2024年8月21日水曜日

ホンノ一言: 政治(とは限らないが)で「男性 vs 女性」が現実にそれほど重要視されているのだろうか?

アメリカの民主党・党大会が開催された。今秋の大統領選にカマラ・ハリスが候補となり、大物たちの応援演説が相次いだそうだ。

トランプ・前大統領と闘ったヒラリー・クリントンは

ガラスの天井を打ち破るのは間近だ

と。(アメリカの?)女性たちを抑圧していた壁を破るのは近いと大見えを切った由。

最近、常々、不思議に感じているのだが、なぜ「女性」であることをこれほどまでに強く意識している(かのような)発言を、アメリカの女性政治家はするのだろう?

イギリスでは45年も前の1979年にマーガレット・サッチャーが初の女性首相になっている。その際、閣僚経験の少なさを懸念する声はあったようだが、女性で大丈夫かという声は、小生も若かったが、日本にまでは聞こえてこなかった記憶がある。

サッチャー首相は、その後11年間の長期政権を築き、世界の潮流を新自由主義へ転換する大仕事をやった。

その後、最近年ではテリーザ・メイさん、リズ・トラスさんとイギリスでは女性がどんどん首相に選ばれている。

ドイツでもアンゲラ・メルケル首相が16年間の長きにわたって首相を務めた。彼女の親露外交は、今となっては批判の的になっているが、現代世界においてメルケル政権の東方融和外交は非常に有意義であったと個人的には考えている ― 反面、親中外交には、正直、腹が立ったりもしたが。

イギリス、ドイツ以外でも既に多くの女性宰相が登場しており、女性政治家への評価は広く定まっていると言ってもイイのではないだろうか?

にも拘わらず、アメリカでは《女性政治家が打ち破るべきガラスの天井》といった言葉が女性政治家の演説には普通に入っている。イギリスやドイツ、その他のヨーロッパ諸国とは異なり、アメリカではそれほどまでに女性差別意識が残っているのだろうか?それほどまで、アメリカ国民の政治意識はヨーロッパとは違っているのだろうか?

この日本でも、初の女性首相になりたいという女性政治家は複数いると言われている。やはり日本でも《女性を差別するガラスの天井》なるものがあるのだろうか?

女性天皇はイイが、女性首相だけはダメだ

本当に日本国民は思っているのだろうか?ちょっとそうは思えないのですネ。

もし可能なら是非問いたい疑問がある。女性政治家が「ガラスの天井を打ち破ろう」という時、

アメリカ社会の(更に日本社会の?)「ガラスの天井」を打ち破ることが、あなたが一番やりたいことなンですか?他に何かないンですか?

と、こう質問したいのですネ。

小生は男性であるが、「男たるもの・・・」と自らに喝を入れるなど、あまりしたことがない。小生は、カネと力のない一介のブ男であるのだが、だからこそと言うべきか、女性たちが「ガラスの天井、ガラスの天井」と連呼する姿勢が、大変不思議に映るのである。

男性だから「ガラスの天井」がない「青天井」だと感じることなどない。そもそも人生は壁や制約に満ちている。何より自分自身の「能力」、「体力」、「性格」、「運」に制約づけられる点こそ一番の壁だ。

普通に考えればイイのではないかナア、と思う次第。

世界の人々一般は、既に「男性 vs 女性」といった尺度で政治家を評価することなどしてはいないのでないか?

これが冷静に観た現実ではないか?

ある女性政治家が選ばれないとすれば、それは社会の女性差別ではなく、その女性政治家の属人的特性による、簡単にいえば評価されていないだけの話ではないか。そう思ったりしているのだ。

女性政治家も男性政治家と同じで、一流もいれば、二流、三流もいる。そんな当たり前のことは、もうみんな知っている。イギリスでもサッチャー首相は大きな実績を残したが、メイ首相、トラス首相が行った政治は低レベルだった。とはいえ、あの程度に低レベルな男性政治家は山のようにいるだろう。

サッチャー首相は、就任3年目にフォークランド島の領有権をめぐってアルゼンチンと軍事衝突した際、直ちに艦隊を派遣して多大の犠牲を払いながらも敵国に勝利した。優柔不断で口ばかり達者な男性政治家にはできない決断だった。

アメリカ人も(日本人も?)見ているのは、男性か女性かではないと思われる。単純に「この人物で大丈夫か?」、それだけだと思う。そんな時、「女性を抑圧するガラスの天井を打ち破りましょう」と、これが目標であるかのように言っていては、逆に政治家としての能力、認識力に疑問符がつけられても仕方がないのではないだろうか?

もし「ガラスの天井」が意識されているとすれば、確かにそれは意識の問題であるには違いない。が、それは(政治)活動を需要する側の意識ではなく、(政治)活動を供給する側の意識に主な原因があるのではないか、と。

そう感じている次第。

日本の政治事情にも同じことは言えると思う。

***

「宗教上の教義」、「信仰、祭礼の場における伝統、慣行」といった論点はある。当然だ。世界は多様である。こういう論点は別の問題として考えるべき文明的な問題で、現代社会の大勢になっている価値観に沿っているかどうかという意識で議論をしても不毛であろう。

【加筆修正:2024-08-22、08-28】


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