先日の投稿に書いた勘違いというか、軽率ゆえの混乱に気がついたので修正・補筆しておきたい。具体的には
この阿頼耶識は例えば三島由紀夫の『豊饒の海』の第3巻にあたる『暁の寺』でも物語の中心テーマになっているのだが、小生は勝手に阿頼耶識は、永遠の(とは言えず有限の)過去に誕生した(個体としての)「生命」をずっと継承し続けてきた一本の生命の糸のような存在、というか断絶のない流れに似ている。と、こんなイメージを(勝手に)もっている。生命体は有性・無性生殖を含めてすべて母体の細胞に遡れる。母親もまたその母に、そのまた母も・・・と生命誕生時にまで遡及して行くことができる。もちろん(父系があれば)父系を遡ってもよい。
この箇所は理屈としてはおかしいわけである。
何度も書いているように唯識論で言う阿頼耶識は、自らの身体(=有根身)と環境全体(=器界)、それから過去生から継承された潜在記憶(=種子)を認識対象としているが、だとすれば身体が死する時点で阿頼耶識は物質的身体を失う理屈であるし、阿頼耶識が認識対象から身体を外すことによって身体は死に至るのだ、とも考えられるわけである。
確かに物質的身体もまた過去から切れ目なく継承されてきた有機物質ではあるが、それが物質的死を迎える時に、阿頼耶識は物質から切り離されて、100パーセント非物質的な流れになる。煩悩が浄化されて浄土世界に往くのでない限り、この世界に留まり、生への執着として流れ続ける。新たに形成される物質的胚芽が非物資的要素である阿頼耶識を受け入れることから持続可能な一個の生命体が生まれる・・・これが正当な唯心論のロジックである(と今のところ理解しております)。
あたかも永遠の過去から継承され続けてきたこの身に宿っている生命の糸が、それ自体として阿頼耶識であると同定するのは、個体的死を迎える時点で阿頼耶識は物質的身体を失うのであるから、論理が通らない。
それはさておき、先日の投稿では人間に宿った阿頼耶識が大脳という《考える器官》を駆動させるために、末那識という仮想的主体をつくり、その末那識が《我》として大脳を動かす、この時点で自覚される意識が第六識としてつくられる。自覚される「意識」、つまり五感とともに動く第六識であるのだが、これは大脳活動の化学的状態を理解可能なイメージやロジック、言葉という形式で映し出すモニターのようなものである、と。先日の投稿ではこんな風なことも書いている。
どうもこの書き方も、浅い見方であると気がついた。というのは、自覚された意識は大脳が考えた結果を単に映し出すだけではなく、言語を学び、自ら問いを発し、大脳を駆使して思考し、その結果について更に思考を深めていくことが、意識の中において可能だからである。
自覚される意識である第六識は、考えるという行為の背後にある「我」という存在にもいずれ気がつく。この「我」は「存在」ではなく、考えるという行為を可能にするために仮想的に定義された末那識に過ぎないものだが、この「我」が心の作用として様々な悪をもたらすことにも気がつく。これが煩悩である。自己に執着する末那識に由来する煩悩もあれば、第六識が自覚して作り出す悪もある。意識が自らを自覚することによって、自らが作り出す悪を煩悩として認識できるだけではなく、善を志す意思をもつことも意識には可能である。悪を行う根本的原因である煩悩を認識して、更にこれが根源的には阿頼耶識に保蔵される種子が、「業」として働いていることにも気がつく。自覚された意識は煩悩を滅却し、阿頼耶識を浄化しようと自らに努力させることも可能なのである。
確かにこの種の意志的な努力は人間にのみ可能な行為だ。法然上人が「一紙小消息」で
うけがたき人身をうけて、あひがたき本願にあひて、をこしがたき道心ををこして、はなれがたき輪廻のさとをはなれて、むまれがたき浄土に往生せん事は、よろこびの中のよろこび也。と記したのも、ムベなるかな、と言える。
このように考えると、先日の投稿のように第六識は単なるモニターであると述べるのは、まったくの誤りだ。自己反省なき思惟には常に自己中心性が混じり、汚れた思惟になるが、染汚を浄化しようと努力することも、(人によっては)可能なのである。そのための具体的修行プログラムが、本来は宗教としての仏教、つまりは仏道というもので、この理屈は現代においても基本は同じである・・・そう思っているわけであります。
以上、先日の修正、補筆まで。
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