昨日からカミさんが突如として『年金は★★だって、私たちの年金は▲▲になるんだって…』と、文字通り年金のことばかり話し始めた。きっかけは言うまでもなく厚生労働省が公表した年金財政再計算である。
日経は今朝の朝刊であつかっているが、TVは昨日の段階から報道し始めていた。日経には以下のような書き出しで、非常に詳細に説明されている―当然ではあるが、厚労省の「記者レク」では大量の資料が配布され、記者クラブは担当局長から(担当課長も?)概要説明を受けていると思われ、そうでなければ記者が内容を説明できるはずもない。つまりは、厚労省自身が国民に詳細を知ってほしい。そう考えているのだろう。
厚生労働省は3日、公的年金の長期的な財政について8つのケースの見通しをまとめた。ほぼゼロ成長が続き、女性や高齢者の就労が増えない3つのケースでは、約30年後までに会社員世帯の年金水準は政府が目標とする現役会社員の収入の50%を下回る。50%を維持する5ケースも年金の運用利回りが4%台など強気のシナリオが前提だ。将来の年金が減るという若年世代の不安を和らげるには、女性の就労促進に加え、現在の高齢者への給付抑制など抜本対策も急ぐ必要がある。
(出所)日本経済新聞、2014年6月4日付け朝刊
国からもらう年金が減りそうだというので、カミさんは大騒ぎしているのであり、その心情はほとんど全ての同世代に共有されているのだと思われる。
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こんなことをいうと、またまた反発をかいそうだが、へそ曲がりなので仕方がない。というのは、国家が国民に「お金をあげますから」という制度は、よほどの緊急的状況でない限りするべきではないと以前から思っている。まったくロクなことはありませんよ。そもそも他人の財布を当てにし始めたら、その人の人生は終わりでしょう。カネをもらえば、口まで出されるのが世の習いだ。カネの世話になれば卑屈にもなってしまう。恩義ができる。しかし、国からもらうとなれば口を出されることはない。権利として堂々ともらうわけであり、そもそも日本国の主権者は国民なのだから、お上から無駄遣いはたいがいにしろとか、これは贅沢だとか、そんなことを政府は言う資格がない。悪く言えば、無責任だが、サッパリとしている。ある意味、モダンというのはこんな感覚だったのだろう。
しかし「権利」としてカネをもらうからには、その裏付けがなければならないのが、この社会の鉄則だ。働く人は給与をもらう。財産を投資した人は利子なり配当をもらう。土地を貸せば地代をもらう。発明が当たれば特許料だ。書いたものが当たれば著作権ができて印税が入る。そしてコツコツと貯蓄をした人は必要なときに自分の貯金を取り崩す「権利」がある。「権利」の臭いは汗と涙であろう。では、国からもらう年金はどんな権利なのか。払った保険料なら筋が通る。しかし税で老後の暮らしを支えてもらう権利がなぜあるのか。江戸時代の武士は、自らは何の働きをせずとも先祖代々の家禄を継承し、年々安定した収入を得る「権利」を有していた。
現在の国営年金保険は、実は「保険」ではもはやない。給付金額を決め、必要な財源は税に求めようとしている。保険料を引き上げてはいるが、支払った保険料は将来自分の年金として戻ってくる。そんな制度ではもはやなくなっている。
大体、今年度から年金保険料が引き上げられました。と同時に、将来の年金給付額は減るかもしれません。この両方が同時に語られていること自体、非常におかしな話だとなぜ言わない。それは、年金保険料は「保険料」というべきではなく、「第二の税金」として徴収されている、その実態がありありと見えるからだ。
年金保険は、私的貯蓄に対して『公的貯蓄』、『強制貯蓄』と言われてきた。ちょうど自動車保険の「自賠責」と趣旨は同じである。自動車を運転するからには最低限の保険には入って、事故を起こした際の賠償責任を果たせるようにせよ、最低限の責任として義務づけるわけだ。当然、支払保険料は安いので保険金支払いにも上限がある。足りない分は、任意保険契約を各自が自由に選択して結んで対応している。強制と自由とのバランスはこれでとれているとほとんどの人は考えているはずだ。自賠責のレベルを現行の10倍程度に拡大するべきだ。「小さな自賠責」ではなく「これだけで足りる安心の自賠責」を誰が望んでいるだろう。
ところが老齢年金だけは違う。国家権力が前面に出て、「年金保険」を運営しようとする。思いのほか長生きをした時の備えをどうするか。自分の家庭をどう守って、どういう関係を整えていくか、である。これこそ人生設計の勘所ではないのか。国家がやるべきことでは本来ないはずだ。まったくバランスがとれていないのだ、な。
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十分な年金を確実に給付することは、実は国家権力にとっては容易なことである。
ズバリ、<高度に累進的な資産課税>を導入すればよろしい。これが民主主義国家・福祉国家の最終兵器である。固定資産税や都市計画税はいまでもあるが、それは地方税である。あくまでも国家が年金財政を継続するための財源がほしいのであれば、明治維新で導入された「地租」よろしく土地に対して高率かつ累進性のある租税を課せばよいのである。また、すべての株式保有者には株価の5%を、社債保有者には市場価値の5%を等々、毎年税金として納めよ。そう決めればよいのだ。納税に耐えられない資産保有者は資産を物納するだろう。所有権は民から官に移る。国が富裕になれば、年金をすべての国民に確実に支払うことができる。まさに現代の公地公民である。当然、財産権不可侵の原則は憲法改正で修正しないといけない。
いささかでも「財産」なるものを持っている国民がいれば、そこには財源があるのだ。国家は、過半数の国民が望ましいと考える政策を実行するために<徴税権>をもつ。そして国民は<納税の義務>を負うている。そう日本国憲法で定められているのだ。
資産を保有する人々に課される税は何のための税か?高齢者にカネを渡すためである……この図式、ちょうどマルクスのいう「収奪者が収奪される」状況、つまりは社会主義革命である。天皇制を維持するなら全体主義だろう。
善いことだと思いますか?違うと思う。すべての国民に十分な年金(=カネ)を支給しようとする発想は、根本において社会主義社会を志向するものだ。一国社会主義である。仏教なら小乗仏教だ。世界に目が向いていない。小生はそう思っている。その理念に今日性はなお認められるだろうか。非常に疑問だと思い始めている。