本ブログでは「時代」という言葉をよく使っている。潮流とか、流れというのも同じ意味である。
しかし、「時代」の存在を指摘するのは難しい。現に実存しているのは人とその他目に見える物と動植物だけであり、そうでない言葉は概念としてイメージされているだけだからだ。いや、「物」といい、動植物の命といっても、究極的にはそこに存在しているというより、変化しつつある何かでしかない。全ては、音であれ、色であれ、形であれ、時間の中で起きる運動や変化として認識されるしかないからだ。
少なくとも小生は、この点で唯物主義者ではないかもしれない。
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ただ、小生が若い頃と現時点とでは、やはり「時代」の違いを感じる。小生が若い頃は、オフィスに行くとまず「班」(という言葉も既に死語になっているかもしれない)の女性がお茶をいれてくれた。というより、小役人として初めて配属されたとき、まず聞かれたことは「お湯のみは持ってますか?」ということだ。毎朝、そして午後3時には個々人愛用の湯のみ茶碗にお茶をいれて全員にお茶を給してくれるのだ。
課内会議になると出席している職員たち(すべて男性である、という言い方自体が既に差別的だ、正しくは男性だけから構成されていた調査専門職の職員を指す)に配膳係よろしく熱いお茶を入れた湯のみを配って行く。それも女性職員達の担当であった。男性職員は、配られたお茶をふ〜ふ〜と喫しつつ、資料に目を通しながら意見を述べて行く。2時間、3時間。延々とやる。時々、お茶をつぎ足してくれる。そんな風景が会議というものだった。言うまでもなく、会議が終わって湯のみ茶碗を洗って食器棚に戻すのも女性職員の担当であった。
職場というのはそんなものだと思うところから小生の職業生活は始まった。それが当たり前だとみな思っていた。もう今ではそんなことはないと思う。それが「時代」というものだと思う。
そういえば、一人一人の机には必ず灰皿が置かれてあった。使い古して凸凹になっていた銀色のアルミの灰皿である。見るからに安っぽい小さな灰皿だ。室内に何十個もある灰皿は午後3時頃には吸殻で一杯になる。それを綺麗にするのも各班にいる女性たちであった。「嫌煙権」という言葉は、あるにはあったが、文学用語でしかなかったようだ。
それが「時代」ということだと思う。何を当たり前だと思うか?当たり前だと感じる生活感覚は時代が変わるにつれて変わって行くものだ。
小生が仕事を始めた頃と比べれば、スーツやコートのスタイルも変わったが、それでも服装・風俗は激変しているわけではない。「技術」が変わった。フェースブック やスマホ、インターネットは愚か、Amazonという企業もなく、ワープロも表計算ソフトもなく、そもそもパソコンという機械もなく、資料は謄写版であったのだ。進化したインフラを当然と思う感覚を持っているかどうかは大きな違いだ。変化をもたらす主たる要因として先ず「技術」があるのは言うまでもない。
技術の普及は人間の違いを小さなものとする。個性の違いが技術による標準化によって隠蔽される。社会の生産過程において男女の機能的相違が意味を失う。男女雇用均等原則は、技術進歩に根ざすものであり、倫理的要因から進展してきたものではない。社会の価値観や文化は上部構造であり、下部構造である生産過程によって規定される。
この点では、小生は相当の唯物主義者である。
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現時点の感性では、小生が若い頃の職場には100パーセント、改善するべき性差別があったと認定されるに違いない。しかし、当時の職場には問題意識そのものがほとんどなかった(と覚えている)。というより、細々した事務、資料整備、手続きなどを差配しているのは女性たちであり、彼女達がいなければ、あとは男性ばかりの職員が会議すらもロクに進行させられなかったに違いない。女性達は職場における文字通りの人的インフラであった。
まあ、いいように言えば「男女分業」が機能していた時代ということであったのだろう。それが最も<効率的>であったのだ。
現在では「男女分業」という言葉がそもそも実効性を失っていると思われる。性別による異なった処遇は「時代」に合致せず、男女は同等・同質・同量の仕事を担当する(ものと原則的には考えられている)。現在はその方が<効率的>であるからだ。
が、この理念もまた「時代」による変容から免れることはできない。現在では当たり前の考え方が30年後には当たり前ではなくなっていることだろう。
「男女均等」も「民主主義」も「市場メカニズム」も、現時点で考えられているようには考えられなくなるだろう。そんな風に予想する。現に、この30年の間にそれだけの変化が起きた。同じ量の変化が今後も起きるだろう。
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