2012年3月26日月曜日

忠義の士が国をつぶす

雪の博士というか、随筆家として知られている中谷宇吉郎であったと思うが「雪国の春のすばらしいことは、そこで暮らしている人にしか分からない」という意味の下りがある。

今日は大学からのんびりと町の方へ歩いていった。海は、春らしく明るく青く光り、その彼方には白銀色の増毛連山が輝いている。風は冷たいが、大分、暖かくなり日の射した雪がとけて流れている。北国の早春である。美しい。

駅前の書店に入る。ぶらぶらと書棚を見て回る。おっ、これはまだ買ってなかったなというのが江藤惇・松浦玲「海舟語録」(講談社学術文庫)。パラパラ頁をめくると、こんなことが書いている。
何でも、己が為そう、なそう(原文:繰り返しの〱)といふのが、善くない。誰がしてもいゝ。国家といふものが善くなればいい。第一、その目途が違ふのだもの。
田舎の者等から、どうなりませう、どうなりませう(原文:繰り返しの〱)と聞くから、『ナニ、心配はない、西洋人が来れば、それにお前方は食はして貰ふのだ。横浜でも、二十人も来れば、それで、あンなに大勢が食ってるぢやアないか』と言ふと、みンな嫌がるよ。
うちの男でも、女でも、みなそれぞれ役があって、それに慣れて居るのに、急に主人が代わって、何でも主人がするといふことは出来まいではないか。今の政治家は、それをしようといふのだ。(注:257ページから引用)
この節のタイトルは「忠義の士が国をつぶす」である。

大学も昨今の流行で構造改革ばかりが議題にあがる。若い衆は<危機感>に燃えているようだ。しかし小生は、元々へそ曲がりであるし、「やるべきこと」が見つかってやれ嬉しやと、それに狂じるなどは、趣味に合わぬ。それ故、国のお覚えが悪しくなり「お取り潰し」になるのであれば、それもまた一興なり。蘭学が無用になれば蘭学者は静かに世間から退場すればよいのであると、悟りすましている。嫌な男だねえ・・・と、我ながら実感する。というか真面目な話し、小生は職人である。生涯をかけて磨いてきた技量がいまの世で無用だと言われるのであれば、それは仕方がない、もはややるべきことはなし、後は自分で生きていくしかないと、その位は達観しているつもりなのである。

0 件のコメント: