2014年11月14日金曜日

Python(x,y)をインストールしたのだが…

統計教育に使う基本ツールは、ずっと昔はFORTRAN(というより付属する数値計算サブルーチン集)だった。学生時代に導入セミナーを聴いてみたが、1から100までの合計(=5050)を計算して印刷するのに、なぜこんなに面倒な段階を経るのか、さっぱり理解できなかった。紙で筆算した方がずっと速いのだね。ま、1から100万までの合計計算なら「電算機」とFORTRANがいかに強力であるかを思い知ったと思うが−いやいや、等差級数の公式を使えば、これだって30秒もかからぬ−そもそも昔の大型電子計算機のメモリーなど何メガという容量でしかなかった。計算速度も遅かったので、多数桁の合計を指示すればCPU使用料がバカにならない額になり、他の利用者にも迷惑だ。で、「まずは1から100までを合計してみましょう」という実習をしたのだと、今になってみれば思う……いや、ホントに意味なかったねえ。

その後にSPSS時代がやってきた。いまでもあるが、FORTRANで300行ほども書くところを、SPSSでは10行くらいになるだろうか。素晴らしい時代がやってきたものだと感じた。ただ、自分でカネを払う学生時代は、そうそう電算機でデータ解析をするなど、贅沢の極みだったのだな。なので、小生の最初の商売道具はポストSPSSの一番手"SAS"である。関西方面の某大学に出向扱いで籍を置いてからも、ずっとSASを使い続けたが、その頃は大学の統計教育は何を使っていたのだろう。SASというデータ解析システムは、結構、高額のレンタル料を毎年払わなければならず、卒業してからもずっと使い続けられるようなツールではない。便利だからといってSASで統計教育をするなど学生個々人にとっては不親切の極みであったろう。

小生が大学という場で統計教育を担当するようになってからは、SPSSやSASよりはずっと安価なエクセルの分析ツールを使ってきた。このエクセルのアドインソフトは統計専門家には悪評サクサクなのだが、エクセルなら卒業後も使う人が多いし、分析ツールは必ずついてきていた。日常的にやる分析手法くらいなら検定から回帰分析まではいっているから、大体は「分析ツール」で済む。この辺の事情はアメリカでも同じだったと見えて、初級者向けの統計学テキストでもエクセルの分析ツールが道具として使われていた。

その「分析ツール」もマック版オフィスには搭載されなくなり、めっきりとユーザー数も減ったとみえる。この2、3年で大学の統計教育ツールはフリーのRに全て置き換わってきた。そのようにもう断言してもいいのではないか。日本でこうなのだから、アメリカ、欧州など海外ではもっと先を行っているだろう。最近では寧ろSPSSでもR言語が通るようになってきたが、これも時代の流れだ。学生時代に教わったツールは、卒業後もずっと使えるなら使うものだ。ビジネスの現場で−基幹業務のインフラ構築はともかく−Rが浸透してきているのは、単にそれが流行しているからではない。Rに慣れた人が量産されつつあるからだ。こうなるともう時代は後戻りできない。統計ツールはRで決まりである。

とはいうものの、というか、にも拘らず、小生、科学計算分野であまりに評価の高い点を無視しがたく、ついにというかやっと"Python(x,y)"をインストールしてしまった。で、使い始めたところなのだが、『こんな冗長で長ったらしいコマンドを入力させるソフトがなんで流行るのか?』と。ズバリ、そんな感想である。データ解析に至っては、すべてRでできる。それも短い入力で簡潔にできる。逆にRでできるデータ解析でPython(その内のNumPy、SciPy、MatPlotLibという方が正しいが)にできないこと(≒したくないほど面倒臭いという意味)は無数にある。それでもPythonの利用者急増ぶりは目立つという。これって新し物好きのミーハーということなんだろうか?何らかの実質的理由があるということなのだろうか?

一つ言えることは、Pythonは開発言語であって統計ソフトではないということだ。科学計算は何も統計計算だけではない。方程式の求解や最適化、数式処理も科学計算である。なのでPythonには、RだけではなくMaximaの機能も含まれている。テキスト処理もできるし、データベース制御、ネットワーク制御やWEBアプリ開発もPythonでできる。要するに、これだけ知っていればやりたいことは全部できる。こんな機能はRは持ち合わせていない — 「ない」と断言してはいけないかも。「弱い」というべきかも。

統計分析が必要になったので、Rを勉強するのは確かに厄介だと思う。他の役にはあまり立たないからだ。日常的に使っている開発言語にライブラリーがあれば、それを使って済ませるのが道理だ。と、このように書けば、確かにRはいまビッグデータ七つ道具の一つだが、Rをも包括する形でPythonがビッグデータ時代を支える言語基盤になる。これはありうる。

ま、そうなったらそうなったで、小生はどうでもいいのだが、その場合はR言語を理解するPython Shellを是非作ってほしいものである。やっぱりNumPyの配列と添字は奇異に感じるのだね。データの7個目(添字6)から13個目(添字12)までを切り出すとき、X[6:13]とは普通書きませんて…。それから、ちょっと乱数を生成して、ヒストグラムを描くときのあの回りくどい記述は…。大学の統計教育でPython+NumPy+SciPyが主流になることは、まず絶対にありえないと小生はみる。が、ビッグデータ時代の分析ツールはひょっとするとPythonに全面的に置き換わるのだろうし、だとすれば今後、Pythonサイドでは既に精度が検証済みのRのパッケージがどんどん移植されていくのだろうと予想している。それはC言語がシステム開発の万能兵器になってからFORTRANライブラリーがC言語に移植されていったのと同じ道である。

★ ★ ★

Pythonのことはもういい。

TVの報道ステーションでは、海上自衛隊が参加しているペルシャ湾の機雷掃海をとりあげている。米(英?)海軍の艦長にインタビューして、敵から攻撃を受ける可能性があるかと質問したところ、それはあるという回答だった。ま、当たり前であるな。撒かれた機雷を除去すれば、それは撒いた方からみれば敵対行為である。

しかしだなあ、攻撃を受けるとして、それは「戦争」ということになるのか?確かに日本は戦争を放棄しているが、武力は持っている。あらゆる状況において武器の使用を禁じるなら、警察官は武器を所持してはいけないし、かつてあった「あさま山荘事件」などはあってはならない「銃撃戦」であったわけである。しかし、誰もテロ行為や反国家的暴力事件に対して武器を使用することに反対はしない。もっと言うと、あさま山荘事件が「内戦」であったとはいわない。言わないが、国権の発動たる「戦争」を国家に禁じるなら、「内戦」に応ずることも禁止されるのがロジックではないか。外国への武力行使は憲法上ダメだが、日本人には場合によって可、という論理はおかしい。いつか想定外の状況になり、憲法上の論理なき無制御状態に陥る。こんな心配も(僅かだろうが)あるのではないか。ま、この辺は法律専門家のほうが詳しいだろう。長くなったので、また改めて。

2014年11月11日火曜日

タブレット"Regza AT703"の使用感

以前投稿したSONYのVAIO DUO13には、その手書き性能も含めて十分以上に満足してきたのだが、やはりサイズが大きく、いつも手に持って移動するには一寸<オーバシイ>のだな(これも四国方言かもしれない)。

それでiPadを使ってきたのだが、現状のiPadで最大のウィークポイントは数学的計算にも使える手書きソフト、というより手書きに耐える使用感をもったペンが皆無だという点にある。人によって使用目的は千差万別だろうが、小生はそう思ってきたわけ。とにかく、色々と試してみました。Penultimateは言うに及ばず、Noteshelf, Note Anytime, Banboo Note(だったかな?もうアンインストールしたもので)……、どれも我慢して使えば使えないことはないが、SONYの電子ペンとNote Anytime(現・MetaMoji Note)と出会ってからは、iPadはメモ作成からは引退状態となっていた。さてそうなると、iPadの存在価値も揺るぎ始めたわけであり、そもそも二代目iPad2は重すぎるという点もあって、そこを何とかしたいと考えたのだ。

そこで軽くて使えるタブレットはないものか。そう思って、評価の高い機種を調べてきたところが、東芝のRegza AT703が最高峰であると。特に、手書きソフト"TruNote"の書き心地はWACOMの電子ペンの使用感とも相まって極上である。そんなレビューを見つけたのである。

で、早速購入したのが下のAT703である。Windowsではなくアンドロイド・タブレットである。以前にもSONYのアンドロイド端末"Xperia"を試しに買ってみて失望したのだが、大丈夫かねえ…、そう思いながら到着をまった。


届いてから早速に設定作業を済ませる。Googleのアカウントを既に持っている場合は実に簡単である。

確かに、手書き入力の感覚は至高のレベルであり、紙に書いている感覚とほとんど同じである。特に東芝製のTruNoteを使っている時は素晴らしいが、MetaMoji Noteを使った時の書き味も十分良いものだ。ちなみにMetaMoji Corp.の社長は浮川和宜氏であり、同氏は日本語FEP"ATOK"と伝説的ワープロ「一太郎」を世に贈ったことでも知られる。そのMetaMoji Noteで文字を書く場合、SONYやAT703であればスラスラと書けるのだが、小生が持っているiPadではペン先がついてこないのだね。多分、古いiPadなのでCPU能力が足りないのであろう。それと良いペンがiPadにはないのだ(何度も書くようだが)。MetaMoji NoteはSONY Duo13、iPadともクラウド経由でファイル共有しているので実に使い勝手が良い。大事な計算メモはすぐにEvernoteに飛ばして、どこからでも検索できるようにしている。それともう一つ。学生から提出されたレポートをマイクロソフトのOneNoteで読み込んでから、AT703を持って喫茶店に入り、ソファで珈琲をすすりながら手書きのコメントを書き入れ、添削後の内容をPDFに書き出して、そのままネット経由で学生にフィードバックする。できあがったOneNoteファイルは次回授業に使うから一石二鳥だ。こんな作業もiPadでは欲求不満が高まるのだが、AT703ならスムーズにこなせる。これまた大いに評価しているところなのだ。

この点だけでも、今回はじめてアンドロイド端末を買った意味はあったのだが、もう一つiPadにはない素晴らしい点としてウィジェットがあげられる。Google Chromeで頻繁にアクセスするブックマークは第一ホーム画面に常時表示すれば便利だし、カレンダー、タスク管理などなど、常に更新しながら目で確認できるのは、仕事をしている人向きだ。

もちろん不満もある。アンドロイドというOSの弱点なのだろうか、所詮タブレットはこの程度というべきなのだろうか、動作にギクシャク感があり、それと数理系のソフトが意外と弱いのだね。数式処理ソフト"Maxima on Android"があり、それなりに使うに堪えられる程度には仕上がっている。その点には満足しているが、所詮はタブレット版で「まあ動くんだね」という思いもある。ま、あと3点ほしい84点という所か。この"Maxima"とiOSにある"Math Studio"はどちらが優れているか?微妙である。次にPythonだが、とりあえずAT703には"QPython"をインストールしておいた。一方、iPadには"PythonMath"があり、少し動かした感想だが、"PythonMath"の方が小生の役には立つようだ。それとBasicは、やはりあると便利なので、iPadでは"cbmHandBasic"を入れている。これとアンドロイドの"BASIC!"もほぼ同じだが、昔のベーシック言語を使った人はiPadの方を採るのではないだろうか。

以上、全体を通してみると、双方互角、正に甲乙つけ難い。「手書き」を除くと、iPadの方がソフト的には充実しているというか、完成度が高い印象を受ける。ここでもしも、アンドロイドの統計ソフト"R Cosole Premium"の完成度が十分なレベルに達していれば、ためらうことなく小生はiPadを廃棄して、東芝のAT703だけを常時持ち歩き、PCを使うまでもない仕事は全てアンドロイド端末ですませることにしていただろう。残念ながら、小生の商売道具である"R"がタブレットで少しでも「使える」のは有難いが、あれは「使っている」というレベルには至っていない。動作も決して安定していない。落第であると思う。アンドロイド端末に負の印象を持ってしまう材料になってしまっているのは残念だ。

なので、予定というか期待とは裏腹に、今日もカバンにはiPadとAndoroid Tabletの2台を入れるはめとなり、カバンの重量はかえって重くなってしまったわけである。

どちらかを外したい。となると、手書き性能が出色なアンドロイドをとるか、それとも全体的なソフトの使い勝手がよいiPadかの選択だが、これが本当に迷う所なのだなあ……。ま、最強力編成が<SONY Ultrabook Duo13+AT703>であるのは確かだ。最初の意図に反し重量がかさんで仕方がないが、明日の授業ではこの2台を持っていくことにしよう。

追記: 東芝のAT703は音質が出色である。この点はほとんどのレビューで挙げられており、全くその通りである。アメリカのHarman/Kardonを搭載しているためで、古いiPadの-いまのiPadは知らない-音質をはるかに超えている。とはいえ、SONYのDuo13の音質も前に投稿したとおり素晴らしいので、小生はDuoで聴いている。

2014年11月10日月曜日

日中会談-とりあえず損をしない選択が「定石」である

考慮するべき要因が多すぎ、一つ一つをとっても確実な見通しが得られないとなると、これは真の意味での「不確実(=Uncertainty)」である。

展開が不確実なゲームには、トランプや麻雀があるが、碁や将棋、チェスなど運の入り込む余地がないゲームであっても、その時々の選択肢は複数ある。こちらの選択に応じる相手の反応は確定的には予測できない。となると、これまた先行きは不透明、真の不確実性が生じてくるわけだ。日中二国間の外交ゲームも状況は似ている。
領土問題や歴史問題、そして靖国神社参拝をめぐって高まっている緊張を乗り越え、安倍晋三首相と習近平中国国家主席は10日、北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)の開催に合わせて握手を交わし、より機能的な外交関係の構築に向けて歩み寄った。これはスタートと言える。

 とは言え、このビデオでも分かる通り、両首脳の会談はあまり友好的と言えるものではなかったようだ。習国家主席は見るからに安倍首相の挨拶に応えるのを拒否し、写真撮影の間中、まるで、尖閣諸島(中国名:釣魚島)から乏しい草木をむしり取っている一匹のヤギと握手しているかのように見えた。
(出所)WSJ, 2014-11-10

何と日本国の首相がヤギの扱いをされているのだが、たとえ相手をヤギと思おうが、ウシだと思おうが、ここで握手をしておけば損はしないと。そんな判断が双方にあったから握手となった。そう見るのが理屈だろう。まずは双方、「定石」を選んだというわけだ。

日本の方から主導的に宥和的姿勢をとるのは可能だが、中国側は「引かば押せ」とばかりに自国の利益を強硬に求めてくる可能性を否定できない。この目線は中国側もそっくり同じであろう。市場ゲームと違って国家には「退出」という選択はない。攻撃を続行しても最後には反撃を予期しなければならない。相手側から協調的姿勢を引き出そうと思うなら、いずれかの時点で和解を提案する必要がある。とはいえ、そうするにはそうするで"When"と"How"という難問を解かなければならない。

要するに「名案」がないのである。握手のほかには。

アジア経済圏にとって最良の結果は、いずれかが「大国」となり、安定的なアジア経済圏が形成されることだ。それが可能なら全てのプレーヤーが利益を得られる。覇権を握らなくともフォロワーの利益が十分大きければ、覇権を得るための闘争は損である。が、(残念ながら、これが最大の問題だと小生は思っているが)中国は地理的な大国であるが大国にふさわしい文化・文明を提案できていない。日本は(今となってはそう呼ぶ人もいないかもしれないが)「経済大国」はともかく、歴史を通して多民族国家を円満に運営したことがない。更に、中国だけではなく、アメリカにもアジア経済圏のプレーヤーであろうとする強い意志がある。

中国はアメリカの同盟国である日本を弱体化することは国益であるし、と同時に強い日本との距離を近づけることもアメリカに対して相対的な国益となる。どちらの方向をとっても中国には国益だろうから、<いまAPECで握手をする>くらいは妙手とまではいえないが、中国にとっては好手となるはずだ。

2014年11月9日日曜日

「ここは負けられねえ」、プライドか、戦略か、それともバカか

愚息からカミさんに電話があり、年末近くにこちらに帰るからと言ってきたという。いつ東京に戻るのかと聞くと、まだ帰りの便はとっていないという。

あかんねえ…。いつ北海道に帰り、いつ帰京するのか、往復とも飛行機を押さえ、当地に滞在中は何をする、どこに行く、それらの予定を固めてから連絡をするべきではないか。そんな話しをカミさんにすると、子供が母親に電話をしているのにそんなのオカシイでしょと一笑にふした。

とはいえ、行き当たりばったり感とでもいうか、改善した方がいいねえ、という感想は抑えがたい。

職場では、その場その場の仕事ぶりが評価されているという。素直だからねえ。一方、いまやっている仕事は、全体の論理構成をきちんと通さないと相手から隙をつかれるので、そこをもう少し鍛えないといかんと言われているようだ。うん、うん、そんなウィークポイントは幼少の頃からあったなあ。

今度は「戦略と戦術のどこが違う?戦術と戦闘はどこが違う?」。こんな質問でもするかねえ…。

いまやっている仕事に100%頑張るのは大事だ。最前線で目の前の仕事に集中する人がいないと何もできない。しかし、それだけでは大きなことはできない。いまの仕事の目標は何か。そもそも最終的に何をやり遂げたいと決めているのか。為さねばならないことを今やっているのか。そんな問いかけは戦略である。これを損得勘定と言い出しては議論にならぬ。どの人間に、どこで、どんな戦闘を行わせるか。これは戦術だ。どんな順番で、いつ、どのように戦うか。いかにして最終的目的を達成するか。それを考えるのは戦略だ。戦術的失敗を戦闘で挽回することは不可能であり、戦略的失敗を戦術で挽回することも不可能である。「やめたわ」と投げてしまうのが正しい時もある。玉砕を覚悟して死守させるのが正しいこともあるのだろう。その判断は戦略的見地からなすものだ。

……こんな話しでもするかねえ。しかし、若いときというのは一球入魂。まさに一期一会だもんなあ。「後が大事だ、ここは退け」と言ってもきかないよ。昨晩のフィギュアスケート・羽生結弦選手の衝突事故もそんな風にみることが可能だ。10代というのは猪突猛進とも言えそうだし、大した者だという印象を形成できたのなら優れた判断をした、そうも言える。

ま、見ているときはヤケクソのようにも見えたが、あれこそ武士道と言いたい人もいるかもしれない。

2014年11月5日水曜日

質問のルール − 国費を投入する以上、ルールを設ける方がよいのか

野党議員の質問に首相が激怒したという報道があるので何々と読んでみた。ま、下世話なことには—イヤ、国会が下世話であるとはトンでもないことだが—興味があるのだ、な。
安倍晋三首相は4日の参院予算委員会で、過去の週刊誌の記事を元に首相に対し「脱税疑惑」を尋ねた社民党の吉田忠智党首に対し「重大な名誉毀損(きそん)だ。議員として恥ずかしくないのか。全くの捏造(ねつぞう)だ」と激しく反論した。
 吉田氏は「政治とカネ」の問題を追及する中で、首相に関して平成19年に週刊誌が報じた「相続税3億円脱税」疑惑について事実かどうか尋ねた。
 ところが、「もう時効だが…」と述べた吉田氏に首相は激しく反応。「まるで犯罪者扱いではないか。失礼だ。答弁できない」と発言の撤回を求め、審議が中断した。
 結局、吉田氏は「断定的に申し上げたことは申し訳ない」と陳謝。これに対し首相は「こんなことに時間を使うことに国民もうんざりしていると思う。いくら質問とはいえ、慎んでほしい」と不満そうだった。
(出所)Yahoo!ニュース←産経新聞、2014年11月4日

脱税を疑わせる根拠は(某)「週刊誌」であるそうな。

確かな根拠もないのに「事実」を捏造してはいけない。これは確かだ。

しかし……法廷では証人への反対質問で『あなたの友人の一人から聞いたことですが、本当はあなたは事件当日には風邪で寝ていてよく知らないんだと。そう話していたそうですね。それは本当ですか?』と、「異議あり」と抗議されるような質問を故意にすることもあるだろう。証人の発言は、双方の立場から質問をされて初めて客観性を帯びるものだ。とはいえ、憶測や信頼もなく勝手に「そんな事実もあったかもしれないと思うのですが…」と言って、「それは憶測だ」と抗議され、ここで裁判官(=国民でもよい)が質問の根拠を求めた場合、「私にもわからない」と答えれば「憶測でものを云うな」という注意になるわけで、結果として証人を侮辱した罪に問われても仕方がない。 これが公のルールだろう。それが分かっているから、質問者は直ちに根拠のない質問を撤回する。

とはいえ、その質問を聞いた人の記憶には残ってしまうわけである。そんな戦術を戦術としてどこまで容認するべきか。

野党議員は「脱税について週刊誌に書かれているが、それをどう思うか?出版社に対して抗議はしたのか?」とでも質問をすれば、これは事実確認だから、首相にも返答義務があるのではないか。抗議をしていないとすれば、書かれたことを容認していると思われるがそうかと質問すればよい。…まあ、その果てには週刊誌の取材根拠を確認するために出版社に対して国政調査権を行使するということにもなるだろう。

そもそもマスメディアの記事には、真実と嘘(=誤報)が混在している。その点は周知の事実である。嘘が発端となってネガティブ・インフォメーション・バブルが発生すると社会的損失が生じる。故に、誤報の合理的疑念がある場合、当人によらず第三者であっても報道元を名誉毀損で提訴する権利を与える。そうすれば、報道の真偽に関する公的な審査を速やかに開始し、ネガティブ・インフォメーション・バブルを事前に防止することになる — 審査開始に至ったという事実そのものがバブル発生を防ぐだろう。それは社会的な利益にもなる。最近はこうしたことを考えることが増えてきた。…名誉毀損について第三者による提訴を認めるなら、韓国と類似の制度になるか。

2014年11月3日月曜日

大学自治は「あるべき原理・原則」なのだろうか?

小生の若い時分から、というより戦後日本においてずっと、大学の自治は絶対的原則だった。なので、学長、学部長など全ての役職はトップダウンではなく、基本的に内部の人による選挙によって選ばれてきた。選挙によって選ばれるが故に「有権者」の意向に反するような決定やプロジェクトはできない。これが大学の原理・原則だった。

しかるに、だ。道内の一大学が学長選挙はもう止めようと。意味ないし、というわけなのだろうが、すると(案の定)地元の道新が以下の社説を掲げて反対した。
「大学の自治」が空洞化しかねない。
 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。
 経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。
 法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞(へいそく)感が募らないだろうか。
 経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。
(出所)北海道新聞、2014年11月3日

こんな心配は実は国立大学法人化の当初段階からそもそもあった心配だった。それが表面化してきたというわけだ。

ただ思うのだが、学長は学内選挙による、大学は自治が原則というのであれば、学部も自治、学科も自治、講座も自治となり、誰を採用して、誰が何をどう教えるか、どんな事を研究するかなど、全て現場が決める、その人が決める。そんな理屈になるし、実際現実を振り返ってもこうだった。

サービスを求める側ではなく、サービスを提供する側がすべて決めるから、ついてくればいいというのは学問に対する自信がなせる姿勢なのだろうが、いわゆる「顧客志向」という路線からは180度正反対の態度であるわけだ、な。

学問が永遠に不変の、時代や国を超越した絶対的真理であれば、その真理を会得した賢者についていくのが正しい在り方になるのだが、何が正しく、何が誤りであるかは実は定まっていないのであって、いわゆる「パラダイム転換」は社会科学ばかりではなく、自然科学でも起こってきたことだ。ましてや、いま何が世界で最も役に立つ知識であるか、何がいま最も求められている教育内容であるかは、その時々、変わるものである。大学の役割の一つが「人を育てる」ことにある限り、時代を超越して同じことを教えるというのは無理である — まあ、何を教えるかは学界の潮流に応じて変わってきている。ポイントは学界の潮流をどうみるかなのだ、な。

ロジックは人が作るものではない。自然や社会に客観的に存在している論理が「真のロジック」であろう。人はその真のロジックを探すだけである。日本の大学がいま色々な問題をかかえていると指摘されるのは、社会的変化をもたらしている真のロジックに沿わない自らの伝統に固執しているからだ。そんな一面も確かにあるだろう。大学の自治と云っても、単なる価値観でしょ、と言われたりするのはそのためだ。

組織は戦略に従い、戦略は目的に従う。最も重要なのは目的であって、目的を設定するのは理念である。ラテン語とスコラ哲学、リベラルアーツは特定の時代において大学の存在意味を高めるものだった。近代哲学の講座は国民を啓蒙し知性の平均的水準を高めるために不可欠の存在だった。会計学、商学は近代ビジネス教育の柱だった。大学という組織のあり方には確かに「伝統」がある。が、せいぜいそれは過去の時代において最適であった組織である。大学が果たすべき役割もまた時代とともに進歩するものだ。

大学は、社会の知を独占する人間集団ではなく、一定の目的を達成するために社会の知を組織化した機関である。現場の人間が一生懸命にやっているだけでは望ましい方向に向かわないことがある。これもまた大学が直面している戦略的な現実だろうと思っている。学問の独立と大学の自治はイコールではないのである。

2014年11月1日土曜日

ビッグデータ: デマ・流言飛語に対する当局の反撃ツールとなるか

世はビッグデータ時代である。

10年前ならまだなおリスクと金融工学が時代のキーワードであった。それがリーマン・クラッシュで信頼は失墜し、もう言い出せなくなった。で、次のカネのなる木はというと社内に埋もれたままになっているデータ、それを扱いやすいようにデータベースに再編集して分析ソフトを開発すれば、情報廃棄物が経営資源となる。アメリカは、保有しているデータ、データベース技術、統計技術、すべてにおいて最先進国である。

ビッグデータは文字どおりの"Post Financial Engineering"、アメリカの国家戦略であると言えるのだ、な。

そのビッグデータも遂に、というか到頭というか、利用形態も来る所まで来た感がするというのが次の報道だ。
イギリスのロンドン警視庁がある特殊なソフトウェアを使ったシステムのテストを実施していることが判明しました。ロンドン警視庁がテストしているのは、犯罪組織やメンバーが犯した過去のありとあらゆる犯罪データを使って、近い将来に犯罪を起こしそうな人物を事前に予測するシステムです。
BBC News - London police trial gang violence 'predicting' software
http://www.bbc.com/news/technology-29824854 
ロンドン警視庁がテストに使用しているのは、総合コンサルティング会社Accentureが提供しているソフトウェア。テストに使われているソフトウェアは、ロンドンで発生した4年間の犯罪データを、収集した4年の翌年にギャング組織およびそのメンバーが犯した犯罪データと組み合わせて解析するというモノです。犯罪データと言っても、日時や場所、犯人名といった犯罪履歴だけでなく、犯人の行動やSNSでの投稿や言動までありとあらゆる情報まで含まれます。
(出所)Gigazine, 2014-10-31, 事件を起こしそうな人物 

要は、インターネットを流れている超ビッグデータを解析すれば、販売や災害を予測できるばかりではなく、犯罪も予測できる、犯罪を起こすであろう人物も予測できる。だから、危険な人物をマークする。

公安検察、公安警察にとっては、危険な反政府的デマ活動を摘発する有効な手段として、垂涎のツールとなりうるであろう。同じ道を日本も歩むことは容易に想像できる。

しかし、特定秘密保護法があることを考えると、どうも今後の情報戦争の中で、政府と民衆との関係が少し不公平であるような気はする。デマは、いわば「ネガティブ・インフォメション・バブル」、情報としては中身がエンプティだから賞味期限は短く、思考能力のある人物は影響されない。それに対して、犯罪に関するビッグデータ解析で当局が把握する情報は、実質的な中身があり、それに権力が加われば相当大きな力の格差が生まれるかもしれない。

確かに経済社会を動かす本当の情報は民間が持っている(はずだ)。政府が持っている情報はしょせんは「ナマモノ」ではなく「オ古」である(はずだ)。それ故にケインズ理論が前提していると言われる「ハーベイロードの前提」は嘘である(はずだ)。しかし、本当にそうなのか。聴診器だけでなく、レントゲンやMRIまで扱う医師は、当人よりも圧倒的な健康情報を持っているのだ。