2012年3月30日金曜日

原発抜きの電力安定供給は電力会社の責任なのか!?

また地元の新聞である道新から話題が提供された。本日の社説である。「誠実さを欠く北電の姿勢」。ウンウン、確かに独占企業だから、不誠実な民間企業だとしても仕方のない面はあるよな、と。
現時点では再稼働の是非を論じることはできない。
東日本大震災後、道内でも節電意識が芽生え、昨年4月から今年1月までの電力販売量は前年水準を1.6%下回った。
一層の節電と省エネを進めるには、北本連携を通じた融通分や自家発電の電力購入なども含めた信頼できる需給見通しが欠かせない。
北電は需給関係を公開し、道民の協力を得て原発なしの夏を乗り切る方策を練るべきだ。
言おうとしていることは十分理解できる。しかし、道内のエネルギー政策を練る責任を負っているのは利益を追求する電力会社ではなく、北海道庁と各市町村である。北本連携を通じた電力取引の見通しや電力全体の生産・販売を展望する責務は中央の資源エネルギー庁にあると考えるべきだ。電力会社が<公正な>エネルギー需給見通しを策定するなど、そもそも会社の側に動機がない。小生が取締役であるとしても、策定するのは北電の経営上の観点から最も望ましい計画になるであろう — もちろん社会的に許容される範囲内であるが。そうしようとしない取締役は、その会社にとって、無能である。

政府と道庁が、原発再稼働を基本ラインにして、その方針に沿ったエネルギー政策を進めることに反発して、せめて北海道では北電が原発抜きの電力供給が見通せるのか、その見通しを<道民>の協力を得てやるべきだ。そんな意味が込められた主張であるとすれば、小生、率直に言って、この社説の筆者は頭に血が上ってしまっているのじゃあないか、と。政治・行政・経済が一つ鍋の中で混じっているのが私たちの社会だが、考える時は個別の食材を分けて扱わないと — きたない表現で申し訳ないが — ミソもクソも一緒に話しだしたら話しは落ちるでしょう。そう思うのですな。

新エネルギー計画は国家戦略である。この夏の、あるいはこの冬の節電計画は、<国民生活の安定>という行政そのものである。行政そのものの弱体化を、民間企業の心意気で穴埋めすることは、企業の行動原理を考慮すれば、そもそもないものねだりである。ここは政府と各自治体にハッパをかけるべき局面である。不十分な行政機構があるとすれば、その点を問題提起するべきである。個別の民間企業に、法に定めてもいない<夢>のような社会的責任を負わせても、不信と抑圧の悪循環に陥るだけである。

× × ×

ただこの数日来の東電資本注入決定(とここでは書いておく)に至るまでの報道をみていて、つくづく思うのだ。<民間>であることを理由に給与や利益は独立して決定できる<権利>がある。その民間に<官僚>が退職後、あるいはキャリア途中で移動する。移動した後の元官僚はあくまでも民間人として行動する。行動できる権利があるからだ、と。

もしも<公的企業>というマネジメント・システムがなければ何の問題もないはずなのだがなあ、と。そう思ったりもするのですね。<産業育成+公的企業+職業公務員→経済発展>という成長モデルが、資本主義経済の中で色々な<異形の組織>を生み出してきた。その成長モデルが問われるようになってきた。問われている中で、東電が国有化されるのは、コウモリが鳥か獣かいずれかを選ぶのと似て、まあ来るべき時がきたという印象もある。

日本国の従来モデルを是とするのであれば、これであるべき姿になったのかもしれないねえ。そうも思うのだ、な。もともとお上の規制下にあった異形の企業が、名実ともにお上の一部局になるのだから。もちろんこれによって給与は減るだろうが、仕方がない。民間企業として経営ミスをしたのだから。実家に送り返されるようなものだ。ま、議論はあろうが、これはこれで、小生、すごく納得できるのである。逆に、従来モデルを否とするなら、ポスト国有化の展望がなければなるまい。やはりそれは独占否定の企業分割になるのだろう。競争市場への信頼だな。それ以外には選択可能なモデルがないのではないか。東電国有化決定をみて思うのは、これが結論ではなく、これは<選択の延期>であるということだ。それは日本国のビジネスモデルを選び直すということにもなるだろう。その中で、公務員制度改革問題は自然と収束していくことであろう。

2012年3月29日木曜日

大学秋入学制 — 大学経営と教育のあり方を区別するべきではないのか

本日は本ブログ再開後、300本目の投稿になる。記念する程のことでもあるまいが、少し長めの文章でまとめておきたい。2本分くらいというところか。

話題というのは大学についてだ。
東大が提案した大学秋入学制をめぐって議論が進んでいる。

今日の日経3面および46面には、日本私立大学連盟が加盟123校に実施したアンケートの結果が報じられている。それによると、回答した82校のうち67校が秋入学移行の是非を検討中か検討予定であるとのことだ。ただ移行の賛否は、いまのところ7割が「どちらとも言えない」と答えている。

46面の詳細解説によれば、移行賛成派は学生数1万人以上の大規模校で過半を占める。所在地としては首都圏、近畿圏の大学が主である。その理由は国際化であり、外国人留学生を受け入れやすくなる点を評価している、とのこと。一方、中小規模、地方に所在する大学では秋入学移行には慎重な姿勢が目立つという。

思うに、この結果は当然予想されるものである。

× × ×

大学の生き残り戦略としては、まずは<定員充足>が不可欠である。でなければ授業料をあげるか、人件費などのコストをカットしなければならない。授業料をあげるには顧客評価をあげるしかない。簡単に顧客評価を上げられるなら、とっくにやっているだろう。国内の顧客が先細りなのであれば、海外から受け入れるのが有望であるとは子供だって分かる。そのためには、先方の立場にとって利便性の向上をはかるべきである、という方向になる。

これまでは日本国内の若年層をターゲットとする一方、社会人教育にも教育サービスを拡大して来たが、やはりビジネスマン市場には限界がある。というのは、大学院教育が主軸になるが、どうしても少人数教育を求められる。授業によっては複数教員が担当することになる。課題の出題・添削もする。ここまで徹底的にスキルアップ教育をするのであれば授業料は、少なくとも年間200万円超になるのが国際相場だ。しかし、いかにハイレベル・少人数教育とはいえ、顧客であるビジネスマンの所得環境が悪すぎる。費用負担者として企業も考えられる。推薦による派遣が行われているのも事実だ。しかし、戦略的人材育成メソッドを支える柱に<大学>を考える習慣は(歴史的に)日本にはなかった。派遣はキャリアパスにおける一種のシグナリングとして機能しているだけである。内容に対する顧客評価の裏付けがあるとは、一寸、思えないのだな。それゆえ、社会人教育コストをカバーするだけの高額授業料が日本では成立困難である。それが10年僅々という僅かな経験ではあるが、小生のビジネススクール教員体験に基づく印象である。

日本の大学は、社会人教育から利益を稼ぐことはできない。プロフィットセンターとは真逆のコストセンターになっている。よく言えば、せいぜいのところ、その大学の看板であるに過ぎない。

それ故に、海外顧客に<大学生き残り戦略>を構築するのは、至極当然のロジックである。

× × ×

しかし、どうなのだろう。初等中等教育を現在のままにして、大学を海外に開放して、(おそらく)授業も英語を主たる使用言語にして展開する。そうすれば日本の大学経営事情は改善される可能性が高まる。が、その一方で、現状の小中学校、高等学校から大学に入学した日本人学生にとって<教育の効率性>は上がることになるのだろうか?

英語によるコミュニケーション能力は上昇するだろう。しかし英語は言語でしかない。英語で何を語るかがキーポイントではないのか。英語力のアップ自体に関心があるならば、外国語教育の分量と品質を上げればよいのである。そもそも — 仮に数学や統計学担当の教員に英語で授業を展開するスキルに全く不安がないにしても — 数学や統計学を日本語でなく、英語で勉強する方が<教育の効率性>が上がるという推論はありうるのだろうか?小生の印象では、そんな推論はこれまでの経験では、100%ありえないのだ、な。

大体、「十分条件であることを確かめましょうか」というところを、"sufficiency"を確かめましょうか、更に"... then the next problem is to prove the sufficiency of these conditions"と述べれば、日本国内の大学教育は実質的にレベルアップすることになるのだろうか?この種の問いかけは無数に出てくるだろう。

言語はコミュニケーションのためのツールである。ツールは目的に合わせて選択すれば良い。何を理解し、身につけようとしているかに応じて、最も便利な言語を使うのが効率的である。国際学会に参加するためのインフラは英語でコミュニケートできる能力である。英語が有用なツールとなる。他方、現状の初等中等教育を前提とする限り、大学の学部教育の場では日本語が有用なコミュニケーションツールであると(小生は)感じている。

× × ×

学部教育を、これまでどおり日本語による授業を中心に展開し続けるというのであれば、たとえ秋入学に移行したとしても、海外から日本の大学に入学する学生が大きく増加し、先細りの国内市場を埋め合わせてくれるだろうか?小生は、悲観的である。むしろ、外国から来てくれるのを待つより、海外に進出する方がまだ海外の大学進学者にとっては便利であろう。しかし、それでも海外事業がその大学のプロフィットセンターになるかといえば、海外での顧客価値をどこまで上げられるか、どれだけ高い授業料を学生に支払ってもらえるかという<顧客評価>に帰着する。

秋入学、英語授業制等々、日本の大学では灰カグラが立つように、新規なボキャブラリーが次々にバブルのように誕生しているが、帰するところは顧客評価である。大学の社会的使命は<学問の府>、<真理の追究>にあると<大学人>は口にするが、そんなことは大多数の人は無関心なのではないか?大半の顧客(=入学者)が大学に対して求めている願いは、ズバリ、<生涯収入の上昇>である。国際労働市場でより高い収入が約束されるようなスキルとマインドを身につけたいと思って大学に入学する。そう推定するべきではないのか。であれば、それに応えられる教育体制を組むべきであろう。海外進出を選んでもよいし、海外大学とのジョイント体制を構築してもよい。授業料メニューにもオプションを導入すればよいのである。日本の大学が何をするか、それは内外の需要と供給で自然に決まってくることだ。いつ入学するか、それは枝葉末節ではないだろうか?

× × ×

秋以降云々も大事な論点であるが、日本の大学は<こうでありたい>論ではなく、改めて<顧客志向>の観点に徹底するべきだと(小生の目には)思われるのだ、な。そうでなければ、今回の秋入学制移行は、単に国立大学、いやいや国立大学の中でもエスタブリッシュメント層を形成している<旧七帝大>の単なる生き残り戦術、それだけの話しになってしまうだろう。

絶対にそんなことはないと思うが、万が一、上に述べたことが秋入学制移行提案に秘められた目的であるとすれば、東大の議論の仕方も、随分、不誠実であろうと感じる。ま、間違っているでしょうけどね。

しかしながら、こうした<将を射んと欲して馬を射る>というべきか、<敵は本能寺にあり>というべきか、本音を隠して<我田引水>を意図する戦術は、日本国においては比較的採用頻度が多いように感じるのだがどうであろう?単なる印象だろうか。であれば、この<大義名分+利益拡大の一石二鳥戦術>こそが、義と和を重んじる日本国においては、最も有効な戦い方なのかもしれないなあ、と。最近は、小生、そう考えたりすることが増えているのである。

2012年3月27日火曜日

福島第1、社会保障、統治機構 ― 三つの亀裂

今朝の北海道新聞を読んでいると、色々と一面を飾っている文字が目に飛び込んでくる。

「介護保険料上げ8割」。道内65歳以上で平均4千円を超す。これは65歳以上の人が負担する介護保険料(基準額)の新年度改定によって、運営市町村の約8割が保険料を引き上げることが分かったというもの。高齢者の自己負担は限界に近づいているとの報道だ。自己負担が限界なら、税を投入するしかないでしょう ― 公債の新規販売でこれ以上の支出はまかなえないと前提するなら。

その下には「福島第一原発2号機容器水位60センチ」。これは内視鏡検査によって想定で3メートルあるはずの水位が60センチしかないことが判明したというもので、東電は汚染水が建屋外に漏れているとみているということだ。しかしながら、これを解決するのは建屋に接近することすら困難な現在、ほぼ不可能なことだろう ― だからこそ内視鏡で確認したのだから。汚染水漏出は<放置>するしかないというのが現実なのだろう。だとすれば、その行く末はどう予測されているのか?近隣の住民はどのように対応していくのが賢明であるのか?専門的情報と知識を有している人はそれを語るべきであろうし、第一に政府がその点に触れるべきであろうと思う。

最も望まれている事柄に答えられないでいるというのは、事実上、いまの日本国の統治機能は決定的な損傷を被っている。その証だ。こう解するしかないのではないか。日本の立法府は<ネジレ現象>の下で、各政党が相互不信の罠に陥っており、政治活動らしい活動はストップしている状態だ。行政府は、また戦後官僚システムのうえに官僚排除を唱えて政権についた民主党が着座していて、たとえて言えば「木に竹を継いだ」状態だ。北海道という遠方から見ていても、まともに機能しているとは、到底、見られないのだ、な。

暗い気持ちになって1面をめくり、2面をみる。

「北電、送電網増強7千億円必要 ‐ 再生エネ受け入れで試算」。これは2011年度に接続申請があった風力発電と大規模太陽光発電所(メガソーラー)をすべて受け入れようとすれば、送電網増強に2千億円、天候によって不安定化する電力供給を本州に回電するための北本連系線を60万キロワットから240万キロワットに拡充するために5千億円、合計で7千億円のコストがかかるという試算を公表したものだ。そのコストをすべて(電力料金を通じて)道民に負担させるのは理にかなわない。なぜなら北海道内の電力需給という観点からいえば、それほど大規模な再エネ電源は必要ではないからだ。増加する電力供給は、東北電力経由で、首都圏を顧客として電力取引の場を設けない限り、むしろ道内電力需給の不安定化要因になる。それゆえ、送電網拡充コストの一定部分は顧客、ないしは国が補助金によって負担するべきであろうという趣旨の ― 北電はそう言いたいのであろう ― 記事である。

しかし細かな話しになるが、北電がインフラ建設コストを負担するのであれば、そうしてできる電力を道内需要者も消費する訳であるし、道外需要者もそうだ。北海道が<電力余剰地域>として、常時、電力を道外に販売すれば、そのプロセスの中で道外顧客が道内インフラ建設コストを負担する結果になるはずだ。コストを事後的に負担するのは顧客である。これが理屈だ。もちろん、北海道内のエネルギー政策として、ラディカルな再エネ拡大が<道民>にとって最適かどうか?これはまた別の論点だ。ま、いずれにせよ、食糧基地のみならず、エネルギー・ベースキャンプとしての役割も北海道に求めるのであれば、これは<国家戦略>である。であれば、今夏に大枠が明らかになってくるはずの新エネルギー計画を含め、新たな国土利用計画、経済発展総合計画でも記述するべき事柄のはずだ。

ところが、そうした国家戦略策定の場は政府内にはない。否、ないというと誤りになろう。まるで第一次世界大戦後に中欧の大国ハプスブルグ帝国が崩壊し、残骸国家とも思われるオーストリアが残ったように現・内閣府の中に旧・経企庁が所管していた計画業務担当の統括官が現にいる。しかし、みな知っているのだろうか?いまでもそんな総合計画策定の仕事を続けていることを。総理大臣すら知っているかどうか怪しいものだ。民主党国会議員に至っては、誰一人意識してもいないのではないだろうか?

これをみても、日本の行政府は<亀裂の入ったピラミッド>であると、文字通り断言できる気がするのだ。

2012年3月26日月曜日

忠義の士が国をつぶす

雪の博士というか、随筆家として知られている中谷宇吉郎であったと思うが「雪国の春のすばらしいことは、そこで暮らしている人にしか分からない」という意味の下りがある。

今日は大学からのんびりと町の方へ歩いていった。海は、春らしく明るく青く光り、その彼方には白銀色の増毛連山が輝いている。風は冷たいが、大分、暖かくなり日の射した雪がとけて流れている。北国の早春である。美しい。

駅前の書店に入る。ぶらぶらと書棚を見て回る。おっ、これはまだ買ってなかったなというのが江藤惇・松浦玲「海舟語録」(講談社学術文庫)。パラパラ頁をめくると、こんなことが書いている。
何でも、己が為そう、なそう(原文:繰り返しの〱)といふのが、善くない。誰がしてもいゝ。国家といふものが善くなればいい。第一、その目途が違ふのだもの。
田舎の者等から、どうなりませう、どうなりませう(原文:繰り返しの〱)と聞くから、『ナニ、心配はない、西洋人が来れば、それにお前方は食はして貰ふのだ。横浜でも、二十人も来れば、それで、あンなに大勢が食ってるぢやアないか』と言ふと、みンな嫌がるよ。
うちの男でも、女でも、みなそれぞれ役があって、それに慣れて居るのに、急に主人が代わって、何でも主人がするといふことは出来まいではないか。今の政治家は、それをしようといふのだ。(注:257ページから引用)
この節のタイトルは「忠義の士が国をつぶす」である。

大学も昨今の流行で構造改革ばかりが議題にあがる。若い衆は<危機感>に燃えているようだ。しかし小生は、元々へそ曲がりであるし、「やるべきこと」が見つかってやれ嬉しやと、それに狂じるなどは、趣味に合わぬ。それ故、国のお覚えが悪しくなり「お取り潰し」になるのであれば、それもまた一興なり。蘭学が無用になれば蘭学者は静かに世間から退場すればよいのであると、悟りすましている。嫌な男だねえ・・・と、我ながら実感する。というか真面目な話し、小生は職人である。生涯をかけて磨いてきた技量がいまの世で無用だと言われるのであれば、それは仕方がない、もはややるべきことはなし、後は自分で生きていくしかないと、その位は達観しているつもりなのである。

2012年3月25日日曜日

日曜日の話し(3/25)

よく「夢のような暮らし」とか、「これが夢でないことを願う」という言い回しがある。よほどヒト様は、夢の中では願いがかなって幸福であるのかなあ、と思ってしまう。小生は、夢の中では概ね不幸である。母も淋しさと諦めにみちた表情をしている。父も悲しそうな顔をしている。妹とは言葉をかわすこともない。目が覚めると、ああ夢であったのかと知って、むしろ安心をする。現実は、夢ほど不幸ではない。夢のように悲しくもなく、淋しくもない。夢の中で不幸を十分経験している、そんな夢を数多く見るのだ。

それは、現在、小生が十分幸福であるという理屈になるのか?分からない。

× × ×

東日本大震災では、結局、約2万人の方が亡くなった。犠牲者数は巨大だ。しかし、太平洋戦争中の「大日本帝国」の犠牲者は、戦闘員が174万人、民間人が39万人、合計で約210万人と言われている。太平洋戦争に限定せず、第2次世界大戦全体でとなると、諸説あるものの、枢軸国側が軍民合計で1200万人、連合国側が軍民合計で約5000万人とされている。連合国の犠牲者数が多いのは、ソ連国内の犠牲者が膨大であったためだ。とにかく戦争の災禍というのは、想像を絶する規模である。

悪夢を時々見ることがある。家族と一緒に、何かガレキというか、家が全て倒壊した中を、家族を連れて住むところを探しながら放浪しているのだ。とある古い建物に入る。二階に上がり周囲を眺める。夜になると、どうしてだか水が出るので、なぜか残っているステンレスか何かでできた浴槽に水を張ろうとしたら、ゴキブリのような虫が一面這いずりまわっているのだ。で、意識が覚醒して夢だと知る。現実は昨日のままだと知って安堵する。そんなことがある。

太平洋戦争の犠牲者2百万人は、巨大であるが約1億人の日本人に対して2%程度だ。しかし、小生、いずれは総人口の半分が死に絶える。いや、生き残る人は、せいぜい3分の1程度であるような、そんな神による過酷な懲罰とも形容されるであろうような大災害も、いつかは起こりうるものと考えている。というか、これに類したことは実際に起こったことである。

× × ×

それは14世紀のヨーロッパで発生した<ペスト流行>である。最近は16世紀の話しを続けていたが、14世紀はもっと以前だ。日本では鎌倉幕府が滅亡する頃である。13世紀にジンギスカンのモンゴル帝国が誕生して、カスピ海以東のユーラシア大陸全体がほぼ統一されてしまった。モンゴル帝国の通貨が国際通貨となり、それが契機となって商業の大発展が見られたが、それによってペスト菌という病原菌も広く移動できることになった。Wikipediaによると、ペスト菌のヨーロッパ上陸年まで具体的に分かっているようだ。このペスト禍が過ぎ去ったあと、ヨーロッパの当時の人口は大体半分になっていたということだ。3分の1にまで減っていたという説もあるようだ。2000万人ないし3000万人がペストで病死したことになる。1348年の第一次流行から14世紀末に至るまでのことだ。これまた第2次世界大戦程の絶対数ではないが、総人口に対する割合で測れば、14世紀のペスト禍のほうが遥かに大規模であった。

労働人口がこれだけ減少すると、賃金が高騰して余剰生産物が残らないため封建領主の農業経営は困難となり、それが農奴と地代に依存した騎士階層の没落を早めた。特に小規模騎士階級は、経済基盤を失い、結果として大貴族への富の集中が進んだわけだ。英国では、農業から牧畜への産業構造シフトも進行した。人口構造の大変動は、必ず経済構造を根本的に変え、ひいては価値観、文化のあり方までをも変えてしまう程のパワーを持っているわけだが、14世紀欧州においては、その原因はペストという病原菌であった。

× × ×

14世紀という時期は、イタリア・ルネサンスの特徴が現れ始めているとはいえ、なお萌芽期であり、文化史上の大きな潮流はゴシック文化であった。<ゴシック>というのは、盛期ルネサンス時代のイタリア文化人が半ば軽侮の念をこめて使い始めた蔑称であるが、現在ではネガティブな意味合いはなく、むしろロマンチックな響きと感性を帯びた言葉になっている。

ピエトロ・ロレンツェティは、当時のシエナ派に属するイタリアの画家である。下はアッシジのサン・フランチェスコ教会下堂に描かれているフレスコ画『最後の晩餐』である。ロレンツェッティの代表作とされている。


Lorenzetti , The Last Supper, 1320
Source: Web Gallery of Art

ピエトロ・ロレンツェッティの弟アンブロージョ・ロレンツェッティもまた歴史に名を残す美術家である。その兄弟二人とも1348年に死亡している。前年にシチリア島に上陸したペストがイタリア本土で流行し、それに二人とも感染して亡くなったことが容易に想像できる。

2012年3月23日金曜日

コンドラチェフの超長期循環?日本は例外であってほしい

英紙TelegraphにJeremy Warner氏による興味深いコラム記事が載っている。コンドラチェフ循環に沿って考えれば、これから何年もの間、下降局面が続く可能性があるという。コンドラチェエフ循環というのは、周期が50~60年に及ぶ超長期循環として知られている。
Subsequent students of Kondratieff cycles have placed the end of this third cycle during or shortly after the Second World War, which seems logical enough, and have identified a further two cycles thereafter, with the fifth upswing beginning in the 1980s and ending with the current crisis. On past durations, we are now in a downswing phase lasting anything between ten and forty one years. Dating the beginning of the crisis from 2008, that's between five and thirty six years to go (See table below).(Source: The Telegraph, Friday 23 March 2012)



上の表から分かるように、直近の上昇局面は1980年代半ばに始まり、その終焉がリーマン危機である。コンドラチェフの超長期循環の背後にあるのは、技術革新であると言われている。例えば1940年代に始まった上昇局面を主導したのは、何と言っても自動車産業だ。オートモーバイル革命が戦後の世界景気、経済発展をずっと支え続けてきた、というと余りに印象的・象徴的に過ぎるだろうか。その伝で言うと、直近の好景気は、言うまでもなく、インターネット革命であったことに異論は少ないはずだ。"ICT"ととも俗称されるようにネットワークとコミュニケーションが主導した第何次かの産業革命であったわけだ。

しかし、待てよっと・・・・上の表に基づいて予想すると、リーマン危機後の長期停滞はこれから多分20年とか30年程度は続く計算になる。日本は、そもそも1980年代半ば以降、というか日本のバブル崩壊以降に本格化したIT革命、それによる世界景気の長期上昇局面に同調せずじまいであった。それが、「これからIT革命一巡に伴って20年~30年の長期停滞局面に移りますから」と言われてしまっては、われわれ日本人としては<失われた20年>は一体何であったのですかと、血涙ともに下る愁嘆場と化そう。いやいや、日本経済に対しては上のコンドラチェフ超長期循環は当てはまらないはずである、というかそう思いたい。

実際、こんな点にもワ氏は言及している。
Well maybe, but research by Andrey Korotayev and Sergey Tsirel published by the University of California on its eScholarship website suggests that there is indeed some correlation between the long K-cycle and world GDP. 
However, somewhat confusingly, their analysis suggests two interpretations of the current global economic crisis. One is that it doesn't mark the start of the fifth Kondratieff downswing at all, but can be interpreted as a temporary depression between two peaks on the upswing, where the second peak may even exceed the first. On this interpretation, the big meltdown doesn't begin until 2018-2020 (memo to self: liquidate all positions by 2020).
2020年前後までは長期上昇局面だというわけだ。しかし、最後には以下の指摘を行なっている。
However, there is also quite a bit of evidence to suggest that the current financial crisis does indeed mark the start of the downswing. Given that this is not a normal recession, but a downturn caused by an all-embracing banking crisis, 2008-2010 seems the more likely inflection point. It also correlates quite closely with the separate "40 year rule", an old piece of Wall Street folklore which has it that really serious banking crises only happen once every forty years because this is how long it takes for all institutional recollection of the last one completely to die out, allowing the new generation of banking hotheads to let rip once more.
金融市場の<40年ルール>だ、な。要するに、大恐慌から40年経った頃に一度変調になり ― ベトナム戦争泥沼化と米政府による大砲もバターもという偉大な国家政策でついには石油危機につながった時代だ ― さらに40年経った頃にリーマン危機がやってきた。しばらくは<あつものに懲りてナマスをふく>という状態が続くだろうという格言だ。

これは寺田寅彦の天災観と合い通じる見方でもある。例えば『津波と人間』では、
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
 鉄砲の音に驚いて逃げていた鳥がまた集まってくる現象にたとえている。いまは、まあ、まだ怖くてリスクに挑戦できない状態であるわけだ。状態が遷移するには、はっきりと覚えている人が大体は死んでしまう時間が必要ということだ。それが20年とか30年になる。

どうも日本経済にとっては暗い話になる。みんなが好景気を謳歌して、思いっきり盛り上がっていた頃、日本にもやりようによってはチャンスがあったのに、智慧が足らなくて波に乗れず、そしていま波自体が引き潮になってきた・・・もしそうなら、天は我らを見放したか、と。『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)の世界になる。

まあ、コンドラチェエフ循環自体は、統計分析的に本当に確認されている景気循環とは(まだ)いえない。それでも何となく心配で心がざわついてくるようなコラム記事ではないか。

2012年3月22日木曜日

欧州 — この複眼的・戦略的思考には驚く

ヨーロッパ全体で<経済成長第一>の考え方が急速に台頭しているようだ。
Überall in Europa heißt es derzeit, die EU müsse mehr Wachstum „schaffen“. Der französische Präsidentschaftskandidat François Hollande fordert Wachstumsimpulse für Europa, um sich gegen den Fiskalpakt in Stellung zu bringen. Der Chef der Eurogruppe bedauert, dass Griechenland bislang nur zum Sparen gezwungen worden sei und zu wenig „Wachstumsperspektiven“ eröffnet bekommen habe. Andere fordern einen „Marshallplan“ für Athen. Auf zwei EU-Gipfeln sind „Wege zu wachstumsfreundlicher Konsolidierung und beschäftigungsfreundlichem Wachstum“ beschworen worden. (Source: FAZ, 22.03.2012)
ただただ財政緊縮、節約、債務返済だけでは、生産全体が低下するだけであり、結果として債務返済すらも不可能になるのは分かりきったことだ。ケインズが創始したマクロ経済学は、このような経済状況で間違った政策を選択しないために誕生したと言ってもよいくらいだ。
Viele der aktuellen wachstumspolitischen Vorschläge haben mit „Europa 2020“ die Vorstellung gemeinsam, dass sich das Wachstum vor allem mit Geld vom Staat fördern lasse. Diese Vorschläge zielen nicht auf kurzfristige Konjunkturförderung, sondern auf langfristig wirkende staatliche „Investitionen“ ins Wachstum, etwa auf höhere Ausgaben für Forschung und Entwicklung, auf staatliche Infrastrukturprojekte, auf den Ausbau der europäischen Projektfinanzierung, etwa durch die von Barroso propagierten „Projektbonds“.
"Europe 2020"というのは、欧州が今後10年を対象期間として策定している<成長戦略>である。 まずは国家財政が成長を支えるという考え方がそこには出てきている。国家の存在意義は国民経済の成長を実現することにあるという基本認識だな — 日本では何かというとhow-toにばかり関心が向かい、理念は単なるお経と軽く見る傾向があると思うが、しかし基本認識が脆弱だと、わずかな状況変化ですぐに行動方針がぶれるものである。行動方針がすぐにぶれるのは戦略不在だからであり、戦略がなければ戦略的勝利もなく、得られる成果はチャンスをものにするチマチマとした得点だけである。この辺り、まず基本認識の足固めを盤石にしておこうとする欧州の思考スタイル。まことに羨ましく存じる次第なのである。

短期の景気刺激だけではなく、まずは教育・研究への支出拡大 ― 個々人の能力開発に国のカネを使うことは、個々人の所得能力を高めることで、どこで働くにしても生きていけるようにするわけだから、結果としてカネが生きる最大の道になる。更には、社会的インフラの建設のために公債で財源を調達できる新しい仕組みを整えることを欧州委員会のバローゾ委員長が提唱している。社会的インフラを新たな観点から充実させることは、ニュービジネスを域内に呼び込むための必要条件であるという認識だ。

ギリシアの全面的破綻は何とか避けられているものの欧州の先行きは依然として展望が開けない。しかしながら、欧州は限られた資金で経済を底上げしていこうと考えている。節約、緊縮一点張りではない。<複眼的思考>がそこにはある。考えている。知性的である。ただひたすら「どうしたらしのげるのか?」、「どうしたら助かるのか?」、そんな風に<やり方>ばかりを気にする日本のhow-to思考とはレベルが違う。

ここまで中枢機能のレベルが違うとなると、今後20年間で日本と欧米のパフォーマンスには又々大きな差ができて、気がつくと日本の生活水準は一人当たりGDPはおろか、GDP合計で見ても世界のトップ20から消え去るのではないかなあ、と。

中枢機能のレベル差・・・これはどうみても日本と欧米の教育理念の違い、教育システムの違い、教育予算の違いとしか思えない。

日本政府の責任で、毎年300人程度の10〜12歳児童を精選して選び、欧米の複数の国をまたいで、各国の超一流・全寮制教育機関に送り、以後その国に留まらせて徹底したエリート教育を受けさせるべきではないか。それが現状では効果的ではないか。東大の秋入学制度移行を待つユトリなどもうないのではないか、と。もちろん派遣した児童の半数程度は祖国・日本には戻らないだろう。しかし、日本出身の有為の若者が日本の外で活躍することは日本の国益にかなう。たとえ若者が日本に戻らずとも才能ある若者の教育に国費を投入することには十分意味があるだろう。