アメリカのグラハム上院議員の発言が、昨年も押し詰まったころ、世を騒がせたことがある(少し古いが)。
トランプ米国大統領に近いとされる共和党の重鎮、グラハム上院議員の発言が日本にも波紋を広げている。「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との戦争になれば韓国や日本などで100万人規模の犠牲が出かねない」というCNNテレビでの質問に、「大統領は(日本や韓国の北東アジア)地域より米国を選ぶ」と答え、「北朝鮮のICBM級核ミサイルの完成前に米国は、日本に100万人規模の死者が出る恐れがあっても軍事オプションに踏み切る」とのトランプ政権の方針を語ったのだ。(出所)BLOGOS、2017‐12‐25
しかも日韓が“捨て石(盾)”となる「米国本土防衛作戦(軍事オプション)」は、既に米国内にかなり浸透、可能性がさらに高まっているとの見方がある。
(中略)
野党はどうか。「先制攻撃は国際法違反。認められない」と指摘した枝野幸男・立憲民主党代表は安倍首相の対米従属ぶりを批判したが、大塚耕平・民進党代表もグラハム上院議員の発言について、安倍首相に「米国は『自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ』と思っているのか」と聞いても明確に答えなかったと指摘した上で、「(米国第一で日本国民二の次の)不安を国民が持つのはあり得る話なので、(安倍首相)自身の考え方を可能な範囲で述べる努力を求めたい」(7日の会見)と述べた。
(URL)http://blogos.com/outline/267482/
『米国は「自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ」と思っているのか?』と。この質問の思いは分かるが、日本の利益を犠牲にしてでも、他国を守る覚悟のある日本人などいるのか?? 自分ができそうもないことがアメリカ人には出来ると期待する方が奇妙、というより奇妙を通り越して奇っ怪である。
自国を守るための同盟である。論理的に言えば、それはお互い様なのだ。日本は日本ファースト。アメリカはアメリカ・ファースト。当たり前である。単独でいるよりは集団化すればリスクは(色々な意味で)減るということの分かりやすい一例に過ぎない。複雑な議論など(本来は)必要ないのだ。
上記文章より少し遡るが以下のような報道記事もある。
北朝鮮の長距離弾道ミサイル開発問題では、早ければ来年にもベルリンやパリ、ロンドンといった欧州の主要都市が射程内に入る可能性が指摘されている。だが、現行の欧州ミサイル防衛システムでは迎撃できないと、外交筋や専門家は警告している。
米政府は、構想から10年以上が経過する欧州ミサイル防衛について、欧州を「ならず者国家」から守るために必要だと繰り返し説明してきた。米当局者がこの言葉を使う際、それらは北朝鮮やイランを指す。
ところが専門家によれば、北大西洋条約機構(NATO)が北朝鮮のミサイルを迎撃するためには、より多くのレーダーと専用の迎撃ミサイルを配備する必要があるという。
(中略)
だが北朝鮮の弾道ミサイルを撃ち落とすには、開発中の新型迎撃ミサイル「ブロック2」が必要だ。このミサイルは、弾道弾をより早期に高い高度で迎撃できる性能を持つ。
だが2018年に完成予定のブロック2は、米アラスカ州やカリフォルニア州、日本や韓国への配備が欧州より優先される可能性が高いと、前出のエルマン氏は話す。同氏は「同盟各国が競ってブロック2を求めることになるだろう」と予想している。
(出所) ロイター、2017年9月13日
アラスカ州もハワイ州もアメリカの領土である。グアム島もアメリカの準州だ。故に、アメリカ・ファーストの対象となる。しかし、欧州はアメリカではない。
なので、北朝鮮のミサイルに対してヨーロッパが脆弱であるとしても、アメリカ政府の責任としてその国防、いやいや防衛に努力する義務はない。であっても、欧州はやはりアメリカに期待している。アメリカもヨーロッパの防衛に誠意を尽くすだろう。それがアメリカの利益につながるからだ。
ところが、アラスカ、カリフォルニア、日本や韓国に防衛システムは優先配備されるとヨーロッパからは観察されている、というわけだ。それがアメリカの利益にかなうとヨーロッパからは見える(ということだ)。
◇ ◇ ◇
お客さんには、何かして下さいと頼んでも無駄である、そもそも立場も意識も「周囲の他人のためにいま何かをする」ということとは無縁なのである。
「イの一番にやってくれるのか?」と相手の誠意を不安視するのは、相手をパートナーではなく、自分が弱い立場、相手が強い立場。自分が下、相手が上。要するに、相手を店主か主人のようにみているからだ。友人を相手にこんな不安は(普通)感じないだろう。
つまり「客分」として自分のポジショニングを定義している。
決して裏切ることのない忠実な臣下がいてくれるなら、危機に直面したとき、『そこもとは〇〇をせよ!』と下知を伝えればそれで十分だ。累代の臣下は『ハハ、畏まって候』とただ一言で承るだけだ。ここには(建前としては)不安はない。封建の道徳とはこういうものだった(と思う)。
現代の世界では、「役に立つから」同盟関係にある。役に立たなくなれば、同盟は不要だ。自分に言えることは相手にも言える。自分の不安は、相手の不安でもあるのだ。
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えると日本は考えるだろうか?
以下無限に続く・・・
相手に対する不信は、そもそも最初から最後まで日米双方ともにもっているのではあるまいか?
実際、日米二国は(いかに粉飾するとしても実質的には)日米軍事同盟ともいえる関係にずっとあるが、その同盟は第2次世界大戦後、一度として本当の意味で試されてはいない。
◇ ◇ ◇
見捨てられることを不安視するのは、自分は相手の役に立つから相手と協力関係にあると自分が思っているからだろう。なぜそう思うのか。本当は、相手が自分にとって役に立つから自分は相手と協力関係を結んでいるからだ。
道具は無用になれば切り捨てられる。自分がそうしようとそもそも思っているのである。だから不安なのである。しかし、相手はそうは思っていないかもしれない。
『見捨てられるのではないか』という不安は、自分の側に『いざとなれば見捨てても仕方あるまい』と、そんな思いがあるからだ。
自分の側の心理が自分の不安に投影されているだけのことである。
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