2014年5月16日金曜日

集団的自衛権論争でこれだけは確実な点は何か

安倍総理が憲法解釈変更を指示したというので本日の道新は政府批判一色である。『国民不在 9条空文化』、『専守防衛から転換』、社説のタイトルは『日本の安全を危うくする』になっている。総理の記者会見の要旨が「日本の安全を守るために必要だ」というものだったから、その総理の方針こそ「日本の安全を危うくする」と反論するとなると、基本的理念が正反対であることが分かる。

今回の論争は紛糾必至だ。ただ、支持派、反対派とも要点をきいていると「なぜそんなことが言えるのか?」と納得しかねる点が多い。

まず支持派だが、「抑止力になる」と言っている。日本が強い姿勢を示すことによって、他国が日本に対して敵対的行為を選ぶ誘因を抑えることができるというものだ。いわゆるゲーム理論でいう「コミットメント」にあたるのだが、しかし、日本人が乗っている艦船を保護する場合にのみ友軍を支援できる、そうでなければ支援できない。本当にこの程度で「抑止」になるのか?要するに、米艦に一人の日本人を乗船させておけばいいわけだ。しかし米艦が攻撃されて、その日本人は戦死するかもしれない。日本人はゼロになる。護衛艦はその時点で集団的自衛行動をとれなくなるのか?ちょっとおかしいよネエ、その理屈。リアリティがない。そう思われるのだがなあ……

反対派の言い分もよく分からぬ。大体、「集団的自衛権の発動をしたいならきちんと憲法を改正するべきだ」というこのロジック。そもそも日本国憲法の現行9条にかかわらず、日本は集団的自衛権をもっているとずっと解釈してきた。もっているが使わないと言い続けてきたのは内閣であり、その一部局である内閣法制局である。内閣の方針を変更するのに、その都度「日本国憲法」の条文にまで遡って憲法改正をやっていたら、何度改正するのか分かったものではない。従来の内閣の方針を変更するなら、内閣で行うべきである。これが理屈であるのに、なぜそこで「憲法改正」でやれと言うのかねえ……理解できませぬ。

数学で何かの定理の証明をする時、あるいは何かの計算をする時、行き詰まるときは頻繁にある。そんな時は、「これだけは確実だ」という地点にまで一回戻ることが大事だ。要するに、確実に言えることから議論を始めて、結局最後にはどんな結論になるのか?やることはこういう事だからだ。

その伝でいうと、確実に言えることは

  1. 内閣が、一定の憲法解釈をとってきた以上、それを変更する権限も内閣がもっている。
  2. 集団的自衛権を内閣がどう解釈するかに関係なく、日本国憲法の9条は次のような文言になっている。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国は戦争に参加できないと明記してある。それどころか、国際的な紛争で日本の武力を用いることも放棄すると書かれてある。だから、武力紛争に必要な人的資源を国として調達する制度は作りようがない。この辺りが限界になることは確実ではないか。

むしろ第2項が既に「死文化」しているほうが問題ではないだろうか。自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」には該当しないというロジックは破綻している。この点だけではなく、憲法改正が望ましい箇所は戦後70年の間にいくつかできてきている。憲法改正が望ましい箇所は何かという問題と、集団的自衛権を行使するかしないかという問題は、全く別の次元に属すると思う。

小生が、個人的に考えたりするのは、もう一つの別のことだ。日本は戦争を放棄しているというが、そうなると自衛のための武力行使は「戦争」にはならないということになる。しかし、その紛争で犠牲を被った相手国は、これを日本との戦争状態と解釈し、それを宣言する可能性がある。その戦争状態を世界が認知すれば、日本はどうするのだろう?戦争状態にある二国は、相手国に対して経済制裁、民間船舶の臨検、海上封鎖など多くの有効な措置をとることができる。日本も、「特別措置法」を国会で通して同じ対抗手段を選べば、事実として戦争をしていることになるのではないか?裁判所はその措置法を「違憲」とせざるをえまい。日本はどうするのだろう?日本が「戦争」ではないと言わざるを得ない以上、米軍が日本をどう守るのか、アメリカでも論争が起こるのは必至である。

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