確かに、結論に異論を述べるのは学者の為すべき仕事だから、当たり前のことをしている。しかし、『異論もあるようで…』イコール『こんな結論にはならないのではないか』と話しが進むのが、日本的合意社会である。学問的合意など不可能であるとしてもだ。
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国に限らず、どんな人間集団にも、どんな会社・組織にも周囲に影響を与える人間が現れる。そんな人はすべて<政治家>である。
政治家がいれば、そこでは<政治>が行われる。国だけではない。家庭内政治、社内政治、省内政治、大学内政治、町内政治、県内政治、etc.…、 政治は世界の至る所で今日も進行中だ。そこには無数の<権力>がある。日米関係も日中関係も、グローバルな空間で展開される最高次元の国際政治である。影響を互いに与え合うからには権力の優劣を決めておく必要がある。というか、最高権力として認められる存在がどこにあるかが、事実として決まるものである。政治的支配とはそういうものであろう。形式的なトップに最高権力があるとは限らない。
原発の安全審査も、それに関心を持つ人が多数いる以上は、政治と行政の話しでもあるのであって、科学的研究の話しだと割り切るのは無理である。
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小生がまだ東京でペエペエだった頃、エコノミスト的行政官になるべきであるか、行政官的エコノミストになるべきであるか、と。そんな下らない戯言で人を困らせていたことがある。こんなタワゴトをダベルより、まずは目の前の仕事をテキパキと正確に片付けることを期待されていたのにネ……、いや全く若い時分というのは後になって後悔することばかりだ。
真相の所在に関する限り、学者は異論を述べる権利を常に持っている。しかし、異論を述べるとき、個々の学者の胸の内には評価欲や名誉欲、果ては研究費という金銭欲が混じりがちなものである。他の研究者に影響を与えたいという影響欲、支配欲、権力欲もあるかもしれない。そんな場合は、真相を追求する学者というよりは、学界内政治家として行動していることになる。
学者と言っても、真理を求める純粋の学者として行動することもあるし、学界内政治家として行動することもあるのだ、な。
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人は、いつでも政治家に変貌しうる。真実の所在よりは他人への影響力に関心をもちうる。学者の論争は、本来、真実性が自明でないから論争するのだ。自明でないから何が真実か断言はできない。しかし社会は真実を求める。だから出せないはずの結論をだす。その結論は理論ではなく影響力で決まる。学界内政治が生まれる所以だ。
科学が社会と向き合うと、必ず政治に巻き込まれる。政治に巻き込まれると、こんな風に面倒な話しをすることになってしまう。
分からないことは分からないと学会ではスッパリ言えるのが、▲▲委員会の座長ともなれば「分かりません」とは言えなくなる。結論を示すことが職務になる。その時、座長は学者ではなく政治家として行動している。マスメディアは、▲▲委員会の最終案と外部の異論を学問上の論争として伝えるべきではない。学問的には自明ではないのだから。社会が望んでいる結論をどう出すか。これが問題なのだ。とすれば、社会の多数が望んでいるのは何なのか?報道の役割は、社会の多数者の意識を知った上で仕事をすることだ。そうではないだろうか。