今月21日の投稿の以前にもこんなに相撲を話題にしていたのかと。意識はしなかったが、小生も相撲ファンの一人なのかもしれない。
「八百長防止」というそのズバリで書いたこともあった。2011年5月11日だからもう6年以上も前のことだ。そこではこんなことも書いてある。
大体、掛け値なし本気のガチンコ勝負を15日連続でやれば、怪我をする確率が高い。特に技量が向上途中にある若手の普通クラスの力士はそうだろう。そして若手の向上途中にある力士ほど怪我をおそれるはずだ。怪我をしても次の本場所は年6場所制では2ヶ月先にやってくる。骨折でもすれば1ヶ月は稽古が出来ない。そろそろと再始動しているうちにもう本場所だ。その間に巡業などをやって勝負勘を取り戻しておけばいいが、それは無理だろう。そこでまた無理をして怪我をするかもしれない。そんな状態で15日またやる。亡くなった父が夕食の折などよく相撲を話題にしていた。戦前は年2場所で13日制だったというのはよく話していた。
怪我をおそれずシナリオなしのガチンコ勝負を毎日ずっとやれというからには一定の条件が必要だ。
ただ、(今になってからやっとだが)Wikipediaで調べて見ると、父が相撲のラジオ中継を聴いていた昭和初めの頃は角界変動期にあたっていたらしく、昭和2年(1927年)に東京と大阪に別れていた団体が統合され大日本相撲協会が発足後、本場所は年4回でスタートしたところが、昭和7年(1932年)に待遇改善を求めて多人数の力士が脱退したため、年2回の開催となったようである。その後、名横綱・双葉山の活躍が契機となり、昭和12年から13日制となり、14年には15日制になった。父はその変わり目の頃のことを覚えていたのだろう。
戦後になってから先ず1場所13日制で再開された。昭和24年(1949年)1月場所である。同年5月場所で15日制に戻り、以後15日制が定着した。昭和25年(1950年)から27年までは年3場所の興行だった。年6場所制になったのは昭和33年(1958年)7月の名古屋場所からのことである。これ以降、年6場所・15日制が定着して今日に至っている。昭和40年(1965年)からは部屋別総当たり制も採用されることになった(以前は出羽一門、二所一門など一門同士は対戦せず大部屋に所属する力士は有利だった)。
最近の力士は重量化したこと、(さらに稽古量が減っているせいでもあるのか?)怪我をしやすい。年6場所・15日制は長期的に持続困難ではないか。
場所数を減らして、放映権、チケット料金を値上げするほうが、理にかなった方向だと思うこともある。
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こんなことも書いてある。2015年2月13日の投稿だ。初場所なら1月で、2月に書いたというのは解せないが、何か思い出すようなことがあったのだろう。
確かに横綱白鵬は双葉山が口にした「木鶏」の境地にはなかったようである。が、けれども荘子はモンゴルの人が嫌う漢民族の人であるから、こんなエピソードは不適切かもしれない。だから、相撲に詳しい人も知ってはいたが、語らなかった。その可能性もあるやに感じられる。
ちなみに、事実の推移は親父が言ったようではなく、双葉山は東の支度部屋に戻るなり『ああっクソ!』とうめいたそうである。「木鶏」は一晩寝てから出た言葉であるそうだ。どちらが本当の話しなのか知らないが、うちのカミさんは「こちらのほうが分かる」と言っている。
2015年初場所の白鵬と稀勢の里戦で物言いがつき、取り直しになった一件で、白鵬が行司を批判した態度が横綱らしくない、と。そんな報道で一杯になったのだな。それで書いたようだ。
文中、双葉山が「ああっ、クソ」とうめいたのは、安芸ノ海に負けて70連勝を阻止され支度部屋に戻った時のことだ(と聞いている)。
いくら横綱でも悔しい気持ちになることは当然あるに違いない。判定に納得できないことも人間だからあるだろう。双葉山ですらも伝説どおりではなかったということだ。どうやらそんな感想をメモしておきたかったようである。
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小生自身の少年時代の記憶に関する投稿もあった。忘れていたなあ。2013年1月20日に書いている。
昭和の大横綱・大鵬が死去したというので地元の道新は一面トップをさいている。小生も訃報を聞いた時にはそれなりのショックと一つの時代が終わったような感覚を感じたから、一人の関取の死をトップで報道しようとする姿勢も何となくわかるのだな。小生にとって「大横綱」と言えば、大鵬をさす ー 好きな力士は北の湖であったのだが。
少年時代にはよく相撲中継をみた。10日目頃から大関たちとあたるようになる。栃光、栃ノ海、北葉山、佐田の山ときて千秋楽には柏戸とあたる。そんな記憶がある。戸田との取り組みはまだ覚えている。見ていた側からは負けたとしか見えなかった。亡くなった父が一緒に見ていたかどうかは覚えていない。そこでこの一戦があった昭和44年の三月場所開催期間と万年カレンダーをみてみると、大鵬が戸田に負けた二日目は、3月10日月曜日だったことがわかる。してみると、父は仕事があったはずであり、当時はもう本社勤務だったはずだ。急いで帰宅しても取り組み時間には間に合わない。やはりリアルタイムでは、父は大鵬・戸田戦を観てはいなかったはずだ。NHKのニュースででも観たのだろうか。父も「負けたなあ」と話していたように覚えている。それが誤審であったと後できいて、思春期だった小生にはいかにそれが酷い話しであるのか、ピンと来なかった。「本当は勝っていたんだよ」と言われても、そうかやっぱり勝っていたのかと安心したものの、理解はできないものである。まして45連勝でとぎれたんだと説明されても、それはおかしいとしか考えられない。「世間のルール」というものを年若の者はよく知らないのだ。
両人とももうこの世にはいない。
大相撲が日本から消え去るという可能性は今のところ考えられない。とはいえ、時代に合わせてシステムを変えていく努力は明治、というか江戸時代からずっと一貫して続けられてきた。
現在の興行体制は、ある時期の激変期を経てから後、それからは落ち着いて安定的に継続されてきた。それだけのことである、とも言える。
稽古ならいざ知らず、飲み会の二次会で殴って制裁するのは憲法でも禁止されている「私刑」であり、もう漫画の世界でのみありうるというのが日本人の共通の感覚だろう。
「変えてばかりいるのも問題だ」という人もいるらしいが、問題発見・問題解決への議論と計画など、真剣に続けていく必要があるわけだ。改善/改革への努力を怠ってはならない。これはもう10年前の惨状を思い出すまでもなく、自明のことである。
その努力の成果を、出来れば毎年1回、日本相撲協会『相撲白書』にまとめて公表してほしいものだ。もし刊行されれば小生は絶対に買う。執筆陣は外部協力者に委託すればよい。いまなら相撲ファンの厚みもあり、応じる人も多いだろう。
年間取り組みベスト10もやってほしいものだ。ベストスリーの取り組みは改めて表彰してほしい。そうすれば<相撲とはいかにあるべきか>が具体的に周知されるだろう。ワースト10もやるべきかもしれない。<悪い取り組みはこういうものだ>と、汚名・醜名が残るのを力士は何よりも恥じる。教育的効果は絶大だろう。
名力士を育てた親方は<名伯楽>として表彰するべきだろう。相撲界の宝は良い師匠である。
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以下は付け足し:
関取にも色々なタイプがいる。才能も目標もマチマチだろう。しかし、人口でいえば横綱よりはせいぜいが幕内、前頭までという人が多数派だ。
横綱まで上り詰めた人は平凡な関取OBの願望は分かるまい。と同時に、平凡な関取で相撲人生を終えた人は横綱に昇進するまでの稽古、鍛錬の苦しさは想像できないだろう。横綱が抱いている理想もわかるまい。凡人にとって相撲は生活の術であり、それ以上のものではない。
しょっちゅう書いているように、為すべきことを為すのは天才だが、受け入れるかどうかを判断するのは凡人だ。多数の凡人がついてこれなければ、天才は為すべきことができない。
天才が実際に活動できるのは「危機の時代」であるのは、そのためだ。順調にいっている間は、凡人が世の中を支配する。
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