スコットランドが連合王国(UK)から離脱する危機(?)は回避された。あとはキャメロン首相が公言した「自治権拡大」が羊頭狗肉の空手形にならないかどうかだけが鍵になった。
それにしても世界市場における経済の相互依存関係の深まりで「国境」なるものの意味が無きに等しい存在になりつつあるいま、なぜ「独立」なのか?こんな根源的疑問を感じてきた小生であります。
独立しようとすれば、イヤ、するとしても、やっぱり英ポンドは通貨として使いたい、ということは金融政策はある程度(?)まで英蘭銀行に委任して、ただスコットランドの利益をより重要視してほしい、それがビルトインされるような政策委員会でも要請する気か…、これは全く「いいとこ取り」であるなあと。北海油田にこだわっているが、そもそも開発時にスコットランド資金が全体の何パーセントを占めていたのか。メンテナンスをする気はあるのか。こんな風に、小生としては、覚めた目で見ていたわけである。
「いいとこ取り」の姿勢は説得力をもたないものである。とはいうものの、マクロ的な利益が地域社会にどのように配分されるのか。この問題がますます強く意識されるようになってきている。これは事実だ。生産は地方でやりながら、地方で生産された製品を売って儲けた利益は大都市圏の本社が受け取る。これっておかしかござんせんか?こんな疑問は根源的である。本社を地方に移転しないと、高率の事業税をかけるぞ、と。これを言い出せば、当然、東京の日本政府が介入するわけである。じゃあ、独立だと。どの国にも、こんな風に物事が進展する可能性は潜在している時代だ。
やはり今ある「国家」は、19世紀帝国主義の遺産である部分が残っていて、その当時の技術水準、社会システムが前提になっている。ズバリ、中途半端に広いのである。中途半端だから、今の時代、狭いのだ。もっと広い視野で「国家」なり「国家連合」を構想しなければならない情況になった。そういうことだと思う。最も広い視野で統治を行う「世界連邦」がありうるとすれば、行政単位になる「国家」はたとえばスコットランドなり、カタロニアなり、北海道なり、沖縄でよいわけだ…と、思うのだな。
ただ、この世界連邦なるものがありうるとして、それは君主をいだく帝国になるのか、世界民主主義によって統治されうるものなのか。こうなるとユートピアに近くなり、想像もつかない。
2014年9月20日土曜日
2014年9月19日金曜日
昨日の世界、今日の世界
『現実=目の前の世界』とずっと思ってきた。しかし、自分が生きてきた何年間か何十年間だけを振り返ってみても、「目の前の世界」などは次の時代では消えてなくなっていることを知っている。
それでも「今の日本は…」などと平気で話している。そんなものは、実はないのだと、少し考えれば分かるはずだ。
盛んに番宣をしているので浅田次郎の『五郎次殿御始末』(新潮文庫)を買って読んでみた。収録されている『柘榴坂の仇討』が今週末に公開されるのだ。ところが、確かに映画の原作は良かったのものの、出来栄えからいえばメインタイトルになっている『五郎次殿御始末』が上だろうと思う-まあ、いい悪いは主観によるから、これだけでは大した意味もない。この<好きずき>だけで言えば、小生、『箱館証文』が好みだ。何も「所びいき」ではない。
最後に登場人物が小舟に乗り合わせ江戸(=東京)の神田川を遡上する場面がある。御茶ノ水の深い谷間を過ぎて、神楽坂を望む辺りで
それでも「今の日本は…」などと平気で話している。そんなものは、実はないのだと、少し考えれば分かるはずだ。
盛んに番宣をしているので浅田次郎の『五郎次殿御始末』(新潮文庫)を買って読んでみた。収録されている『柘榴坂の仇討』が今週末に公開されるのだ。ところが、確かに映画の原作は良かったのものの、出来栄えからいえばメインタイトルになっている『五郎次殿御始末』が上だろうと思う-まあ、いい悪いは主観によるから、これだけでは大した意味もない。この<好きずき>だけで言えば、小生、『箱館証文』が好みだ。何も「所びいき」ではない。
最後に登場人物が小舟に乗り合わせ江戸(=東京)の神田川を遡上する場面がある。御茶ノ水の深い谷間を過ぎて、神楽坂を望む辺りで
オオッ、楓の御門じゃ ――忘れかけていた武家言葉で与右衛門は言った(新潮文庫版76頁から引用)。この楓の御門というのは、江戸城外堀にあった牛込御門である。
(出所)大江戸歴史散歩
楓の古木があったので「楓の御門」と呼ばれていたそうだ。『西空が一気に豁(ひら)けた。茜雲を纏った牛込御門が、緑青の甍に金色の鯱を輝かせて聳り立っていた』(新潮文庫版75頁から引用)と、美しく表現されている-日露戦争の2年前に撤去されたこの御門を筆者の浅田氏も目にしたことはないはずだ。
(出所)牛込見付跡と牛込橋
現在の私たちは上のような世界で暮らしているわけだ。そしてこれが現実だと思っている。いま生きている我々は上のような世界が現実だと思っているが、何十年も将来の世で上の上のような渡櫓が再建されて再び壮麗な姿を人々がみることになるかもしれない。そうすれば、すぐ上のように石垣だけをみていた現在の世代は寂しかった人たちとして歴史には残ることだろう。
一つの世代は、生きている一本の樹に芽吹いては散り、また芽吹いては散っている葉のようなものである。世代を通して息づいている「日本人」という集団が、実は命をもって存在している実態であって、一人一人の人間は一枚の葉のようなものであると認識するのが正しいとするなら、上の写真も上の上の写真も、どちらも「現実に存在するそのもの」であって、一方を昨日の世界、一方を今日の世界と区別することこそ無意味になるのである。
とはいえ、牛込御門を出てダラダラと登る坂が神楽坂であり、そこにいま愚息が暮らしている。この辺りに何かしら興味をもつようになったのは、やっぱり「身びいき」のなせることかもしれない。
2014年9月18日木曜日
Big Data - 冷めた視線の一例
先週まで続いた企業研修コースの最後に相手方の経営陣を混じえて懇親会を催した。先方は技術で売る企業なので上層部にはエンジニア出身の人が多かった。いまの時代背景としてはビッグデータをあげないわけにはいかないので、自然にその話になった。
そう。確かにビッグデータから多くのことが分かる。とはいえ、なぜこんなパターンが<必然的に>出てくるのか。やっぱり考えることは不可欠だ。考えることなく、観察されているからというだけで知識が形成されるのだとしたら、人間の知識は自らが経験したり、見たり聞いたりできる範囲から外には出られない。
現象があるだけで、メカニズムがない。予測にはそれで十分かもしれないが、予測が外れたときに、「いまはそういう時代ではない」と割り切って、頭の中をリセットするしかない。
ビッグデータは、科学なのか、技術なのか、技術だとしたらそれを支える学問は何か?いまだ、小生、ハッキリとわからない。
小生: ビッグデータは、本来は使用済みデータの廃棄物であるものをデータベース化して再利用すれば、色々な用途に使いたいという販売先が出てきて商品になる。そんな面がありますよね。
先方: でもね、自然に集まってくるごみのようなデータを使えば有益な情報が得られるというのはおかしいと思いますよ。何か確かめたいことが先にあって、それをデータと照らし合わせて検証する。科学的方法とはそういうものでしょう。何でもいいからデータを集めれば、何か大事なことがわかると考える方が間違っていますよ。
小生: 正にその点なんですよ。だから、今回の研修では最初にWired Magazineに掲載された"The End of Theory: Data Deluge Makes the Scientific Method Obsolete"をみんなに読んでもらったんです。要するに、エクサバイト級のビッグデータになると、データで確認される相関構造は、すべて有意であると。理論モデルがあろうとなかろうと、現実はそうなっているんだろう、と。いや、「だろう」じゃない、「そうなんだ」。そこまで言える。ということはもう、考えるより先にデータを見る。その方がはやいと。研究方法、というか研究の順番が全く違ってしまうということなんですね。
先方: そうやって何か新しいことが分かった事にはならないでしょ。そういうやり方は「漢方」と同じなんですよ。どうやらこの薬草がきくみたいだ。いや、きく。なんで効くかは分からんが、こういう症状があるときは、この薬草を飲ませよう。それ以上、どのようにしたら<進歩>するんですか?
そう。確かにビッグデータから多くのことが分かる。とはいえ、なぜこんなパターンが<必然的に>出てくるのか。やっぱり考えることは不可欠だ。考えることなく、観察されているからというだけで知識が形成されるのだとしたら、人間の知識は自らが経験したり、見たり聞いたりできる範囲から外には出られない。
現象があるだけで、メカニズムがない。予測にはそれで十分かもしれないが、予測が外れたときに、「いまはそういう時代ではない」と割り切って、頭の中をリセットするしかない。
ビッグデータは、科学なのか、技術なのか、技術だとしたらそれを支える学問は何か?いまだ、小生、ハッキリとわからない。
2014年9月14日日曜日
「反・高校義務教育化」の試論
現在の日本では高校進学率が90%超、大学進学率も50%水準に達している。高等教育というと大学学部というより大学院教育に重点がシフトして既に何年もたっている。
こういう事情は、ある程度先進国には共通の現象であり、そこから義務教育延長論も出てきているわけだ。どうせ高校にいくなら、最初から義務教育化して、学費を公的に負担すればどうかという政策である。
今日は敢えて「反・高校義務教育化」のロジックはあるかという点をメモしておこう。
いま某TV局のバラエティ番組をみながら遅い朝食をとっているのだが、教育目的=所得力向上ということで割り切るなら、高校まで義務教育にして、若者を束縛する必要性はないと思う。
そもそも義務教育そのものの存在価値をゼロベースから再考察しないといけない。「義務教育」にはそれ自体として価値があるわけではないからだ。
江戸時代の日本の識字率は、外国と比べても大変高いレベルに達していたが、何もオカミが教育政策を展開したからではない。教育に時間を割くモティベーションには、ある意味「ネットワーク依存性」、というか「同調への動機」があるので、文字を読める人が増えてくれば、自分も文字を勉強しておく方が、毎日が面白いし、いい仕事にもつけるわけである。だから、生活水準が向上して、生活にゆとりが生まれてくると、言われずとも自然発生的に教育が国民の間に普及するものである。教育コストは、重過ぎることなく、軽過ぎることもなく、人々がもっともやりやすい水準に自然におさまる。民間に寺子屋や塾が自然に増えてきたのは、人為的にそうしたわけではなく、日本社会の発展の中で当然にそうなったわけだ。教育は、上から下へ義務づけるものではなく、衣食住を豊かにしたい人々の中から自然に生まれて来る。ここをまず見るべきだと思う―国民を無知の状態にしておく方が政治的安定性をもたらすと考える専制国家もありうるし、現にユーラシア大陸にはあったが、それは又別の問題だ。
こんな風に考えると、小生が思うのは、中学教育だけでも相当高度の事柄を教えている。方程式も二次方程式、連立方程式まで教えている。いまの義務教育の範囲で、鶴亀算などは誰でもが簡単に答えが出せなければならない。英語もそうである。中学レベルの英語が、100パーセント読んで、書けて、話せて、聴けるなら、現代社会で普通に暮らしていくには十分であると思う―もちろんビジネス交渉をするには、より高い英語力に加えて、論理的なインテリジェンスが必要だ。
国語もそう、理科もそう、社会もそう、音楽も美術もそうだ。思うのだが、高校義務教育化の背後には中学教育がうまく行っていない、落ちこぼれる生徒が増えている。それを小中学校で問題解決できないので、高校で解決しようと。そんな底意がすけて見えるような気がするのだな。この種の問題を、中学校から高校へ、外延的に延長するだけでは学校システム全体に問題を拡散させるだけである。
おそらく社会性に欠ける若者が増えている(ような印象がある)ので、学校教育に期待する向きがあるのだろうが、それは逆である。学校は<リアルな社会>ではない。学校に長期間いればいるほど、その人の意識・行動は実社会から隔離され、<バーチャルな社会>に最適化されてしまうものだ。
小生、中学校も義務教育とする必要性はうすいと思っている。率直に言って、少年期から過剰教育になっている。国民の<共有知>は12歳までに全て確実に伝えることが出来るはずである。できないのは、しないからではないかと小生は疑っている。小学校教育の完成が問題のコアだと思う。小学校から中学校に、中学校から高校へ、未解決の問題をパスでつないでも学校システムでは解決困難である。これが現実ではないか。
それでなくとも今後の日本では、労働力人口が減少し、賃金が高止まりする確率が高い。小学校を卒業した段階で、教育で束縛することはせず、やりたい仕事を始めていくのがよいと思う。実社会が最良の学校である。自分が社会に貢献し、自ら生きていけることを認識することは、人生において大変大事なことである。
もちろん小学校教育をきちんと受けていることを証明する何らかの形のテストはいるだろう。落ちこぼれてはいけない小学校教育をきちんと受けておく。この点を徹底するだけで、日本の公的教育システムは改善されると思われる。
未成年期の所得と保護者との関係。課税するのか、将来のために積み立てさせるのか。年金保険料の納付等々、詰めるべき論点は多い。結論を出すのは難しいだろう。しかし、『教育はよいことだ。より多くの教育を受けられるようにするべきだ。故に、高校を義務教育化するのはよいことだ』。こんな単純な三段論法では、いまの現実はとらえきれまい。先入観を排してゼロベースから考える。これが大事ではないだろうか。
昼過ぎ、近くの家電販売店でストーブを買い替える。いま使っているサンデンの技術を継承した岩手県・サンポット製「ゼータスイング」にする。相変わらず無骨なデザインだ。それにしてもいつの間にかサンポットは長府製作所の子会社になっていた。これは知らなんだ。調べてみると、サンデンは自動車用エアコンや自動販売機に集中するため2007年にストーブ(ゼータスイング)事業をサンポット社に売却した。サンポット社は同じ年に長府製作所に公開TOBを仕掛けられ上場廃止になった。翌年には石油ボイラーの生産設備もサンデンから長府製作所に譲渡された。どうも察するに、全体が長府製作所のM&A戦略であったのかと……。大変に面白い。勤務先の授業でケースとして使えそうだ。
こういう事情は、ある程度先進国には共通の現象であり、そこから義務教育延長論も出てきているわけだ。どうせ高校にいくなら、最初から義務教育化して、学費を公的に負担すればどうかという政策である。
× × ×
今日は敢えて「反・高校義務教育化」のロジックはあるかという点をメモしておこう。
いま某TV局のバラエティ番組をみながら遅い朝食をとっているのだが、教育目的=所得力向上ということで割り切るなら、高校まで義務教育にして、若者を束縛する必要性はないと思う。
そもそも義務教育そのものの存在価値をゼロベースから再考察しないといけない。「義務教育」にはそれ自体として価値があるわけではないからだ。
江戸時代の日本の識字率は、外国と比べても大変高いレベルに達していたが、何もオカミが教育政策を展開したからではない。教育に時間を割くモティベーションには、ある意味「ネットワーク依存性」、というか「同調への動機」があるので、文字を読める人が増えてくれば、自分も文字を勉強しておく方が、毎日が面白いし、いい仕事にもつけるわけである。だから、生活水準が向上して、生活にゆとりが生まれてくると、言われずとも自然発生的に教育が国民の間に普及するものである。教育コストは、重過ぎることなく、軽過ぎることもなく、人々がもっともやりやすい水準に自然におさまる。民間に寺子屋や塾が自然に増えてきたのは、人為的にそうしたわけではなく、日本社会の発展の中で当然にそうなったわけだ。教育は、上から下へ義務づけるものではなく、衣食住を豊かにしたい人々の中から自然に生まれて来る。ここをまず見るべきだと思う―国民を無知の状態にしておく方が政治的安定性をもたらすと考える専制国家もありうるし、現にユーラシア大陸にはあったが、それは又別の問題だ。
こんな風に考えると、小生が思うのは、中学教育だけでも相当高度の事柄を教えている。方程式も二次方程式、連立方程式まで教えている。いまの義務教育の範囲で、鶴亀算などは誰でもが簡単に答えが出せなければならない。英語もそうである。中学レベルの英語が、100パーセント読んで、書けて、話せて、聴けるなら、現代社会で普通に暮らしていくには十分であると思う―もちろんビジネス交渉をするには、より高い英語力に加えて、論理的なインテリジェンスが必要だ。
国語もそう、理科もそう、社会もそう、音楽も美術もそうだ。思うのだが、高校義務教育化の背後には中学教育がうまく行っていない、落ちこぼれる生徒が増えている。それを小中学校で問題解決できないので、高校で解決しようと。そんな底意がすけて見えるような気がするのだな。この種の問題を、中学校から高校へ、外延的に延長するだけでは学校システム全体に問題を拡散させるだけである。
おそらく社会性に欠ける若者が増えている(ような印象がある)ので、学校教育に期待する向きがあるのだろうが、それは逆である。学校は<リアルな社会>ではない。学校に長期間いればいるほど、その人の意識・行動は実社会から隔離され、<バーチャルな社会>に最適化されてしまうものだ。
× × ×
小生、中学校も義務教育とする必要性はうすいと思っている。率直に言って、少年期から過剰教育になっている。国民の<共有知>は12歳までに全て確実に伝えることが出来るはずである。できないのは、しないからではないかと小生は疑っている。小学校教育の完成が問題のコアだと思う。小学校から中学校に、中学校から高校へ、未解決の問題をパスでつないでも学校システムでは解決困難である。これが現実ではないか。
それでなくとも今後の日本では、労働力人口が減少し、賃金が高止まりする確率が高い。小学校を卒業した段階で、教育で束縛することはせず、やりたい仕事を始めていくのがよいと思う。実社会が最良の学校である。自分が社会に貢献し、自ら生きていけることを認識することは、人生において大変大事なことである。
もちろん小学校教育をきちんと受けていることを証明する何らかの形のテストはいるだろう。落ちこぼれてはいけない小学校教育をきちんと受けておく。この点を徹底するだけで、日本の公的教育システムは改善されると思われる。
未成年期の所得と保護者との関係。課税するのか、将来のために積み立てさせるのか。年金保険料の納付等々、詰めるべき論点は多い。結論を出すのは難しいだろう。しかし、『教育はよいことだ。より多くの教育を受けられるようにするべきだ。故に、高校を義務教育化するのはよいことだ』。こんな単純な三段論法では、いまの現実はとらえきれまい。先入観を排してゼロベースから考える。これが大事ではないだろうか。
× × ×
昼過ぎ、近くの家電販売店でストーブを買い替える。いま使っているサンデンの技術を継承した岩手県・サンポット製「ゼータスイング」にする。相変わらず無骨なデザインだ。それにしてもいつの間にかサンポットは長府製作所の子会社になっていた。これは知らなんだ。調べてみると、サンデンは自動車用エアコンや自動販売機に集中するため2007年にストーブ(ゼータスイング)事業をサンポット社に売却した。サンポット社は同じ年に長府製作所に公開TOBを仕掛けられ上場廃止になった。翌年には石油ボイラーの生産設備もサンデンから長府製作所に譲渡された。どうも察するに、全体が長府製作所のM&A戦略であったのかと……。大変に面白い。勤務先の授業でケースとして使えそうだ。
2014年9月13日土曜日
人を恋ふる歌: すぐには分からなかったこと
『人を恋ふる歌』は、父の世代にとっては永遠のヒットソングであり、小生が若かった頃でもいわゆる応援指導部系というか、「右」寄りの人と言うか、酒の酔いが回ってくると歌いだす者が結構多かった。
ちなみに『人を恋ふる歌』の原詩は与謝野鉄幹が作ったそうだ。
これが今日、何で思い出したのか分からないが、起きる前に何やら分かった気がしたのだ。
オマール・ハイヤームの『ルバイヤート』に次の句がある。若い頃から一番好きな所だ。
胸に抱く石もいまはもう亡くなった我が何代か前の先祖が慕った思い人のいまの姿であるのかもしれないと、そう思えば不覚にも一筋の涙が頬を伝う。こういうことは大いにあり得る。
芭蕉が書いた『奥の細道』には、奥州平泉を訪れたときのことが書かれている。
過ぎ行く「時間」に人間存在の儚さとあわれをみるのが芭蕉の主題であったわけで、この感覚はハイヤームにも通じる普遍的な思いでもあった。そう気がついたわけ。
であるので、石くれを胸に抱き、ハラハラと涙をこぼすのは高い芸術的感性ということになるのだが、「あなた、抱いているのは単なる石だよ」と、そんな客観的指摘も当然なければならない。石を抱いて今はいない人を思うより、いま生きている人こそ恋しい。まあ生命讃歌である。
心の中の想念より、現に生きている人間の命こそ、何より尊いものでしょう。そんな立場である、な。
さすがに反戦歌人・与謝野晶子の夫である。そんな思いに、今日の朝、至ったわけだ。
それ故、軍国主義の時代に父の世代が愛唱したのはやや矛盾していた。そうとも思われるのだ。
〽 妻(つま)をめどらば才たけてエ、顔(みめ)うるはしくなさけあるウ声が聞こえるようである。小生がピンと来なかったのは三番である。
〽 友をえらばば書を読みてエ、 六分(りくぶ)の俠氣イ、四分のオ熱ウ
ああわれダンテの奇才なくウ、バイロン、ハイネの熱なきもオダンテは古典『神曲』の作家、バイロン、ハイネは言うに及ばす。芭蕉とは日本の俳人・芭蕉である。その芭蕉が「石をいだきて野にうたふ」、それが蕉風俳句の神髄であるサビということになるのかねえと。石を抱いて名句を作った情景があったかなあ…思い出せぬ。そんなわけでピンと来なかったのだ。
石をいだきて野にうたふ、芭蕉のさびをよろこばずウ
ちなみに『人を恋ふる歌』の原詩は与謝野鉄幹が作ったそうだ。
これが今日、何で思い出したのか分からないが、起きる前に何やら分かった気がしたのだ。
★ ★ ★
オマール・ハイヤームの『ルバイヤート』に次の句がある。若い頃から一番好きな所だ。
地の表にある一塊の土だっても、かつては輝く日の(出所)青空文庫『ルバイヤート』面 、星の額 であったろう。袖 の上の埃 を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女 の変え姿よ。
胸に抱く石もいまはもう亡くなった我が何代か前の先祖が慕った思い人のいまの姿であるのかもしれないと、そう思えば不覚にも一筋の涙が頬を伝う。こういうことは大いにあり得る。
芭蕉が書いた『奥の細道』には、奥州平泉を訪れたときのことが書かれている。
夏草や つわものどもが 夢のあと生い茂る夏草もかつては命のやり取りをした鎌倉武士であったのだろう。猛々しきもののふも今は夏草に姿を変えて、吹きすぎる風に静かに身をまかせている。これが芭蕉のワビ・サビの境地である。
過ぎ行く「時間」に人間存在の儚さとあわれをみるのが芭蕉の主題であったわけで、この感覚はハイヤームにも通じる普遍的な思いでもあった。そう気がついたわけ。
★ ★ ★
であるので、石くれを胸に抱き、ハラハラと涙をこぼすのは高い芸術的感性ということになるのだが、「あなた、抱いているのは単なる石だよ」と、そんな客観的指摘も当然なければならない。石を抱いて今はいない人を思うより、いま生きている人こそ恋しい。まあ生命讃歌である。
心の中の想念より、現に生きている人間の命こそ、何より尊いものでしょう。そんな立場である、な。
さすがに反戦歌人・与謝野晶子の夫である。そんな思いに、今日の朝、至ったわけだ。
★ ★ ★
一ヶ月続いた某企業の人材研修セミナーも昨日やっと終わり、みんな東京へ帰っていった。中にはどうなるかと心配になったユニットもあったが、結果的にはハイレベルの事業計画をプレゼンできていた。最終発表では経営陣も参加してもらったが、ヤレヤレという安堵を感じている。なもので、今日は一日中、眠かった。昨日、一昨日の北海道は異常な雷雨と豪雨に見舞われたが、今日は一転秋日和になった。ストーブが古くなったので、買い替えようと思っている。昼過ぎ、近くのホームセンターを見てきた。
2014年9月6日土曜日
ライバル心: 「敵意」に変えるのは誰なのか?
いま某大企業の人材研修ゼミに協力している。もう3週間が経過したところだ。昨晩は最終週を控え、ビジネスホテルから広壮な温泉旅館に宿を移し、盛大なジンパをやった。
今回の研修全体のディレクター役をしている同僚は、講義の中で『史上最大の作戦』(の一部であろうと思うが、時間的に)をみせたらしく、オマハビーチの話しが何度も出ていた。誰が真っ先かけて突進するかとか、誰が生き残るだろうとか、麦酒を豪快に飲み尽くしながらそんな風に盛り上がっているのをみていると、アアこいつらは文字通りのナイスガイ、my boysだ、そう思った。
戦争によらず、ビジネスによらず、勝負をかけることは多い。自分たちがナイスガイであると同時に、敵方もやはりmy good boysなのだ。直接戦い合った敵味方同士は、多くの場合、相互の敬意、というか命をかけた過酷な運命をともにくぐった友情のようなものが芽生えてくると言われる。敢闘精神というのは人間共通の心情なのだろう。人類は、原始の時代から殺し合いを続けてきたわけで、もし一度でも戦い合ったから互いを憎しみあうというなら、今頃はもう人類は自滅していたろうと、小生、考えるのだな。しかし、決してそうなってはいない。
元帝国海軍の高木惣吉は、著書『太平洋海戦史』(岩波新書)の序文で古代ローマ帝国が行ってきた数々の残虐な行為をその偉大な文明の創造と併せてともに見て理解することが、歴史を理解するということだ、と。そんなことを書いている。古代ローマが偉大であった点を、悪かった点と切り離して理解することは適切ではない。常に全体としてみることが大事だと述べている。小生もまったく同感だ。現実は一つのものであり、それをどう考えるかは、その人がどんな角度から見るかによって変わるものである。一部を全体から切り離す歴史理解は、単なる主義であって、歴史ではない。
それにしても、直接に戦い合った敵味方どうしでは、闘争心、というかライバル心はあっても、相手に対する憎しみという感情が意外やそれほどのものではない場合が多いとするなら、それでは敵に対する憎悪が一般に形成されるのはなぜか?
それは戦争継続の意図をもった人間集団がいるからだ、というのがロジカルな結論だろう。戦争は政治の延長である。故に、敵国に対する憎悪をつくるのは政治家、もしくは政治家につながる諸々の集団、これが理屈である。また、実際そうなのだろうと思う。戦争を続けるエネルギーは「憎悪」である。「不信」だけで戦争は続かないものだ。したがって戦争を継続したい政治家には「敵国に対する憎悪」が必要だ。
結果としてマスメディアがその憎悪を広く国民に伝播させる機能を果たすにしても、マスメディア自体が何かの政治的意図をもつことはない。マスコミによって好戦的気分が国民に広がり、政治が高揚した気分に押し流されるというのは、多分に表面的な現象で、本質的には政治が主導して戦争を選択肢に含め、マスメディアはプロパガンダを担当する。こんな理解が正しいと思う。
戦争をプロデュースする主体はマスメディアではない。あくまでも「時の権力者+支持基盤」である。
故に、権力を有した指導者が拡大を欲すれば、即ち「侵略」となり、停戦をこころざせば、即ち「平和」を築く努力とされる。この点は、当人たちの説明やまわりの解釈とは関係なく、ロジックとしてそうなる。
今回の研修全体のディレクター役をしている同僚は、講義の中で『史上最大の作戦』(の一部であろうと思うが、時間的に)をみせたらしく、オマハビーチの話しが何度も出ていた。誰が真っ先かけて突進するかとか、誰が生き残るだろうとか、麦酒を豪快に飲み尽くしながらそんな風に盛り上がっているのをみていると、アアこいつらは文字通りのナイスガイ、my boysだ、そう思った。
★ ★ ★
戦争によらず、ビジネスによらず、勝負をかけることは多い。自分たちがナイスガイであると同時に、敵方もやはりmy good boysなのだ。直接戦い合った敵味方同士は、多くの場合、相互の敬意、というか命をかけた過酷な運命をともにくぐった友情のようなものが芽生えてくると言われる。敢闘精神というのは人間共通の心情なのだろう。人類は、原始の時代から殺し合いを続けてきたわけで、もし一度でも戦い合ったから互いを憎しみあうというなら、今頃はもう人類は自滅していたろうと、小生、考えるのだな。しかし、決してそうなってはいない。
元帝国海軍の高木惣吉は、著書『太平洋海戦史』(岩波新書)の序文で古代ローマ帝国が行ってきた数々の残虐な行為をその偉大な文明の創造と併せてともに見て理解することが、歴史を理解するということだ、と。そんなことを書いている。古代ローマが偉大であった点を、悪かった点と切り離して理解することは適切ではない。常に全体としてみることが大事だと述べている。小生もまったく同感だ。現実は一つのものであり、それをどう考えるかは、その人がどんな角度から見るかによって変わるものである。一部を全体から切り離す歴史理解は、単なる主義であって、歴史ではない。
★ ★ ★
それにしても、直接に戦い合った敵味方どうしでは、闘争心、というかライバル心はあっても、相手に対する憎しみという感情が意外やそれほどのものではない場合が多いとするなら、それでは敵に対する憎悪が一般に形成されるのはなぜか?
それは戦争継続の意図をもった人間集団がいるからだ、というのがロジカルな結論だろう。戦争は政治の延長である。故に、敵国に対する憎悪をつくるのは政治家、もしくは政治家につながる諸々の集団、これが理屈である。また、実際そうなのだろうと思う。戦争を続けるエネルギーは「憎悪」である。「不信」だけで戦争は続かないものだ。したがって戦争を継続したい政治家には「敵国に対する憎悪」が必要だ。
結果としてマスメディアがその憎悪を広く国民に伝播させる機能を果たすにしても、マスメディア自体が何かの政治的意図をもつことはない。マスコミによって好戦的気分が国民に広がり、政治が高揚した気分に押し流されるというのは、多分に表面的な現象で、本質的には政治が主導して戦争を選択肢に含め、マスメディアはプロパガンダを担当する。こんな理解が正しいと思う。
戦争をプロデュースする主体はマスメディアではない。あくまでも「時の権力者+支持基盤」である。
故に、権力を有した指導者が拡大を欲すれば、即ち「侵略」となり、停戦をこころざせば、即ち「平和」を築く努力とされる。この点は、当人たちの説明やまわりの解釈とは関係なく、ロジックとしてそうなる。
2014年9月2日火曜日
年齢差の限界-教えたり、教わったり?
小生がむかし某官庁に入って働き始めたころ、最上層部にいた人は60歳前後だった。小生とは30歳以上も違う。まるまる一世代上の先輩で、自分の両親よりももっと年上だったのだ。
30歳も年齢が違ってしまうと一緒に仕事をすることがない。そもそもトップ層の人たちは個室にいて、顔を見る機会もそう頻繁にはないものだ。小生がやっと仕事に慣れてくるまでには、みな退職してしまった。指導をうけ、いろいろな恩恵をうけたのは、小生よりも20歳、というより10歳前後先輩であった人たちである。その前後の人たちからは、本当に色々なことを教わった。一人前になったのはすべてそうした先輩のお蔭である。
いま某大企業の人材研修セミナーが本務先の大学であり、小生も「ビジネスエコノミクスとビッグデータ」というタイトルで一部を受け持っている。全体は1か月間のコースになっていて、小生は今週の午後の部を担当している。で、今日はその二日目だった。
昨日の初日は、夏の疲れが残っていたのか、時間管理が最悪で、言葉も滑らかに出てこず、ゴルフでいえば「OB」という有様だった。今日は、エネルギー補給と喉の渇き防止をかねてポカリを持参し、教室の黒板にはタイムスケジュールを大書し、タイムラインに沿って進めることを徹底した。そのお蔭かどうか知らないが、今日はまあフェアウェー・キープという出来栄えだと思っている。受講者は、しかし、みなすべて40歳前後である。まったく接点がないとまでは言わないものの、<同時代感覚>というものはない。一体、タメになる話をしているのだろうかと疑問を感じる。同じ目線でコミュニケーションができるのは、相手が40歳そこそこであれば、せいぜい40代終わりから50歳にかけての人物であろう。
父親から戦時中の話しをきいてもピンとこなかった。ましてや祖父から戦前期の水練場(=スイミングスクール)や東京・霊巌島で船を降りたときの印象をきいても、感覚を共有することは無理というもので、言葉の内容だけが記憶の倉庫にしまわれるだけだったことを覚えている。これは仕方のないことである。学問の話し、ビジネスの話しなら年齢を問わず役に立つというのもどうだろう。世代が違えば、当たり前の挨拶も当たり前ではなくなる。社交マナーも全く違ってきている。師弟関係、先輩-後輩関係、すべて移り変わっている。学問の進歩もあるので、勉強したことが違う。基礎知識があまりに違うのだ。当然、主義も思想も哲学も違うだろう。いま仮に渋沢栄一がタイムスリップをしてきても、現代の世で役に立つ話はあまり聞くことができないのじゃないかと思う。
人は誰でもアンテナをもっているものだが、その受信可能範囲は案外狭いものだと思っている。
今日のセミナーが終わって、ヤレヤレと帰宅する途中の道すがら、まだ6時だと言うに空ははや薄暗くなっている。本当に日が短くなってきた。日中こそ暑いが、北国はもう秋である。あと一月もすれば、コートがほしくなり、それから少しすると雪虫も飛び始めるに違いない。
30歳も年齢が違ってしまうと一緒に仕事をすることがない。そもそもトップ層の人たちは個室にいて、顔を見る機会もそう頻繁にはないものだ。小生がやっと仕事に慣れてくるまでには、みな退職してしまった。指導をうけ、いろいろな恩恵をうけたのは、小生よりも20歳、というより10歳前後先輩であった人たちである。その前後の人たちからは、本当に色々なことを教わった。一人前になったのはすべてそうした先輩のお蔭である。
いま某大企業の人材研修セミナーが本務先の大学であり、小生も「ビジネスエコノミクスとビッグデータ」というタイトルで一部を受け持っている。全体は1か月間のコースになっていて、小生は今週の午後の部を担当している。で、今日はその二日目だった。
昨日の初日は、夏の疲れが残っていたのか、時間管理が最悪で、言葉も滑らかに出てこず、ゴルフでいえば「OB」という有様だった。今日は、エネルギー補給と喉の渇き防止をかねてポカリを持参し、教室の黒板にはタイムスケジュールを大書し、タイムラインに沿って進めることを徹底した。そのお蔭かどうか知らないが、今日はまあフェアウェー・キープという出来栄えだと思っている。受講者は、しかし、みなすべて40歳前後である。まったく接点がないとまでは言わないものの、<同時代感覚>というものはない。一体、タメになる話をしているのだろうかと疑問を感じる。同じ目線でコミュニケーションができるのは、相手が40歳そこそこであれば、せいぜい40代終わりから50歳にかけての人物であろう。
父親から戦時中の話しをきいてもピンとこなかった。ましてや祖父から戦前期の水練場(=スイミングスクール)や東京・霊巌島で船を降りたときの印象をきいても、感覚を共有することは無理というもので、言葉の内容だけが記憶の倉庫にしまわれるだけだったことを覚えている。これは仕方のないことである。学問の話し、ビジネスの話しなら年齢を問わず役に立つというのもどうだろう。世代が違えば、当たり前の挨拶も当たり前ではなくなる。社交マナーも全く違ってきている。師弟関係、先輩-後輩関係、すべて移り変わっている。学問の進歩もあるので、勉強したことが違う。基礎知識があまりに違うのだ。当然、主義も思想も哲学も違うだろう。いま仮に渋沢栄一がタイムスリップをしてきても、現代の世で役に立つ話はあまり聞くことができないのじゃないかと思う。
人は誰でもアンテナをもっているものだが、その受信可能範囲は案外狭いものだと思っている。
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今日のセミナーが終わって、ヤレヤレと帰宅する途中の道すがら、まだ6時だと言うに空ははや薄暗くなっている。本当に日が短くなってきた。日中こそ暑いが、北国はもう秋である。あと一月もすれば、コートがほしくなり、それから少しすると雪虫も飛び始めるに違いない。
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