2017年11月14日火曜日

家族 vs 福祉国家

最近は高齢者福祉から育児支援・教育支援になんとなく世間の注目が集まっているが、TVのワイドショーでもとり上げられているように、問題の規模や深刻さは高齢者問題をどうするかの方が段違いに大きい。これはもう放映される情景をみれば、誰でもが直感的に明らかだと思うのだな。

孤独死しかり、住居難しかり、生活苦しかり、病気になって病院に行けないという運動困難しかりだ。あらゆる人生苦が凝集されている社会問題が高齢者問題である。

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どんな人間社会においても高齢者や幼少年をどう養うかはずっと問題であり続けた、これは当たり前の事実だ。

そして、その解決の主体になってきたのは、ずっと家族・親戚・同族であったことも事実である。「国」や「社会」は家族内、親戚内の問題について深くは入り込まないのが不文律であった。なぜなら「社会」という存在は実際にはないのであって、その実態は他の家族であるに過ぎないからだ。自分たちの家族内で発生した問題は、原則として家族内で解決するのが当たり前だというのが日本人の倫理だったと言える。そんな倫理がある以上、国は家族内の問題は家族に一任するのが、面倒でなく費用もかからず楽であったのだ。

その倫理・慣習を突き崩した根本的原因は、明治以降の兵役の義務と戦前期・日本の軍国主義によるいわゆる「根こそぎ召集」である。

家族や同族の生き残りのためならば生命を捧げることすら厭わなかった日本人の生活に、「国家」のために命を捧げよと求めてきた政府は明治政府が初めてである。そんな政府は1945年に(幸いなことに)消滅したが、家族や同族の上に国家や社会を置くという価値観はまだなお色濃く日本社会に残っている。

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自民党の改憲案では家族の重要性を謳っているようだが、実際に最近とられてきた制度改正はずっと昔の尊属殺人重罰規定の廃止、個人ベースの国民年金制度、離婚時の年金分割、配偶者控除見直しの開始などなど、あくまでも個人個人に区分した生活保障が基本的な潮流になっており、家族をむしろ個々人に解体する方向を指している。

人生を通した生活保障は元来が家族や同族が行ってきたのであって、そうでなければそもそも「家族」や「結婚」、「親子」や「親族」などは単なる束縛であり、存在価値がないものではないかと思う。いやいや、現実に家族や同族といった観念は日本社会において面倒で不必要なしがらみとして捨て去られようとしているのかもしれない。この2、30年は日本社会の激変期であるのかもしれない。

それならそれでも構わないのだろう。ずっと昔は「世間」と言ったり、「浮世」と言ったりしたものだが、どう変わっていくか予測はできないのが社会である。それでもなお、老いた男性には別れた妻がおり、3人の子供がいるにも関わらず、誰一人として保証人がなく、老齢でいつ死ぬかわからないという理由で、住む家に困り、自分の死が早く訪れることを望むなどという状態は、哀れな国であるとしか思われない。

たとえば市役所や地域社会が何かの措置を講じ、国もそんな高齢者の社会支援をバックアップするというのは、かつての軍人恩給制度とどこか似ている感覚がある。問題がそれで解決されるなら、それでもいいのだろう。

しかし小生は、ずっと以前にも投稿したが、マーガレット・サッチャー元英首相が言った"There is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families."、この社会哲学の信奉者だ。マア、単なる好みなのかもしれない。しかし、社会とは「他の家族」のことだ。社会が支援するというのは、他の人たちの財布から出してもらうということである。なぜ血の繋がった自分たちでまず助け合わないのかという疑問は、誰も口にしないだろうが、社会福祉にはいつも潜在しているウィークポイントだろう。この話題では、小生、社会の役割軽視、家族の役割重視、親族間の相互扶助尊重。疑いなく右翼である。

軍国主義や全体主義が持続可能ではなかったように、国民全体を一家族のように擬制するような社会福祉もまた持続可能ではないと思われる。

社会的な失敗は、ほとんどの場合『人間は夢を抱く』、『人間は互いに協力する』というヒトという動物固有(だと思うが)の二つの性質からもたらされるものだ。

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