銘の隠れ場である。大半の客は登別温泉に流れるから、かえってよいわけだ。広いラウンジの窓越しに暮れ行く海の景色を眺めながら、ボンヤリとコーヒーを飲んでいると、伸びきったゴムのようになった、浮き世の暮らしで泥まみれになった心が洗われて、またやっていこうかという気持ちが湧いてくるのが不思議である。



枯れ木のような、高さが3メートルくらいあるだろうか、奇妙なオブジェが二本直立している。下にプレートがあるので読むと、「再生・Rebirth」という題が制作者の名とともに記されている。Rebirthか、再生か、新生か・・・先日放映が終了したドラマ「ATARU」では"Reborn"であったなあ。死にかけた心に新生の息吹を吹き込んでやらずして、人生80年の長寿時代をどのようにして生きて、人生を全うすればよいのか。小生、最近、ほんとに仕事なるものに倦んだというか、必要不可欠でもなく、人に求められてもおらず、なかんずく役にも立たず儲け話しでもないような話しをして、話す対価にカネをもらって生を盗む。そんな風に生きる事は果たして<善>なのか?そんな問題提起を自らにしては解答を探しあぐねていた。<再生>の二文字、"Rebirth" という言葉には、まさに救済のメッセージをすら感じたのだった。

横にいた愚息を相手に話した。
お前も仕事を始めるとな、色々あると思うぞ。 よく「この道一筋」というだろ?芭蕉も「この道を 行く人なしに 秋の暮れ」とかさ、言っているだろ。それは人生50年の時代だな。芭蕉だって若い頃の仕事と、年とってからの生き様は違うんだよ。 
まして現代だ。これだけ変化が速くて、人との競争が激しくて、無常というか移ろいやすい世界でナ、この道一筋を貫くのはほとんど不可能さ。ストレスがそれを許さないよ。それが現代という時代だと乃公は思うなあ。再生、新生、Rebirthを 繰り返していかないと、とてももたん。弱いって事じゃないと思うよ。もうそれは、疲れ果てるのさ。 
乃公もそうだった。15年は役人生活を送ったけど、それから教える仕事をやった。まあそれは見ようによっては敵前逃亡みたいなものだったかもしれないけどナ、乃公は不器用だからねえ、そこが限界だったんだろうねえ。だけど今の仕事ももう20年だ。雑巾をしぼりつくしたようなもんだ。心の中に燃えている火が消えかかるのを放っておくと本当に消えてしまう。そういうものだと乃公は思うよ。 
ここは、そんな時、来るのにいいところだね。自分を焼き尽したい気持ちになるときは独りで来るといいのじゃないかナ。大体、身体というかな、自分の体、生命そのものからして、普段からの再生そのものだろ?古いものを捨てて、新しい自分をつくっているだろ?それをずっと繰り返しているだろ?心のRebirthは自分でやらないとネ。新しい心になっていかないとな。人生80年は無理だよ。再生を何度か繰り返さないと、80年走り続けるのはしんどいぞ。新しく生まれ変わりながら、乗り越えていくんだぞ。
そんな話しをしながら、海をみていた。


一晩あけた今日、帰る途中でポロトコタンに寄って、古式舞踊とムックリの演奏を聴いてから宅に帰った。


今週は授業、雑事が集中している。仕方がネエなあ。生きていくためだ、やるか。

2012年7月8日日曜日

日曜日の話し(7/8)

小生の旧友がカール・ポランニーの勉強会に参加していると知らせてきた。ポランニーといえば、クリムトを中心とした分離派装飾芸術によって、ウィーンに華やぎというか、倦怠というか、退廃というか、ハプスブルグ帝国末期特有のすえた香りが醸し出されていたはずの時代である。特に市場や資本主義のまやかし的本質をえぐりだした大物がポランニーである。同時代のウィーンからは、他に自由主義者ハイエク、創造的破壊で著名なシュンペーターが輩出した。『金融資本論』で有名なマルクス派・ヒルファーディングが活躍したのも同時代のオーストリアである。異なった分野に目を向けると、論理哲学のウィトゲンシュタインや科学哲学のエルンスト・マッハもいた。精神分析のフロイトもそうである。作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーは1911年に世を去っていた。

小生はどちらかと言えばあくの強い帝国末期のウィーン芸術よりも、まだフランス人の作品やドイツ表現主義を好む。しかし、もしも見れたら必ず見に行くという作品の一つはクリムトの下の作品だ。ギリシア人実業家がクリムトに制作注文して描かれた。


Klimt, Schubert am Klavier, 1899

この作品は、残念ながら第二次大戦最後の年である1945年に焼亡して、今はいかなる手段をもってしても実物を鑑賞することはできない。クリムトの色彩世界は、大体は美しい反面、むせ返るような衰退感と死の予感を伝えるものであるが、この作品は自然な清らかさが醸し出されていて、悲哀にも似た儚さを感じるのだな。ないのは残念だが好きな一品だ。

クリムトの弟子であるエゴン・シーレは次世代の若手であり、帝国崩壊前後のウィーンを象徴するような絵を描いている。シーレの多くは独特の人物像だが、ごく少数、自然を描いたものがある。


Egon Schiele, Vier Bäume, 1917

1917年といえばロシア革命が勃発し、第一次大戦・連合国側の大国ロシア帝国が倒壊した年である。この翌年、オーストリアは敗北しハプスブルグ王朝による統治は崩壊した。シーレはクリムトの弟子だったが、1918年に28歳で死んでいる。だから、シーレがみた世界は古い世界だけである。とはいえ、新世代ではあったが、実質は旧世代に属していたとは、上の作品を見る限りとても言えない。この作品を描き得た感覚は、伝統という規範をものともしない、100%完全な表現主義そのもののスピリットだ。

第一次世界大戦で戦死したアウグスト・マッケが"Der Blaue Reiter"に寄稿して書いている。
生命は食物以上のものであり、身体は、衣服以上のものではないか。
捉えがたい思想が、具体的に捉えられるフォルムであらわされる。星、雷、花として、フォルムとして、私たちの感覚によって捉えられる。(出所: カンディンスキー・マルク編(岡田素之・相澤正己訳)「青騎士」、42ページから引用)
目に見えている対象を描くのが絵ではない。それを見て何を思うか、その感情を表現する一つのツールが絵である。そんな思想が伝わってくる作品ではないか。まあ、芸術はすべて自分の感情を伝えるツールであり、その成果なのだから、いまの感覚から言えば当たり前のように思うが、そこは帝国末期のウィーンに生きた次世代だけあって、時代の一歩先を歩いてしまったのだろう。人間の喜びや苦悩が作品の背後にないもの、空虚で世界がそこにないものは、また芸術でもない。そんなことが記されている。

現代日本は、中学校2年の生徒が、自殺の練習を強制されたうえで、自殺をする時代である。中学生の行動は成人社会を動かしているホンネ・ベースの価値観をうつす鏡である。太平洋戦争で特攻作戦を実行した日本人の精神は何も変わってはいない。人間が大事にされない国家と時代の象徴だ。そんな時代の中でどんな悩みがあるのか、どんな喜びがあるのか、自由に表現をさせてあげれば、ビジネス志向、人気志向のいまの日本でも新しい芸術が花開くはずだ。それをしない。止める。避ける。抑える。指導に執着する。執着してもうまく行かないから形だけの社会になる。生を抑圧するものは、いつの世でも<全体の枠組み>であり、指導であり、矯正の精神である。民主主義社会においても無自覚な抑圧がある。一人の人間の生よりも多数の人間の合意を尊重する価値観。デモクラシー・民主主義という理念に含まれるこの密やかな毒のような非モラル性・非人間性を小生は甚だしく嫌悪する。

<組織重視=人間軽視>は永遠に真なる基本定理であると小生は思っている。




2012年7月7日土曜日

なじみ深い問題 ー 家門の継承

日経新聞の連続小説のタイトルは今は「黒書院の六兵衛」で今日が第54回。浅田次郎の作である。幕末、将軍の御側近くで護衛の任に当たる書院番士である旗本・的矢六兵衛が、実は借金苦から旗本株を金に換えて身を隠した前の当主の入れ替わりであるという話しにさしかかっている。

家門を継承し発展させていくのは、結構、大変な事業であり、日本人は跡目争いというものに興味を刺激される傾向をもっている ー というか血統に関心をもつのは(たとえゴシップ的興味にすぎないにしても)世界共通の現象であろう。新しくはダイエーを創業した中内家の没落が世の注目の的になった。古くは天皇家の皇位継承争い。

本日の朝刊に女性宮家創設につき二案が両論併記される方向になったとのこと。一案は三人いる内親王に限り宮家を一代限りで創設し、子は皇位継承権をもたないというもの。もう一案は、宮家は創らず、結婚による皇籍離脱の後も内親王の称号を使用させるというもの。この案については更に他の宮家の女王にも称号の使用継続を認めるかどうか、検討される見込みだ。

どちらにしても皇位継承権を新たに取得する人物は現れない。ここがミソである、な。ここを論ずると、議論が対立してまとまらない。そう踏んだのだろう。

しかし、意味がないよね。誰しもそう思うのではないか。次世代の男子継承者が悠仁親王ただ一人である点が懸念されていて、だから検討されている事柄であるのに、皇位継承者を増やさないという解決のしかたがあるものか。無意味である。単に女性に称号を与え、一生皇族として働かせる名分を作っているだけである。内親王は行動の自由を奪われるだけである。文字通りの<ご都合主義>。どこに生まれるかは運命が決めるが、それにしても悲惨ですな、こりゃ。

五代将軍徳川綱吉は子に恵まれなかったので、紀州藩に嫁がせた娘・鶴姫の夫である徳川綱教を次期将軍にしようとした。子ではない娘婿である。その時、綱吉には若くして世を去った実兄・綱重の遺子である甲府宰相綱豊がいたにもかかわらずである。これには流石に水戸藩のご隠居である徳川光圀が反対したという。それはそうだろう。血のつながりの濃さによって継承していくのが<世襲>というシステムの本質なのだから。しかし、もしこれが、娘・鶴姫の子であったら水戸黄門も反対しきれなかったのではないか。これが<女系将軍>というものだ。結果としては、肝心の紀州藩主綱教が死んでしまい、兄の子である甥が六代将軍家宣になるのだが、こうしてみると幕府内に<女系将軍>が後を継ぐという事態にそれほどの拒絶感はなかったのではないか。そう思わせる逸話であろう。

確かに江戸幕府は本家と血のつながりが薄く、単に能力があるという理由で徳川慶喜が本家を継いだ時点で、実質的には滅んだと語る向きが多い。正統は確かに大事だ。しかし家門の継承をはかるには、絶えないように工夫をこらして、広く認めておかないと、いつか絶えるのが確実である。




2012年7月6日金曜日

中身のない(?)欧州銀行同盟と先ゆき不安

ロイターが以下の報道をしている。
[ベルリン 5日 ロイター] ドイツIFO経済研究所所長ら150人を超えるエコノミストは5日、メルケル首相が欧州連合(EU)首脳会議で合意した銀行同盟計画に反対するよう、有権者は議員に働きかけるべきとの見解を示した。
ここでいうドイツ国内の指導的経済学者の提言については、独紙Frankfurter Allgemeine Zeitungが、次のようにまとめている。 

Ökonomen: Gewinner sind die Banken, Verlierer die Steuerzahler

Führende deutsche Ökonomen hatten zuvor in einem offenen Brief an die „lieben Mitbürger“ gewarnt: Mit den jüngsten Gipfelbeschlüssen zur Haftungsunion werde nicht der Euro gerettet. Vielmehr würden sie den Gläubigern der Krisenbanken helfen, schreiben die Ökonomen. Das sei der falsche Weg: „Banken müssen scheitern dürfen.“ Von den Gipfelbeschlüssen profitierten daher Investoren an Finanzplätzen wie der Wall Street oder der Londoner City sowie marode Banken. Die Wirtschaftsprofessoren um Ifo-Chef Hans-Werner Sinn und den Dortmunder Wirtschaftsstatistiker Walter Krämer riefen die Bevölkerung auf, die aus ihrer Sicht falschen Beschlüsse nicht mitzutragen, da deutsche Steuerzahler sonst für ausländische Banken mithaften müssten. (Source: F.A.Z., 2012, July, 05)
 欧州銀行同盟で救済されるのは、ユーロではなく、銀行に投資をした投資家である。ブリュッセル主導(=EU)でまとめられたこの構想は、外国の銀行が有する支払債務を、ドイツの納税者に共に負担させるものである。ドイツ国民は、自分が間違っていると考える政策を決して容認しないよう、ここに呼びかけるものである。まあ、こういう提言を経済学者たちが共同でしたわけだ。文中のHans-Werner SinnとWalter Krämerは経済学者としては相当の大物だ(日本の竹中平蔵氏よりもずっと重量級である)。よって彼らの呼びかけはドイツ国内で相当の影響を与えることは間違いないと予想する。

他方、政府側は次のように反駁している。まずメルケル首相。
Angela Merkel ist der Kritik von Ökonomen an den jüngsten EU-Beschlüssen zur Lösung der Schuldenkrise entgegengetreten. „Es geht hier überhaupt nicht um irgendwelche zusätzlichen Haftungen“, sagte Merkel am Donnerstag in Berlin. Daher sollte sich jeder die Beschlüsse „wirklich gut anschauen und dann auch das berichten, was in diesen Beschlüssen steht“.
誰かが更なる負担をするという話ではない。今回の決定は誰しもが「良し」と認めるべき内容だ。そう言っている。更に、レスラー経済相は次のように補足している。
Auch Bundeswirtschaftsminister Philipp Rösler (FDP) verteidigte die EU-Beschlüsse gegen die Kritik. „Die Ökonomen kritisieren mit der Bankenunion etwas, das es noch gar nicht gibt“, sagte Rösler der F.A.Z. in Freiburg. Erst müsse es eine europäische Bankenaufsicht geben. Dann müssten klare Möglichkeiten für eine Restrukturierung angeschlagener Banken geschaffen werden. Erst dann griffen die Beschlüsse, dass der ESM Banken direkt rekapitalisieren dürfe. Allerdings wird schon jetzt Spanien für seine Banken Geld aus dem ESM erhalten. Eine Bankenunion mit einer Vergemeinschaftung von Haftung lehne er ab, sagte Rösler.
 今回の決定は、まず第一に欧州金融機関の監査をしっかりとやる。それに引っかかった銀行は経営再建(=リストラ)を進めることを確約させる、それからESM(=European Stability Mechanism:欧州安定機構)から公的資本を入れる、これはスペインの銀行に対して既にやっていることだ。今回の決定はそういう道筋を示すものだ。欧州の銀行の支払い責任を共同で負うという話ではないと言明しておく。だから(最初の下りに戻って)反対の提言をした経済学者達は、ありもしない事柄に反対しているのだ。ま、こう言っている。何だか外国で約束してきたことが国内で騒動になって、「いや、そうじゃないんだ」と火消しに躍起になっている図に非常に似ておる。

そもそも経営破たんした銀行救済策は、日本でもアメリカでもそうだが、甚だ筋が悪い。国民が反対するのは当たり前である。ましてドイツ国外の銀行の経営失敗を、ドイツ人が自分のカネで救済するとなれば、ドイツの経済学者でなくとも(日本人であっても)「そりゃあ、おかしいよ」と言うのが当然だ。

しかし、欧州内の<資金偏在>が解決を要する経済問題であることは、ドイツの経済学者も認めるはずである。では定石はあるのか?財政統合と地域間財政移転システムの構築が本筋であることに反対する人はいないだろう。しかし、それには欧州財務省の設立が必要だ。とすれば欧州財務長官が任命されるだろう。誰が任命するのか?更には<域内個別国内税>とは別の<欧州税>が認められなければ、すべては<絵に描いた餅>である。まあ率直に言って『日暮れて道遠し』じゃな。欧州政治の遅々とした歩みは、欧州経済の地盤沈下に追いつくことができずじまいで、すべてが終わる可能性が高いと(いまは)見ておく。

2012年7月4日水曜日

中国、欧州経済 ー まあ、こんなところか

本日の日経朝刊・国際面に以下の記事が掲載されていた。
中国人民銀行(中央銀行)の胡暁煉副総裁は香港での記者会見で「中国の資本勘定の自由化はおよそ75%進んだ」と指摘した。人民元の自由交換を意味する、資本自由化に向けた残りの25%は「債務に関する部分とデリバティブなど金融取引に関する部分だ」と述べた。 
そこで、中国政府が広東省深セン市の前海地区に設置を認めた金融を中心とする「実験地区」が注目される。胡副総裁も「前海地区の金融機関による人民元の対外融資」や香港を含む「域外からの前海地区の企業への融資」などを例に挙げた。もっとも「考慮し認可することも可能」「前海地区で実施することも可能」など言い回しは慎重。実現の可否や時期については明言しなかった。

(香港=川瀬憲司)
 対外投資をする時には為替レートが固定化されている方がリスクが小さい。19世紀の経済グローバル化を金本位制が支えていたのは当然のロジックである。が、今は変動相場制である。ヘッジをかけずに対外投資をするのは危険である。だから金融先物取引、オプション取引などの金融派生商品が発展してきた。そのデリバティブ取引が規制されている限り、人民元を含む複数通貨が関係する対外取引は肝心なところで規制されていると見てよい。

中国経済も無限の余剰労働力を活用したテイクオフ段階ではもはやない。ヨーロッパ経済は周知のとおりだ。アメリカ経済はある程度安定するだろうが、日本経済もどうなるか分からない。加えて、今後、労働市場の需給に応じて中国の国内賃金が決まってくるとすれば、為替相場は変動相場制に移行しておくのが中国国内の経済安定化には寄与するはずだ。それは中国の政策当局も分かっているが、金融市場メカニズムは本当に信頼できるのか?危ない・・・そんな言い方である。

ドイツでは金融取引税導入のたたき台が与党内で議論されている。そもそも野党が言い出したことであるし、フランスは社会党政権になった。詰めるべき個所はまだ残っているが、導入される可能性は高いとみている。ギリシア、スペイン、イタリアもずっと後を引きずる問題だが、金融取引税は世界経済の潮流を変えるモメントになるだろう。もし、実施されれば、だが。

そのヨーロッパ経済だが、日経と提携しているのだろうFTの報道が紹介されている。
欧州中央銀行(ECB)は今週の理事会で政策金利を引き下げると予想される。ユーロ圏の失業率が過去最悪となり景況感も低水準になったため経済を活性化する狙いだ。先週の欧州連合(EU)首脳会議で、中央銀行として銀行監督の役割を果たすべきだと合意。ECBのユーロ圏の債務危機脱出を助ける役割が再び注目されている。

今週、ECBが低金利融資や債券買い入れなど銀行や政府に追加的な直接支援をすると予想するアナリストはほとんどいない。だが市場は、ECBが初めて政策金利を1%未満に引き下げると見る。この措置は中央銀行の融資に依存するユーロ圏の銀行を支援する手立てとなる。

INGグループのシニアエコノミスト、カールステン・ブルゼスキ氏は2日の調査リポートで「0.25%の利下げはほぼ織り込み済み」と指摘した。一部エコノミストは0.5%の利下げを検討するとみる。

EU統計局は2日、ユーロ圏の5月の失業率が11.1%に達し、ユーロ発足以来最悪になったと発表した。ブルゼスキ氏は、失業率が低いドイツを除き「ユーロ圏諸国すべてで景況感が過去の平均値をはるかに下回っている」と指摘する。ユーロ圏の製造業購買担当者景気指数(PMI)は、景況感の分かれ目となる50を11カ月連続で下回る。ブルゼスキ氏は「ユーロ圏のリセッション(景気後退)入りが間もなく正式に発表される」とみる。

ECBが政策金利を据え置くと予想するエコノミストも一部いる。ECB理事会が預金金利見直しを検討する可能性は高い。ECBは2009年と10年のほとんどの期間、政策金利を1%に据え置いてきた。後に「出口戦略」で引き上げたが、再び1%に引き下げた。この時、期間3年の前例のない低利資金供給を発表した。

(3日付)

=英フィナンシャル・タイムズ紙特約


ECBといえば、昨夏、まだ経済回復軌道に不安が残るのに、金利を引き上げたことが思い出される。思えば、ソブリン危機の激動はそれからであった。昨年の秋には小生もECBの政策ミスだと悪態をついた。 やっと現実が分かってきたのネ・・・まあ、そんな気配だが、それでも上の記事の最後に付け加えられているように、金利据え置きを予想するエコノミストもいるというから驚きじゃな。金利引き下げの必要なしという見解がECB内部にあるわけだ。

何事も「できる」理由があるし、「できない」理由もある。そうそう、韓流ドラマ「張禧嬪(チャン ヒビン)」を録画しては楽しんでいるのだが、気の利いた科白があった。粛宗国王が正室・仁顕(イニョン)王后に言った言葉であったな。
できない理由もあれば、できる理由もあろう。そなたはいつも出来ない理由ばかりを余に伝える。そなたは「それは嫌です」と言わず、「それは間違っております」といつもいう。なぜ「それは嫌です」と、そう余に言わないのか?
ドイツ経済は好調だから、ドイツの観点から言えば、金利引き下げの必要はあまりない。むしろ物価が心配であろう。「それはドイツにとって困る」と言えばいいものを、「それは政策として適切ではない」という。

ドイツ人ゲーテは、イギリス人について以下のような論評をしている。
ドイツ人が哲学上の問題の解決に悩みぬいている間に、イギリス人の方は、その偉大な実践的知性を発揮して、われわれを嘲笑しながら世界を征服している。奴隷売買に反対するイギリス人の長広舌はみんなも知っている ・・・我々をたぶらかそうとしているが、今や、その真の動機が現実的な目的の方にあるということは明らかだよ。(出所:エッカーマン「ゲーテとの対話」(中)、137ページ)
南ヨーロッパが、適切な財政政策とは何かを解決するために悩みぬいている間に、ドイツ人はその勤勉と企業家精神を発揮して、世界市場で高いシェアを奪うことに成功した。金利引き下げとリフレーションに反対するドイツ人の長広舌はみんな知っている・・・・我々をたぶらかそうとしているが、今やその真の動機が(ドイツ人の)現実的な目的の方にあるということは明らかだよ。

フランスやイタリア・スペインのゲーテがいれば、おそらく上のような見解を述べることでありましょう。


2012年7月3日火曜日

ぶれないことが最も大事なことなのか?

今日はエッセー、というより雑談に類することを書きとめておきたい。

小生の同僚の母上は、野田現総理のファンであるそうな、というよりか「あのぶれない所が総理らしくて、信頼できる」と評している由。

「ぶれない」ということは、洋の東西を問わず、大変重要な徳性であると思われている。確かに、危機に瀕すれば瀕するほど、絶体絶命に陥れば陥るほど、指導者がかざす目標こそが死守するべき価値となり、それが<下々の人>を鼓舞する。そんな目標はあってほしいものだ。まさに「親の屍を越えてでも」目標達成に力を尽くす。弔いは勝利の後だ。生まれてきた甲斐があるというものじゃないか。真の指導者が人々に真にやるべき事を与える。そうすれば団結心も醸し出されてくるものだ。人は誰か偉大な人物に直に命令されたいものである。この辺の状況は、たとえば塩野七生女史が「ローマ人の物語」(Ⅳ・Ⅴ)で古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーの人物像を活写している。「指導力」とは何なのかを考える良い材料になるだろう。とにかく、シーザーという男、やはり「ぶれない」のだな。そこが歴史的に稀有なほどのリーダーであった所以だ。もちろん女史本人も古代の人物を知っているはずがなく、胸中のイメージが作品の中のシーザーに投影されているわけだ。とはいえ、ぶれないシーザーは自己の意志を貫き、共和制末期のローマを内戦状態に陥れ、それに勝利したらしたで独裁者を目指しているとの疑いから自らは共和制支持者によって暗殺された。彼の甥が後継者になり最終戦争に勝ちぬき、帝政への移行を実現し、国に最終的平和をもたらしえたのは、多分に偶然によるところが大きいと思う。

大震災前から「危ない」という声が一部関係者にあったと言われている東京電力福島第一原発。「福島第一は危ない」説と、それに対する経営陣の姿勢はどうであったのか。そんな指摘に勇気と方向感覚を失うことなく、同社は一貫して立派な仕事をしていると。安全性について誇りを持てと叱咤激励し、社員から不安をなくし、士気高揚に努めていたのだろうか。だとすると、そうした指導者像はぶれない指導者として内部から求められていたことなのか?う~ん、もし小生が同じ立場であったらどうしたろうか。思わず考えあぐねてしまうのが偽らざる思いだ。

ま、どちらにせよ、いまとなっては問題提起すら無意味なほどの愚問になってしまったことが限りなく悲しい。「正攻法で行こう」と言い、それより先に敵機が来襲して、<負けるべくして>負けてしまったミッドウェー海戦を思い起こさせる。負けるべくして負けたのではなく、<不運にも>という形容句がより適切なのだろうか?

× × ×

言いたいことは、よき指導者でありたいと願っていることは、誰であれ変わりがあろうはずはない。迷わず、ぶれず、確固たる姿勢を仲間に見せることが、トップにとって大事であることも分かっている。が、その一方で、危機が近づきつつあるという情報に接すれば、そこで方針転換を即座に打ち出し、危機対応の指示を出すのもまた指導者がするべきことである。

「これで大丈夫だ」、「危機は来ない」と言いつつも、実際に危機がやってくれば、それは誤算であったわけだから、それまでに言ってきたことは間違っていたことになる。そこなのだ、な。歴史の分岐点は。

いま何をなすのが最も合理的か?頭の良い人間であれば正解を出せる。しかし1年後において、予想と現実は違う。その違いが<想定外>であれば、前提が崩れた以上、1年前に下した意思決定は撤回するのが賢明だ。そこで当初の計画に固執するのは頑迷であり、愚かである。しかしながら、賢明な人、利発な人が、多数から尊敬されるわけではない。尊敬なくして指導者が指導者であり続けるのは困難だ。だから指導者は往々にして情報を軽視する。結果として賭けに出る。それが的中すればよいが、間違えれば人災になる。真の指導者であれば、勇気もあるはずであり、<撤退>に迷うはずはない。この合理的判断をためらわせる要素が何なのか、正直、よく分からない。

単に「ぶれない」だけでは非知性的蛮勇と同じになる。昨日まで言ってきたこと、やってきたことを、今日もまた決然とやる。それだけなのじゃないか?これでは余りに非知性的であろう。小生の希望は、即断即決でなくとも、ぶれてもいいので、指導層には<知性>のある<賢明>な人物が多くいてほしいということだ。

昨晩、授業が終わってから、高速バスの車中でこんなことを色々と思いながら、家路を急いだ。


2012年7月1日日曜日

日曜日の話し(7/1)

いつの間にか今年も7月だ。あと半年の今年かな。北海道の夏は短い。昨日は30度の真夏日だったが、お盆の頃には秋風が吹く。コスモスの蕾も大分大きくなってきた。

前の投稿ではノルデをとりあげたが、彼はドイツ表現派でもBrueckeに入っていた。振り返ると、ブリュッケや青騎士など、ドイツ派の芸術家を多くとりあげてきたようだ。ブログというのは、何年も短文を積み重ねることで、自分が本当に好んでいるもの、本当にしたいと願っていることを再発見する。そんな所に効き目があるのかもしれん、ね。


Klee, Outburst of Fear, 1939

上の作品が描かれた1939年といえば第二次世界大戦が始まった年である。この年の9月1日、ドイツはポーランド侵攻を開始した。確かにポーランドはフランス、イギリスと相互条約を結んでいたが、ドイツ政府は英仏が戦争に踏み切るとは考えていなかった。現実の歴史は、<誤算>が<誤算>を生むことで進む。一度発生した想定路線からの離脱は、離脱が離脱を生み、稀に、偶然に、再び元の路線に復したとしても、もはや元の世界ではない。日本国民が原発再稼働を容認するとしても、もう元には戻れない。それと同じだ。だとすると、今という時点から20年後の世界を展望することはできんね。世界は<非エルゴード的>である所以だ。

それともあるべき<均衡点>というのが、その時代、その時代に最初からあって、戦争や内乱はその均衡点に向かうまでの調整プロセスであるのか?どうも議論が難しくなりそうだ。また別の日にしよう。

上の作品もそうだが、それにしても日本人はとてもパウル・クレーが好きだ。日本パウル・クレー協会もあって、会費を払って活動を支えている人もいる。モネやルノワール、ゴッホといった印象派が好みだと言われるが、一般的な人気はそうであっても、是非手元に置きたいという程ののめり込みから言えば、必ずしもそうでもないようだ。「ゴッホ協会」や「セザンヌ・ファンクラブ」は、小生の知る限りでは、あると聞いたことはない。