2014年6月26日木曜日

憲法解釈変更が確実にたどっていく道筋は?

本日の道新に集団的自衛権に関するコラム記事が掲載されている。執筆者は首都大学東京の木村草太准教授である。

自公両党の検討が報道で伝えられる中「なぜこの点を誰もとりあげないのかねえ…」と不思議に思ってきた点を指摘していたので大変スッキリした次第。小生も完全に同感だ。最後の所だけだが引用しておきたい。
違憲が強く疑われる状態で政府が集団的自衛権に基づいて自衛隊を派遣した場合、政府は訴訟を起こされるリスクを抱えることにもなる。例えば、派遣命令を拒否した自衛隊員が懲戒処分を受けた場合に、派遣命令は違憲だとして処分取り消しを求められることや、派遣先で死傷した隊員側から損害賠償を請求されることが想定される。 
政府の 憲法解釈が正しいかどうかを判断する権限は、最終的には裁判所にある。大半の憲法学者が行使容認を違憲とする状況で、裁判所は安倍政権の新たな憲法解釈を採用しない可能性が高いのではないか。派遣が違憲とされれば、命令を出した自衛隊幹部が責任を追及されることさえある。このように法的基盤が不安定な中で、命を懸けた任務に隊員をつかせるのは無責任だ。
そもそも憲法には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と文言で規定している。そもそも自衛隊の存在すら違憲であるという訴訟を何度もくぐり抜けてきているのだ。改憲をしない限り、現行憲法の文言の拘束力はこれまで通りである。とすれば、内閣が解釈を変更しても、裁判所が同時に同じように解釈を変更しなければ、法的論理は従来と変わらない理屈だ。

小生は、現行憲法の解釈をしてきたのは内閣もそうであるから、その解釈を変更する権限は内閣にもあると思っている。が、しかし従来は「行使しない」と言い続けてきた集団的自衛権を「行使する」と言い出して、それを踏まえた改正自衛隊法案を国会が通したとしても、最高裁が違憲判決を出す可能性は大いにあると見ている。法的安定性が「あまりに」毀損されると、その時の最高裁判事の多数が考えるなら躊躇うことなく「違憲」と言うだろう。

そのリスクを内閣は防ぐことができないし、影響を与えることすら不可能であろう。 実際に法案が通って、違憲訴訟が最高裁に上がるまでには、現時点から3年乃至4年がかかるかもしれない。しかし、最終的には最高裁判断をまつという見通しだけは確実である。だから、憲法改正を経ずして憲法解釈で新しい国の在り方を実現しようという路線は、極めてリスクが高く、政権はリスキーな瀬戸際戦術を採っている。そう批判されるのは当然だ。

このような政治戦術に対しては、保守的支持層の評価も分かれつつあるようで、今のところ安倍総理の支持率は目立って落ち込んではいないものの、歩いている道は益々細く険しくなりつつある。採りうる選択肢を採ったといえばその通りだが、無理を通さざるを得ない、そんな意味では進む道を間違えた可能性がある。憲法改正という初志を万難を排して貫徹するべきであった。そう考える支持者は多かったと思われる。

2014年6月24日火曜日

討論とハラスメントの違いとは

都議会議員の「早く結婚したら」舌禍事件は、TVのワイドショーにも格好の話題を提供したようだ。そして、いつのまにかこの発言は「セクハラ」に分類されている。


しかし…と、何しろへそ曲がりなもので、考えてしまうのですね。

何かというと『はやく結婚したら」というのは、小生自身も晩婚だったものだから、若い頃は耳にタコができるほど聞いたものである。祖母や叔母など親戚ばかりではない。勤務先の同僚、先輩もそうだったのだ。但し、口だけではない。何かというとホントに世話をやいてくれた。「いい人がいる」、「一度間をとりもとうか」…、いまの言葉ではウザいということになるのかどうかは知らないが、ある意味で古き良き時代の名残があったのかもしれない。いまのカミさんと出会ったのも、ある人が余計な世話を焼いてくれたお陰だ。自然の成り行きではまず会うことはなかった。

その『はやく結婚したら」という言葉がセクハラとは…、小生、いまの時代にはついていけませぬ。そろそろ引退したいものである。

☆ ☆

ただ『産めないのか?」、『産まないのか?』、『どなた様?』、『不倫だな』という一連のヤジは、ヤジの限界を超えた暴言である。たとえ封建的な戦前期・日本であっても、『産めないのか?』という言葉を公の場で口にする人間は「最低の人間」になっていたであろう。

ワイドショーでも誰かが話していたが、罪が軽い『はやく結婚すれば』を口にした議員が自己申告し、謝罪をした裏には、これで今回の件は幕引きにして、決して容認できない真の暴言を発した議員を救済する目的があるのだろう。

ハラスメントと討論を混同するべきではない。議員はどんなテーマであれ、自らの事情は超越して丁々発止、論争してほしいものである。和気靄靄などクソクラエだ。と同時に、論争のルールを共有することが大事だ。問題の本質をみることなく、その人個人のウィークポイントを攻撃して、論争に勝とうとするディベート戦術は、卑怯だ。切れた瞼を狙い撃ちするボクサーの戦術と同じである。こうした行為にはレッドカードを出すべきだろう。

要するに、ハラスメントから守られるべきだという視点と、堂々と戦うべきだと言う視点の両方が、「議会」という場には求められている。そう思うのだ、な。

2014年6月22日日曜日

100年前の人気画家を覚えているか?

よくみる絵画サイトであるArt Cyclopediaの今日現在(6月22日)における"Most Popular Artists"は

  1. Picasso
  2. Van Goch
  3. Leonardo da Vinci
  4. Monet
  5. Matisse
  6. Dali
  7. Rembrandt
  8. Warhol
  9. O'Keeffe
  10. Michelangelo

この順である。う~ん、小生にも疎遠な名前が混じっているが、どれも聞いたことはある。トップはピカソである。『そうかあ、ピカソねえ、確かに天才だよ』、小生ごときでも作品をみれば、存在感が違っていて、独自性と完成度に圧倒されるのだから、途方もないレベルに達しているのは間違いない。音楽でいえば、好き嫌いは別にしてモーツアルトとか、バッハとか、その水準にあるのだろう。

それにしても相当の昔の人から近現代の作家まで、ルネサンスを表現した大画家もいれば、オキーフのようないかにも現代絵画の香りがする大家もいる。アメリカン・ポップアートの波を造ったアンディ・ウォーホルもいれば、19世紀フランス印象派のモネもいる。まったく混然と名前が並んでいる。ホント、人の趣味は好きずきなのだなあと思う。

今から100年前の時点に遡ると、上の10名のうち何人かはまだ世に出ていないので登場しようがない。ダヴィンチとミケランジェロ、レンブラント辺りは歴史的人物として、モネは既にもう人気画家になっていたのでベスト10に入ったかもしれない。ゴッホはというと、1890年に死ぬまで1枚も作品が売れなかった人だ。ランク入りは無理だったろう。それにしてもゴッホの人気ぶりは国を問わずすごいものがある。国と時代を超えているということか。

とすると、もし人気画家ベスト10を100年前にやっていたら、半分以上は違う名前が並んでいたはずだ。どんな人が選ばれていたかを想像するのは楽しい。たとえばラファエロへの人気と尊敬度は現代とは比較にならないというから必ず入ったろう。レンブラントがいるのにルーベンスがいないのは奇妙だ。それよりモネがこれほど人気があるのに、ルノワールやセザンヌがランク入りしていない。そうか、セザンヌも生前は無名だったしねえ…。しかし、現在も名前がないのはおかしい。ま、架空の議論はつきないのだ。大体、このサイトはカナダに本拠をおいている。インターネットで世界中からアクセスされるとはいえ、北米アート市場での人気度が濃厚に反映されているかもしれない。


Andy Warhol, Mona Lisa, 1979
Source: The Warhol

この絵に目を付けたのは、この週末、映画『万能鑑定士Q』をカミさんと観たことが理由じゃあない。

本歌取りの作品を芸術というかパロディというかは議論があろうが ― 実際、サイト"The Warhol"でこの作品に対しては厳しいコメントが多く寄せられている。いまでは子供だって、この位は作るだろうと ― 上の絵画はダヴィンチのモナリザを「模写」したものではない。

もし部屋に飾れば、モナリザを飾るのとは別の感情や想念にとらわれる。その想念を伝えるのに、モナリザという媒体が必要だった、ではなぜウォーホルはモナリザを選択したのか。ま、美術史を専攻していれば、ここで一本論文が書けるわけだ―というか、誰かが既に書いているに違いない。このテーマは面白いから。

いずれにせよ、こんな人気投票を日本のアート分野でも見たいものだ。その場合には、当然、大和絵・狩野派など日本画家、浮世絵画家、アニメ作家もトップ10に入ってくるだろう。是非、見てみたいものだ。ランキングに登場してくる名前には、世界が注目するだろう。それだけのポテンシャルが日本のアート市場の供給サイドにはあると、そのように小生は見ているのだが、さっぱり音なしの構えなのだ、な。そもそも公開されたWEB上のアートギャラリーもない。気後れしているのだろうか。

2014年6月21日土曜日

メモ: 「確実な議論をしましょうよ症候群」に、また一例

本日の道新の社説に司法取引導入反対論が述べられている。「刑事免責」導入にも反対している。それよりは「取り調べ可視化」原則がより重要で、上の二つは可視化を実現した後で考えるべきだろうという結論だ。

説得的ではあるが、可視化されれば司法取引は機能しなくなるだろう。可視化の適用除外にしなければ司法取引や刑事免責は実際には効果を発揮するまい。結局は不可視的な取り調べで重要証言が得られる。この現実に変わりはないと予想する。

今日のメモは社説の中の「こうした冤罪を確実に防ぐ仕組みづくりが先決だ」という文章である。

× × ×

個人が意見を述べる場合には、たしかに「冤罪を確実に防止せよ」という良心的見解を尊重するべきだ。しかし、大きな影響力をもつマスメディアが、現実には不可能な目的を「先決だ」と指摘するのは弊害が大きい。

冤罪を100%完全にゼロにするのは「不可能」という現実は、(残念ながら)今後もずっと同じであろう。大事なことは、冤罪を完全にゼロにしようという精神主義ではなく、(万が一)冤罪を被った人をいかにして救済するか、あるはずのない誤審があったかもしれないという場合に、いかにして誤審を正す機会を設けるか?こちらであろう。その制度化が最も大切であると思う。先日のワールドカップ論でも述べたが、日本の議論は倫理から入りがち、心構えを求める議論になりがちなのだな。

この制度の下では冤罪は生じないはずである。このような意識が最も危険である。現実に生じたかもしれない冤罪に直面すると、「確実な議論をしましょうよ症候群」にかかっている人々は「そんなはずはない」、「何かの間違いである」という反応を示し、自らの誤りを認めず、現実がおかしいと考えがちだ。戦前期の政府・軍部も「負けるはずのない日本」がいよいよ敗北する状況に直面して、何の収拾策をも持ち合わせていなかったのだ。

何事にも「確実」を求める態度は、確実をもたらすことは決してなく、実は最も危険な態度であり、大事に際して「隠蔽」を志向する原因ともなる。

2014年6月20日金曜日

日本企業の評価: Toyota vs VW vs Hyundai

日本企業の中でもトヨタ自動車は最も輝いているメガ企業だと言えるだろう。技術面でも、営業力でも他社を凌駕し、心配なのは円高リスクだけ、稼ぐ力に陰りは見えず、どんな危機に陥っても復活してくる。そんな無類のパワーを信じている日本人は多いと思う。

しかし本当にそうなら、トヨタが上場している海外市場でも同社が高く評価されているはずである。NY市場のトヨタの株価推移をライバルのフォルクスワーゲン、ヒュンダイと比べてみる。いずれも最近5年間の株価である。グラフはいずれもYahoo Finance(US)によるものだ。

まずトヨタ自動車。


次にドイツのフォルクスワーゲン。


最後に韓国のヒュンダイ。


それぞれ特徴がある異なった動きを示している。

ヒュンダイは2011年まで怒涛の快進撃をしたが、その後は停滞している。これには直接競合するトヨタ・プリウスのリコール騒動の影響があっただろう。それでも2009年のボトムから最近のピークまで5倍程度の高値に上った。

フォルクスワーゲンはリーマン危機後の株価下落が著しいが、その後は速やかな回復基調を続けており、底値比で2倍以上の高さに達している。

トヨタは確かに経営優良企業ではあるが、その株価はリーマン危機の後はずっと低迷し、2012年秋以降にはアベノミクスの波に乗って急上昇したものの、昨年から本年にかけて再び水準を下げ、横ばいを続けた80ドル水準から直近の120ドルまで50%は上昇しただろうか。2011年の底値と比べれば、2倍程度にまで回復したと言うこともできるが、円高に揺れた底値と円安で押し上げられた高値を比べる視点は内実を伝えない。50パーセントの上昇は確かに大幅上昇ではあるが、VWやHyundaiに比べると、トヨタの株価上昇はいかにも物足りないわけであり、「そんな程度にとどまっている」と言うほうが適切だと感じる。

☆ ☆ ☆

小生は、まだリーマン危機が訪れる前、トヨタ自動車の株価が6500円前後だったころに買い入れ、8000円台になるまで保有した。その後、バーナンキFRB議長就任がきっかけになってNY市場が不安定になり、遂にはバブルがクラッシュしたことは周知のとおりだ。小生は、損切りが遅くなってしまい、何の利益にもならなかったものだ。自称・投資家と時に口にしているが、実は「トウシカ」というより「ドウシタ」である「トンデモ投資家」なのだなあ。東京市場では、その6500円の高さにトヨタはまだ戻っていない。

NY市場、東京市場、いずれの場においてもトヨタというメガ企業の稼ぐ力、これからも成長を続けていく力が、世界から高く評価されているとはとても思えないのだ。

以前は、リーマン危機の灰神楽が落ち着いたとき、ハイブリッドと電気自動車に向けた新技術が評価され、世界の自動車市場ではトヨタの独り勝ちかと夢想したものだが、その後は高性能ディーゼルエンジンの開発、韓国車の品質向上、電気自動車開発における他社のキャッチアップなどが続き、トヨタの技術的優位性は、実は砂山が波に浸食されて崩れるように、それ程のものではなくなっていると見るべきではないか。なおも成長性を否定しがたい中国市場において、日本政府の拙劣な外交からトバッチリを被っている一面もある。逆カントリーリスクという奴だ。ま、いずれにせよ株価は現実を正直に反映していることが多いものだ。

ただトヨタの経営戦略が非常にまずいという印象もないのである。日本企業は総じて打てる手は打っているような気もするのだが、それでも世界が変わる速さに着いていけない。もしそういうことであれば、企業経営の競争劣位は治っていないし、それより「成長のための国家戦略」が口先ばかりで、肝心の本体が難産といえば聞こえはいいが、要するにまとめられない。新しいことを実行できない。マスメディアはちっとも書かないが、汗をかかず、支持率を落とさず、摩擦を避けながら人を引き付ける結果を発表したがる現政権の志向が見透かされている。そんな気もチラチラとするのだ、な。



2014年6月17日火曜日

ワールドカップ: アメリカ人はこう語るか

開催中のサッカー・W杯でアメリカの存在感は薄い。アメリカの報道だと記憶しているが、五輪では大国や富裕国が金メダルをさらっていくが、サッカーは小国や貧乏国でも優勝できる。ワールドカップは世界で最も平等なスポーツの祭典だ、ということだ。

WSJにはこんなコラム記事が掲載されていた。筋が分かる程度に抜粋し、あとは出所とリンクボタンをつけておきたい。
2014年のサッカー・ワールドカップ(W杯)が12日(訳注:日本時間13日)、ブラジルで開幕する。ゴールドマン・サックスのアナリストを含め、多くの専門家がブラジルなど南米勢の優勝を予想している。まあ、そう早まらないでほしい。革新的なサッカーをする欧州勢が3連覇を果たしてもおかしくない。
 サッカーは数十年間、世界のほとんどの地域では進化することはなく、イノベーションが起きても歓迎されないことが多かった。しかし、1970年以降、欧州サッカーはそれまでとは異なる道を歩んでいる。
 現在、欧州の有力クラブのスタッフにはコーチと同じ数の科学者がいる。ドイツのFCケルンなど、コーチよりもアナリストのほうが圧倒的に多いクラブもある。クリス・アンダーソン、デービッド・サリー両氏の2013年の共著「The Numbers Game(数字の競技)」によると、FCケルンはフルタイム、パートタイムを合わせて30人以上のクオンツ(計量アナリスト)を雇っている。「The Numbers Game」とサイモン・クーパー、ステファン・シマンスキー両氏の2009年の共著「Soccernomics」は欧州サッカーを知るための必読書だ。
 科学者たちは調整や食事、移籍、選手選び、試合の計画作りを含めたトレーニングや管理に大きな発言権を持つ。最終的な決定権を持つことさえある。サッカーのデータを提供する業者は数多くあり、オプタやプロゾーンといった企業は金融業界にとってのダウ・ジョーンズのごとく、サッカーのプロに情報サービスを提供している。
 さらに重要なのは、欧州勢が戦略的に重要なポイントで統計学から仕入れた新しい知識を使うことだ。例えばコーナーキックでは、伝統的にはセンターに高いボールを入れることが多かったが、めったに成功しないことは経験によって実証されている。ゴールにつながるのは45回中1回しかない。欧州勢は短いキックでペナルティエリアにボールを入れようとするだろう。この方法なら9回に1回は成功する。
 確かにブラジルなど欧州外の高く評価されているチームも試合運びの近代化を進めている。欧州でプロとして経験を積んだ選手もチームの中にいる。しかし、欧州以外のチームは「自分たちのいつものやり方でプレーする」というスタイルを取り続けている。
 ……もっとも、野球談議のような話は終わりにしたほうがよさそうだ。
(出所)Wall Street Journal, 2014-6-8 

さすがに金融工学とビッグデータ・サイエンス発祥の国だけある。こう考えるんだねえ、アメリカ人は。

要約すると、世間ではブラジルの評判が高いようだが、南米は自分たちのスタイルを守っているだけだ。欧州はどうやったら勝てるかを科学的に研究している。データ解析スタッフがチームに溶け込んできている。これまでと同じスタイルのサッカーを繰り返すだけでは、現代化された欧州のチームには勝てないのではないか。まあ、そういうことだ。

いやあ、いかにもアメリカ人らしいと感じるのは小生だけか。おそらく大多数の日本人はこのようなアメリカ人的な議論には反発を覚えるだろう。というのは、コートジボアールに敗戦して、何度も繰り返されるのは『自分たちのサッカーに戻ろう』。原点回帰論なのだから。

アメリカ人(そしてヨーロッパ人も)が、どうやったら勝てるのかと、そればかりを考えているのに対して、日本人は(そしてブラジル人も)「どうあるべきか」を問うのが好きなようである。この差は、勝負の場においては大きいものがある。

社会科学的に言い換えれば、欧米人の議論は戦略的であり、日本人の話し方は、そして南米、韓国、中東もすべて含められるかもしれないが、倫理的である。どうあるべきかから議論を始める日本人の傾向は、日本社会全体のモラルを高め、規律が守られる主因の一つになるが、現実から発して論理的・組織的に展開するという方法論に支えられていないために、「これでいいのか」という士気の低下・価値観の動揺に見舞われると、直ちに全面的崩壊へとつながりがちである。

勝利に必要な要素は、実は理想の姿ではなく、勝つための科学的方法である。確かに一つの生き方だ。大多数の人がこのように考える国は日本社会の風土とは相当違うはずだ。

とはいえ、武士道、武道、医道、芸の道、文の道、その他諸々の修行を日本人からとってしまったら、何が残るだろう。ただ勝つことだけを考える「仁義なき戦い」に徹しきれない日本人の甘さが、案外、世界では好ましく思われている一面もある。そう思い込んで、生きるスタイルを変えないのもアリだろう。実際、上に引用したアメリカ人的な議論をしている日本人はお目にかかったことがない。誰もが<自分のスタイル>を思い出せと言っている。

それにしても、上のウォール・ストリート・ジャーナルの記事。概要をカミさんに話して聞かせると「ほんとに上から目線でえらそうに…アメリカってサッカー弱いんでしょ!」。これが健全な反応だろう。


2014年6月15日日曜日

天下国家論で幸福にはなれない

暮らしている地元の道新は集団的自衛権には徹底的に反対の立場である。反原発でもあるし、TPPにも消極的であるし、規制緩和には批判的である。ではこれからどうするんだと言いたくなることも多いが、要するに平等と公平を善しとする社会民主主義を目指しているようである。

小生は、性格もあるのだろうか、社会民主主義は「マユツバ・ミンナ主義」だと高校生の頃からホンネでは思ってきた—若い頃は「福祉国家」が一世を風靡していたが。

× × ×

ただ、退職したら白老町に隠居所をつくろうと思っていて、それで愛読しているホームページがあるのだが、自然を紹介するのと併せて集団的自衛権がいかに危険な道であるかを最近は連載している。確かに、地元の自衛隊員や身近の知人が危険な最前線に赴くと思えば、そういう危険が増すような政治は一切拒否するべきだ、と。これまた大いに共感できるのだ。

ただ、自由に移民をしてもいいし、自由に仕事を始めてもいい社会をつくろうとするなら、『共同社会ありき』ではいかん。仲間が手をつないでしまっては、社会が固定し、排除の原理が働く。どこに行っても肩身の狭い新参者になる。仲間ではなく、国を守るための労苦と犠牲を引き受ける人が必要なのだ。そういうことじゃあないかと納得している。

× × ×

何歳を過ぎてからだったか、毎朝、浄土系の読経をしている。阿弥陀三尊を掲げている。中央に阿弥陀如来、自分から観て右側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩であったはずだ。東京の法隆寺宝物館には観世音菩薩や阿弥陀如来が多数ある。日本の阿弥陀信仰は実に古い。観音信仰も古い。


観音菩薩立像、飛鳥時代、7世紀

毎日やってると色々と頭に浮かぶ。「社会のことであれこれ考えるのは雑念ということかねえ…」、「家族のことを色々心配するのも煩悩かねえ」、「職場のことも雑念か…」等々。やはり全て煩悩だろう。そもそも集中していない。『満室の蒼蠅掃えども去り難し、起って禅榻を尋ねて清風に臥せん』。管領・細川頼之の感懐は全くそのとおりだ。心を煩わせること自体、幸福からは遠い。幸福にある人に接すると回りの人も幸福になるものだ。西洋哲学では最高善を幸福においてきた。人が幸福であろうと願うのは利己主義ではない。人はそうやって生きる存在なのだ。この点は「北の国から」の黒板五郎が話したとおりだと思う。



2014年6月13日金曜日

個別的-集団的: 自衛権の下らない論争

集団的自衛権をどの程度まで認めるべきかで、ダラダラと下らない論議が続いている。

そもそも憲法に関わる問題は、普通の日本国民の誰でも理解しやすい議論が国会、政党間で繰り広げられるべきだ。憲法オタク、法律専門家が喜びそうな議題は、本来は細かい精緻な検討が必要な事柄であるべきだろう。自衛権はそんな細かい事なのか?国の基本だろう。基本的な事柄であるほど、専門家の出番ではなく、普通の国民が主役になるべきだ。

とまあ、そんなことを言い出せば政党、政治家のメンツもたたないだろう。今日はこれだけを覚え書きまでにメモしておきたい。

× × ×

集団的自衛権と個別的自衛権の違いに連立与党・公明党は拘っているようだが、どちらも自衛権に違いはないだろう。国の姿が正反対になるなどと、「よく言うよ」と正直思うのだ。

日米安保は、日本の自衛のために結んでいる条約ではないのか?アメリカの国益・国防のために結んでいるのか?日本の国益・国防のためだけに結んでいるのか?まあ、日米安保は集団的自衛のための条約ではなく、個別的自衛のための条約なのだろう。現在の自衛隊は、その筋道に沿って個別的自衛活動のみをずっとやってきた。そういうことなのだろう。

欺瞞だと小生は思うが、それはそれでいい。ま、あれだ。こんな議論は普通の人には政治家の屁理屈にしか思わないだろう。

普通の人なら、個別に自衛活動を行うより、複数の国家が集団で自衛活動をしたほうがコストが節減できるのではないか。そう言うのじゃないか?この問いかけにはどう答えるのだろう。

数年前に実質金利と実質成長率の大小関係について経済財政諮問会議で神学論争が繰り広げられたと記憶している。今は労働市場の引き締まりから、デフレが終息し、今度はインフレに備える、いわば出口戦略を論じる状況になってきた。一体、あの神学論争は何だったのでしょう…、そう思うと「ウタタ感慨をもよおす」今日この頃であるのだ。

集団的自衛権云々も、数年もたてば閑人の時間つぶしだったことになるのではないか。

2014年6月12日木曜日

最短の証明=本質的で美しい証明だ

論語の中に『巧言令色少なし仁』という名句がある。言葉数が多い人の発言には最も重要な価値である仁が含まれていないという主旨だ。

完全にロジカルな学問的体系である数学にも上の指摘は当てはまっているような気がする。

統計理論の中で最もインパクトがある定理は何といっても「中心極限定理」だろうと思う。その証明は、中級ステージの数理統計学では最大の聞かせどころである。中心極限定理があるお蔭で、世論調査の結果であろうと、サイコロの目であろうと、どんなデータであろうと、ランダムにとられたデータの平均値には―データ数で割る前の合計もそうだが―正規分布を当てはめて確率評価をすればよい。正規分布一つにしぼって議論すればよいというのだから、これを初めて知った人は衝撃をうける。

小生も世間並みに教科書を出しているが、そこでは中心極限定理の証明に2ページ半を費やしている。ところが名著と言われるテキストでは証明はずっと短い。小生が見た中で最短の証明はラオ『統計的推測とその応用』にある証明だ。わずか数行ですませている。

× × ×

$f(t)$を$X_i-\mu$の特性関数とする。1次及び2次のモーメントが存在するから、
\[
f(t) = 1-\frac{1}{2} \sigma^2 t^2 + o(t^2)
\]
である。$Y_n = \sum_{i=1}^n \frac{(X_i - \mu )}{\sqrt{n} \sigma}$の特性関数は、上の式から
\begin{equation}
{ f }_{ n }\left( t \right) ={ \left[ f\left( \frac { t }{ \sigma \sqrt { n }  }  \right)  \right]  }^{ n }={ \left[ 1-\frac { { t }^{ 2 } }{ 2n } +o \left( \frac { { t }^{ 2 } }{ n }  \right)  \right]  }^{ n }
\end{equation}
右辺の対数をとると
\begin{equation}
\log { { \left[ 1-\frac { { t }^{ 2 } }{ 2n } +o \left( \frac { { t }^{ 2 } }{ n }  \right)  \right]  }^{ n } } =n\log { \left[ 1-\frac { { t }^{ 2 } }{ 2n } +o \left( \frac { { t }^{ 2 } }{ n }  \right)  \right]  } \rightarrow \quad -\frac { { t }^{ 2 } }{ 2 }
\end{equation}
すなわち
\begin{equation}
{ f }_{ n }\left( t \right) \rightarrow { e }^{ -\frac { { t }^{ 2 } }{ 2 }  }
\end{equation}
となる。(以上、奥野忠一他訳:120頁)これは標準正規分布の特性関数と一致するので、標準化された合計$Y_n$は標準正規分布に従う。

但し、上の証明は個々の確率変数が独立同一分布である場合の証明だ。が、多くの統計分析では有効性を失わない。小生は同じ仮定でずっと長々しい議論をダラダラと続けている。

× × ×

言うべきことは大事な点だけで足りる。長々とした説明は、本当は不必要だ。誤解の元になる。それでも長々とした説明をしたがるのは、丁寧な説明をしたという形をとりたいからだ。実は、それだけが理由であることがほとんどだ。

今日の授業でその中心極限定理の話題に到達したが、証明は積率母関数をスキップしたという理由でまるごとスキップした。証明しないというのは最短ではあるが、「最短」と「無い」とは無論異なる。

語らないよりは語るほうが意図が伝わる。とはいえ『言葉にしなければ伝わらないよ』という助言は、多く語りなさい、丁寧に語りなさいとは随分違うのだ。多く語れば分かりにくい、言葉が過剰になれば言葉だけが飛び交い意図が見えにくい、嘘も混じるだろう。

多く語るのは、まったく語らないのとあまり違わないと思う。しかし、こんなことを言っても、いわゆる「職業言論人」は聞く耳をもたないだろう。語ることで収入を得ている。それが理由である。


2014年6月9日月曜日

これが今流の数理統計学か

一様分布$U[0,1]$に従う確率変数Xの平方根$Y=\sqrt{X}$の分布を導き、その期待値と分散を計算する宿題を出した。

Yの分布関数は極めて簡単で以下のようになる。後の計算も簡単だが、年をとってくるとミスをしやすい。

\begin{eqnarray} G(y) & = & P(Y\le y) \\  & = & P(\sqrt { X } \le y) \\  & = & P(X\le { y }^{ 2 }) \\  & = & F({ y }^{ 2 }) \\  & = & { y }^{ 2 } \end{eqnarray}

分布関数が分かったので、数式処理ソフトMaximaを利用して以下のようにする。


手計算はほとんどない状態だ。Yの密度関数$g(y)$をセットする時、すでに定義済みの分布関数$G(y)$を用いて、diff(G(y),y,1)と書けば、より汎用的になる。

考えてみれば、多数桁の掛け算を簡単にするため対数表が「発明」された。微分方程式を簡単に解くためにラプラス変換が使われた。手計算は面倒で間違えやすい。「おおっと…」と途中で間違いに気づいた時、電子ノートならまだしも、紙に鉛筆では消しゴムで消すのも面倒だ。消さないとハサミとノリで切り貼りだ。より効率的で正確なツールが提供されれば、そちらを利用するのは当たり前だ。これも確かに一つの立場だろうと思う。

良い授業は、良いツールを活用しながら、大事な結論を洞察していくことだ。手ではなく頭を使う方が結局は深い理解が得られる。だとすれば、こんな進め方が今流なのかもしれない。

最後に、下のようなグラフを示して計算が現実に当てはまっていることをクラスの履修者に納得してもらった。


計算結果に近い結果が実際にも得られることを知るのは、勉強には実は一番大事な点なのかもしれない。


2014年6月8日日曜日

身の回り主義: ビーダーマイヤー・大正・戦後日本

川本三郎の『大正幻影』を読むと、日本の大正期をオーストリア・ドイツのビーダーマイヤー時代に比しているのが面白いと思う。

明治が偉大な時代であるのに対して、大正を生きた人は身の回りの家族や家具、そして家に偏愛の気持ちをもった。現実を処理するのではなく、実現しようもない夢を大事にしたというのだ。夢を大事にするということは、必然的に自分個人を大事にするということでもある。世界を相手に大博打をうった昭和戦前のご先祖に比べれば、たかが集団的自衛権をやっぱり使うかという位で大騒ぎをしている戦後の私たち世代は、どうみても大正的である。ささやかで平和な平穏を限りなく愛するのであるな。実際、古い映画をみると、本当に私の曾祖父や祖父の世代は中国、米英に「戦争」を仕掛けたのだなあと、その無謀さに非現実感をいまでも感じるのだな。


Waldmüller, F. G.,、At The Ruins(廃墟にて)、 1847
Source: The Athenaeum

夢想を偏愛する性向は、過ぎ去った過去を懐かしむ趣味へつながり、更には廃墟を愛する傾向を生むものだ。19世紀の欧州においてギリシア趣味、古代趣味が高まり、文化の潮流がロマン主義へと転じていった現象は社会の発展を映し出す鏡であったのだろう。ウィーンでビーダーマイヤーの芸風が流行するのと重なって、もしくは少し先立って、英国ではバイロンが作品を発表しギリシア独立戦争に馳せ参じた。フランスでは古典主義の感性が時代遅れになり、ドラクロワやコロー、ミレーらバルビゾン派のロマンチックな画風が人気を集めた。

日本の文物が流入しジャポニスムが生まれるのは少し後だ。もちろん、欧州のジャポニズムはもっと広汎な異国趣味の中の一つであって、中国趣味、トルコ趣味、エジプト趣味、北アフリカ趣味、ポリネシア趣味等々、多くの中の一つであったことを思い出すべきである。チャイコフスキーのバレー組曲『くるみ割り人形』にアラビアの踊りや中国の踊りがあるのは、当時のヨーロッパ全域に浸透していた感性に沿うものである。プッチーニ『蝶々夫人』の日本趣味、ベルディ『アイーダ』のエジプト趣味もそうだ。

19世紀・第一次グローバル化の波が、まだ帝国主義的な領土獲得競争へ転化する前の、資本主義経済がそれほど破壊的ではなかった時代がビーダーマイヤー時代である。だとすれば、日本のビーダーマイヤー時代はやっぱり大正期になるか。確かにそうかもしれない。

2014年6月7日土曜日

江戸末期の「ご公儀」と現代の「公的年金」がどこか似ている

厚生労働省の年金財政再計算と年金の持続可能性がまだまだ尾を引いていてTVのバラエティ番組でも何かというと話題になっている。

昨日もタレントの坂上忍が最後に言っていた―何歳からもらえるのかハッキリしない、いくらもらえるのかもハッキリしない、本当にもらえるのかどうかもハッキリしない、そんな年金なんて信用できませんよ、国民年金保険料を払うのは国民の義務だと言われても、そりゃ払いませんよ、そんなの!

うちのカミさんは「これが正論だよねえ」と相槌を打っていた。多分、相槌をうつ日本人が大半であろう。おそらく当の厚生労働省の官僚も内心では相槌を打っているに違いない。

国営の公的年金制度は、そろそろ幕引きというか、撤収戦略を考えるべきだ。小生はそう見ている。すべての国民に十分なお金を死ぬまで支給しますから、と。そんな公約が正義であると感じる倫理的基礎は、ロシアの社会主義革命に象徴されるような20世紀初めという時代を前提とした、極めて一過性の社会哲学であったとみる。全く間違いではないものの、その当時に善とされた政策が今でも意味のある理念であるとは限らない。そもそも世界初の社会主義国家であるソ連は自壊し、中国共産党が支配する中国は経済格差で苦しんでいるのだ。現実に立ち戻るべき時期だと思う。

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2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する」を寝る前にパラパラ読み始めて結構時間がたつ。その中に、世界の宗教勢力がどうなるかという予測がある。一般的には、周知の事実だろうが、近代化と経済発展によって宗教の存在感は弱まっていくというものだ。先進国であればあるほど、社会生活に宗教が占める役割は低下する。その唯一の例外がアメリカだというのだ、な。

この辺が面白い説明なのだが、ヨーロッパではキリスト教の影響力が弱まってきているが、それはキリスト教を捨てる人たちが増加しているからであって、宗教としてのキリスト教は今なお純粋性というか、教理に忠実である側面があるという。それに対して、アメリカではキリスト教、というか宗教全体が世俗化した。自らの魂の救済を求めて、というよりコミュニティセンターとして教会にいく、教会は人間の救済というより地域の絆であらんとして活動をしている。救済ではなく、慈善を志している。まあ、そんな説明をしている。その理由は、『何といってもアメリカ人は広い国土に住んでいるし、親や親せきと離れて暮らす傾向が強いんだ。教会に行けば、友達ができるんだ』、そんな発想である。確かに欧州はカトリック、プロテスタント、ギリシア正教に分かれているし、それぞれの領土的広がりは狭い―ロシアは広大だが人口が集中している。

日本も国は狭くて小さい。教会や寺院がコミュニティセンターになる必要はないということか。まあ、宗教が世俗化してもいいし、社会が宗教離れしてもいいし、どう変わるかは、その国が選んでいくわけだ。日本でも「無宗教」だという人が最も多くなっている。

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社会を支える柱がなくなるという事態は想像しがたいものだ。江戸時代なら、まさか幕府が、まさか「ご公儀」が消滅するとは考えられなかったに違いない。しかし瓦解した。そのシステムを支える経済的・人的リソースが枯渇したからであるし、それより黒船来航とそれに対応する「ご公儀」の行動をみて従来の社会システムを支えることが善いのだと感じるモラル的な土台が崩れてしまった。この点がより本質的だとみる。憂国の志士が広く交わりを求め、世論を刺激する事態に幕府は危機感を募らせ、安政の大獄では強権を発動して大量処刑に踏み切った。これが将来を決める分岐点になったと事後的にはわかる。

マクロ的変化の根底には、「社会があるべき方向へと変わりつつある」と、そう考える人々が非常に増えてきている、特に指導的な立場にある人がそう感じはじめている。こういう社会状況が必要だ。

「倒幕」こそ国のためになるのだ。そんな考え方が広く一般に浸透してしまった時点で、江戸幕府が存続する可能性はなかったのである。同様に、いま公的年金なる制度が存続するべきシステムなのだ、そう言い切れる人が減りつつある、保険料を払わない人が増えているというのは、そういうことだろう。小生はそう考えるのだが、どうだろう。

公的年金制度が、もっと一般的な生活保護制度に吸収されていくのは、さほど遠くないと思う。求められているのは、支払った保険料をどう返還するかも含めた『公的年金縮小戦略』であろうとみている。顧客志向に徹した金融サービス、保険サービスの提案を刺激するには、この分野の徹底した規制緩和が必要なことは言うまでもない。

2014年6月4日水曜日

「国営年金制度」もそろそろ限界ではないか

昨日からカミさんが突如として『年金は★★だって、私たちの年金は▲▲になるんだって…』と、文字通り年金のことばかり話し始めた。きっかけは言うまでもなく厚生労働省が公表した年金財政再計算である。

日経は今朝の朝刊であつかっているが、TVは昨日の段階から報道し始めていた。日経には以下のような書き出しで、非常に詳細に説明されている―当然ではあるが、厚労省の「記者レク」では大量の資料が配布され、記者クラブは担当局長から(担当課長も?)概要説明を受けていると思われ、そうでなければ記者が内容を説明できるはずもない。つまりは、厚労省自身が国民に詳細を知ってほしい。そう考えているのだろう。
厚生労働省は3日、公的年金の長期的な財政について8つのケースの見通しをまとめた。ほぼゼロ成長が続き、女性や高齢者の就労が増えない3つのケースでは、約30年後までに会社員世帯の年金水準は政府が目標とする現役会社員の収入の50%を下回る。50%を維持する5ケースも年金の運用利回りが4%台など強気のシナリオが前提だ。将来の年金が減るという若年世代の不安を和らげるには、女性の就労促進に加え、現在の高齢者への給付抑制など抜本対策も急ぐ必要がある。
(出所)日本経済新聞、2014年6月4日付け朝刊

 国からもらう年金が減りそうだというので、カミさんは大騒ぎしているのであり、その心情はほとんど全ての同世代に共有されているのだと思われる。

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こんなことをいうと、またまた反発をかいそうだが、へそ曲がりなので仕方がない。というのは、国家が国民に「お金をあげますから」という制度は、よほどの緊急的状況でない限りするべきではないと以前から思っている。まったくロクなことはありませんよ。そもそも他人の財布を当てにし始めたら、その人の人生は終わりでしょう。カネをもらえば、口まで出されるのが世の習いだ。カネの世話になれば卑屈にもなってしまう。恩義ができる。しかし、国からもらうとなれば口を出されることはない。権利として堂々ともらうわけであり、そもそも日本国の主権者は国民なのだから、お上から無駄遣いはたいがいにしろとか、これは贅沢だとか、そんなことを政府は言う資格がない。悪く言えば、無責任だが、サッパリとしている。ある意味、モダンというのはこんな感覚だったのだろう。

しかし「権利」としてカネをもらうからには、その裏付けがなければならないのが、この社会の鉄則だ。働く人は給与をもらう。財産を投資した人は利子なり配当をもらう。土地を貸せば地代をもらう。発明が当たれば特許料だ。書いたものが当たれば著作権ができて印税が入る。そしてコツコツと貯蓄をした人は必要なときに自分の貯金を取り崩す「権利」がある。「権利」の臭いは汗と涙であろう。では、国からもらう年金はどんな権利なのか。払った保険料なら筋が通る。しかし税で老後の暮らしを支えてもらう権利がなぜあるのか。江戸時代の武士は、自らは何の働きをせずとも先祖代々の家禄を継承し、年々安定した収入を得る「権利」を有していた。

現在の国営年金保険は、実は「保険」ではもはやない。給付金額を決め、必要な財源は税に求めようとしている。保険料を引き上げてはいるが、支払った保険料は将来自分の年金として戻ってくる。そんな制度ではもはやなくなっている。

大体、今年度から年金保険料が引き上げられました。と同時に、将来の年金給付額は減るかもしれません。この両方が同時に語られていること自体、非常におかしな話だとなぜ言わない。それは、年金保険料は「保険料」というべきではなく、「第二の税金」として徴収されている、その実態がありありと見えるからだ。

年金保険は、私的貯蓄に対して『公的貯蓄』、『強制貯蓄』と言われてきた。ちょうど自動車保険の「自賠責」と趣旨は同じである。自動車を運転するからには最低限の保険には入って、事故を起こした際の賠償責任を果たせるようにせよ、最低限の責任として義務づけるわけだ。当然、支払保険料は安いので保険金支払いにも上限がある。足りない分は、任意保険契約を各自が自由に選択して結んで対応している。強制と自由とのバランスはこれでとれているとほとんどの人は考えているはずだ。自賠責のレベルを現行の10倍程度に拡大するべきだ。「小さな自賠責」ではなく「これだけで足りる安心の自賠責」を誰が望んでいるだろう。

ところが老齢年金だけは違う。国家権力が前面に出て、「年金保険」を運営しようとする。思いのほか長生きをした時の備えをどうするか。自分の家庭をどう守って、どういう関係を整えていくか、である。これこそ人生設計の勘所ではないのか。国家がやるべきことでは本来ないはずだ。まったくバランスがとれていないのだ、な。

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十分な年金を確実に給付することは、実は国家権力にとっては容易なことである。

ズバリ、<高度に累進的な資産課税>を導入すればよろしい。これが民主主義国家・福祉国家の最終兵器である。固定資産税や都市計画税はいまでもあるが、それは地方税である。あくまでも国家が年金財政を継続するための財源がほしいのであれば、明治維新で導入された「地租」よろしく土地に対して高率かつ累進性のある租税を課せばよいのである。また、すべての株式保有者には株価の5%を、社債保有者には市場価値の5%を等々、毎年税金として納めよ。そう決めればよいのだ。納税に耐えられない資産保有者は資産を物納するだろう。所有権は民から官に移る。国が富裕になれば、年金をすべての国民に確実に支払うことができる。まさに現代の公地公民である。当然、財産権不可侵の原則は憲法改正で修正しないといけない。

いささかでも「財産」なるものを持っている国民がいれば、そこには財源があるのだ。国家は、過半数の国民が望ましいと考える政策を実行するために<徴税権>をもつ。そして国民は<納税の義務>を負うている。そう日本国憲法で定められているのだ。

資産を保有する人々に課される税は何のための税か?高齢者にカネを渡すためである……この図式、ちょうどマルクスのいう「収奪者が収奪される」状況、つまりは社会主義革命である。天皇制を維持するなら全体主義だろう。

善いことだと思いますか?違うと思う。すべての国民に十分な年金(=カネ)を支給しようとする発想は、根本において社会主義社会を志向するものだ。一国社会主義である。仏教なら小乗仏教だ。世界に目が向いていない。小生はそう思っている。その理念に今日性はなお認められるだろうか。非常に疑問だと思い始めている。

2014年6月3日火曜日

テスト投稿-MathJax

WEB上で数式を綺麗に編集するのは面倒だった。最近、標記のMathJaxの存在を知った。

\[
\cos^2 \theta + \sin^2 \theta = 1
\]

これはいい!\(\TeX\ \)の文章がそのまま埋め込まれる。

世の中、進んだものだ。

2014年6月2日月曜日

幼児遺棄事件続発ーこれも統計のマジックなのか

また幼児遺棄事件が発生した。食事を与えずに死に至らせ、それを隠蔽するために同じ部屋を何年も借り続ける。唖然とする愚かさと無情を感じざるをえない。

昔はこんなことはなかった…、そういうとカミさんも同意する。聞いたことないよね、と。

というより、昔は社会状況が根本的に違っていた。育てるべき子供に食事を与えず放置する。そんなこともあったかもしれないが、圧倒的に多数の乳幼児が流行病や不衛生によって命をなくしていた。成長した青年には軍隊が召集令状を送り付け、多くの若者が戦場で散っていった。幼児遺棄よりも姨捨、つまり棄老の方こそ哀れむべき行為であったろう。今は消え去った理由で、想像できないほどの多くの死が人々に訪れていた。親から放棄された末に餓死するに至った哀れな子供達もいたと思うのだが、その頃の日本社会では『大海の中の一滴』であったのではないか。むしろ貧困の中で栄養状態が極度に悪化した子供達は、親が力つきて放棄するよりも以前に、病気や怪我の悪化で命を失っていた可能性が高い…。もちろん「軍の土台」という強烈な動機が国家の側にあったから、こうした事件には国も真剣に対応したとは思うので、議論するにしても別の筋道があるかもしれない。

してみると、幼児遺棄事件ほど今日的な事件はない。病気や怪我は幼い子供が成長する中でくぐり抜ける最大のリスクであったが、もはや病気リスクや事故リスクは、安全社会の中でずっと小さくなり、代わって登場したのが両親リスクなのだろう。子供を育てられない程の極度の貧困にあったわけでもない、それでも父母の双方が子を放棄してしまう、小さな確率であれそんな不運に出会ってしまう子供はゼロではない理屈だ。

幼児遺棄問題が安全社会の象徴だと言えるのなら、経済格差拡大は長寿社会の象徴であるかもしれない。もともと高齢層は、個人間の能力差、収入差が長年累積されるため経済格差が最も大きくなる世代だ。それでも平均寿命が短かければ、高齢者は数が少なく、大きな格差が表面化することはなかった。これまでは「早すぎる死」で隠蔽されてきた経済格差が、誰にでも観察されるようになった。つまり、格差問題は長寿社会の副産物であるという一面がある。大竹文雄氏が指摘した格差問題の本質である。

長寿社会は、それ自体として、素晴らしいことである。安全社会も、それ自体としては、世界に誇れることだ。しかし、その結果として、これまで気づかずに来た小さな傷や陰に隠れていた闇が目立つようになった。喧嘩をしていたお隣さんと和解をすれば、今度は挨拶をしないお向かいが気に障る。似たようなものである。これまた「統計のマジック」に該当するのかもしれない。