2014年5月31日土曜日

雑言ー政治と科学、原子力規制委員会案と異論について

九州の川内原発の安全審査経過について火山学者から異論が述べられているそうだ。

確かに、結論に異論を述べるのは学者の為すべき仕事だから、当たり前のことをしている。しかし、『異論もあるようで…』イコール『こんな結論にはならないのではないか』と話しが進むのが、日本的合意社会である。学問的合意など不可能であるとしてもだ。

× × ×

国に限らず、どんな人間集団にも、どんな会社・組織にも周囲に影響を与える人間が現れる。そんな人はすべて<政治家>である。

政治家がいれば、そこでは<政治>が行われる。国だけではない。家庭内政治、社内政治、省内政治、大学内政治、町内政治、県内政治、etc.…、 政治は世界の至る所で今日も進行中だ。そこには無数の<権力>がある。日米関係も日中関係も、グローバルな空間で展開される最高次元の国際政治である。影響を互いに与え合うからには権力の優劣を決めておく必要がある。というか、最高権力として認められる存在がどこにあるかが、事実として決まるものである。政治的支配とはそういうものであろう。形式的なトップに最高権力があるとは限らない。

原発の安全審査も、それに関心を持つ人が多数いる以上は、政治と行政の話しでもあるのであって、科学的研究の話しだと割り切るのは無理である。

× × ×

小生がまだ東京でペエペエだった頃、エコノミスト的行政官になるべきであるか、行政官的エコノミストになるべきであるか、と。そんな下らない戯言で人を困らせていたことがある。こんなタワゴトをダベルより、まずは目の前の仕事をテキパキと正確に片付けることを期待されていたのにネ……、いや全く若い時分というのは後になって後悔することばかりだ。

真相の所在に関する限り、学者は異論を述べる権利を常に持っている。しかし、異論を述べるとき、個々の学者の胸の内には評価欲や名誉欲、果ては研究費という金銭欲が混じりがちなものである。他の研究者に影響を与えたいという影響欲、支配欲、権力欲もあるかもしれない。そんな場合は、真相を追求する学者というよりは、学界内政治家として行動していることになる。

学者と言っても、真理を求める純粋の学者として行動することもあるし、学界内政治家として行動することもあるのだ、な。

× × ×

人は、いつでも政治家に変貌しうる。真実の所在よりは他人への影響力に関心をもちうる。学者の論争は、本来、真実性が自明でないから論争するのだ。自明でないから何が真実か断言はできない。しかし社会は真実を求める。だから出せないはずの結論をだす。その結論は理論ではなく影響力で決まる。学界内政治が生まれる所以だ。

科学が社会と向き合うと、必ず政治に巻き込まれる。政治に巻き込まれると、こんな風に面倒な話しをすることになってしまう。

分からないことは分からないと学会ではスッパリ言えるのが、▲▲委員会の座長ともなれば「分かりません」とは言えなくなる。結論を示すことが職務になる。その時、座長は学者ではなく政治家として行動している。マスメディアは、▲▲委員会の最終案と外部の異論を学問上の論争として伝えるべきではない。学問的には自明ではないのだから。社会が望んでいる結論をどう出すか。これが問題なのだ。とすれば、社会の多数が望んでいるのは何なのか?報道の役割は、社会の多数者の意識を知った上で仕事をすることだ。そうではないだろうか。

2014年5月29日木曜日

授業現場の技術革新?

授業現場の在り様は急速に変わりつつある。黒板とチョークが基本ツールでなくなったことは、とうの昔からそうなってきている。ホワイトボードとマーカーが健康上の必要性からも常用されてきているし、コピー機能付きホワイトボードが主になりつつある。ホワイトボードが一杯になれば、スマホで撮影し、その画像を簡単に共有するのも最近のやり方だ。

しかし、もはやホワイトボード+スマホの組み合わせも旧式になりつつある。

教卓サイドの人間は、タブレット+プロジェクター+デジタルスタイラスで手を動かすのが簡単だ。新しいページはすぐ作れるので、どんどん書き足せる。黒板では一度消すと復原は無理だが、タブレットだと前のページをいつでもすぐ再表示できる。授業後にすぐ全てのページをアップロードすれば学生の便にもなる。というか、学生の方もスマホで大事だと思うページを撮影しているようだ。教える方も書いた内容はすべてファイルに残っており、それをEvernoteなりGoogleDriveなりに保存しておけば、いつでもどの端末からでも参照・確認できる。

一口にいって、授業現場の効率性はこの数年間で飛躍的に向上している。

今日の学部向け統計学では一様変量を二乗した時の確率分布を導出する話題をとりあげた。XがU[0,1]なら

のPDFは

となるとパワーポイントで説明したあと、『PDFが分かったから変数Yの期待値と分散も計算できるよね』と学生に促した。しばらく時間を与えたあと、小生はデジタルスタイラスを手に持ってタブレットの画面上で以下の手計算をした。計算はプロジェクター経由、スクリーンに投影されるので学生は黒板を見るのと同じように見る。授業後、計算した画像をパワーポイントに挿入してから「本日の授業概要」としてアップした。黒板とチョークではこんなことはできない―できないから学生は一生懸命に板書を書き写すことにもなる。そのため話に集中できない。これが従来の教室の風景だ。



積分計算の検算にはフリーの数式処理ソフト”Maxima”を使えばこれまた効率的だ。

できれば学生もタブレットを貸与され、同じツールを持っていてほしい。そうすればフリーの高機能統計ソフト”R”でモンテカルロ実験もできるし、サンプリングの感覚も容易に身につくだろう。

アカデミック領域で定番となっている多くの高機能ソフトがフリーであることは、知識の共有性と平等なアクセスを保証するうえで、欠かせない活動だ。

ただ、あまり学生の利便性が向上すると、どこでも授業内容を閲覧できることになり、結果として授業には出てこなくなる傾向が助長されるかもしれない―未検証な可能性ではあるが。

今までと同じ知識レベルに学生を引き上げるのに、授業の提供側がより少ない労力ですむならば、明らかに授業現場の生産性は上昇している。学生側の満足度が依然とまったく同じであったとしても、ICT技術の導入は確かに教育生産性を高めるものだと実感しているのだ。教員の交代や共同担当に際しても、支援ツールが同一なら、授業水準は安定的に管理されるだろう。学生がICTツールの利用に習熟し、ビジネス現場で活用するための土台が学生時代に形成されるとすれば、それもまた教育効果である。

とすれば、いま現時点において、大学の教育生産性は予想以上の速さで向上しつつある。「変わらぬ教育現場」と言われて久しいが、それはもはや昔話になりつつあるのではなかろうか。

2014年5月27日火曜日

覚え書―近年の大学学部新設の不思議

先日、元同僚が来室。しばし雑談してから京都へ戻って行った。
元同僚: 経済はもういかんやろ?
小生: 大体、「経済学部」がはやり始めたのは主に戦後ですよ。戦前にもありましたけど、主流は法学部でした。経済をやる人間でも、僕の出た学校では理財科が一番人気でしたよ。けど、もうあきませんやろなあ…、経済学という学問からオーラはもう消えてますから。昔はマルクス経済学も隆盛で、よい世の中をつくって行こうという情熱が満たされましたけど、その後がいけない。数学好きなら、経済学よりホントの数学をやればいいわけですよ。だから経済学をまともにやろうというのが入ってこなくなりました。
元同僚: これからどうするんや、経済学者は?
小生: 必要なんですよ、人材としては、経済学が分かった人間が。おらんとアメリカ政府、EUと論争するにも議論できませんから。いまは中国の官僚も現代経済学に精通してますからね。
元同僚: 相手の言ってることがチンプンカンプンじゃいかんわなあ。けど、そんな授業、やっとらんやろ?
小生: まあね。
元同僚: これから、経済、どうするんや? 
小生: 「総合経済学部」にするとか、看板をかけかえるんやないですか?一番手っ取り早いわ。
元同僚: ハハハ、少しは騙されてくるかもしれへんわなあ…
小生: いまの時代、総合、国際、環境の三つをつけておけば、何とか生きていけますて…ま、ちょっとバカバカしい時代やけどな。
元同僚: 総合環境学部もどこかにあったなあ。
小生: これからも呼び名にこだわる必要のない学部は、まあ、文系では法学部、それと理系の医学部か、理学部はどうやろなあ。どんな理学なんか分かるようにしとかんといかんかも、生命科学部とか、バイオエンジニアリング学部とか、な。
元同僚: また騙されてはいる奴が増えるだけやないか!

ま、そんな雑談をしたのであるが、小生が不思議に思っていることもある。先日、東京へ出張した折にも感じたのが、いまの「統計ブーム」だ。斜め右の青年が二人話している。『何読んでんだよ』、『統計のさ、これ分かりやすいんだよ』、『パソコンまで出して…』、『Rを使うのさ、とにかくこれできねえとサ』。機内でも統計の勉強かよ!そう思いました。

これだけブームなら、なぜ大学に統計学部が新設されないのか…?不思議でならない。外国、特にアメリカには統計学部は普通にある。そこでは自然科学、社会科学、言語学、文学、歴史学までカバーしてデータ解析を全部教えている。麻布から立川に移転した統計数理研究所は、永らく統計学部のない日本の大学を補完する機能を果たしてきたと言われている。「補完する」などと情けないことを言わず、『あったほうが有難い統計学部ならさっさっと作らんかい!』、そう思って既に10余年、これは大学学部新設の七不思議だと思っている。

まっ、この辺りが日本では『単なるブームなんだよね』と、そんな風に卑下というか、揶揄というか、そう話しては前向きのドライブがさっぱりかかって来ない。国全体の競争優位がじわじわと劣化する。そんな状態なのであるが…。

2014年5月25日日曜日

数学不要論-最近の「統計学」事情

いま統計学を勉強する方法が激変しつつある。一言でいえば
数学を勉強するより、統計ソフト”R”を使いこなせ
これに尽きる。

先日の授業のテーマは、確率的な見方だった。これまではサイコロを例にとって「6の目が出る確率は6分の1ですよね。どの目もそうです。じゃあ、正しいサイコロを6回振って、1から6まで1回ずつ出ると思いますか?そうなる場合が多いと思いますか?」と、そんな質問から始めたものである。

6回振って1から6まで1回ずつ出る確率はどのくらいあるのか。これを計算するのは大して難しくもないが、確率の勉強からやっていては時間がかかって仕方がない。そこで自分のPCでRを起動して、
sample(1:6,6,replace=T)
を何度か反復するように指示した。その後、『これまでの結果で1から6までが1回ずつ出た人はいますか?順番は問いませんよ』ときくと、一人もいなかった。サイコロを6回振るとすれば、同じ目が2回以上出るのが普通であって、確率のとおりに目が出る方が珍しいということが実感できたようである。

では、6回サイコロを振って<2番目に大きな目>は何になるだろうか?確率のとおりに目が出るとすれば、2番目に大きい目は言うまでもなく5である。しかし、確率のとおりに目は出ない方が多いのだ。これは、確率論の勉強を相当積み重ねた人にとっても計算が易しい問題ではない。しかし、数学を勉強する代わりにRを使い慣れると、すぐに次のように数値実験をすることを思いつく。
> second <- function(x){n <- length(x); sort(x)[n-1]}
> second(1:10)
[1] 9
> kekka1 <- replicate(30000,second(sample(1:6,6,replace=T)))
> mean(kekka1)
[1] 4.783433
> sd(kekka1)
[1] 0.9919501
> barplot(table(kekka1))
サイコロを6回振って2番目に大きな目を記録する作業を3万回繰り返す実験であっても、瞬時に済ませることができる。得られた結果をヒストグラムに描いたのが下の図だ。
2番目に大きな目が5になるのは、3万回振って1万回ちょっと、半分もないのだな。

期待値は4.78、標準偏差は0.99だ。もちろん実験結果だから厳密解ではない。「その程度」と言わなければならない。
> mean(kekka1)
[1] 4.783433
> sd(kekka1)
[1] 0.9919501
3万回の結果は理論的な期待値とほぼ一致していると考えてよい。正解を先に確認してから、上のヒストグラムに当てはまっている真の確率分布をゆっくりと導出する方がずっと楽である。というか、「理論的導出」が必要かどうかもハッキリとしない。もはや不必要かもしれない。

昔、計算尺を常用している工学部の教授が授業中に2×3に出くわして、そこで計算尺をとりだし『これは…大体6くらいだから』と、平然として授業を続けたそうな。これは極端で笑い話に属するかもしれないが、まあ実際にはこんな感性で全く問題はないのである。

真の視聴率が20%であるとき、100人をサンプルにとって実際に視聴率調査をするとすれば、どんな結果がどの位の確率で出てくるか。これは二項分布の例題である。しかし、確率論の勉強をせずとも、次のコマンドを入力すると理論的正解に近い答えがすぐに得られる。
> sityouritu <- replicate(30000,sum(sample(c(rep(0,80),rep(1,20)),100,replace=T)))
> sum(sityouritu>25)/30000
[1] 0.0855
> sum(dbinom(26:100,size=100,p=0.20))
[1] 0.08747538
100人の結果が25%を上回ってしまう確率を求めてみたが、3万回も反復実験をすれば、何も理論的に確率計算をせずとも自然と分かってしまうわけである。実験結果から分かる確率8.55%と理論的結果である8.74%は、ほぼ合致していると見なすのがビジネス現場の感覚であろう。
> barplot(table(sityouritu))
視聴率が20%の場合、30%を超える結果はまず得られないことは一目瞭然である。また25%を超える結果は、あまり出てはこない結果であり、実際にやってみてそんな結果が最初に出てくるというのもあまりない。『確率が小さなことは何度もやっている内に出くわすものであって、いの一番にそんな結果に当たってしまうのは、相当アンラッキーである』、そんな確率的な感覚も経験できる。これも統計をマスターするためには不可欠の感性である。

だから『数学を勉強する時間があったら、まずRを使いこなしなさい』と言う時代になった。そんな風に感じつつあるのだ。統計学者になる志をもっているのでなければ、断言してもよいのではあるまいか。時代は変わりつつある……





2014年5月24日土曜日

東京から戻って-ビッグデータはデジタル・リサイクル産業である

応用統計学会の年会があって水・木・金と東京に行ってきた。統計関連学会では、このところ必ずビッグデータの話しが出る。今回も二日目にビッグデータのチュートリアル・セミナーがあった。おりしもJR東日本によるSUICAカード情報取引が個人情報漏えいに該当するという騒動があったばかりだ。テーマはビッグデータの暗号化、匿名化であった。

☆ ☆ ☆

ビジネスプロセスの中でデータが集まってしまう、その自然に集まったデータは不特定情報の集積であり、そのままではどう分析していいかわからないのだが、それでも顧客の行動を写し出す情報の塊であり、放置してよいはずがない。

業務データは、個人情報の塊なのだが、保存してから一定期間経過後に削除せよという規則があるわけでもない。そのビッグデータをデータベースとして整えて、統計分析に乗るように再編すれば、自社利益の拡大戦略を検討する材料にもなるし、その情報がほしいとコンタクトをとってくる他社も現れるわけである。本来は、自然に溜まった生活ごみのようなデジタル・ウェイスト(digital waste)であったのが、いつしかビッグデータ(Big Data)に成り上がったのだから、何がカネになるのか分からないものである。

☆ ☆ ☆

とはいえ、ビッグデータという言葉にはアメリカンな薫りが詰まっているのも事実だ。自動車は売れなくなった、金融工学はクラッシュして信頼が取り戻せない、じゃあ情報を切り売りするか。「メガ企業の社内には膨大なデータが廃棄されないまま保管されている。マーケティングのためにそのデータを欲しがる会社も相当いるのじゃないか、それに自社の効率化にその情報を利用できないか」。アメリカがそんな風に考えても可笑しくはないわなあ…、そう思いつつ見ている。

小生が某官庁で小役人をしていた頃、情報管理室には大型汎用電子計算機(=メインフレーム)が広さ100平米ほどの空間を占拠していて、入室権をもっている有資格者(=オペレーターと尊称されていた)しか室内には入れなかった。その頃、経済分析の王道はマクロ計量経済モデルによるシミュレーションで、想定をいくつか設けた複数のケースごとに数値実験を繰り返す作業が毎日行われていたものだ。半日も仕事をすると、ラインプリンタが印刷して打ち出すアウトプットはA3サイズで300枚とか400枚になるのが当たり前だった。その何百枚もあるほとんどは、途中の計算に不審な箇所があるかどうかのチェック目的であって、まずは見ないのだな。見るのは最後の数ページにある計算結果だ。そして、一日の成果は上役の課長補佐がいう『これは上げられないね、もうちょっと頑張ってやり直して』、その一言で出力されたばかりのアウトプットは部屋の隅に移動され、そこには紙の山がアルプスの造山運動よろしく形成されていったものだ。私達は、紙の山を"Waste of Paper"と呼んでいたが、その紙ゴミはいかに重量が嵩んだとしても、取引価値は1キロでせいぜい何十円という金額ではなかったろうか。

現代という時代は、目に見えぬ電子ゴミ"Digital Waste"に何千万円、何億円というカネが払われる。その電子ゴミを情報資源として活用するためのソフトウェアにも巨額のカネを払う。増産はせずとも<ビッグデータ>に投資する。"Big Data"は電子ゴミではない。デジタル資産(Digital Asset)、電子の金鉱(Electronic Goldmine)になった。時代は変わったものである。まあ、電子ゴミしか売るものがなくなった、ホントにそうなら、それもまた情けない話しではあるのだが……。

2014年5月19日月曜日

自民党・保守本流の「おれがルールブックだ」

保守本流とは戦後日本の復興を演出した吉田茂首相につながる人達をいう。理念的には武力を否定した経済重視主義をとっていて、中国や韓国とは長期間の友好の積み重ねがある。人物としては池田勇人や佐藤栄作、田中角栄といった名前があがる。

保守本流は、永年の自民党政治を支配してきた。派閥としては池田派の流れをくむ「宏池会」や佐藤派の流れをくむ「経世会」が大規模集団である。その保守本流に属する政治家、具体的には古賀誠氏や野中広務氏、加藤紘一氏がこのところ共産党の機関紙『赤旗』のインタビューを受けては安倍政権の政策を批判しているというのでニュースになっている。

主に「集団的自衛権」である。それを行使するなら憲法改正でやるべきだという主張だ。このままいくと、徴兵制復活の可能性も心配だ、と。その前に、「いかなる戦力も保持しない」という9条2項を何とか書き直さないと徴兵制はさすがに不可能と思われるが、とはいえ保守本流の政治家としての立場を考慮すると、当然、そんな意見をもつだろうとは予想できるし、小生もこの意見に尊敬というか、好意のような気持ちを感じる。

もし、戦後日本をずっと支えてきた保守本流政権が、「憲法9条は集団的自衛権をも否定しているのでございまして、従って日本国はいかなる集団自衛行動をとることもできない。政府としてはそう認識したうえで、自衛隊はあくまでも個別的な自衛権を行使するための組織であると、そう考えているのでございます」と、ずっとそんな風に言い続けてきたなら、確かに安倍政権は「ない」といってきた公権が「ある」と言い始めたわけだから、これは自民党が政党として成り立たなくなるほどの大変化である。というか、国会が「それを言うなら同じ自民党内閣として憲法改正案を提案せよ」と言うのが自然である。

しかし、そうではなかった。政府は「権利として持っているが、使わないのだ」と言ってきた。ということは、政権によっては権利を行使するという考え方がそこにはある。安倍総理は保守本流の政治家ではない。だから「使う」と言っている。それを「いや、我々が憲法をどう解釈するかを決めてきたのだから、勝手に解釈を変えるな」と、そこまで言えるか?率直なところ、納得しかねる理屈でござんすなあ。頑固な年寄りの言い分だ。

昔、日本プロ野球で審判に関するトラブルがあって、ある監督が「そんなことが野球のルールのどこに書いてある?」と詰め寄ったところ、その審判は「私がルールブックだ!」と言い返したという。どうも最近の保守本流の発言は、「私たちが憲法だったのだ」、そう言いたいのではないかと、勘ぐりたくなる時がある。憲法は文字でハッキリ書かれてある。書かれていないことは、その時点で国民が選んだ国会で解釈すればよいし、内閣は時代に適合した解釈を憲法の範囲内で提案する権限をもつだろう。

2014年5月18日日曜日

現代中国に残るカビの生えた社会哲学をどうみる

日経が本日こんな報道をしている。中国が対日宥和姿勢をとりはじめたというものだ。
 【青島(中国山東省)=北爪匡】アジア太平洋経済協力会議(APEC)貿易相会合に出席中の茂木敏充経済産業相は17日、中国の高虎城商務相と会談した。日中閣僚の会談は2013年12月に安倍晋三首相が靖国神社を参拝して以来、初めて。高商務相は会談で「日本との経済・貿易関係を重視しており、その安定と発展を望む」と強調し、日本との関係改善へ意欲を示した。経済分野を中心に中国が事態打開を探る動きが出てきた。(解説総合・経済面に)

 両閣僚は17日昼、中国・青島で開催されているAPEC貿易相会合の休憩時間に20分間会談した。

 高商務相は日本の尖閣諸島国有化を改めて非難する一方、「中国は一貫して日本との戦略的互恵関係に基づく経済貿易を重視してきた」と指摘。日中関係の安定に向けた事態打開に前向きな姿勢を示した。

 12年9月に尖閣問題が深刻化して以降、経済閣僚として初めて公式の場で日本との関係改善に言及した。日中間の政治関係が依然冷え込むなかで、まずは経済関係から修復を探る意向とみられる。

 茂木経産相も「両国の間には難しい問題はあるが、戦略的互恵関係を優先させることで一致した」としている。
 (出所)日本経済新聞、2014年5月18日

中国が日本に対して姿勢を軟化させたのは、言うまでもなく対ベトナム関係が急激に悪化したからだ。明々白々なのだな。

対日関係で攻撃を一時中断して日本と小康状態を作っておいてから、ベトナムには全力で懲戒的攻撃を加え、ベトナムが屈伏してから、また日本に対する攻撃を再開する意図である。ま、分断作戦というか、各個撃破の古臭い戦術である。どうも中国共産党の発想は、中国史の舞台を飾ってきた王朝興亡劇のレベルを出ていないような感じがして仕方がない。確かにシェークスピアはいま読んでも面白く、人間はいつの時代も変わらぬ存在だと実感させられる。しかし、国際政略は、歩兵・騎兵の時代と現代世界とでは、異質であるのが当然だ。そもそも「国家」という存在をどうアウフヘーベンするかが問われているのが21世紀だろう。思うに、中国では近代小説も近代哲学も厚みに欠け、この200年の進歩をもたらした思想的基礎を勉強しようという意欲にも欠けているのではないだろうか、と。そんな風に隣りの大国をみている。

日本に西洋的合理主義が浸透し始めたのは、明治維新をはるかに遡る享保期、徳川吉宗将軍の時代であると言われる。蘭学の普及である。後に松平定信が「寛政異学の禁」を行って保守的な思想統一を図るのだが、享保から寛政まで時間にして70年程度ある。ちょうど太平洋戦争終結から現時点まで「戦後日本」の長さが70年だから、同じ程度の存在感をもっているわけだ。

その江戸期・18世紀に、絵画の世界においても「線よりも面の重視」、「写実主義による明暗や遠近の表現」を特徴とする西洋画が日本に入り始めた。中でも円山応挙、司馬江漢はその先端を歩んだ芸術家である。


伝円山応挙、京三条大橋、1751~1764年頃


円山応挙、天橋立図(眼鏡絵)
(出所)応挙の眼鏡絵


司馬江漢、三囲絵(眼鏡絵)、1783年

眼鏡絵というのは版画の一種で、鏡に映した絵を眼鏡でみて鑑賞する制作術である。西洋画の基本技術が上の画面からもみてとれるが、この新しい技術は中国を経由して日本に伝わったのだ。

蘭学の普及、西洋画の輸入に刺激され、伝統的な浮世絵の作画法もまた新しい境地に進むことができたのはいうまでもない。幕末の葛飾北斎、歌川広重の浮世絵はその果実である。葛飾北斎は黒船来航の4年前に他界しているが、もし生きて黒船の話しを聞いていれば、それを絵にしたことは間違いないだろう。

日本は中国や朝鮮に先駆けて西洋文明をとりいれて発展し、発展した国力で中国や朝鮮を侵略したと歴史はまとめられている。半分はその通りだが、西洋文明を先に目にし、経験していたのは、日本ではなく、中国であったことも確かな事実である。日本は、新しい方法を試しつつ消化し、黒船が来航する以前に次第に変わり始めていた。

変わる日本を固定しようとする反動的な政策を繰り返していたのが幕藩体制だった。その既得権益層が自己崩壊したのが明治維新である。そう見るべきだろう。中国、朝鮮では旧体制が残存したのだ。なぜ残存できたのか?旧体制の残存を可能にした<中国・朝鮮の倫理的基礎>を考察することは、今日的な意義をもつ社会思想史上の問題だと思う。




2014年5月17日土曜日

「保護」されるものは全て"Vulnerable"である。

先日来、世間を騒がせていた『美味しんぼ』がとうとう一時休載になった。漫画には暴力をテーマとするヴァイオレンス物もあれば、人が次々に殺害されるスパイ物もある。『ゴルゴ13』をその昔小生も愛読していたが、真似をする人間が出てきたら問題だと考える指導層がいなかったのは幸いだ。『ブラックジャック』に日本医師会が抗議をしなかったことも幸いである。『美味しんぼ』という作品を創作して、それを社会に発表する権利を原作者は持っているはずだが、その権利が制限される理由は「公共の福祉」を阻害するからだ。これが理由になっているはずだ。つまりは風評被害だ、な。

しかしだねえ……あの位の漫画表現で傷つくような公共の福祉は、本当に大丈夫なのだろうか、と。正直なところ小生はこう感じる。

一般に傷つきやすいものは「守られているもの」、「保護されているもの」、つまりは弱者なのであるが、その他にも何かの秘密を抱えたものも含まれるだろう。そんなことはないと信じるが、たかが漫画を差し止めざるを得なかった本当の理由は、何か踏んではならない虎の尾を踏んでしまった、開けてはならない秘密の扉が開いてしまうかもしれないと思わせてしまった、伏せてある事柄が露見してしまう危機感を感じさせてしまった……本当にこんな事情は皆無なのでございましょうネエ。

「個人情報保護」に守られて自分の立場が成り立っている人、「特定秘密保護」に守られていることにより支持されている政府、すべて傷つきやすく、秘密の露見によりいつ倒壊してもおかしくはない存在である。そう思われないか?

森鴎外は帝国陸軍の軍医であり最前線に配置されたこともあったようだから、日常でも入浴はあまりせず、その代わりに絞ったタオルで体を拭く習慣があったそうだ。たまには入浴されないとアカで汚れますよと言われると、小生の身体に汚いところなど一点もないと話していたそうである。

森鴎外のような自信があれば、そもそも秘密保護法制などはいらないだろう。『美味しんぼ』に描かれてあることが、すべて真っ赤な嘘であり、完全なフィクションであれば、福島県は平気でいればいいのではないか。実際に発生した風評被害は損害賠償請求すればいいのだから。というか、出版元は賠償責任を怖れたのかもしれない。とすれば、やはり内容に自信がなかったのかもしれないねえ…。

思うのだが、漫画が全くのウソ八百だとして、それでも(実際に県が提訴するとして)裁判所は風評被害による賠償責任を原作者や出版元には課さないような気がするのだ。小学館は毅然としていてほしかった、そして実際に『人気コミック漫画による風評被害賠償責任裁判』を傍聴してみたかったなあ…と、そんな残念な気持ちを正直もっているところだ。

2014年5月16日金曜日

集団的自衛権論争でこれだけは確実な点は何か

安倍総理が憲法解釈変更を指示したというので本日の道新は政府批判一色である。『国民不在 9条空文化』、『専守防衛から転換』、社説のタイトルは『日本の安全を危うくする』になっている。総理の記者会見の要旨が「日本の安全を守るために必要だ」というものだったから、その総理の方針こそ「日本の安全を危うくする」と反論するとなると、基本的理念が正反対であることが分かる。

今回の論争は紛糾必至だ。ただ、支持派、反対派とも要点をきいていると「なぜそんなことが言えるのか?」と納得しかねる点が多い。

まず支持派だが、「抑止力になる」と言っている。日本が強い姿勢を示すことによって、他国が日本に対して敵対的行為を選ぶ誘因を抑えることができるというものだ。いわゆるゲーム理論でいう「コミットメント」にあたるのだが、しかし、日本人が乗っている艦船を保護する場合にのみ友軍を支援できる、そうでなければ支援できない。本当にこの程度で「抑止」になるのか?要するに、米艦に一人の日本人を乗船させておけばいいわけだ。しかし米艦が攻撃されて、その日本人は戦死するかもしれない。日本人はゼロになる。護衛艦はその時点で集団的自衛行動をとれなくなるのか?ちょっとおかしいよネエ、その理屈。リアリティがない。そう思われるのだがなあ……

反対派の言い分もよく分からぬ。大体、「集団的自衛権の発動をしたいならきちんと憲法を改正するべきだ」というこのロジック。そもそも日本国憲法の現行9条にかかわらず、日本は集団的自衛権をもっているとずっと解釈してきた。もっているが使わないと言い続けてきたのは内閣であり、その一部局である内閣法制局である。内閣の方針を変更するのに、その都度「日本国憲法」の条文にまで遡って憲法改正をやっていたら、何度改正するのか分かったものではない。従来の内閣の方針を変更するなら、内閣で行うべきである。これが理屈であるのに、なぜそこで「憲法改正」でやれと言うのかねえ……理解できませぬ。

数学で何かの定理の証明をする時、あるいは何かの計算をする時、行き詰まるときは頻繁にある。そんな時は、「これだけは確実だ」という地点にまで一回戻ることが大事だ。要するに、確実に言えることから議論を始めて、結局最後にはどんな結論になるのか?やることはこういう事だからだ。

その伝でいうと、確実に言えることは

  1. 内閣が、一定の憲法解釈をとってきた以上、それを変更する権限も内閣がもっている。
  2. 集団的自衛権を内閣がどう解釈するかに関係なく、日本国憲法の9条は次のような文言になっている。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国は戦争に参加できないと明記してある。それどころか、国際的な紛争で日本の武力を用いることも放棄すると書かれてある。だから、武力紛争に必要な人的資源を国として調達する制度は作りようがない。この辺りが限界になることは確実ではないか。

むしろ第2項が既に「死文化」しているほうが問題ではないだろうか。自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」には該当しないというロジックは破綻している。この点だけではなく、憲法改正が望ましい箇所は戦後70年の間にいくつかできてきている。憲法改正が望ましい箇所は何かという問題と、集団的自衛権を行使するかしないかという問題は、全く別の次元に属すると思う。

小生が、個人的に考えたりするのは、もう一つの別のことだ。日本は戦争を放棄しているというが、そうなると自衛のための武力行使は「戦争」にはならないということになる。しかし、その紛争で犠牲を被った相手国は、これを日本との戦争状態と解釈し、それを宣言する可能性がある。その戦争状態を世界が認知すれば、日本はどうするのだろう?戦争状態にある二国は、相手国に対して経済制裁、民間船舶の臨検、海上封鎖など多くの有効な措置をとることができる。日本も、「特別措置法」を国会で通して同じ対抗手段を選べば、事実として戦争をしていることになるのではないか?裁判所はその措置法を「違憲」とせざるをえまい。日本はどうするのだろう?日本が「戦争」ではないと言わざるを得ない以上、米軍が日本をどう守るのか、アメリカでも論争が起こるのは必至である。

2014年5月15日木曜日

覚え書−ある面の平等をめざせば、別の何かが不平等になる

所得分配の平等に執着すると、完全平等が最も善いのだという議論になりがちだ。このことは以前にも投稿した。

完全に平等な所得分配を実現するためには市場経済より計画経済が適している。しかし、計画経済を貫徹しようとすれば、政府による強力な指示と誘導が必要になる。強い権力が必要だ。だから、国民の経済的な処遇は平等になるが、政治権力は集中化されることになる。


政治権力の集中を否定して独裁者の出現をできるだけ排除しようとすれば、経済的取引を自由化しなければ、絵に描いた餅に終わる。規制を温存すれば、それによって恵まれる人が固定され、社会的影響力をもつ人間集団がそこに形成されるからだ。なので権力を広く分散するには、経済的な自由化を行い、能力や実績と関係のない権利と利益が世代間で継承されることがないようにしないといけない。そうすれば、しかし、政治権力は国民の間に広く配分されるが、個人の才能に応じて稼ぐ所得には格差が生じる。

☆ ☆

不平等化する所得分配を再び平等化しようとすれば、富裕層への増税と低所得層への所得移転が避けられない。中間層が薄くなり、低所得層の人口が富裕層の人口より決定的に多くなれば、富裕層の収奪が政治的に可能になる。しかし、多数の低所得層を政治的に組織化し、富の収奪を行うだけの権力が形成されるとしたら、最高指導者は最高の権力をもつ結果になる。

いずれにしても、政治的にか、経済的にか、疎外される人間集団が必ず発生する理屈である。何らかの不平等は避けられない。どちらの不平等をより嫌うかで社会体制の大枠が決まる。

「ちょうど良い不平等」を模索するプロセスが、その国の「政治」に他ならない。

……昨晩、こんな風に思ったが、どうだろう。忘れるといけないので覚え書きにしておいた。

2014年5月12日月曜日

福島第一と鼻血: 「気に入らない意見」にどう対応するのが正しいか

たとえば「1+1は2とは限らないですよね」と言う人がいれば、「こいつは馬鹿か」という人もいれば、「で?なに?」と反応する人もいる。反応は様々だが、社会的敵対者であると断ずる人はそうはおるまい。なぜかと言えば、その人が(1+1)を2と考えようが、3と考えようが、一概に言えないと考えようが、大事なことはそこから引き出される結論がどうであるかということであるし、そもそも自分の暮らしとは直接関係がないからである。

目の前の人が何を言おうと「お手並み拝見」という姿勢が、正しいかどうかという点では最も正しい姿勢である。損害が発生した時点で、相手が正しくて自分が間違ったことをしていたのか、相手が間違ったことを主張して自分に迷惑がかかったのか。ここを真剣に考えればよろしい。

☆ ☆ ☆

では、いま世間の話題になっている『美味しんぼ』の鼻血騒動はどうか?山岡史郎が福島第一原発を見学した帰り、鼻血を出してしまったところ、福島県内の元町長である人が「そんな人は県内に大勢います」という主旨の説明をしたというので、「これは怪しからん」という人が出てきた。その続編では、更に「被ばくしたからですよ」という説明がされ、「福島県にはもう住めないのです」、「完全に除染をするなど不可能です」と、さらに刺激的な説明がされているというのだから、これは原作者である雁屋哲氏の確信に基づく展開なのだろうが、一層激しい論争がまきおこるだろう。

自分の意見を新聞や出版を通じて世の中に訴えることは、全ての日本人がもっている表現の自由であって、この基本的人権は憲法で保障されている。だから、雁屋氏の意見が間違っているか、適切かは関係なく、美味しんぼのストーリーを変更するべきであるとか、小学館はそんなコミックを出版するべきではなかったとか、その種の規制を加えようとするのは不適切である。戦前期・日本の愚かな全体主義を忘れてはならない。個人の意見表明を、検閲によって規制する時、「社会の安寧秩序」が大義名分とされるものなのだ。

☆ ☆ ☆

なるほど、微量の放射線が人体に与える長期的影響が原発事故のあと3年を経て現れてきたのだと、そう考えるには3年という時間は短かすぎるとも言える。

しかし、福島第一原発で「水素爆発」が起こった時、相当の放射性物質が飛散したことは事実として確認されているし、そのとき戸外にいた人はどの位の被ばくをしてしまったのか。なぜヨウ素を直ちに服用するよう指示を出さなかったのか。マスメディアが追求するべきであるにもかかわらず、全くといっていいほど放置されている問題は、数多くあるのではないか。離れたところで暮らしている小生も常々疑問に思っていることは多いのだ。

福島第一周辺地域で昆虫の奇形が目立って増えているという「噂」も耳にしている。

「福島県内の人は鼻血を出す人が多いんだってねえ…それって、放射線のせいなのか?」と、論争を不毛化するのではなく、福島県内をブロックに分けて、この3年間で鼻血で診察をこう患者が目立って増えた区域はどの区域なのか?その患者数は、年齢や健康状況を考慮したとき、確かにその他の自治体に比べて多いのか?もし確かに「患者が多い」と判断される区域が、水素爆発を起こした際に放射性物質が拡散したと思われる区域と重なっているとすれば、やはり雁屋哲氏の言い分にも根拠はある。そうなるのではないか?

☆ ☆ ☆

「気に入らない意見」を耳にしたとき、決め手はデータの収集とデータの分析しかない。データを見ることなく、「そんな意見は風評被害を拡大するものだろう」と頭ごなしにいうのは、為すべき論争を故意に不毛化する態度といえる。これ自体が「逃げ」の姿勢だ。1回の調査でケリがつく問題ではない。継続的に多くの人が異論を提出し続けることが大事だ。よろしくないね。そう思うのだな。

今度の授業でも強調するつもりなのだが、

  1. 違いに気づく
  2. 違いに着目する
  3. 違いについて考える

この三つは、常に統計の主題である。せっかく雁屋氏が「福島県内ではすぐに鼻血を出す人が増えている」と指摘してくれたのだから、「本当にそうなのか?」を問えばいいし、もし本当なら「なぜなのか?」を考えていけばいいのである。

2014年5月11日日曜日

三国志よりペリー・ローダンを政治家は読むべきではないか

中国には『一流は韓非子を読み、二流は孫子を読み、三流は三国志を読む』という話があるそうだ。そういえば毛沢東は、数々の政治学の古典より、水滸伝や三国志の方がよほど役に立ったと語っていたそうである。

とはいえ、三国志は後漢末期の魏・呉・蜀対立の時代の話しであるから、西暦で3世紀、日本はまだ卑弥呼の時代である。大和朝廷すらできていない。その頃の話が、現代という時代でなおも役に立つというのも眉唾物であろう。

寝る前の睡眠薬代わりにSF超大作『ペリー・ローダン』をパラパラめくることがある。オリジナルは既に400話を超えたらしいが、日本ではまだ300話くらいまでしか訳が出ていないという。小生が読むのは、ずっと前、最近ページをめくっているのは第1話の"Die Dritte Macht"(第三勢力)である。その中に次の下りがあった。ローダン殺害を命じられたクライン中尉がゴビ砂漠のスターダストまでやってきて、そこでローダンと直接話をして戻るときの話しだ。
Als Leutenant Klein zwei Stunden später zu seinen wartenden Kollegen am Fluß zurückkehrte, gab es nichts mehr, das seinen Entschluß ändern konnte. Er war der erste Streiter für Perry Rohdans Idee geworden, eine Idee, die moralische Grundlage eines künftigen Sternenreichs werden sollte.
Source: Perry Rohdan"Die Dritte Macht", Pabel-Moewig Verlag KG, pp.154


2時間ほどの後、クライン中尉が二人の仲間が待っている川岸に戻った時、彼の決断を変えるものは何一つなかった。クライン中尉は、ペリー・ローダンの理念を信ずる最初の一人になった。その理念は、来るべき星間帝国を支える倫理的基礎となるべきものだった。
中国がよく唱える『新たな大国間の関係』という理念が、カビにまみれた古臭いものであるのは、ローダン・シリーズを読むだけですぐに分かることだ。このベストセラーは中国では読まれていないようだねえ……「下らない」、そう思っているのかもしれない。

時代が変わるには、人が先に変わらなければならない。人が変わるためには、変わらないより変わるほうが善いのだ、と。そう判断する新しい倫理が生まれていなければならない。その新しい倫理を支持する人が増えていくプロセスこそ、社会の進歩の具体的な面である、つまり歴史そのものである。そんな風なことが、子供ですら愛読するSF小説でちゃんと述べられている。

何かといえば『死守せよ』とか、『これを守り抜かずして、国を守れるのか』…、小生思うに目指す高さが最初から違いすぎるのだなあ……、誠意や信義は貫かれるのだろうが、そこには無駄死にと指導層の無能があるだけだ。価値観の混乱を収束させる知的営みがないのである。会津藩の忠節は歴史の華となってはいるが、その倫理は狭くて人をひき付けず、そのままでは進歩を阻害したのである。残念ながらそう言わざるを得ないのだ、な。

三国志や水滸伝の感覚でやっていちゃあ、いまの世界を進歩させるなど、はなから無理である。必要なのは、頭の中を新しくすることである。明治維新だって、人の頭の中を切り替えたから成功したのじゃなかったんですか、いまのまんまじゃ世の中、動いていかないヨ。

ま、今日はこういう話である。





2014年5月9日金曜日

メモ-これって社会常識の欠如の一例か?

ある有名で人気のあるニュースサイトにこんな記事がある。タイトルは「採用担当から学生への上から目線について」である。批判をするという意図は全くないので、出所はあえて示さず、ただ社会で交わされている議論の一例として引用しておきたい。


「なんで、新卒採用って人事の方が上から目線なのですか?」 
私はそのようなことを考えたこともなかったので、「どういうこと?」と聞き返した。彼はこう続けた。

「だって、採用の案内だとか、人事のブログとか、あるいは会社説明会に行っても、みんな偉そうじゃないですか。」 
なるほど。確かにそうかもしれない。リクナビの就活アドバイザーなどの話を読んでも、やれマナーだ、身だしなみだ、言葉遣いだ、様々に「配慮をする」ように書かれている。

「もちろん、学生なんて社会の厳しさをわかっていない部分もあるけど、別に社会人だからって偉いわけじゃないですよね。それとも、「年長者だから偉い」という論理ですかね?」 
うーむ。確かに「偉そうにする人」と言うのは存在するが、人事が特にそうというわけでもなさそうだが・・・。
確かに「社会人」のほうが「学生」よりも偉いわけではない。 偉いわけではないが、現実に社会において、より大きな発言力を、というか大きな影響力、つまり人や物を動かせる力をもっている。これも事実である。大人は子供より「偉い」というわけではないが、大人が社会において大小様々の権限や権力を分担して、社会を運営している。大人と子供の関係と、社会人と学生の関係は、大変よく似ているのだな。

相手のほうが自分よりも社会的影響力があり、大きな権力をもっているからと言って、だから相手は自分より偉いわけではない。これは当然のことである-これが分かっていない人物はなるほど多いとは思うが。

人間はすべて平等である。『天は人の上に人をつくらず』だ。しかし、社会人は学生よりは平均的により多くの税金を支払っているはずだ。無論、税金を払ったからと言って「偉い」わけではない。しかし、税を納めて社会を支えることを甘く考えては駄目だ。家庭を経済的に支えている人が、家族から相応のリスペクトをうけるとしても、それは道理にかなっている。カネをもうけりゃ、それですむというわけではないが、働いて得たカネで自分以外の人を支えるというのは、そうそう楽なことでもありませんぜ、何らかの「愛」があればこそだ、自分を愛してくれる人がいるって有難いよ、そのくらいは感謝の気持ちをもって認めておいてもいいではないか。小生はそう思う。

納めるのがカネではなく命であることもあった。戦前期には、召集令状がきて最前線に応召する若者を地元は壮行会を催して送り出した。心の内は、赤紙を免れた己が幸運を喜んでいたのだろうが、だからといって入営する若者に敬意を払う気持ちがなかったわけではあるまい。それは文句なく立派なことだ、と。出征する青年に向かって「ご苦労様」という労りと哀惜の気持ちを感じるのは(大げさにいえば)国の基本だろう。武士の情けに近い共感の感覚に似ているかもしれない。こんな思想は"Out of Date"なのだろうか。

なるほど「社会人」だから「学生」より偉いわけではない。偉いわけではないが、これから社会的役割を応分に負担しようとする候補生が、経験を重ねたベテランに敬意をもつとしても、それは卑屈なのではなく自然な感情だと思うが、これは小生が古い世代に属しつつある証拠なのか?……、当たり前だと思うけどねえ。ま、そんなことを感じた。

こんな風に言えば、「じゃあ、税金を多く納めた人物ほど、敬意を払われて当然だと言いたいわけ?」と反論されそうだ。多額納税者が優遇されるのは当たり前という理論は、もちろん小生の意見ではない、ないが一概に「とんでもない邪説だ」と切って捨てる異端の思想でもあるまいに。そう思っているが、これはまた別の機会に。

上で引用したニュースサイトの記事の最後は以下のように締めくくられている。
推測するに、長いこと社会人をやっていて自分たちが得た経験を学生に「教えてあげたい」という気持ちが強い人ほど、「偉そうに見える」のではないだろうか。 
「あー、自分もそうだったな、教えてあげたいよ」という気持ちが、時に「教えてやる」という態度に変わってしまう。 
居酒屋で、後輩に説教を垂れる先輩、といった構図そのものにも見える。

ともすれば自分もおかしそうな過ちである。本質的には採用は人を試す場でなく、説教をする場でもなく、「お見合い」なのだと、改めて思う。
以前、小生も日本的タテ社会の中で勤務していたので、大変懐かしく若かった時代の日々を思い出した次第だ。

2014年5月7日水曜日

朝ドラにはまってしまった

今期の朝ドラ『花子とアン』にはまってしまった。モンゴメリー作『赤毛のアン』をはじめとする数々の児童文学を日本に紹介した翻訳家・村岡花子の生涯を描いた作品である。

村岡花子は、小生も戦後に紹介された少年少女向け文学作品で育った世代であるので、当然のこと知っていた。とはいえ愛読したのは少年のことゆえ、ヴェルヌの冒険小説やルブランの怪盗ルパン物、それからラムの『シェークスピア物語』やスティーブンソンの『宝島』などの方が好きだったことを覚えている。ケストナーの『飛ぶ教室』は、初めて読んだときにはそれ程でもなかったが、いまでは小生にとって掛けがえのない作品だ。

というわけで、『赤毛のアン』は同級の女子が話しているのを聴いてはいたが自分で読んだことはない。『少公女』、『秘密の花園』もそうだ。なので、村岡花子がヒロインになるといっても、興味はほとんどわかなかったが、ドラマの出来は断片的にでも10分みれば自然と伝わるものである。見事にはまってしまった。というか、見たタイミングも良かったのだな。「腹心の友」となる葉山蓮子が編入学する回を偶然観たのだ。舞台になる東洋英和女学院には多少の縁があり、それも一つだったが、その蓮子嬢が柳原白蓮であることはすぐにピンときた。柳原白蓮が村岡花子のクラスメートだったとはねえ…、世間は狭いものだ…気がついたら、はまってしまっていた。

× × ×

村岡花子は、翻訳した児童文学がずっと読み継がれており、その意味では日本人の心の中に生き続けている人である。他方、柳原白蓮が起こした駆け落ち事件は、戦前に生きた人々で知らない人はいなかった程の一大スキャンダルであったのだが、今日その事件をアリアリと思い出す人など一人もおるまい。ゴシップや醜聞事件は、その時限りの興味にまかせた一過性の現象であるに違いなく、中身というか実態というか責任というか、そんな実質的な内容はほとんどない、空っぽに近い井戸端会議がゴシップの本質なのだろう。二人の男女が感じあう愛など、大きいか小さいかでいえば、とても小さなことでしかあるまい。

人生がはかないとすれば、愛はもっと短い。『人生は短し、芸術は長し』だ。人の命はすぐに終わるが、生きているうちに残した芸術作品は時を超えて生き続ける。

しかしながら、いかなる作品もその作品を創造した人自身を超えていることはない。作品は不完全である。創作者は常にそう意識するものだ。芸術家が人生の中で残す作品はすべて不完全である。


Kandinsky, Moscow, 1916

× × ×

「戦前の人々で知らない人はいない」という表現を使ったが、調べると戦前期の村岡花子は子供向けのラジオ番組に登場する「ラジオのおばさん」として誰もが知る人であったそうで、戦後になって70年が経過したいま、翻訳家・村岡花子というイメージが定着しているというのは、「ラジオのおばさん」に親しみ、戦後日本を知らない人には極めて意外な落ち着き先であるのだろう。そんな感想も覚えるのだな。「そんな風になられたのですね」という意外感があるのかもしれない。

文字に書かれたものは後の世に伝わり、生身の声や姿の記憶は時間とともに急速に消え去るものである。『ジーザス・クライスト・スーパースター』のユダではないが「お釈迦様はお元気で?マホメットは山を動かしましたか?あれは宣伝か?名だたるあなたの磔は、大見えきったか、本心なのか?」……、マルクスって大変有名ですけど、あなたマルクスを知ってるの?その人本人が話す姿をみて、その声を聴いて、その人と同じ時間を共有した経験がない人は、いかに書かれたものを精読して、その人のことを調べたとはいえ、所詮、その人を知らないことに変わりはない。こうも言えるだろう。

おそらく現時点の世界を形作っているものの90%程度は失われて、缶詰のような状態になって100年後の世界に記録が伝えられるわけだが、あらゆる感情や臨場感、リアリティを捨象したとき、いま生きている私たちは100年後の私たちが憶測するのと同じように考え、行動し、生きているだろうか。多分、100年後の私たちは、いまの私たちがなしたことを朧げにしか理解できないかもねえ……、「タイムスリップしてやって来てごらんよ、そしたら分かるってえものさ」、「ホントはどうっだったかって?」、「真理ってものがあるのかないのか分からねえが、一度こちとらまで来ておくれなら、見当がつくでござんしょう」。まあ「歴史」など、最初から限界があることを一所懸命に議論しているのである。

上にあるカンディンスキーのモスクワを見て小生が連想するのはロシアのモスクワではなく、『風の谷のナウシカ』に出てくる「火の7日間」である。空を飛んでいる黒い鳥は「巨神兵」の影である。"So dachte ich"とカ氏に伝えたところで、そもそもカ氏はナウシカなど聞いたこともないわけだ。しかし、いまカ氏の作品をみて感じるイメージは、小生にとってウソではなく、自分の経験から派生した心理的現実である。何のリアリティも共有していないカンディンスキーが小生の心の中で生きているなどは不可能なのである。

そんな風に考えてみると、村岡花子は日本人の心の中に生き続けているが…という最初の表現は修正したほうがいいかもしれない。いま生き続けているそのイメージは、本人とは多分まったく違っている。もちろん違っていてもいいのである。




2014年5月5日月曜日

いまの教育費は高すぎるのか

教育費は高すぎると言われることが多い。失われた20年の間、収入の増えない家計を圧迫する第一の要因が子供の教育費であることが、しきりに言われていた。本当なのだろうか?

アメリカの大学は高い。特にハーバードやプリンストンなど名門私立大学になると概ね400万円程度、これに寄宿費など住居費が加わるから、大学に支払う金額は相当高額で教科書や参考書などなど、懸命に勉強するためには年額数百万円を覚悟するというのが相場になっている。

ただアメリカでは低収入世帯の子弟に対する授業料免除措置が分厚く整えられているし、大学院になると授業料免除どころか生活費支給制度まであるので、優れた才能を有しながら経済的理由から勉学を断念する人は結果としてそれほど多く発生してはいない。そういう面もアメリカにはある。

× × ×

小生の勤務するのは国立大学であるが、そこのビジネススクールに1年間通学すると、授業料が50万円余発生する。卒業以後はリカレント生として授業を受講することも可能だ。課題の添削や最終試験の採点まで含まれていて、受講料は1科目で22,000円である。現役学生は1年で2単位授業を大体20科目履修するので、1科目当たりでは25,000円、要するに専門職大学院では2単位授業に22,000~25,000円という価格をつけて販売しているわけである。

この価格が高いか安いかだが、2単位授業は90分×15回で構成されている。なので、1時間当たりの価格は1,111円になる-1科目25、000円で計算した。

たとえば我が町の映画館の入場料は一般で1800円である。映画1本は概ね2時間が平均であろう。大学院の授業を2時間だけ聴くと2,222円になる勘定だ。映画より400円ほど高いが、これは授業と授業の間に行う課題の添削サービスに相当すると言えないこともない。だとすると、いま日本の国立・専門職大学院で提供されているサービスは、一般の映画とほぼ同等の価格水準だと言えるだろう。

この価格水準、小生は、率直にいって安すぎると思っている。映画はフィルムになっているものである。上映段階で負担するべきコストは無視できるほどの割合であろう。大学の授業は、映画ではなく生身の人間が直接にサービスを提供するコンサートや舞台芸術を参考にするべきだろう。コンサートなら正味2時間の演奏で入場料5000円はむしろ安いほどだ。国内の演奏家でも一流になると1万円はとられる。近くの理髪店ではカット・洗髪のフルサービスで1500円である。昔に比べると随分下がったものだ。しかし、20分で1500円だから2時間では9000円になる。理髪というのは実に高額サービスではないか。

こう考えると、国立・専門職大学院の年額50万円という授業料は、サービス価格としては安きにすぎる。そう結論していいのではないか。もちろん、これほどの安価で提供できるのは私立大学とは異なり税金が投入されているからだ―私立大学にも税は投入されているが主たる財源ではない。。私立大学では年額200万円は支払う必要があるだろう。国立の4倍だ。とすれば、2時間2、000円ではなく8、000円になる。まあ、国内演奏家のコンサート並みの価格に近づく。これなら理解できる。

× × ×

コンサートは純粋の消費であり、ビジネススクールやロースクールで学ぶのは人的投資である。その人の技能・知識を向上させて、より高い所得能力を身につけてもらうのが目的である。向上した所得能力のある割合は、その能力を提供した大学が回収してもよいというのがロジックである。だとすれば、専門職大学院の授業料をコンサートの入場料と比較するのは不適切であろう。本当は、コンサートよりもっと高額の授業料を課しても、入ってくる人は十分引き合うはずである。そんな理屈もあるように思われる。

まあ、色々な議論が可能だろうが、小生が勤務している大学で入学者に課している授業料は、その他サービス全般に比べて、破格的に安いのではないかと思料されるのだな。

今日の議論は、あくまでも大学・大学院に限った話だ。名門私立高校や老舗の一貫教育・小中高等学校はより高額だろう。しかし初等中等教育では公立学校が整備されている。大都市はともかく、地方圏では公立の小中高校に通学するのが常識だ。公立教育から望みの大学に進学する経路が十分機能している。

とすれば、子供に十分な知識教養を与え、職業能力を身につけさせるうえで、どこがそれほど高額なのであろうか?何ごとにもブランド品という買い物はあるし、贅沢という消費者行動はあるものだ。本当は欲しいが、カネがないので買うことが出来ない。確かに気の毒ではあるが、松坂牛を買うのが勿体ないと感じたからと言って、それは牛肉が高すぎるということなのか。やはり、小生、違和感がある。「高すぎて手が出ないのですよね」、その全てが一般的な不幸の原因をなすものではないだろう。そう考えるのだがどうだろう。

率直にいうと、小生、日本の普通の家計で教育費を負担に感じるという「感覚」は、教育機関が設定している価格が高いというよりも、海外に比べて食費にカネがかかっている、つまりエンゲル係数が高止まりしていることが主因であるとみている。が、これは先日の日米首脳会談で「合意」されたのか、されていないのかで見方が錯綜しているTPPに関連する話題だ。また別の機会に―というより、何度も覚え書を投稿しているので、本日はここを一区切りにしよう。

2014年5月3日土曜日

韓国セウォル号沈没事件の今後の難問はなにか

韓国珍島沖のセウォル号沈没事件は、事件として余りにも悲惨であり、その感想や意見を文章にするのがためらわれた。今もそうである。

とはいえ現実は想像通りの方向に進んでいるようだ。
【ソウル】韓国珍島沖の客船セウォル号沈没事故で、現場から約2キロ離れた海上で乗客の一人の遺体が漁師によって収容された。他にも現場から流された犠牲者がいる可能性が高まっている。(Wall Street Journal Japan, 2014-5-2)
潮流が激しい海域とのことなので「やはりそうか」と思った。同じ記事のあとの方には、現場で捜索活動にあたっている人たちの疲弊が限界ぎりぎりに達している事も報じられている。
徹夜の救援努力を行っている人々が直面するリスクもある。1日朝には減圧障害(いわゆる潜水病)のため40歳のダイバー1人が意識不明になり、地元の病院に収容された。病院関係者によれば、5時間にわたって治療を受けた結果、意識が戻り、容体は安定しているが、なお治療を受けているという。(出所は上と同じ)
どこかで、必ず「これ以上の捜索活動を断念する」という発表を政府は行わざるを得ない。既に、今回の事件は『官災・人災』であるとの批判が出てきている。首相が責任をとって辞表を既に提出している。その政府が捜索活動中止をあらたに決断できるか。極めて不確実である。しかし、決断するべき打ち切りをしなければ、現場が疲弊して新たな犠牲が発生するであろう。これもまた非人間的な対応である。

今回の対応は『危機に際する戦力の逐次投入』という古典的失敗例に挙げられるかもしれない。

犠牲者の遺族の納得を得ながら、真摯かつ誠実に人間的な対応を貫徹するのは、いまの韓国政府にとって超難問であると思う。

2014年5月2日金曜日

世界景気の緩やかな拡大基調は変わらず

年が明けてから東京の株式市場は今一つしっかりしない。アメリカのAmazon、Facebookも冴えない、というよりこの2か月で随分損をした。特にAmazonは昨年春に比べて、150ドル上がって400ドルを超えたこともあったが、最近の下落で100ドル下がって今は300ドル前後をうろうろしている。『半分戻りは全戻り』という格言があるが、それは下落後の戻り場面のことだ。上昇後の低下局面でも当てはまるのなら、今後一年前の水準まで下がってしまう見通しになるが、はてさてどうなるか……

ドイツのIFOからメールマガジンが届いた。景気先行指数(IFO Geschäftsklimaindex)の4月分である。


Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist im April auf 111,2 Punkte gestiegen, von 110,7 im Vormonat. Die bisher schon gute Geschäftslage hat sich weiter leicht verbessert. Die Unternehmen schauen zudem wieder zuversichtlicher auf die weitere Geschäftsentwicklung. Trotz der Krise in der Ukraine setzt sich die positive Grundstimmung durch.
Source: IFO Institut

ウクライナ情勢の懸念材料があるものの、それがドイツ経済の足を引っ張るマイナス材料にはなっておらず、先行き期待は一層明るくなっている。

このデータにバイアスはかかっていないか。念のためにOECDの先行指数も参照しよう。4月分だ。日本とドイツが含まれている部分だけを引用させてもらおう。


For the OECD as a whole, and for the United States and Canada, CLIs point to growth remaining around trend. CLIs point to growth returning to trend in Japan[1] and tentatively losing momentum while remaining above trend in the United Kingdom.
In the Euro Area as a whole, and in Italy, CLIs continue to indicate a positive change in momentum. In Germany, the CLI points to growth above trend, and for France the CLI points to stable growth momentum.



[1] The CLI for Japan may not fully capture the expected impact of the hike in its consumption tax rate in April 2014, the first increase since 1997, which is likely to result in an uneven growth profile during the first three quarters of 2014. 

Source: OECD

上図から見て取れるように、直近の谷は、2012年の年末近くである。それはIFOの指数でも同じである。大体はその国の基礎的な主要経済指標からどんな景気動向指数も作成される以上、結果は似たようになっても当たり前である。

日本の景気は元のトレンドに戻りつつある(growth returning to trend)という判断だ。

景気後退に入りつつあるように見えるのは、インド、ブラジル、中国。いわゆる新興国である。G7と新興国との綱引きが続いてきたが、そんな構造はこれまでと逆転しながらも今年も変わらないようである。