若いころは、漱石、龍之介であったが、歳をとるにつれて永井荷風を愛読するようになってきた。
先週は『つゆのあとさき』を読み直し、昨日は『濹東綺譚』をまた読んだ。『つゆのあとさき』の結末、分かっていても味があり、しかも驚きが深い。
荷風は戦時中の昭和20年3月10日、東京大空襲で麻布区の自宅を失ってしまった。それで岡山市で谷崎潤一郎夫妻に面倒を見てもらいつつ疎開して暮らしたのであるが、『断腸亭日乗』には次のような記述がある。
8月14日。晴。朝7時谷崎君来り東道して町を歩む。2,3町にして橋に至る。渓流の眺望岡山後楽園のあたりにて見たるものに似たり。後に人に聞くにこれ岡山を流るる旭川の上流なりと。その水色山影の相似たるやけだし怪しむに及ばざるなり。正午招かれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり・・・・(出所)岩波文庫版『断腸亭日乗』下巻、272頁より引用
小生は新婚時代に岡山県庁に出向して勤務した。徳吉町の県立朝日高校側にあった古い公舎から、毎朝歩いて相生橋を渡り、右に烏城を、左に黒い本庁舎を視ながら通勤したものである。
庁舎の玄関を入り、階段を8階(であったと記憶しているが)まで上がり、上がった所の左側にある企画部で仕事をしていた。いま「していた」と記したが、若輩で土地勘のない小生は仕事の真似事をしていたにすぎない。それでも窓を背にして座っていたのだから、いま思い出しても、その恥知らずには赤面を禁じ得ず、汗が出そうである。
夕刻、操山を見ながら家路を急ぐときの気持ちは今でもありありと蘇る。不思議なものである。
歳月匆々。時間の前に変わらないものは何一つないが、記憶ばかりは何も古びない。古びないものが本当の財産だという言に従えば、旭川の水の色も小生にとっては、一つの財産である。
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