2014年11月3日月曜日

大学自治は「あるべき原理・原則」なのだろうか?

小生の若い時分から、というより戦後日本においてずっと、大学の自治は絶対的原則だった。なので、学長、学部長など全ての役職はトップダウンではなく、基本的に内部の人による選挙によって選ばれてきた。選挙によって選ばれるが故に「有権者」の意向に反するような決定やプロジェクトはできない。これが大学の原理・原則だった。

しかるに、だ。道内の一大学が学長選挙はもう止めようと。意味ないし、というわけなのだろうが、すると(案の定)地元の道新が以下の社説を掲げて反対した。
「大学の自治」が空洞化しかねない。
 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。
 経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。
 法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞(へいそく)感が募らないだろうか。
 経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。
(出所)北海道新聞、2014年11月3日

こんな心配は実は国立大学法人化の当初段階からそもそもあった心配だった。それが表面化してきたというわけだ。

ただ思うのだが、学長は学内選挙による、大学は自治が原則というのであれば、学部も自治、学科も自治、講座も自治となり、誰を採用して、誰が何をどう教えるか、どんな事を研究するかなど、全て現場が決める、その人が決める。そんな理屈になるし、実際現実を振り返ってもこうだった。

サービスを求める側ではなく、サービスを提供する側がすべて決めるから、ついてくればいいというのは学問に対する自信がなせる姿勢なのだろうが、いわゆる「顧客志向」という路線からは180度正反対の態度であるわけだ、な。

学問が永遠に不変の、時代や国を超越した絶対的真理であれば、その真理を会得した賢者についていくのが正しい在り方になるのだが、何が正しく、何が誤りであるかは実は定まっていないのであって、いわゆる「パラダイム転換」は社会科学ばかりではなく、自然科学でも起こってきたことだ。ましてや、いま何が世界で最も役に立つ知識であるか、何がいま最も求められている教育内容であるかは、その時々、変わるものである。大学の役割の一つが「人を育てる」ことにある限り、時代を超越して同じことを教えるというのは無理である — まあ、何を教えるかは学界の潮流に応じて変わってきている。ポイントは学界の潮流をどうみるかなのだ、な。

ロジックは人が作るものではない。自然や社会に客観的に存在している論理が「真のロジック」であろう。人はその真のロジックを探すだけである。日本の大学がいま色々な問題をかかえていると指摘されるのは、社会的変化をもたらしている真のロジックに沿わない自らの伝統に固執しているからだ。そんな一面も確かにあるだろう。大学の自治と云っても、単なる価値観でしょ、と言われたりするのはそのためだ。

組織は戦略に従い、戦略は目的に従う。最も重要なのは目的であって、目的を設定するのは理念である。ラテン語とスコラ哲学、リベラルアーツは特定の時代において大学の存在意味を高めるものだった。近代哲学の講座は国民を啓蒙し知性の平均的水準を高めるために不可欠の存在だった。会計学、商学は近代ビジネス教育の柱だった。大学という組織のあり方には確かに「伝統」がある。が、せいぜいそれは過去の時代において最適であった組織である。大学が果たすべき役割もまた時代とともに進歩するものだ。

大学は、社会の知を独占する人間集団ではなく、一定の目的を達成するために社会の知を組織化した機関である。現場の人間が一生懸命にやっているだけでは望ましい方向に向かわないことがある。これもまた大学が直面している戦略的な現実だろうと思っている。学問の独立と大学の自治はイコールではないのである。

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