2014年6月21日土曜日

メモ: 「確実な議論をしましょうよ症候群」に、また一例

本日の道新の社説に司法取引導入反対論が述べられている。「刑事免責」導入にも反対している。それよりは「取り調べ可視化」原則がより重要で、上の二つは可視化を実現した後で考えるべきだろうという結論だ。

説得的ではあるが、可視化されれば司法取引は機能しなくなるだろう。可視化の適用除外にしなければ司法取引や刑事免責は実際には効果を発揮するまい。結局は不可視的な取り調べで重要証言が得られる。この現実に変わりはないと予想する。

今日のメモは社説の中の「こうした冤罪を確実に防ぐ仕組みづくりが先決だ」という文章である。

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個人が意見を述べる場合には、たしかに「冤罪を確実に防止せよ」という良心的見解を尊重するべきだ。しかし、大きな影響力をもつマスメディアが、現実には不可能な目的を「先決だ」と指摘するのは弊害が大きい。

冤罪を100%完全にゼロにするのは「不可能」という現実は、(残念ながら)今後もずっと同じであろう。大事なことは、冤罪を完全にゼロにしようという精神主義ではなく、(万が一)冤罪を被った人をいかにして救済するか、あるはずのない誤審があったかもしれないという場合に、いかにして誤審を正す機会を設けるか?こちらであろう。その制度化が最も大切であると思う。先日のワールドカップ論でも述べたが、日本の議論は倫理から入りがち、心構えを求める議論になりがちなのだな。

この制度の下では冤罪は生じないはずである。このような意識が最も危険である。現実に生じたかもしれない冤罪に直面すると、「確実な議論をしましょうよ症候群」にかかっている人々は「そんなはずはない」、「何かの間違いである」という反応を示し、自らの誤りを認めず、現実がおかしいと考えがちだ。戦前期の政府・軍部も「負けるはずのない日本」がいよいよ敗北する状況に直面して、何の収拾策をも持ち合わせていなかったのだ。

何事にも「確実」を求める態度は、確実をもたらすことは決してなく、実は最も危険な態度であり、大事に際して「隠蔽」を志向する原因ともなる。

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